戦後戦線異状あり

一条おかゆ

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第三話 誰か為に日は射す2

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「…………」

 アンゲリカは最低限の身嗜みを整え、証拠局内の廊下を歩く。
 ふと窓の外に視線を放れば、外は雨だ。曇り空に覆われて春らしさは鳴りを潜め、雨粒は蜘蛛の糸のような何条もの細線となって天地を繋ぐ。
 美しいが、同時に感じるのは一抹の不安。行く末が前途多難であることを、主の御使いが告げているかのよう……。
 彼女は外の春雨を目に、寄り添うように雨音を傾聴。すると、雨脚のものではない靴の音が聞こえてくる。と、同時。随分下方から、女の声が掛けられた。

「……なに物思いに耽ってんのよ。あんた教室の隅で文学でも読んでるタイプなの?」

 赤毛をサイドテールに纏めた童女・ムーラウだ。
 彼女はいかにも不快そうにアンゲリカを睨み、悪たれ口を垂れる。
 だが、相手は第四世代魔石使用者。叱責も諧謔も、面白い返答は何一つ返ってこない。

「いえ、違いますよ。どちらかと言えば文学よりも哲学や政治学の本を好んで読みますし、高校(ギムナジウム)でも大学でも隅の席にはあまり座っていませんでした」
「……チッ、うっざ。もはや正論の嫌がらせ(ロジカルハラスメント)ね。冗談通じないと嫌われるわよ……って言っても意味ないか」
「?」

 アンゲリカはムーラウを見ているため心持ち俯いていた顔を横に傾け、湿気でいつも以上にうねった狐色の髪を流す。ムーラウはその様子を横目に、

「……あんた、白髪増えてるわよ」
「えぇ。昨日鏡を見て、自分もそう思いました」

 アンゲリカの愁然とした玉貌の真右。波打つ髪の何束かが白く染まっている。
 彼女は容貌から察するに、年の頃は未だ二十前半程度。とすれば加齢ではなく、残酷な仕事故の心労であろう。

「前世代の魔石だっけ? あれの影響で気が付かないだけで、実は結構ストレス感じてるんじゃないの?」
「感じているのでしょうか? 自分には分かりません」
「絶対感じてるわよ。つかあんな仕事を続けて何も思わないとしたら、マジでイかれてるわよ」

 唾棄していることを隠しもせず、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべるムーラウ。
 彼女の言うことは至極正当だ。
 人を殺してなお平気な顔で日常に戻れるのは、極一部の異常者だけ。残りの常人は自責の念に日夜苛まれ、道徳の意味を思慮する日々を送る。
 殺した相手を自分と同じ人間だと思わない人間が優秀な兵士なのであろうが、そうだとすれば、少なくともムーラウは優秀な兵士ではない。
 昨日、食事が碌に喉を通らず、快眠からも遠くかけ離れていた。心なしか顔は蒼白い。
 いかに魔術師と言えど、心は至って普通の人間。音速を越す弾丸は防げても、脳髄に染み渡る死の恐怖は防げない。それこそ、第四世代魔石でも摂取しない限りは……。

「まぁでも……軍もホント惨いことするわよね。……人間から心を奪うなんて」
「いえ、完全には奪われていませんよ。鈍化しただけです」
「……そういうところよ」

 ムーラウは、彼女なりに思うところがあるのか、悲しげな呟きを雨音の中ぽつり。その言の葉は湿った空気に溶け込み、何も残さず消えて行く。
 そうして、時を待たずして数秒後。二人は目的の扉の前に辿り着いた。
 不穏な雰囲気漂うその扉の色は鈍色で、堅牢そうな作りは重厚な金属製。脱走防止のためか、お誂え向きに立ち番の兵士がひとり立っている。
 扉前で佇む彼は、二人の襟の階級章を見るなり敬礼。適当に手を挙げるだけのムーラウとは異なり、アンゲリカは丁寧に答礼した。

「ノラ・ムーラウ少尉よ」「アンゲリカ・ミッターマイヤー中尉であります」
「はっ。ウンフェアツァークト中佐より承っております」と言い兵士は「ぐぉ……!」とその重量に苦戦しつつも、重々しい扉を開いた。
「ど、どうぞお入りください」
「ありがとうございます」

