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「殿」
 小田原を囲む陣の中で景虎が、信長に対する不満を募らせていると、河田長親が報告に来た。
「長野さまがいらっしゃいました」
「そうか・・・・通せ」
 はっ、とこ答え、長親は頭を下げて退がり、少しすると、長野信濃守業正が家臣を一人連れてやって来る。

「信濃守どの、元気にしておられるか?」
「おかげさまをもちまして」
 そう言って業正が頭を下げる。
 顔を見るに、それほど元気そうではない。
 古希の老体に、長い対陣は堪えるのだろう。
 その上、業正にすれば待ちに待った北条攻めなのに、諸侯は動かず、景虎も冬になれば越後に戻る。
 その事が身体に響いているのだろう。

 同情はするが、どうする事も出来ない。

「段蔵めが、戻って参りまして・・・・・」
 そう言って業正が背後に控える家臣に目をやると、その家臣が太刀を持って進み出る。
 長親が受け取り、景虎の前に持って来る。
 手にとって景虎は、太刀を抜き、その刃を見る。
「まこと山鳥毛一文字・・・・・・」
 山鳥毛一文字は、その名の通り、鳥の羽のような刃紋をしている。
 太刀は間違いなくその刃紋をした、山鳥毛一文字だ。

「大したものだ」
 春日山に使者を送り、直江景綱と山岸貞臣には厳重に警戒するよう命じていた。
 二人とも真面目な男だし、仕事に抜かりの無い。
 まして日にちまで決めていたのに、それを盗むとはとんでもない話だ。

「褒めてつかわす、段蔵をここに呼べ」
「お褒め頂き、恐悦至極にございます」
 いきなり横から声がして、景虎は驚く。
 そこに段蔵が立っていたのだ。
「・・・・・・いつからいた?いや、それより・・・・・」
 景虎は目を見開く。
「丹波はどうした?」
 側にはずっと、山吉丹波守豊守が控えていたはずだ。
 それなのに、いつの間にか入れ替わっている。
「お殿さまは、なかなか人使いが荒いようで・・・・・」
 ニヤリと笑い、段蔵は業正の隣に座る。
「丹波守さまはお疲れのご様子、まだ寝ていますよ」
「朝から入れ替わっていたのか?」
 段蔵が着ているのは、豊守の着物。
 朝から入れ替わって、側にいたらしい。

 確かに豊守が側にいるのが当たり前なので、その顔を一々確かめはしない。
 それでも声を聞けば分かるはず。
 そう思った景虎に、段蔵は告げる。
「越後は美人が多ございますなぁ、それに飯も旨い」
 景虎はギョッとする。段蔵が発したのは、豊守の声なのだ。
 顔を見ていても、豊守と思えてしまうほど、そっくりなのだ。
 側にいる長親も驚いて、目を見開いている。
 さすがに業正は落ち着いていた。静かに微笑んで、段蔵を見つめている。
「後、酒も素晴らしい」
 豊守の声で、豊守が決して口にしないような事を口にする。
 妙な感じだ。
「お城の蔵のお酒、あれはお殿さまの物ですか?」
「ああっ」
「良いご趣味だ」
 声を戻して、段蔵が言う。

「確かに大したものだ・・・・・」
 景虎は長親の方に向く。
「すぐに城に使いを出せ」
「は、はい」
「義兄上に、気になさらないでくださいと、お伝えしろ」
 城を任せている長尾政景は真面目な人だ。それに蔵の警備をしている山岸貞臣も実直な男。
 こんな失態を知れば責任を感じ、貞臣などは腹を切りかねない。
「早まった真似はなさなる様にと、申し上げるのだ」
 或いはもう、遅いかもしれない、そう景虎が思っていると、
「ご安心を」
 と段蔵が告げる。
「城の太刀は、すり替えております」
「すり替えたのか・・・・・?」
「はい、竹光にすり替えておきました」
 そう答えた段蔵の声が、景虎そっくりなのだ。
「ああっこれは失礼」
 段蔵は口を塞ぎ、戯けてみせる。
「いい加減にせぬか」
 さすがに業正が叱る。

「竹光に変えましたので、鞘から抜かぬ限り、分かりはしませぬ」
 段蔵は手を振って、答える。
「あの城の御仁たちは抜くどころか、触りもしないでしょう」
 確かに貞臣なら、山鳥毛一文字に触ることはしないだろう。
 ならそれを見越して、段蔵はすり替えたのだろうか?

「大した腕だな」
「大した事ではありませぬよ」
 不敵に段蔵は微笑む。
「前に東国一の忍びと申しておったな?」
 景虎が問うと、はい、と段蔵が答える。
「それほどの腕だ、天下一を名乗ってもよかろう」
 いえいえ、と段蔵は首を振る。
「忍びにも位がございます」
「位?」
 ええっ、と段蔵が頷く。
「守護だの公方だのがあるのですよ」
 ほぉ、と景虎が呟く。
「拙者の腕は精々、東国の管領どまり」
 むっ、と景虎は顔を歪める。
 東国の管領とは、これから景虎がなる役職だ。

「ではどこぞに忍びの公方さまがおるのか?」
 おります、と段蔵が頷く。
「自来也と言うのが、忍びの公方の名乗りで、上方におるのです」
 そうなのか、と景虎が呟くと、ええっ、と段蔵が頷く。
「もし拙者が仕事に失敗れば、それは自来也にやられた時でございます、しかし自来也は上方にいるので、東国で拙者が失敗ることはありませぬ」
 ペラペラとよく喋る段蔵を、呆れながら景虎は見つめる。

 加藤段蔵。妙な忍びである。
 

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