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若すぎる本気の恋愛。それが不幸の発端だった。
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小学校5年の頃、私には同い年の彼氏がいました。
私が好きになったのは小学校3年のときです。何かと彼のそばに行って、すこしでも長く彼の近くにいられるようにしていました。
小学校4年の頃、彼も私のことが好きだということがわかりました。それからしばらくの間は、お互いに好き同士のクラスメイトという関係を築いていました。
そして小学校5年のとき、私たちは付き合うようになりました。当時、周囲に小学生で彼氏彼女がいる人は少数派でしたが、まったくいないわけではありません。
それだけに彼氏や彼女がいることが、周囲に対して大きなアドバンテージやステータスとなっていた側面もあります。
しかし、私たちはそういった軽いノリで付き合っていたわけではありません。ちゃんとお互いのことを好きでいましたし、大事にしていました。
小学生だからという背徳感やトラブルに対する恐怖もあって、簡単に手を出さなかったのかもしれません。私はそれを、「彼が真面目に考えてくれている」という風に捉えていました。
そういった考えに後押しされるように、彼への想いは急激に成長していきます。「周囲のように軽い付き合いじゃない」という気持ちが、ますます恋心を増長させてしまい、留まることを知らなかったのです。
彼や私の家で抱き合うことが、だんだん増えてきます。日に日に大胆になっていく私に、彼は少々戸惑っていました。それでもちゃんと受け止めてくれているように感じていたのです。
あまりに互いの家に行き来すると怪しまれるので、秘密の場所で過ごすこともあります。
そこは取り壊される寸前の廃墟のような、閉鎖された団地でした。
入り口は封鎖されていましたが、乗り越えることは容易です。当然、部屋の中まで入ることはできません。せいぜい階段や廊下にいるぐらいです。
それでも世間から目の届かない場所にあるそこは、周囲の目を気にすることなく愛し合える場所として、私たちにとっては貴重だったのです。
彼はその場所にお菓子を持ってきました。高そうな四角い缶に入ったクッキーです。
私たちはその場所を「秘密基地」という風に考えていましたので、そのクッキーは自然に非常食という位置づけになりました。中身がなくなったあとも、家から持ってきたお菓子をその缶の中に入れるのが習慣になっていました。
そうしたある日、私たちの関係に終止符を打つような事件が起きたのです。
いつもどおり、私の家で彼と愛を確かめ合っていました。その頃にはすこし慣れてきていたので、どこを触るとどう反応するかが手に取るようにわかりました。
気持ちだけではなく、身体まで感度が上昇していて、気持ち良い声が出ることもあります。階下には母がいましたので、声を抑えるように工夫しました。1階から昇ってくる階段の足音には、常に注意しているつもりでした。
しかし、互いへの愛撫が手慣れてきたことが、自分を増長させて油断につながっていたのかもしれません。自分たちが子供だと言うことを、すっかり忘れていたのでしょう。ドラマなどでよく見る、恋人たちがせめぎ合うシーンを妄想していたのかもしれません。
私の部屋の扉が、いきなり強めに開かれました。そこに立っていたのではやや眉間にシワを寄せた、怒っている様子のお母さんです。お母さんはその場で怒鳴ったりせず、私たちに対して服を着て下に降りてくるように言いました。
怒気を抑え込んだその物言いが、余計に恐怖を感じさせました。
覆い被さってくる大きな闇のような恐怖に包まれながら、無意識に下着や服を身につけました。ふと彼の方を見ると、今にも泣き出しそうな表情で、不安げに一点を見つめていました。
私は彼の手をしっかりと握ったあと、服を手渡して着衣を手伝います。服を着た後、私たちは手を繋いで階段を降りていきました。足は震えていて、互いに支え合わないと階段から落ちてしまいそうで怖かったのです。
お母さんが待っているリビングの前で手を離して、ふたりで部屋に入っていきます。私たちの関係も、互いに身体を求め合うのも、まだ早いことは十分にわかっていました。
私は当時から、責任を果たす能力がない以上、両親の迷惑になるようなことをしてはいけないという考えを持っていました。しかし、彼への想いや、内から湧き出る欲望に逆らうことができなかったのです。
今思えば、小学生といえど、そのときの「想い」は、大人の抱く「愛」とそう大差がなかったと思います。
もちろん、ノリやステータスで付き合ったりする人も多いので、小学生の恋愛がすべて真面目なものだとは思いません。しかし、私たちは小学生なりにしっかり考えていたということは、胸を張って言えました。
結局、お母さんから言われたことも、そういった一般的な倫理観、道徳観でした。
その夜、お父さんとふたりで話をすることになりましたが、意外にもお父さんは怒っていませんでした。しかし、怒られるよりも辛くなるような、そんなことを言われます。
「自分の価値は自分で決めるんだよ。お父さんたちの、おまえへの価値が、おまえが自分で決めている価値より大きすぎたんだろうね」
と弱々しく語ったのでした。
当時の私には難しい言葉だったのですが、お父さんの期待を大きく裏切ったのだ、ということだけはわかりました。