 アンゲリカは会釈し、背にムーラウを連れて中へと入る。
 扉の先、天井の白熱電球に照らされているのは石の階段。多少心が騒ぐのを感じつつも慎重に降りれば、その先には黒々とした鉄格子が左右に立ち並んでいた。
 先程の雨脚を想起させ得る光景だが、こちらははっきり言って無粋の極み。
 厳然とした鉄格子の奥には、毛髪が抜け落ちて頬がこけた幾人ものやつれた男女。既に生者としての体を成していない者や、狂気を完全に受容した者までも収容され、見るも劣悪な監獄のような様相を示す。
 その視覚情報だけでも「帰りたい」と脳に電気信号を送るに足る光景だ。
 しかし加えて、嗅覚情報も酷悪。鼻孔を破壊する膿汁と紅い鉄錆が、排泄物に混じったような凶悪な臭いを放つ。気を付けていなければ卒倒してしまいそうなほどに酷い。それが、この地下の通路中に充満している。

「んうっ……!」

 ムーラウは両手で口と鼻を覆い隠し、不快感に眉根を寄せた。
 彼女は事前、ウンフェアツァークトにこの特別収容房の説明を受けていたはずだ。しかし実際に足を踏み入れると、『公に出来ない空間』と彼が念押しした理由が肌で感じ取れる。
 ──今すぐ踵を返して、枕に顔を埋めたい……。
 そんな感情に奥襟が引っ張られるが、背後の道は既に袋小路。
 アンゲリカの背に隠れ、通路奥の扉を目指すしかない。

「うぅ……」

 一歩、一歩と進むたび、心中の恐怖が嵩を増す。対してアンゲリカは至って平静。全身に纏わりつく嫌悪感の中、涼しげな表情で前だけを見据える。
 そんな対照的な二人。
 通路の半ばへと差し迫ったところで、何本もの汚ならしい腕が鉄格子から生える。

「おい! 出してくれよ! もうこんな場所にはいられない! 頼む! 頼むから!」
「うへへ、女だァ! なぁ、こっちに来てくれ! 来いよぉ! 相手してくれよ!」
「るるるるるるる・んぐるい! んんんんん・らぐる! ふたぐん・んがあ! あい! よぐ・そとおす!」

 岩壁の隙間の微かな希望に縋るかのように、救いを求めて懸命に伸ばされた腕。汚物と情欲に塗れた指先で、永遠に卑猥な手付きを繰り返す腕。現れた邪神の瘴気に僅かでも触れ、悪しき恩恵を賜ろうとする腕。
 そのどれもが欲を栄養として、健全な肉体という名の光を求める。
 しかし彼女らにとってその腕達は、二重帝国に仇名した犯罪者の絶望の象徴。
 手を差し伸べるつもりも、近寄るつもりも、毛ほども無い。
 この地下に於いて、神の右の御手は届かないのだ。
 二人は手の波の間を突き進み、最奥の重厚な扉を開扉。その先にある薄明りの階段を、目的の人物目指して降りていく。
 道中、ムーラウは不快感に眉根を寄せ、顰め面の口を開いた。

「……何なのよ、ここは」
「一部の犯罪者を集めた、特別収容房です」
「それは分かるわよっ! 私も事前に説明も受けたわ。でも……明らかにおかしいでしょ! 孤島の牢獄(シャトー・ディフ)でももう少しマシよ!」

 一昨日の一件があったとて、社会通念としての道徳は勿論知っている。それに照らし合わせて言えば、あの房は不道徳極まりない。高潔なデウシュ人の癇に障る。
 ムーラウは遣る瀬無い憤りを感じ、意味もなくアンゲリカに激昂した。

「彼らが犯罪を犯したっていうのは分かるけど、流石にあの仕打ちは酷いわよ!」
「ノラちゃん」と制するアンゲリカの声。

 無視し、ムーラウは怒り心頭で、感情を噴き出す。

「確かに人種民族の優劣はあるわ。優生学で証明されているもの。でも人間は猿でも、ましてや家畜でもないわ! もしあの中にデウシュ人がいたとしたら尚更よ!」
「声は抑えたほうが身のためですよ」
「チッ……ご忠告どーも」

