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  今川の使者

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 大熊朝秀が信濃に走ったのを機に、武田晴信が動き出す。
 和睦を破り、葛山の城を攻め落とし、高梨政頼の居城、飯山城に迫った。
 慌てて政頼は、景虎に救援の使者を寄越す。
 だが景虎は動けない。 
 晴信が動いたのは如月、越後はまだ雪だ。
 とても信濃に兵を送る事など出来ない。
 
 とりあえず景虎は、今川義元に使者を送る。
 今川仲介の和睦を破ったのだ、義元にすれば面子を潰された事になる

「当方として、まことに遺憾であります」
 今川からすぐに使者が来た。
 正使は岡部久綱という穏やかそうな男で、副使は松井宗信という大きな顔の男だ。
「まこと、けしからぬ話であります」
 その宗信の方が、先ほどから同じ台詞を繰り返している。

 なんで此奴、威張っておるのだ。
 呆れながら景虎は、宗信の大きな顔を眺める。
「甲斐には当方も、抗議の使者を送っております」
 そう久綱が言うと、すぐに宗信が、
「本当に赦せぬ事ですなぁ」
 と付け足す。

 チラリと景虎は横を見る。側に直江景綱と山吉豊守が控えている。

 景虎は側近である本庄実乃を、奉行から解任して遠ざけた。
 代わりに家老の直江景綱と、取り次ぎ衆の山吉豊守を置いている。
 しかしこれには、少しからくりがある。
 景綱の妻、後妻なのだが、豊守の姉だ。
 そして豊守の妻は、実乃の娘である。
 つまり景綱と豊守は、実乃の一派と言えなくもない。
 
 では結局、景虎が情に流されたのかといえば、そうでも無い。
 豊守の方は舅である実乃に、助言や指示を仰ぐが、景綱はそうではない。

 直江景綱は景虎より二十歳ほど上の四十過ぎで、景虎の父、為景の代から長尾家に仕えている。
 為景の信頼も厚く、国衆地侍の折衝役を長く勤めていたので、声望も高い。
 言ってしまえば、実乃より数段格上の人物だ。
 実乃も景綱に、ああだこうだ言うことは出来ない無い。

 景虎からすれば、これが最良の形である。
 本庄実乃の才覚は、その忠義心も含め、このぐらいの距離、取り次ぎ衆の豊守に口出しするくらいが丁度良いのだ。


 勿論、宇佐美定満がいれば、それが一番なのだが・・・・。

 景綱は無表情、豊守は困惑顔だ。
「岡部どの・・・・」
 景虎の視線を受けて、景綱が口を開く。
「今川から兵を出してはいただけぬのでしょうか?」
「それには及びませぬ」
 静かな景綱の言葉に、強い口調で宗信は応える。
「抗議の使者を送りましたので、問題ありませぬ」
 いや、あるだろう、と景虎は宗信に呆れる。

「ただ、弾正さまが、武田大膳を懲罰すると言うのであれば・・・・」
 宗信は景虎の方に向き直る。
「我らは勿論、弾正さまを支持いたします」
 そう言って宗信は頭を下げる。

 なぜ義元が、松井宗信という顔の大きな男を副使に付けたのか分かる。
 一つには決して景虎に、今川が武田を攻めるという言質を取らせないためだ。
 そしてもう一つは、景虎に武田を攻めさせる様仕向ける事だ。

 景虎と武田晴信で潰しあう。それが今川の望みなのだから。

 はぁ、と息を吐き、景虎は景綱の方を見る。
「・・・・・・」
 景綱はゆっくり、首を左右に振る。
 何を言っても無駄だということだ。

 まぁ、良い。
「分かり申した」
 そう言って、景虎は今川の使者に応える。
「では、我らが武田大膳(晴信)を討伐すると致しましょう」
 望み通り、晴信を叩きのめしてやるよ。
 そう思いながら景虎は、岡部久綱と松井宗信に告げる。
 
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