今になって思えば、両親が手間暇かけて、それこそ人生を投げ打ってつくりあげた「子供」が、自分で自分を安売りしていることに愕然としたのだと思います。
当時は安売りしているといった気持ちはなかったのですが、今では色んな意味でもう少し考えて行動するべきだったと思います。
私はそのとき、この恋をその場で言われるがままに終わらせることは、それこそ期待を裏切ることになるのではないだろうか、と思いました。
その原因となったのは、小学校で遊びのような恋愛をしている周囲の友達です。私たちの恋は、そんな人たちと違って真剣なのだということを、お父さんたちにわかってほしいと思いました。
私たちはその日を境に、学校以外で会うことができなくなりました。
スマホは取り上げられ、学校終わりにはお母さんが迎えにくるようになり、所在がはっきりしない外出はできなくなりました。彼の両親にも話をしたようで、彼自身も私の方へ近づいてきたり、連絡をとってきたりすることはありません。
私が友達と遊ぶときは、家に呼ぶ以外にできません。
買物に行きたい場合は、必ずお母さんが同伴するようになりました。
私はお父さんとお母さんの期待を裏切ってしまったので、まったく信用されなくなったのも仕方ありません。ただ、いつまでこんな監視状態がつづくのかな、と考えているぐらいでした。
そんなある日、意外な形で監視状態が解かれることになりました。
食卓にお父さんとお母さんが座り、私を呼び出して椅子に座らせます。
「おまえが中学にあがる前に引っ越すことになった」
お父さんの言い分としては、このまま私を籠の中の鳥として扱うのは忍びないから、というものでした。本音は彼と私を遠ざけたいというのが一番なのでしょう。
当然、私は反論をつづけました。しかし、もし私がごねた場合、彼の家に引っ越してもらうことになるというのです。
どっちにしろ、彼か私かどちらかは引っ越すことになるようです。このまま大きくなって彼と交際をするという私の願いは、どうあっても叶わないのだと悟りました。
渋々といった形でしたが、私は引っ越しを承諾し、彼へ別れの手紙を書いて送りました。
内容は、私は今でもちゃんと好きだから、きっとまた帰ってくるということです。そんなロマンチックなことを信じて疑わないほど子供ではありませんが、どこかで待っていてくれるといいなと考えていたのです。
ですから、強く「待っていて欲しい」とは言えません。ただ、「必ず会いに戻ってくる」としか言えませんでした。
その後、私の家は引っ越して監視体制は解かれました。
新しい土地で新しい友達に囲まれ、中学を卒業し、高校を卒業し、大学生となったのをキッカケに、私はひとり暮らしをすることにしました。その間、彼から連絡はありませんでした。
私は何度か手紙を書いていましたが、高校受験のタイミングで忙しくなってしまい、それ以来手紙も送らなくなっていました。彼への想いがどこかで残っていたという理由もありましたが、両親の目もあって私はあれから恋人ができないままです。
告白されたことはありましたが、気持ちがないまま付き合う気にはなれなかったので断りました。新しく誰かを好きになるということもなく、青春を終えたのです。
その堰き止められた想いが、ひとり暮らしになった瞬間に爆発したのでしょうか。私は、彼の住む、かつて住んでいた街にひとりで帰りました。
正直、小学生のときの言葉を実行するため、という気持ちは薄まっています。ずっとモヤモヤとしたものが残っていたので、スッキリさせたかったという気持ちの方が大きかったのは事実です。
彼への気持ちは「好き」というより、「大切な想い出」という側面が強く、いま会ってどうこうしたいという強い気持ちはありません。
どこかで、彼にも新しい彼女がいて、今を謳歌しているのではないかという考えもありました。その光景を目の当たりにしたときに、耐えられるように気持ちにブレーキを掛けていたのかもしれません。
「付き合いたい!」とか「結婚したい!」という気持ちはありません。
しかし、「今どうしてるのかな」や「あのときの思い出話を笑ってできればいいな」という気持ちはしっかりありました。
とは思いながらも、新しく買った黄色いワンピースと、白いヒールサンダルを身につけて、恥ずかしくない程度にオシャレをしていました。女というものは罪深い生き物です。
彼の住んでいた家に行ってみると、新しい建物があったり、以前の建物がなくなっていたり、変わらない建物が残っていたりしました。だんだんとあのときの、小学生のときの記憶が甦ってきました。
しかし、私は目を疑ってしまいます。
彼の家は確かにそこに建っていました。庭や植え込みの感じは違いますが、青い屋根の色、家のそこかしこを形成している茶色いレンガ風のタイルは記憶のままです。
その中で決定的に違うものがありました。
表札です。
彼の家だったそこに掛けられていた表札は、彼の苗字のものではありません。
どこかで苗字が変わった可能性を考慮しながら、おそるおそるインターホンを鳴らします。そうして出てきた人は、私の知らない、年上の女性でした。
彼のことを尋ねてみますが、彼女は知らないようです。私は、彼女が彼の奥さんであるケースも考えていたので、どこかでホッとしてしまいます。そして、彼女はつづけてこう言いました。
「もしかしたら違う人かもしれませんが、そういえば、前に住んでらした方。なんか、息子さんがいじめにあってたみたいでしたよ」
心臓をギュッと掴まれたような気持ちです。
「いじめの理由とか、わかりますか?」