 腹の虫が治まらず、狭まった眉のままムーラウはアンゲリカの背を追う。
 彼女は狭長の段差、その最後の段を降り切り、古めかしい木扉を開いて中へと入室。天敵を警戒する小動物のように、身を低めて周囲の様子を確認する。
 全体として部屋は、通路と同様に暗い。壁際に時代錯誤な燭台が数台あるのみで、部屋の中央最奥などはここからでは視認不可。
 だが、頼りない視覚の情報のみで、ここが如何なことを行う場所なのか直ぐ分かる。
 拷問部屋だ。
 赤黒い汚れの目立つ白い台の上には、抜歯用のペンチや内に針の伸びる首輪。悍ましい。他にも、使用済みのメスや鋸が鈍い輝きを放ち、蝋燭の灯を厭らしく反射する。

「……ごくっ」

 覚悟を決めるようにムーラウは生唾を飲み込んだ。その勇気を嘲笑するが如く、

「うひひ、めんこい二人ですな」

 闇から、胡散臭い笑みを浮かべた小男が現れた。
 その小男は猫背気味の低身長で、丸々とした肥満体。多少毛の残る禿頭に三白眼のギョロ目をしており、汚れた右の手袋は麻の小袋を掴んでいる。
 ムーラウの用いた優生学的な視点から言えば、最下層の存在だ。言葉を交わすことさえ憚られる。
 だがこの場に於いて、彼は支配者だ。彼は、拷問官なのだ。

「話は聞いてまっせ、めんこいお二方。ふひっ、嬢ちゃんとの末期の会話を、存分に楽しんでくだせぇ」

 小男は禿頭を下げ、会話もそこそこに退出。
 彼の足音が聞こえなくなったのを見計らって、ムーラウは陰口を叩いた。

「……きっも。なんなのあいつ。東洋人でももう少しマシよ」
「ノラちゃん、どちらにも失礼ですよ」
「いいのよ、この世の不幸災難の殆どは小さな男から起こるんだから。それともなに、あんたアレと東洋人の肩を持つわけ? ……そういえばあんたのそのサーベル、東洋刀だって言われてたわね。どこのものなの?」
「……ヤーパンで『カタナ』と呼ばれている刀剣です」
「はーん。それで、ね。裏切り国家の剣なんて、相当に趣味悪いわよ、あんた」

 指でアンゲリカを差し、断定するムーラウ。
 黄禍論蔓延る欧州と四十八州に於いて、東洋人への差別など別段珍しものではない。
 しかもヤーパンは同盟側の事前の想定を裏切り、王国との同盟を元に協商側に与した。大戦後も王国との島国同盟を継続し、今に至るのだ。対立は最早必然。
 ──師匠には悪いけど、仕方のないことか……。
 アンゲリカは心中で肩を落とし、現実で口を噤む。

「……」
「ふん! 次からは二重帝国製のサーベルに変えることね」

 ムーラウは鼻を鳴らし、離れるようにずかずかと前に出た。
 その様子に可愛らしさを感じるが……どこか相容れない。
 計らずして虚気平心の境地を体現する自身と、直情径行で鼻っ柱が強いムーラウ。言わずもがな、自我の在りようが異なるのは当然だ。更に民族意識や人種的視点が異なり、全く別の人間と言って差支えない。
 打って変わって追いかける形となった背中も、背の高い自身とは真逆。極めて小さくて、人殺しの重荷に直ぐに潰れてしまいそうなほどに、か弱い……。
 脆い少女に対して不安や憂慮を抱き、慎重に歩くこと十歩。
 風を受けて揺るぐ蝋燭の火で、部屋の最奥が一瞬だけ瞳に移る。

「……ひっ!」

 小さな悲鳴を上げ、足を止めるムーラウ。
 アンゲリカは身を竦める彼女を追い越し、最奥へと身を運んだ。
 敬礼すらせず、眼前の対象にいきなり声を掛ける。

「……お久しぶりです。と言っても二日ぶりですね」

 冷徹な目線は遥か下。ムーラウに相対する場合よりも低い。
 当然だ。相手は両手足を椅子に括り付けられ、拘束されているのだから。

「……セル、ビジャの龍か……」

 その声、顔容は見覚えがあった。憔悴しきった虚ろな瞳や、所々腫れあがった肌が差異を示すが、間違いない。一昨日、戦闘を繰り広げた女魔術師だ。

「はい、そうです。部下もひとり、連れ立って参りました」
「……あぁ。……それで、なんの用だ?」

 会話の意思はあるのか、魔術師は喉から掠れた声を捻り出し、確と返答する。

「上官に、あなたが『どんな思い』で二重帝国を裏切ったのかを聞いてこい、と言われました」
「……面白い指令だ。だが……お前の自由意志では、ないんだな……」
「はい」とアンゲリカは即答。薄暗闇の中、眉ひとつ動かさず、
「自分の意思は薄弱ですから」
「……何を言う。お前以上に意思の強固な人間がいてたまるか……」

