上 下
163 / 167

  乗っ取り

しおりを挟む
 景虎に上杉家を継がせて、景勝に長尾家を任せる。
 それは二人の資質だけを見て、決めた事ではない。

 確かに景虎には人を惹きつける魅力があり、景勝には戦さの才がある。
 しかし景虎は北条の人間、家中には疑いの目を向ける者も多い。
 幾ら憲政が許しても、他の者が納得しないだろう。

 しかし謙信は、景虎に上杉家を継がせた。
 何故なら策があるからだ。


 北条氏康が没し、跡を継いだ氏政が上杉と断交した時の事。
「三郎さまの事、感謝いたします」
 景虎の叔父で付き家老の遠山康光が、そう言って頭を下げる。
「姉上に頼まれてな・・・・・」
 景虎を小田原に返すのをやめてくれと、姉の綾が頼んで来たのだ。
 謙信はそれを受け入れ、景虎を返さなかった。

「何が狙いだ?」
 康光をジッと見つめて、謙信は問う。

 景虎が小田原に戻りたくないと妻の華に言う。華が綾に訴え、綾が謙信に頼んできた。
 謙信が綾に弱いのを読んでの策だ。
 策を立てたのは景虎か?
 いや、違う。

「・・・・・・・・」
 黙って康光は謙信を見つめている。
「狙いはなんだ?」
「・・・・・・・」
「当家を乗っ取るつもりか?」
「・・・・・・・」
 康光は何も答えない。
 甥の景虎とよく似た切長の目で、ジッと謙信を見つめるだけだ。

「お前さんの策ではなかろう」
 謙信は薄く微笑む。
「小田原の相模守の指図か?」
 相模守とは氏政の事だ。
 違うな、と謙信は呟く。
 明らかに氏政は景虎を見捨てている。
 見捨てた弟に、乗っ取りなどさせる訳がない。

「では先代か・・・・・」
 氏康の策だろう。そう考える方が真っ当だ。
「当家を乗っ取って、その後どうする?」
「・・・・なぜ・・・・・」
 低い声で康光は応じる。
「その様な事を・・・・・・?」
 くくくっ謙信は苦笑する。
「わしが知りたいのは小田原にどのくらい、三郎に味方する者がおるかだ」
「・・・・・・・・」
 唇を噛み、ゆっくりと少しだけ、康光は首を傾ける。
「先代に従い、当家を三郎に乗っ取らさせ、そして・・・・・・」
 謙信は不敵に微笑み、目を細める。
「当代の相模守をどうにかしようと思っている者、その首魁は誰だ?」
 顎を引き、上目遣いで康光は謙信を見つめる。
 対して謙信は、顎を上げて康光を見下ろす。

「三郎の味方がお主だけなのか、そうでないのかで、三郎の扱いは変わってくる」
 ふっ、と謙信は鼻で一つ笑う。
「どうじゃ?」
「・・・・・・」
 康光は何も答えない。
「そうか」
 軽い口調で謙信は告げる。
「なら話は終わりだ。退がれ」
 ふううううううううっ、と息を大きく吸い、腹に力を入れて康光は、
「お人払いを」
 と言った。
 謙信はチラリと、そ側に控える直江景綱を見る。
 景綱は眉を寄せて、目を細める。
 駄目だ、と謙信が断る。
「・・・・・・・」
 黙ったまま、ジッと康光は謙信を見つめる。

「殿」
 景綱が声を上げる。
「拙者、退がっております」
 そう告げると景綱は謙信の許しも聞かず、さっさと部屋を出ていく。
 っあ、と謙信は一つ、舌打ちをして謙信が言う。
「これで望み通りだ」
 
 少しの間の後、
「幻庵宗哲さまにございます」
 と康光は応えた。
 だろうな、と謙信は笑う。

 幻庵宗哲とは氏康の叔父である、北条長綱の事である。出家して幻庵宗哲と名乗っているのだ。
 八十を超える北条一門の長老で、小机城主である。

 そして景虎の元舅である。

 長綱には息子がいたが、若くして亡くなった。それで甥の息子である景虎を、婿養子に迎えたのだ。
 それなのに氏政が、自分の息子を越後に送りたくないからと、無理矢理景虎を離縁させたのである。
 長綱からすれば、一族の長老たる自分の顔に泥を塗ったのだ。当然怒る。
 氏政もそれは分かっている。長綱を遠ざけ、弟の氏照、氏邦、そして家老の松田憲政らを重用するようになった。
 そうなれば当たり前だが、長綱の怒りは増す。
 氏政派と氏康派で対立してた北条家は、氏政派と長綱派に変わったのである。

 とは言え氏康と長綱では、その派閥の大きさが違う。
「味方は少なかろう」
 謙信がそう言うと、表情を変えずに康光は答える。
「人の心は碁石のように、黒なら黒、白なら白とハッキリしておりませぬ」
 ほぉ、と謙信は声を漏らす。
「黒に近いとか、外見は黒だが拭いてみれば白であるとか、そういうものです」

 なるのどな、と謙信は頷く。
 今北条家中は氏政に従う者が殆どだが、風向きが変わればどうなるか分からないと言うことだ。

「弾正少弼さま」
 康光は床に手を付き、深く頭を下げた。
「我らにとって、敵は小田原の相模守・・・・・・決して弾正少弼さまを騙しはいたしませぬ」
 顔を上げた康光の目は、ここが勝負どころという強い眼差しだ。
「当家を乗っ取るつもりなのにか?」
 勝負どころと攻めかかる康光を、皮肉な言葉で謙信はいなす。
「弾正少弼さまに、損は決してさせませぬ」
 低く鋭く、そして力強い声で、康光は訴えた。

「・・・・・・・」
 謙信は黙って立ち上がり、康光に近づく。
 そして顔を近づけ、その目をジッと見る。
「・・・・・・・」
 康光も目を逸らさず、ジッと謙信の目を見つめ返す。
「・・・・・・良いだろう」
 そう言うと謙信は、席に戻る。
「その策、乗ってやる」
しおりを挟む

処理中です...