私訳戦国乱世 クベーラの謙信

疑心

　報告を聞いた景虎は、思わず声を上げる。
「何故わしが、北条の城に行かねばならぬ」
　いえ、その・・・・と豊守が戸惑いながら告げる。
「別に行かぬでも、良いかと思いますが」
「当たり前じゃ」
　景虎は呆れる。
「行くわけ無いだろう」
　あ、はい、と呟く豊守に、実乃が問う。
「では、丹後どの処に、甲斐の者が来たのは、真であると？」
　はい、と実乃の方を向き、豊守が返事をする。
「偽りではなさそうか？」
「あの様子なら、おそらくは・・・・・」
　うむ、と実乃は腕を組む。
　どう言う事だと？景虎も首を捻る。

　数日後、武田晴信の狙いが、判明した。
　北信濃の高梨政頼から急使が届き、善光寺の別当、栗田永寿が武田に与し、旭山城に籠ったというのである。
　栗田家は村上家の分家で、村上義清が越後に落ち延びてからも、義清に協力し、武田に抵抗していた。
　それを晴信は、寝返らせたのである。
　つまり北条高広に調略の手を伸ばしていると見せかけておいて、景虎の目を越後の国衆に向けておき、その隙に栗田永寿を籠絡したのだ。


「姑息な・・・・・」
　景虎は眉を寄せる。
「殿・・・・」
「陣触れじゃ」
　実乃に命じる。
「信濃に兵を出す」
　宇佐美定満曰く、信濃の次は越後なのだ。このまま黙っているわけにはいかない。

「お待ちください」
　実乃が声を上げる。
「確かに北条どのは、無実であると思います」
　しかし、と実乃は強い口調で続ける。
「家中の他の者に、同じ謀をめぐらせているかもしれませぬ」
　つまり景虎が信濃に行けば、陣中で誰かが裏切り、寝首を掻こうとするかもしれないと言うのだ。

「ここは慎重に、少し様子を見るべきかと・・・・・」
　正論だ。真っ当な意見だ。
　しかし・・・・・。
「いや、ここは打って出る」
　景虎は強い口調で告げる。

「おそらく謀は、しくじっている」
「何故でございます？」
　豊守が問う。
「謀がしくじったから、丹後が裏切ったと噂を流したのじゃ」
　景虎の言葉に、あっ、と豊守が声を上げる。

　もし調略が上手くいっており、信濃に攻めている時に、誰かが景虎の寝首を掻く気なら、その事を武田晴信は絶対に隠すはずだ。
　何故ならその方が、確実に景虎を亡き者にし出来るからだ。
　上手くいかなかったから、北条高広が裏切っているとい噂を流し、景虎に家臣たちを疑わせ、信濃に向かわせないようにしているのだ。

「そうかもしれませぬが・・・・・」
　硬い表情で、実乃は言う。
「更にその裏をかいてという事も、ありえます」
　確かにその通りだ。
　だが景虎は、
「いや」
　と言って否定する。

　更に裏をかいているのでは、あるいは更にその裏の裏の・・・・と考えさせることが、疑心暗鬼の本質だ。
　それを武田晴信は、狙っているのだろう。
「それを疑っていれば、キリがない」
　景虎は、ジッと遠くを見る。
「ここは打って出る」
「・・・・・・・」
　実乃と豊守は黙って、景虎を見つめる。
「出陣じゃ」
　ハハッ、と二人が頭を下げた。