 拷問の末に色素の薄くなった黒髪を微かに振り、発言を否定する魔術師。血色の悪い唇の端を吊り、欠けた前歯を露わにして、喉奥で笑う。
 ムーラウはその様子を、舐めた態度と感じ取ったのか、

「な、なに笑ってんのよ! あんた立場が分かってんの!」
「……わかっている。これから私がどこに運ばれ、どんな仕打ちを受けるかも重々承知の上だ、可愛らしいお嬢ちゃん」
「あ⁉ どうやら鉄拳制裁が欲しいようね!」
「あぁ、存分に殴ってくれて構わないさ。……ついでに殺してくれ」
「いいわよ! 望みどおりにやってやるわよ!」

 丈の余った袖を引き、小さな拳を握りしめて大股で近寄るムーラウ。
 本気で、怒りに任せて殴り付けるつもりなのだろう。煽り立てた魔術師に非があるとは言え、これ以上痣の増えた彼女を見るのは、流石にか細い良心に響く。
 アンゲリカはムーラウの軍服の襟を片手で掴み、無理に彼女の動きを止めた。
 元より体格と膂力に違いがありすぎるのだ。片手のみで彼女を制するのは余裕。しかしそれでもなお、ムーラウの両脚と両腕はじたばたと動く。

「離して! そいつ殺せない!」
「ノラちゃん。拳と名誉に傷がつきますよ」
「関係ない! 既にプライドを傷つけられたわ!」
「プライドなんて腹の足しにもなりません」

 アンゲリカは藻掻くムーラウから視線を動かし、女魔術師の瞳に合わせる。
 精一杯の感情を面中に籠め、彼女に謝罪を促した。

「フッ……私が悪かったよ。すまないな」
「……チッ。分かればいいのよ」

 詫び言がムーラウの溜飲を胃に下げる。ひとまずは落ち着いたのだろう。
 ムーラウが静かに振り返り、きっと睨んできたのを受け、アンゲリカは手を離した。
 女魔術師は光彩の失われた瞳でそんな対照的な二人を見、再度笑う。

「チッ……ムカつく奴ね」
「ノラちゃん、目的を忘れないでください」
「分かってるわよ!」

 鼻を鳴らしてそっぽを向き、ムーラウは腕を組む。
 女魔術師は目的の『どんな思い』とやらを想起し、口を開いた。

「で……私が二重帝国を裏切った際の心境だったな、目的は」
「そうです。お聞かせ願えませんか?」
「構わない。だがその前に……知らなくてはいけない前提がある」

 知識が無ければ正確な議論は出来ない。当然のことだ。
 女魔術師は知識となる『前提』を、口より語る。

「第四世代魔石と第五世代魔石の副作用だ」
「第四世代魔石はともかく、第五世代魔石ですか? 副作用は見当たらないと聞いておりますが……」
「あるに決まってるだろ。代償の無い力なんて、この世には存在しねぇよ」

 暗澹たる闇の真中、蝋燭の朧げな灯に魔術師の瞳が煌めく。

「銃弾を作るには火薬と金属が必要だ。剣の腕を磨くには時間と情熱が必要だ」と女魔術師は奥底の感情を隠し切れず、激情を言の葉に乗せて言い募る。
「それが第四世代魔石では感情と共感性、第五世代魔石では──理性と老化だ」

 ぴくっ、とムーラウの眉が動き、瞳が横目に女魔術師を睨む。

「誰の理性が失われたのかしら? 少なくとも私の理性は残っているわよ」
「……私の言い方が悪かったな。私の言いたい理性は、思考に関しての理性ではなく、『感情のコントロール』についての理性だ」
「なら、私が感情のコントロールを出来てないとでも言いたいの?」
「事実でしょう、ノラちゃん」と悪気無く正直なアンゲリカ。直後、激烈な視線が下方よりライフル弾のように襲い掛かるが、気が付かない。
「それで、老化というのは言葉通りの意味でしょうか?」
「あぁ。正確には老いないわけじゃなく、魔石を始めて摂取したときの年齢に若返ってるだけだけどな。ついでに言っとくと、その際の若返りによって感情が激化するんだ。だからコントロールも難しくなる」

