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  信濃守

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 とは言え、将軍から使者、無下には断れない。
「上洛して奸賊三好修理(長慶)を討ちたいのですが・・・・・」
 出来るだけ申し訳なさそうな顔をして、景虎は告げる。
「なにぶん、甲斐の武田大膳が不穏な動きを見せております」
 本当は今別に、晴信は何も仕掛けてきては居ない。
 勿論、表面上はであるが。
「我がら上洛すれば、大膳は信濃を襲い、越後に攻め寄せて来るかもしれませぬ」
 これは事実だ。
 景虎が上洛などすれば、必ず晴信はその隙を突くだろう。
「ですから・・・・」
「でしたら」
 そう景虎が言うのが分かって様に、間髪入れず晴光は応じる。
「上さまが武田大膳に和睦を命じます」
「・・・・・・まぁ、それなら・・・」
 景虎は眉を寄せる。
「お任せいたします」
 どうせ晴信が応じるわけがないと思いながら、景虎は頷いた。

 そして数ヶ月後、晴光が持って来た返事が、武田晴信を信濃守に任じたので、和睦は成った、だから上洛しろ、というものだった。
 景虎は唖然とした。
 全て、晴信の望み通りになったのである。
 
 景虎は怒り狂う。
「要は公方さまにとって我らの争いなど、どうでも良いということじゃ」
 殿、と景綱が宥める。
 ふん、と景虎は顔を背ける。

 足利公方義輝は、兎に角三好長慶を討ちたい。
 それが義輝の全てであり、それだけなのだ。
 景虎と晴信が揉めている事など、どうでも良いことなのだろう。

 馬鹿馬鹿しい、と景虎は心の底から思った。
 景虎が上洛すれば、当然、晴信は北信濃、そして越後を奪いに来る。
 義輝がその事が分からないのか、分かっていてそんな事はどうでも良いから、長慶を討てと言っているのか。
 どちらにしろ、景虎には関係ない。

 こんな話、当たり前だが、受けるつもちはない。

「殿」
 しかし景綱は、そうでは無かった。
「このお話、お受けいたしましょう」
 えっ?と景虎は声を漏らす。
「形だけでも良いので、兵を率いて上洛致しましょう」
「正気か?」
 景虎は驚いたが、景綱は黙って頷く。

 直江景綱は賢き者だ。
 宇佐美定満の様な恐ろしい切れ者で、あっと驚くような策を出すわけではない。
 本庄実乃と同じように、真っ当な事を真っ当に言う男だ。
 ただし景虎の父、為景の頃から、家老として場数を踏んでいるので、実乃より経験豊富だ。
 その景綱がこの話を受けろと言うのは、意外である。

「ただしこちらから、条件を加えるのです」
 景綱が静かに告げる。
「高梨どのや、その他の北信濃衆の領地に、武田大膳が手を出さないと」
「そんなもの、守わけがないだろう」
「それで良いのです」
 淡々と景綱は言う。
「破らせれば良いのです」
「・・・・・どうことだ?」
 景虎は首を捻る。
「武田大膳は、公方さまの約定すら守らぬ卑怯者」
 低く、そして重い声で景綱が言う。
「そう周囲の者たちに思わせておくのです」
 静かな声で戻して、景綱が続ける。
「それにそこまで意味があるとは思えぬが?」
「今はありませぬ」
 景虎の言葉に、景綱は即答する。
「今は武田に勢があります、だから意味はありませぬ」
 表情を変えず、景綱は話を続ける。
「ですが武田が勢いを失くした時、それは意味を持ちます」
 なるほどな、と景虎は納得する。

 武田晴信は謀(はかりごと)をめぐらし、信濃の国衆たちを支配下においている。
 だが彼らは、心の底から、心服しているわけではない。
 武田が強いから従っているだけだ。
 現に以前の戦さで、信濃の国衆たちの戦意は、それほど高くなかった。

 今は武田に力がある。だから従う。
 だが力を失えば、国衆らは裏切る。
 その時の口実して、武田大膳は公方さまの約定すら破る卑怯者というのが、丁度いいのだ。

 うむ、と景虎は頷く。
 一手先の事を考えれば損だが、数十手先の事を考えれば確かに利がある。
「分かった、ここは公方さまに恩を売るとしよう」
 承知しました、と景綱は頭を下げた。


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