「詳しいことまではわからないけど、同学年の女の子を無理やり襲ったみたいな話は聞きましたね。当時はまだ小学生だったのに」
直感で私のことだとわかりました。事実がねじ曲がっているのが悔しくて仕方ありません。
「その女の子はショックで、遠くに引っ越したみたいです。可哀想に」
やはり私のことのようでした。私は彼女にお礼を言って、その場を去ることにしました。
生ぬるい想像をしていた自分を呪いたくなります。この街に残された彼は、地獄のような苦しみを味わったに違いありません。
彼と一緒にそれを受けることができなかった自分への悔しさや罪悪感、のうのうと過ごしていた苛立ちで、道の真ん中だというのに涙が溢れて止まりません。
周囲の人がチラチラと見ていきます。いたたまれなくなって、その場を離れることにしました。とにかく悲しみが止まらなかったので、どこか人気のない場所はないかと考えていると、昔使っていた秘密基地が思い浮かびました。
あの時点で廃屋同然の建物で、取り壊される寸前のような団地だったことを思い出します。今も残っているか不安でしたが、当時のまま、それこそ彼の家以上に変化がないままに、そこに存在していました。
さすがに小学生のときと同じようにとはいきませんが、ひと目を盗んで入り口の壁を乗り越えます。彼とふたりで過ごした場所に入り込むことで、想い出が次々甦ってくるのでした。
まだ昼間だというのに薄暗くて、ジメジメとしていて、かび臭くて、ホコリが立ちこめています。思わずハンカチで鼻と口を覆い、「よく当時は平気だったなあ」と思いました。
記憶を頼りに、ふたりで過ごしていた場所へ向かいます。ヒールの音が響きますが、人の気配はありません。こういった場所ですから、浮浪者や不良がいるかもしれないと警戒していましたが、そういったこともないようでした。
そうやって、彼と過ごしていた想い出の一画へ辿り着きました。
そこは廊下の端に位置する場所で、階段からは遠く離れた場所です。深いホコリが被っている以外は、あのときのまま変わりがないようでした。
ふと目を下ろすと、クッキーの四角い缶があります。
すっかりホコリにまみれているそれは、あちこちが錆びついていて、蓋に描かれている絵柄すらわかりません。しゃがみ込んだ私は箱を拾い上げます。そして静かにホコリをはたきました。そして蓋を取り外してみます。
てっきり空っぽだと思っていましたが、中には四つ折りの紙が何枚も詰まっていました。その中の一枚を手にとって開いてみます。
そこに書かれていたのは、彼から私にあてられた手紙でした。
彼は私が引っ越した後もこの場所に通い詰めて、手紙を残しているようでした。一番古い手紙は、私が引っ越しをした翌日のものです。
それからしばらくは毎日のように手紙がつづき、やがて1週間おきになり、1ヶ月おきになり、3か月おきになっていきます。
手紙にはいじめのことも書かれていました。エスカレートするいじめによって、死にそうになったことも書いています。
結局、彼の家は遠くに引っ越すことになったそうです。また、引っ越した後も数か月おきぐらいで、この場所に通っているようでした。
さらに、私が送った手紙は、彼の親のところで止まっていたことが発覚しました。彼の親としても、息子をこんな目に遭わせた私を恨んでいるのでしょう。
その後、隠されていた私の手紙を発見したそうです。住所がわかってすぐに手紙を送ったと書いてあります。しかし、私は彼からの手紙を受け取ったことがありません。
彼の両親と同じように、彼からの手紙が私の親で止まっているのだとすぐに思い当たりました。彼も同じことを考えたらしく、その手紙と同じ内容の手紙をクッキー缶の中に入れておいたそうです。
彼は私を恨んでおらず、離れてからも好きでいてくれていること、恋人も作らずに待ってくれていること、また会えると信じてくれていることがわかりました。どこかで楽観視していた私は、彼が従順に待ち続けていてくれたことに、とてつもない罪悪感に包まれました。
恋心としては冷めていて、思い出話でもできればいいと思っていました。ですが、急に彼に会いたくなりました。沸々と彼への想いが甦ってきたのです。
私はしばらく悩んだ後、手紙の中にあった住所を頼りに会いに行くことを決めました。
そこは新幹線で数時間行ったあと、乗り換えてさらに電車で数時間、駅からバスで1時間ほど行った先にある田舎です。
おそらく彼の両親どちらかの実家なのでしょう。その道程に掛かった時間は、私の思考を冷静にさせるには十分すぎました。
勢いで会いにきてしまいましたが、彼の手紙は過去のものです。今でも彼の想いが当時のままだとは限りません。私は過去の彼の想いに触発されて、再び想いが甦ったのです。
それまでは、私自身も恋心は残っていなかったのですから、彼の想いも時間と共に風化していてもおかしくありません。
でも、せめてもう一度だけ会って話がしたい、謝罪したいという一心でした。
途中、新幹線を降りた駅で一泊してから来ましたが、それでも彼の家は遠くて、着いた頃には真っ暗になっていました。この辺りは街灯も乏しく、飲まれるような暗闇が広がっています。
私はスマホの明かりを頼りに、田んぼと田んぼの間にあるあぜ道を歩き続けました。ヒールが適切ではない運動量だったので、足がたまらなく痛くなってきます。
膝がガクガクとしてきた頃に、ようやく一軒家が見えました。表札を確認してみまると彼の苗字で間違いありません。