 例えてみれば、手綱を失い続ける暴れ馬のようなもの。理屈自体は理解した。
 実際、ムーラウを筆頭に第五世代の魔術師を目にすれば、その理屈に確証も持てる。
 彼女らは等しく自身の感情に素直で、頑固だ。包み隠さず怒鳴り散らす者もいれば、直ぐに涙で袖を濡らす者もいる。感情の種別こそあれ、コントロール出来ていないことに変わりはない。
 ──感情が薄れるのがマシか、濃くなるのがマシか……。どっちもどっちかな……。
 自身を含め、魔術師と言う存在を憐れむアンゲリカ。
 だが、憐憫で心を埋め尽くすのが目的ではない。履き違えてはいない。

「……魔石の副作用については理解しました。ですが、そのことがあなたの感情とどのような関係を持つのでしょうか?」
「簡単だ。私は第四世代魔石の世代だ」
「……っ」

 ──そ、そんな……! い、いや有り得ない。
 第四世代魔石を摂取した人間が敵意剥き出しに剣と銃を振るい、社会主義運動に参加し得るほどの感情を取り戻すなど、絶対に有り得ない。
 現に瞠目を誘う衝撃を受けたにも関わらず、自身の顔には出ていないのだ。
 憔悴してはいるが、確固たる意思を持った女魔術師が第四世代とは決して思えない。

「……信じられないか、アンゲリカ・ミッターマイヤー」
「自分には信じられません」
「だろうな。だが、現実だ。私は暴走や自殺などせず第四世代魔石を克服し、記憶や自我の消失も無く感情を取り戻した。これは紛うことなき事実だ」
「……証拠がありません」
「確かにな。だがお前が……いや、あの大戦に従軍した全員が忘れたくても忘れられないことを、私は全て覚えている」

 暗色強い室内で、にやっと犬歯を露わにする女魔術師。軍用犬が如き瞳のぎらつきはアンゲリカとムーラウの瞳に反射し、色の薄れた自身の黒髪を照る。

「デウシュ人としての誇りを胸に、天に帰った私の学友。二重帝国のため、砲撃跡と仲間の死体を踏み越えるマギヤロク人。セルビジャ人というだけで射殺された、子供を抱く母親……忘れられるわけがないだろッ!」

 女魔術師は掠れた声を急に荒げ、激しく昂ぶる。
 彼女の怒りは、第四世代には有り得ないもの。だが何故か分かる。
 ──あぁ……彼女もあの凄惨な戦争に参加したんだな……。
 アンゲリカは確信し、自身の非礼を詫びるため、頭を下げた。

「……疑ってしまい、申し訳ありません」
「……いや、こっちこそ急に感情的になってすまない。だが、こんな素敵な椅子に座れて、興奮が抑えられないんだ。多少は許してくれ」

 傷だらけの腕一つ動かせず、皮肉めいた笑みを浮かべる女魔術師。
 アンゲリカは睫毛一本動かさず、淡々と返した。

「勿論です。……感情があることは、いいことですし」
「……だな。ま、何はともあれ、話を戻そうか」と、女魔術師は話題を元に戻す。
「何故第四世代なのに感情があるのか、だったな」
「はい」
「単純だ。薬があるんだよ。それも魔術師のみに効く魔法の薬が」

 夢のような話だ。もし真実なら、これで第四世代魔石の薬害問題は一件落着。万事は解決する……はずだ。しかし、アンゲリカの耳は全く知らない。

「……自分の耳には、一切届いておりません」
「私も聞いてないわ」

 アンゲリカとムーラウは不信感を抱く。
 仕方あるまい。未だに軍役真最中の二人が知らぬようなことを、何故女魔術師が知り得ているのか、不思議でしょうがないのだ。

「そりゃお前達が知らないのも当然だ。軍部は『第四世代の精神を回復することは適当ではない』つって隠蔽したんだからな。当時のプロジェクトに関わってた奴しか知らんさ」
「『適当』ではなかった理由をお聞かせ願えますか」
「実験の成功体である私を見ろ、社会主義者だ。なら失敗だ」

 格差社会の象徴たる王を有する国家に対しての不倶戴天の敵・社会主義者。
 どちらが正しいかはさておき、実験の結果、二重帝国に仇名す存在が生まれたとなれば、失敗と見なされるのも妥当だ。無理に成功と言い張れば、研究者の立場が危うい。
 故に計画は頓挫。二重帝国は、国に尽くした英雄よりも、双頭の鷲の首を選んだのだ。

