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  鳶加藤

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 無敵の剣豪である上泉信綱が、加藤段蔵という関東一の忍びを斬れぬという。
 
 多分、事実であろう。
 だが斬れぬのは、腕の問題だけではない。

「弾正さまに、まことその気が無いからです」
 信綱は淡々と答える。
 景虎はニヤリと微笑む。
「要は・・・・」
 と信綱ではなく、段蔵が口を開く。
「ここで拙者が斬られ、手傷を負い、甲斐に走り、武田の信玄入道に言うのです」
 ゴホン、と咳をして、誰かの真似なのか低い声で段蔵は喋る。
「越後の長尾平三はまことに酷い男、忍びは信用できぬと、拙者いきなり斬られそうになりました」
 段蔵はふざけた仕草で、両手をあげる。
「この恨み晴らすため、是非是非、家臣の端にお加え下さいませ」
 大袈裟に段蔵は、頭を下げる。
「・・・・・・・・・・と」
 少し間を置き、段蔵は頭を上げる。
「そうやって信玄入道に仕え、間者として武田の内情を探れと・・・・」
 ニッと微笑み、段蔵が言う。
「それが狙いでしょう」
 
 顎を撫でながら景虎は答える。
「そうだ、その通りだ」
「稚拙な策ですなぁ」
 ハハハハハッ、と段蔵は笑う。
「そんな策、切れ者の信玄入道に、通じるとは思いませぬが」
「そんなことはない」
 不敵な笑みで、景虎は段蔵を見つめる。
「腕を一本切り落とせば、信玄入道も信じるだろう」
 そう言って景虎は、山鳥毛一文字の柄に手を掛ける。
「おっと、それは御免被ります」
 段蔵はサッと身を引く。

「拙者、弁が立ちます」
 今度は河田長親の声を真似る。
「この見事な弁で、信玄入道を丸め込んでみせます」
「ほぉ、やってくれるのか?」
 山鳥毛一文字の柄から、景虎は手を放す。

「甲斐の信玄入道は、甲賀者を沢山雇い入れておるのです」
 声を戻して、段蔵は喋る。
「東国で上方の者にでかい顔をされるのは、気にいらぬのですよ」
 ふふっと景虎は笑う。
 どこまで本心かは分からぬが、どうやらやってくれるらしい。

「では段蔵、甲斐に向かえ」
 ハハッ、と段蔵は頭を下げる。
「支度の為に銭が必要なら申せ、幾らでも用意する」
「おおっ、剛毅でございますなぁ」
 顔を上げて段蔵が微笑む。
「なんでも銭で買えるとお思いで?」
 少し馬鹿にしたような口調で、段蔵が尋ねる。
「銭があるから、銭で買えるものを買っているだけだ」
 景虎の答えに、ハハハハッ、と段蔵は笑い、なるほど、なるほど、と大袈裟に頷いてみせる。
「しかし支度金はいりませぬ」
 ニヤリと微笑み、段蔵は己の懐から袋を取り出す。
「すでに春日山の蔵から、十分に頂いております」
 ああっそうか、と景虎は苦笑する。

「それではこの鳶加藤、加藤段蔵、見事に甲斐に忍びこんで参ります」
 そう胸を張って、自称、関東一の忍び、加藤段蔵は告げた。

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