インターホンらしきものがなかったので、控えめに曇りガラスの入った引き戸を叩きます。何度か呼びかけたとき、引き戸の曇りガラスの向こう側に、電気が点ったのがわかりました。
彼のお母さんでしょうか。私が大きくなったせいか、とても小さな影のように見えます。その影が引き戸の鍵を開けて、おそるおそるといった感じで顔を覗かせてきました。
「どちらさまですか?」
姿を現したのは、痛々しいほど疲れ果てた様子のお婆さんでした。
私の両親と彼の両親にそれほど年の差はないはずです。一瞬、面を食らいましたが、瞬時に彼のお婆さんなのだと理解しました。
私は自分の姓名を名乗ったとき、お婆さんだと私のことがわからないのではないだろうかと思いました。すぐに彼自身か、彼の両親を呼び出してもらわなくてはいけないなと考えていると、目の前のお婆さんが思いがけないことを言いました。
「ああ……あのときの」
私は彼のお婆さんと面識がありません。過去のことを噂として聞いていたのだろう考えると、恥ずかしくなってきました。
しかし、よく話を聞いてみると、どうもそういった感じではないのです。
「あのときは、息子がご迷惑をおかけしました」
深々と頭を上げます。息子ということは、彼のお父さんでしょうか。
「えっと、息子というのは」
そう私が尋ねると、お婆さんがこう答えます。
「あの子の母です。すっかりお婆ちゃんに見えるでしょう。ごめんなさいね」
恐ろしいことに、彼のお婆さんだと思っていたこの女性は、彼のお母さんでした。控えめにみても、私のお母さんより20歳近く年上に見えます。
私が過ごした時間以上の長いときを、彼のお母さんは過ごしていたのだと感じました。
彼のお母さんは家の中にあげてくれ、居間へと通してくれました。
見た目どおり、その後に気苦労をされたのだろうと考えた私は、
「本当に……あの頃はご迷惑をおかけしました」
と頭を下げて謝罪します。
「いえいえ。うちの方こそ、大切な娘さんに傷をつけるようなことをしてしまったと、ずっと言ってたのですよ」
「私が幼かったばかりに、そちらのお宅にもご迷惑をかけてしまいました。本当に申し訳ありません」
「いえ、そんな……頭を上げてくださいな」
彼のお母さんに促されるように、ゆっくりと頭を上げます。
「でも、ホッとしました。あの頃のお嬢さんが、こんな礼儀正しく立派になられていて……もし、人生を棒に振ってしまうようになっていたらと思うと、眠れなくなる日もありましたから」
私は、なんとなく、その時点で、状況を察してしまっていました。
その後、幾つかの世間話をかわしました。いつまで経ってもお母さんの方から話を切り出さないので、私の方から尋ねることにします。
なんとなく予測していただけに、勇気が要りました。
「それで――○○さんは?」
するとお母さんは、スッと私の背後へ向けて手のひらを差し出しました。
静かに振り返ると、そこには二つの位牌が並んでいます。一つは彼のお父さんと思われる写真が立てられたもの。
もう一つは――。
「夫は気苦労がたたってね……」
お母さんがそう言ったので、私は再びお母さんの方へ向き直りました。もう一つの写真立てを、じっくり静止できなかったというのもあるでしょう。
「息子は……あなたのお家が引っ越してしまったあと、ひどくいじめられてしまって」
静かなお母さんの言葉に、耳を傾けることに集中しました。
時計の針が進む音、庭先から聞こえるカエルの合唱。電灯の発するジィーという音に混じって聞こえるお母さんの声は、非常に弱々しいものでした。
「そのいじめで怪我をしてしまってね。それが悪化して……」
こういう場合、なんて言うのが正しかったのか、今でもわかりません。
お母さんの喪失感を慰めなくてはいけないのですが、私自身を覆った喪失感が大きすぎて、失礼ながらそれほどの余裕がありませんでした。
その場に泣き崩れないようにするので、精一杯だったのです。
彼への強まる罪悪感や後悔、彼がもういないんだという現実、話すことができないことへの絶望、引っ越しを承諾してしまった自分への苛立ち、さまざまな念が、私のキャパシティを越えて襲ってきていました。
このことを知るまでは、「幼い過ち」は彼に簡単に身体を許したことだと思いました。
しかし、このことを知った後に抱いた「幼い過ち」は、両親に食って掛かって、彼と別れないように抵抗するべきだったことだと感じました。
聞き分けの良さそのものが、私の幼い過ちだったのです。
私の両親に恨みを言うわけではありません。両親は両親で親の責務を果たしたにすぎないのです。しかし、想いが強かったのであれば、相応に抵抗するべきでした。
もし私があのとき強く抵抗していれば、お父さんとお母さんは私たちの交際を許してくれたのでしょうか。
もし私たちが駆け落ちしていれば、彼も死なずに済んだのでしょうか。
もし私がもっと早く彼に会いにきていれば、こうはならなかったのでしょうか。
私と彼の、別の人生が待っていたのでしょうか。
私はこの後悔の念を抱いてこれからも生きていくことになります。
今後、ステキな出会いがあって幸せな結婚ができる気がしません。
恋心はいつか風化するのかもしれませんが、この罪悪感はちっとやそっとじゃ消えないのではないかと思っています。
もし、私の過去もすべて受け入れてくれる男性が現れたとしても、私は自分自身が許せないでしょう。
もし、自分の人生に転機が訪れて、結婚し、子供ができたとしたら、子供の恋愛には慎重に接したいと思います。
相手方のご両親とよく話し合って、条件付きで交際を認めるといった考えも大事にしてあげたいと思います。