「…………」
「別に私に限った話じゃない。偉大なモルモット様の中には、感情を取り戻した瞬間、魔石工廠を爆破しようとした奴もいた。直ぐに自殺した奴もいるし、永遠と謝り続けていた奴もいた。誰がどの角度から見ても失敗だよ」

 確かに実験としては失敗なのだろう。
 だが同時に、幾人もの魔術師の感情が、人の手の届かぬ奈落に落ちたのだ。
 言葉では言い表せないほどの、苦い無念さと渋い残念さを味わうに決まっている。
 無論、アンゲリカもその例に漏れない。気が付けば、両肩が小さく震えていた。

「……なぜ。何故なのでしょうか? あなた方が何もしなければ、沢山の魔術師が救われたはずです……! それを……」
「すまない……。だが、人の欲は感情から生まれるんだ。欲が無ければ人ではないし、様々な事実を知った私達にありのままの二重帝国を受け入れるなんて、到底出来ないんだよ」

 彼女の真直ぐな瞳孔が何を見てきたのか。……全くもって計り知れない。
 されど、その瞳に保身や臆病の色は見えない。確かな極彩色を放つのは、

「……思想と、大義ですか」
「そうだ。流石同志が認めた人物だけのことはある、聡明だな。ふぅ……話し疲れたが、そろそろ分かってきたんじゃないか? 私が『どんな思い』で武器を取ったのか」

 これだけ長い会話を重ねたのだ、既に理解した。
 何故彼女が大義を胸中に、理想観念を思想しているのか。それは、

「二重帝国への復讐と、悲劇を生まないための革命……でしょうか?」
「フッ、大正解だ。ご褒美にザッハトルテでも奢ってやりたいが……如何せん腕が動かなくてな」と女魔術師。視線を一瞬腕に落とした直後、アンゲリカの瞳を見詰め、
「……偉大な思想に恭順するつもりは?」

 熱い勧誘。だが、アンゲリカの淡褐色の瞳は普段通り、冷え切っている。

「すみません」
「そうか。優秀な同志と身の安全……両方とも得ることは出来なかったようだな。仕方ない。二歩後退はしたが……一歩前進したのだ、良しとしよう」

 希望無き呟きは地に落ち、汚れたコンクリートに染み込む。
 アンゲリカは彼女が失意の内に沈んでいるのを見るや、懐より懐中時計を取り出した。
 中央上部に二段で刻まれた『TIME KEEPER』の文字。その周囲を太陽光みたく伸びる、細長いローマ数字。短針と長針が、目盛と扇を織り成すのを確認し、

「……そろそろ時間です。自分達は行かなくてはいけません。ですがその前にひとつ、最後にいいですか」
「あぁ」

 声音は暗いが、女魔術師は快諾。求めていた返事を受け、アンゲリカは路地での戦闘を思い起こす。
 一昨日、女魔術師は突撃を告げる号笛の如く、戦闘直前に神への祈りを捧げていた。
 それは信仰心を欠片でも有する証左だ。しかし、

「かのマルクスは『宗教はアヘン』などと記し、主の教えを痛み止めか麻薬の類と考えていたようですが……あなた方の心に神はいるのでしょうか?」
「信教の自由と政教分離。これが同志の答えだ。少なくとも神を殺した覚えはない」
「そうですか」

 表情はまさしく不変。変化は一切ない。
 女魔術師はアンゲリカの喜怒哀楽を感じられず、唯一の手段、疑問を呈する。

「……今の質問に意味はあるのか?」
「ありません」と即座に無意味を肯定。続けて「ただ」と補足する。
「自分達のどちらがより善いもののほうに向かっているのかは、神以外の誰にも明らかではありません」

 一拍の静寂の後、踵を揃えて背筋を伸ばし、丁寧な敬礼。
 軍靴の踵を返し、振り返ること無くその場を後にした。

 その後。アンゲリカとムーラウは再度、手の波の間をモーセのように抜けた。
 脚に纏わりつく瘴気を振り払うように階段を上がり、肩で押すようにして扉を開き、ようやくの思いで地上へと舞い戻った。
 一度休息を挟みたいところではあるが、立ち番の兵士と酒保で休憩中の拷問官に報告し、そうして共同陸軍省の扉を越えた。

