身念処

一条おかゆ

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身念処

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「分かったよ、じゃあ」

男は一言だけそう告げ、画面に並んだ通話終了の文字を愛おしそうに撫でた。
そして一瞬にして訪れた闃然とした闇。その内で男に与えられた役割は無い。だからただ茫然と立ち尽くした。
だが身体は動かなくとも、脳は動く。故に考えた。
そして感じる将来への漠然とした不安、拭いきれない自己否定、愛の無い孤独感。それら全てが愛しい我が子のようであり、憎悪を抱かざるを得ない存在のようでもある。
その原因は自己という存在を十全に認識できた喜びと、そして先の見えぬ鬱蒼とした現実を前に立ちすくす絶望。だが訳を知ろうと先は変わらず、夢は膨らまない。
故に、足に思考を分け与えシンクへと向かった。そして緩い蛇口を捻り水で酸素を分かち、左手のスポンジに洗剤を染み込ませ右手に皿を持った。
その動きだけでも感じとれる感触がある。それは粘り気に滑らかさを包含する油だ。これは皿を持つ指に触れ、嫌悪を抱かせる。だが死を受容した人間の何処に嫌悪を感じる余裕があるのか、これは生きる可能性を捨てきれないからに間違いない。
そう考え、男は更なる生の実感を欲した。だから男はスポンジを零し、左手人差し指の腹を噛んだ。すると指先に針山で刺されたような鋭い痛みが走り、口腔には苦い鉄の味が広がっていった。

「……ひひ。……俺はまだいきてる……まだ、いきてるんだ……」

だがそこで違和感が生じた。それは舌の上で何かが蠢く感触。気になった男は痰を吐く要領でそれをシンクへと吐いた。
すると、冷水が流れる皿に上に吐かれたのは一センチ程の白い固形物。暗闇の中、訝し気に目を凝らしてみて始めて分かる。それは蛆だった。

「……ひぃっ! ち、ちがうっ! ぼくはまだ、まだだ、まだなんだ」

男は取り乱した。だがそんな彼にすぐさま新しい感触が訪れた。
それは紅い命を流す左腕に絡まる手の感触。だが彼の右腕は皿を持っている、だから有り得ない。なのに現実に感触を感じている。
種々様々な絶望が訪れ、残された理性を噛み千切る。そして脳が感触を否定したがっているのを尻目に、皮膚は現実を突きつける。

「……お、俺はおかしくない! ……おっ、おかしいのはこの世界なんだ! そうだ、そうなんだ!」

必死に左腕を引っ張るが、意味は無い。どころか力が入らない。それも当然だ。
彼の腕は既に蛆の塊になってしまっているのだから。

「な、なんでっ! ち、ちがう、ちがうんだ!」

徐々に身体が蛆へと変容していく。足先が白くなり、左肩がぶよぶよになる。更に時折蛆の何匹かが身体から落伍し、地面を舐る様に這う。

「まってくれっ……ちがうだろ、おれはっ! くるってなんか……」

そして蛆はじゅるじゅると音を立てながら首元にまで伸び、彼の顔の手前にまで迫った。残すは彼の脳と心臓、これ以上進めば命は無い。だが蛆への変容止まらない。だから

「うっうううわあああぁぁぁぁ!!!!」

と彼は発狂し、意識を飛ばした。

「田中さん、田中さん! 大丈夫ですか!? ……やっぱり医院長、早すぎたんですよ」
「そのようだね。最近は状態も良いから回復も近いと思ったんだけどね……」
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