子供は子供なりに精一杯、今を生きているのですから。
完
私が好きになったのは小学校3年のときです。何かと彼のそばに行って、すこしでも長く彼の近くにいられるようにしていました。
小学校4年の頃、彼も私のことが好きだということがわかりました。それからしばらくの間は、お互いに好き同士のクラスメイトという関係を築いていました。
そして小学校5年のとき、私たちは付き合うようになりました。当時、周囲に小学生で彼氏彼女がいる人は少数派でしたが、まったくいないわけではありません。
それだけに彼氏や彼女がいることが、周囲に対して大きなアドバンテージやステータスとなっていた側面もあります。
しかし、私たちはそういった軽いノリで付き合っていたわけではありません。ちゃんとお互いのことを好きでいましたし、大事にしていました。
小学生だからという背徳感やトラブルに対する恐怖もあって、簡単に手を出さなかったのかもしれません。私はそれを、「彼が真面目に考えてくれている」という風に捉えていました。
そういった考えに後押しされるように、彼への想いは急激に成長していきます。「周囲のように軽い付き合いじゃない」という気持ちが、ますます恋心を増長させてしまい、留まることを知らなかったのです。
彼や私の家で抱き合うことが、だんだん増えてきます。日に日に大胆になっていく私に、彼は少々戸惑っていました。それでもちゃんと受け止めてくれているように感じていたのです。
あまりに互いの家に行き来すると怪しまれるので、秘密の場所で過ごすこともあります。
そこは取り壊される寸前の廃墟のような、閉鎖された団地でした。
入り口は封鎖されていましたが、乗り越えることは容易です。当然、部屋の中まで入ることはできません。せいぜい階段や廊下にいるぐらいです。
それでも世間から目の届かない場所にあるそこは、周囲の目を気にすることなく愛し合える場所として、私たちにとっては貴重だったのです。
彼はその場所にお菓子を持ってきました。高そうな四角い缶に入ったクッキーです。
私たちはその場所を「秘密基地」という風に考えていましたので、そのクッキーは自然に非常食という位置づけになりました。中身がなくなったあとも、家から持ってきたお菓子をその缶の中に入れるのが習慣になっていました。
そうしたある日、私たちの関係に終止符を打つような事件が起きたのです。
いつもどおり、私の家で彼と愛を確かめ合っていました。その頃にはすこし慣れてきていたので、どこを触るとどう反応するかが手に取るようにわかりました。
気持ちだけではなく、身体まで感度が上昇していて、気持ち良い声が出ることもあります。階下には母がいましたので、声を抑えるように工夫しました。1階から昇ってくる階段の足音には、常に注意しているつもりでした。
しかし、互いへの愛撫が手慣れてきたことが、自分を増長させて油断につながっていたのかもしれません。自分たちが子供だと言うことを、すっかり忘れていたのでしょう。ドラマなどでよく見る、恋人たちがせめぎ合うシーンを妄想していたのかもしれません。
私の部屋の扉が、いきなり強めに開かれました。そこに立っていたのではやや眉間にシワを寄せた、怒っている様子のお母さんです。お母さんはその場で怒鳴ったりせず、私たちに対して服を着て下に降りてくるように言いました。
怒気を抑え込んだその物言いが、余計に恐怖を感じさせました。
覆い被さってくる大きな闇のような恐怖に包まれながら、無意識に下着や服を身につけました。ふと彼の方を見ると、今にも泣き出しそうな表情で、不安げに一点を見つめていました。
私は彼の手をしっかりと握ったあと、服を手渡して着衣を手伝います。服を着た後、私たちは手を繋いで階段を降りていきました。足は震えていて、互いに支え合わないと階段から落ちてしまいそうで怖かったのです。
お母さんが待っているリビングの前で手を離して、ふたりで部屋に入っていきます。私たちの関係も、互いに身体を求め合うのも、まだ早いことは十分にわかっていました。
私は当時から、責任を果たす能力がない以上、両親の迷惑になるようなことをしてはいけないという考えを持っていました。しかし、彼への想いや、内から湧き出る欲望に逆らうことができなかったのです。
今思えば、小学生といえど、そのときの「想い」は、大人の抱く「愛」とそう大差がなかったと思います。
もちろん、ノリやステータスで付き合ったりする人も多いので、小学生の恋愛がすべて真面目なものだとは思いません。しかし、私たちは小学生なりにしっかり考えていたということは、胸を張って言えました。
結局、お母さんから言われたことも、そういった一般的な倫理観、道徳観でした。
その夜、お父さんとふたりで話をすることになりましたが、意外にもお父さんは怒っていませんでした。しかし、怒られるよりも辛くなるような、そんなことを言われます。
「自分の価値は自分で決めるんだよ。お父さんたちの、おまえへの価値が、おまえが自分で決めている価値より大きすぎたんだろうね」
と弱々しく語ったのでした。
当時の私には難しい言葉だったのですが、お父さんの期待を大きく裏切ったのだ、ということだけはわかりました。
今になって思えば、両親が手間暇かけて、それこそ人生を投げ打ってつくりあげた「子供」が、自分で自分を安売りしていることに愕然としたのだと思います。
当時は安売りしているといった気持ちはなかったのですが、今では色んな意味でもう少し考えて行動するべきだったと思います。