「すっかり晴れ上がってますね」

 アンゲリカの重い睫毛の先には、騎馬した嘗ての将軍の青銅像。その右手の指先が指し示す先には、雲間より伸びた日脚。地上に天使を齎す、ヤコブの梯子だ。

「助かります」

 まるで傘立ての如く、腕に雨傘の取っ手を掛けるアンゲリカ。その横で、

「すぅ……はぁ……」

 濁った肺胞の空気を入れ替えるため、ムーラウは数度、深呼吸する。

「大丈夫でしょうか?」
「大丈夫でしょうか、じゃないわよ。なんであんたはあんな肥溜めみたいな場所に行って平気な顔してられるのよ」
「……あの大戦のほうが、余程残酷だったからでしょうか?」

 確信は持てない。しかし彼女の知る戦場は、あの地下室よりも数等悲惨だったと思える。今となっては比べようもないが、彼女の記憶には確実に記銘されている。あの戦争は地獄だ、と。

「そうなのね……でも、同情はしないわよ」
「構いませんよ。もし同情されても、嬉しさも悲しさも感じられませんから」

 アンゲリカの自虐的な笑み。ムーラウは微弱な静電気が流れたみたく眉をぴくっと動かし、顔を振り仰いで睨む。

「本当かしら? 私はパラメデスではないから、狂気を装う奴の嘘を確実には見破れないけど……私の見た限り、あんたはどこか感情があるように見えるのよね」
「そうですか?」
「えぇ。魔石の話で、ほんの僅かだけど動揺しているように思えたし、最後の無意味な質問をしたときには、かなり驚かされたわ」

 感情故の行動。そう言いたいのであろう。
 事実、理性しか残っていなければ、人間は極めて合理的になる。その合理性に照らし合わせて言えば、表情の変化も無意味な質問も、欧州における東洋のように、遠くかけ離れた存在だ。
 ムーラウはアンゲリカの不可思議な行動に、微かな非合理性を見出したのだ。

「ねぇ。実は多少、感情が戻ってきているんじゃないの?」
「……かもしれませんね」
「なら、快復も近いわよ」

 妙に心優しい言い振りだ。気遣いの音が聞き取れる。
 直前まで「同情はしない」と宣っていたが、彼女は感情豊かな第五世代。
 先程の会話の端と、儚げな雰囲気の薄衣を羽織るアンゲリカから、第四世代への同情心を得たのだろう。アンゲリカがそのことに気が付くことは決して無いが。

「それ自体は非常に喜ばしいことです」とアンゲリカは含みのある表現。雨後の湿り気で瑞々しい桜唇を艶やかに動かし、凛とした音色を奏でる。
「ですが、自分達大戦の魔術師には悲劇しか用意されていないようで。だからこその『コーデリア』なのかも知れません……」
「大丈夫。私達の主は間抜けなリア王じゃない。英萬で愛に溢れた皇帝陛下と、悠久の歴史を誇る二重帝国よ。ハッピーエンド以外の台本は全て燃やし尽くされるわ」

 ムーラウの瞳には、一点の濁りも澱みも存在しない。己が主君と国家を信奉し、自らの為すべき職務を只管に信じている。体躯は矮小なれど、彼女はまさしく軍人だ。
 先の言葉は、その軍人としての激励か。少々不器用だが……彼女の熱情は暖かい。

「……ありがとうございます、ノラちゃん」
「感謝の言葉なんていらないわよ、口ではなんとでも言えるし。……ま、そうね。本当に感謝の念を感じているのなら、メランジェでも奢ってくれないかしら?」
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桔梗の花咲く庭

岡智 みみか
歴史・時代
家の都合が優先される結婚において、理想なんてものは、あるわけないと分かってた。そんなものに夢見たことはない。だから恋などするものではないと、自分に言い聞かせてきた。叶う恋などないのなら、しなければいい。

GAME CHANGER 日本帝国1945からの逆襲

俊也
歴史・時代
時は1945年3月、敗色濃厚の日本軍。 今まさに沖縄に侵攻せんとする圧倒的戦力のアメリカ陸海軍を前に、日本の指導者達は若者達による航空機の自爆攻撃…特攻 で事態を打開しようとしていた。 「バカかお前ら、本当に戦争に勝つ気があるのか!?」 その男はただの学徒兵にも関わらず、平然とそう言い放ち特攻出撃を拒否した。 当初は困惑し怒り狂う日本海軍上層部であったが…!? 姉妹作「新訳 零戦戦記」共々宜しくお願い致します。 共に 第8回歴史時代小説参加しました!

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