私はそのとき、この恋をその場で言われるがままに終わらせることは、それこそ期待を裏切ることになるのではないだろうか、と思いました。
その原因となったのは、小学校で遊びのような恋愛をしている周囲の友達です。私たちの恋は、そんな人たちと違って真剣なのだということを、お父さんたちにわかってほしいと思いました。
私たちはその日を境に、学校以外で会うことができなくなりました。
スマホは取り上げられ、学校終わりにはお母さんが迎えにくるようになり、所在がはっきりしない外出はできなくなりました。彼の両親にも話をしたようで、彼自身も私の方へ近づいてきたり、連絡をとってきたりすることはありません。
私が友達と遊ぶときは、家に呼ぶ以外にできません。
買物に行きたい場合は、必ずお母さんが同伴するようになりました。
私はお父さんとお母さんの期待を裏切ってしまったので、まったく信用されなくなったのも仕方ありません。ただ、いつまでこんな監視状態がつづくのかな、と考えているぐらいでした。
そんなある日、意外な形で監視状態が解かれることになりました。
食卓にお父さんとお母さんが座り、私を呼び出して椅子に座らせます。
「おまえが中学にあがる前に引っ越すことになった」
お父さんの言い分としては、このまま私を籠の中の鳥として扱うのは忍びないから、というものでした。本音は彼と私を遠ざけたいというのが一番なのでしょう。
当然、私は反論をつづけました。しかし、もし私がごねた場合、彼の家に引っ越してもらうことになるというのです。
どっちにしろ、彼か私かどちらかは引っ越すことになるようです。このまま大きくなって彼と交際をするという私の願いは、どうあっても叶わないのだと悟りました。
渋々といった形でしたが、私は引っ越しを承諾し、彼へ別れの手紙を書いて送りました。
内容は、私は今でもちゃんと好きだから、きっとまた帰ってくるということです。そんなロマンチックなことを信じて疑わないほど子供ではありませんが、どこかで待っていてくれるといいなと考えていたのです。
ですから、強く「待っていて欲しい」とは言えません。ただ、「必ず会いに戻ってくる」としか言えませんでした。
その後、私の家は引っ越して監視体制は解かれました。
新しい土地で新しい友達に囲まれ、中学を卒業し、高校を卒業し、大学生となったのをキッカケに、私はひとり暮らしをすることにしました。その間、彼から連絡はありませんでした。
私は何度か手紙を書いていましたが、高校受験のタイミングで忙しくなってしまい、それ以来手紙も送らなくなっていました。彼への想いがどこかで残っていたという理由もありましたが、両親の目もあって私はあれから恋人ができないままです。
告白されたことはありましたが、気持ちがないまま付き合う気にはなれなかったので断りました。新しく誰かを好きになるということもなく、青春を終えたのです。
その堰き止められた想いが、ひとり暮らしになった瞬間に爆発したのでしょうか。私は、彼の住む、かつて住んでいた街にひとりで帰りました。
正直、小学生のときの言葉を実行するため、という気持ちは薄まっています。ずっとモヤモヤとしたものが残っていたので、スッキリさせたかったという気持ちの方が大きかったのは事実です。
彼への気持ちは「好き」というより、「大切な想い出」という側面が強く、いま会ってどうこうしたいという強い気持ちはありません。
どこかで、彼にも新しい彼女がいて、今を謳歌しているのではないかという考えもありました。その光景を目の当たりにしたときに、耐えられるように気持ちにブレーキを掛けていたのかもしれません。
「付き合いたい!」とか「結婚したい!」という気持ちはありません。
しかし、「今どうしてるのかな」や「あのときの思い出話を笑ってできればいいな」という気持ちはしっかりありました。
とは思いながらも、新しく買った黄色いワンピースと、白いヒールサンダルを身につけて、恥ずかしくない程度にオシャレをしていました。女というものは罪深い生き物です。
彼の住んでいた家に行ってみると、新しい建物があったり、以前の建物がなくなっていたり、変わらない建物が残っていたりしました。だんだんとあのときの、小学生のときの記憶が甦ってきました。
しかし、私は目を疑ってしまいます。
彼の家は確かにそこに建っていました。庭や植え込みの感じは違いますが、青い屋根の色、家のそこかしこを形成している茶色いレンガ風のタイルは記憶のままです。
その中で決定的に違うものがありました。
表札です。
彼の家だったそこに掛けられていた表札は、彼の苗字のものではありません。
どこかで苗字が変わった可能性を考慮しながら、おそるおそるインターホンを鳴らします。そうして出てきた人は、私の知らない、年上の女性でした。
彼のことを尋ねてみますが、彼女は知らないようです。私は、彼女が彼の奥さんであるケースも考えていたので、どこかでホッとしてしまいます。そして、彼女はつづけてこう言いました。
「もしかしたら違う人かもしれませんが、そういえば、前に住んでらした方。なんか、息子さんがいじめにあってたみたいでしたよ」
心臓をギュッと掴まれたような気持ちです。
「いじめの理由とか、わかりますか?」
「詳しいことまではわからないけど、同学年の女の子を無理やり襲ったみたいな話は聞きましたね。当時はまだ小学生だったのに」
直感で私のことだとわかりました。事実がねじ曲がっているのが悔しくて仕方ありません。
「その女の子はショックで、遠くに引っ越したみたいです。可哀想に」
やはり私のことのようでした。私は彼女にお礼を言って、その場を去ることにしました。
生ぬるい想像をしていた自分を呪いたくなります。この街に残された彼は、地獄のような苦しみを味わったに違いありません。
彼と一緒にそれを受けることができなかった自分への悔しさや罪悪感、のうのうと過ごしていた苛立ちで、道の真ん中だというのに涙が溢れて止まりません。
周囲の人がチラチラと見ていきます。いたたまれなくなって、その場を離れることにしました。とにかく悲しみが止まらなかったので、どこか人気のない場所はないかと考えていると、昔使っていた秘密基地が思い浮かびました。
あの時点で廃屋同然の建物で、取り壊される寸前のような団地だったことを思い出します。今も残っているか不安でしたが、当時のまま、それこそ彼の家以上に変化がないままに、そこに存在していました。
さすがに小学生のときと同じようにとはいきませんが、ひと目を盗んで入り口の壁を乗り越えます。彼とふたりで過ごした場所に入り込むことで、想い出が次々甦ってくるのでした。
まだ昼間だというのに薄暗くて、ジメジメとしていて、かび臭くて、ホコリが立ちこめています。思わずハンカチで鼻と口を覆い、「よく当時は平気だったなあ」と思いました。
記憶を頼りに、ふたりで過ごしていた場所へ向かいます。ヒールの音が響きますが、人の気配はありません。こういった場所ですから、浮浪者や不良がいるかもしれないと警戒していましたが、そういったこともないようでした。
そうやって、彼と過ごしていた想い出の一画へ辿り着きました。
そこは廊下の端に位置する場所で、階段からは遠く離れた場所です。深いホコリが被っている以外は、あのときのまま変わりがないようでした。
ふと目を下ろすと、クッキーの四角い缶があります。
すっかりホコリにまみれているそれは、あちこちが錆びついていて、蓋に描かれている絵柄すらわかりません。しゃがみ込んだ私は箱を拾い上げます。そして静かにホコリをはたきました。そして蓋を取り外してみます。
てっきり空っぽだと思っていましたが、中には四つ折りの紙が何枚も詰まっていました。その中の一枚を手にとって開いてみます。
そこに書かれていたのは、彼から私にあてられた手紙でした。
彼は私が引っ越した後もこの場所に通い詰めて、手紙を残しているようでした。一番古い手紙は、私が引っ越しをした翌日のものです。
それからしばらくは毎日のように手紙がつづき、やがて1週間おきになり、1ヶ月おきになり、3か月おきになっていきます。
手紙にはいじめのことも書かれていました。エスカレートするいじめによって、死にそうになったことも書いています。
結局、彼の家は遠くに引っ越すことになったそうです。また、引っ越した後も数か月おきぐらいで、この場所に通っているようでした。
さらに、私が送った手紙は、彼の親のところで止まっていたことが発覚しました。彼の親としても、息子をこんな目に遭わせた私を恨んでいるのでしょう。
その後、隠されていた私の手紙を発見したそうです。住所がわかってすぐに手紙を送ったと書いてあります。しかし、私は彼からの手紙を受け取ったことがありません。
彼の両親と同じように、彼からの手紙が私の親で止まっているのだとすぐに思い当たりました。彼も同じことを考えたらしく、その手紙と同じ内容の手紙をクッキー缶の中に入れておいたそうです。
彼は私を恨んでおらず、離れてからも好きでいてくれていること、恋人も作らずに待ってくれていること、また会えると信じてくれていることがわかりました。どこかで楽観視していた私は、彼が従順に待ち続けていてくれたことに、とてつもない罪悪感に包まれました。
恋心としては冷めていて、思い出話でもできればいいと思っていました。ですが、急に彼に会いたくなりました。沸々と彼への想いが甦ってきたのです。
私はしばらく悩んだ後、手紙の中にあった住所を頼りに会いに行くことを決めました。
そこは新幹線で数時間行ったあと、乗り換えてさらに電車で数時間、駅からバスで1時間ほど行った先にある田舎です。
おそらく彼の両親どちらかの実家なのでしょう。その道程に掛かった時間は、私の思考を冷静にさせるには十分すぎました。
勢いで会いにきてしまいましたが、彼の手紙は過去のものです。今でも彼の想いが当時のままだとは限りません。私は過去の彼の想いに触発されて、再び想いが甦ったのです。
それまでは、私自身も恋心は残っていなかったのですから、彼の想いも時間と共に風化していてもおかしくありません。
でも、せめてもう一度だけ会って話がしたい、謝罪したいという一心でした。
途中、新幹線を降りた駅で一泊してから来ましたが、それでも彼の家は遠くて、着いた頃には真っ暗になっていました。この辺りは街灯も乏しく、飲まれるような暗闇が広がっています。
私はスマホの明かりを頼りに、田んぼと田んぼの間にあるあぜ道を歩き続けました。ヒールが適切ではない運動量だったので、足がたまらなく痛くなってきます。
膝がガクガクとしてきた頃に、ようやく一軒家が見えました。表札を確認してみまると彼の苗字で間違いありません。
インターホンらしきものがなかったので、控えめに曇りガラスの入った引き戸を叩きます。何度か呼びかけたとき、引き戸の曇りガラスの向こう側に、電気が点ったのがわかりました。
彼のお母さんでしょうか。私が大きくなったせいか、とても小さな影のように見えます。その影が引き戸の鍵を開けて、おそるおそるといった感じで顔を覗かせてきました。
「どちらさまですか?」
姿を現したのは、痛々しいほど疲れ果てた様子のお婆さんでした。
私の両親と彼の両親にそれほど年の差はないはずです。一瞬、面を食らいましたが、瞬時に彼のお婆さんなのだと理解しました。
私は自分の姓名を名乗ったとき、お婆さんだと私のことがわからないのではないだろうかと思いました。すぐに彼自身か、彼の両親を呼び出してもらわなくてはいけないなと考えていると、目の前のお婆さんが思いがけないことを言いました。
「ああ……あのときの」
私は彼のお婆さんと面識がありません。過去のことを噂として聞いていたのだろう考えると、恥ずかしくなってきました。
しかし、よく話を聞いてみると、どうもそういった感じではないのです。
「あのときは、息子がご迷惑をおかけしました」
深々と頭を上げます。息子ということは、彼のお父さんでしょうか。
「えっと、息子というのは」
そう私が尋ねると、お婆さんがこう答えます。
「あの子の母です。すっかりお婆ちゃんに見えるでしょう。ごめんなさいね」
恐ろしいことに、彼のお婆さんだと思っていたこの女性は、彼のお母さんでした。控えめにみても、私のお母さんより20歳近く年上に見えます。
私が過ごした時間以上の長いときを、彼のお母さんは過ごしていたのだと感じました。
彼のお母さんは家の中にあげてくれ、居間へと通してくれました。
見た目どおり、その後に気苦労をされたのだろうと考えた私は、
「本当に……あの頃はご迷惑をおかけしました」
と頭を下げて謝罪します。
「いえいえ。うちの方こそ、大切な娘さんに傷をつけるようなことをしてしまったと、ずっと言ってたのですよ」
「私が幼かったばかりに、そちらのお宅にもご迷惑をかけてしまいました。本当に申し訳ありません」
「いえ、そんな……頭を上げてくださいな」
彼のお母さんに促されるように、ゆっくりと頭を上げます。
「でも、ホッとしました。あの頃のお嬢さんが、こんな礼儀正しく立派になられていて……もし、人生を棒に振ってしまうようになっていたらと思うと、眠れなくなる日もありましたから」
私は、なんとなく、その時点で、状況を察してしまっていました。
その後、幾つかの世間話をかわしました。いつまで経ってもお母さんの方から話を切り出さないので、私の方から尋ねることにします。
なんとなく予測していただけに、勇気が要りました。
「それで――○○さんは?」
するとお母さんは、スッと私の背後へ向けて手のひらを差し出しました。
静かに振り返ると、そこには二つの位牌が並んでいます。一つは彼のお父さんと思われる写真が立てられたもの。
もう一つは――。
「夫は気苦労がたたってね……」
お母さんがそう言ったので、私は再びお母さんの方へ向き直りました。もう一つの写真立てを、じっくり静止できなかったというのもあるでしょう。
「息子は……あなたのお家が引っ越してしまったあと、ひどくいじめられてしまって」
静かなお母さんの言葉に、耳を傾けることに集中しました。
時計の針が進む音、庭先から聞こえるカエルの合唱。電灯の発するジィーという音に混じって聞こえるお母さんの声は、非常に弱々しいものでした。
「そのいじめで怪我をしてしまってね。それが悪化して……」
こういう場合、なんて言うのが正しかったのか、今でもわかりません。
お母さんの喪失感を慰めなくてはいけないのですが、私自身を覆った喪失感が大きすぎて、失礼ながらそれほどの余裕がありませんでした。
その場に泣き崩れないようにするので、精一杯だったのです。
彼への強まる罪悪感や後悔、彼がもういないんだという現実、話すことができないことへの絶望、引っ越しを承諾してしまった自分への苛立ち、さまざまな念が、私のキャパシティを越えて襲ってきていました。
このことを知るまでは、「幼い過ち」は彼に簡単に身体を許したことだと思いました。
しかし、このことを知った後に抱いた「幼い過ち」は、両親に食って掛かって、彼と別れないように抵抗するべきだったことだと感じました。
聞き分けの良さそのものが、私の幼い過ちだったのです。
私の両親に恨みを言うわけではありません。両親は両親で親の責務を果たしたにすぎないのです。しかし、想いが強かったのであれば、相応に抵抗するべきでした。
もし私があのとき強く抵抗していれば、お父さんとお母さんは私たちの交際を許してくれたのでしょうか。
もし私たちが駆け落ちしていれば、彼も死なずに済んだのでしょうか。
もし私がもっと早く彼に会いにきていれば、こうはならなかったのでしょうか。
私と彼の、別の人生が待っていたのでしょうか。
私はこの後悔の念を抱いてこれからも生きていくことになります。
今後、ステキな出会いがあって幸せな結婚ができる気がしません。
恋心はいつか風化するのかもしれませんが、この罪悪感はちっとやそっとじゃ消えないのではないかと思っています。
もし、私の過去もすべて受け入れてくれる男性が現れたとしても、私は自分自身が許せないでしょう。
もし、自分の人生に転機が訪れて、結婚し、子供ができたとしたら、子供の恋愛には慎重に接したいと思います。
相手方のご両親とよく話し合って、条件付きで交際を認めるといった考えも大事にしてあげたいと思います。
子供は子供なりに精一杯、今を生きているのですから。
完
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