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それから、これから
6話
しおりを挟む[ ポチ : お疲れ様でした! ]
[ 椋鳥 - muku - : おつつー ]
[ スコル : おつー ]
ガッショガッショと鎧を揺らして敬礼する。そんな私の横でスー君が今日の成果を椋さんに渡していた。スー君が終わったのを見計らい、私もそれに倣う。
[ スコル : そういえば今日蘭がインするって? ]
[ ポチ : そうなんですか?やっほーい!少しでもおしゃべりできるといいなぁ。この間のお礼も言いたいし ]
[ スコル : この間? ]
[ ポチ : なんとこの間!近所で!会ったんですよ! ]
[ スコル : へぇー ]
[ ポチ : 反応薄っ! ]
[ スコル : それ以外なんて言えって? ]
[ 椋鳥 - muku - : はいはい、拗ねない拗ねない。受験終わったら遊びに行ってあげるから ]
[ スコル : 蹴るよ ]
チャットではクールなスー君にほわほわしていると、椋さんから仕分けされたアイテムを渡され、お金を貰う。ありがたく受け取って、エモーションでお礼のダンスを踊る。
[ 椋鳥 - muku - : 受験生はともかく、ポチはクリスマスどうするの?デート? ]
今この瞬間、チャットでよかったと私は心底思った。
にやにやとにやけた椋さんが瞬時に思い浮かび、握る拳に力が入る。この男、私がその質問にこの場で答えにくいことを確実にわかっていて、聞いている。
早く打たねば怪しまれるとわかっているのに、なんと打てばいいのか瞬時に出てこない。打っては消し、打っては消しを繰り返して、ようやくエンターキーを押せた。
[ ポチ : そういう椋さんはどうなんです~? ]
[ 椋鳥 - muku - : おっ、そうきたか。僕はご想像の通りバイト先にちょこっと顔だしたら、あとは一日ネト充デスヨ。お誂え向きにぴったり土日だしねぇ。何、遊んでほしい?遊んであげようか? ]
絶対にやついてる、にやついてる!くそ、くそとキーボードを叩く音が強くなる。
椋さんはきっと、私と夕さんが付き合っていることに気づいている。気づかれないように行動をしているわけではないから、それはしょうがない。
インしたら二人で落ち合ったりすることもあるし、最近では癖になっているのか、夕さんがいたらすぐそばに寄ってしまう。雰囲気も少し変わってしまったかもしれない。
もしくは、ニケさんと酒の肴にされたか。どちらにしろ、椋さんは気づいてこんな風に私をおちょくっている。
スー君の前でやめてよねぇと涙が出そうになった。健全な中学生の前で、惚れた腫れたのくっついたの別れたの、なんて話はあまりしたくない。
[ ポチ : 残念ですけど一応予定ぐらい入ってるんで! ]
[ スコル : 負け惜しみ ]
[ ポチ : スー君酷い!どこでそんな言葉覚えてきたの! ]
[ スコル : あんたに出会う前から覚えてたよ ]
椋さんのタイピングはない。今きっと、キーボードの前で突っ伏しで大笑いしていることだろう。私はぎりぎりと歯を食いしばってキーボードを叩いた。
[ ポチ : お風呂に行ってきます!離席! ]
いてら、という文字さえも打てないほど、椋さんが笑い転げていることが、その後の過去ログから判明した。
***
お風呂から上がって画面を覗くと、椋さんとスー君の代わりに、ニケさんがポチの隣にいた。その姿を見て、私は興奮のまま髪を乾かす手すら止めて立ったままキーボードを打ち付ける。
[ ポチ : ニニニニニニニニニニニニケさん!!!!! ]
[ Berenices : ん、こんー ]
[ ポチ : ニケさん!なにそれ! ]
きゃー!と飛び跳ねるエモーションを連打しながら私は叫んだ。現実でも、髪を覆っていたタオルで口を伏せてむふふふふと笑みを零す。
[ Berenices : ん?あ、これね。今日のメンテ明けから実装されたの。どう?似合う? ]
中身が同じ年の男性だということも忘れて、私は思いっきり何度も頷く。
[ ポチ : かわいい!かわいい!とっても似合います!セクシーガール!エクセレント!サンタ最高!クリスマス最高! ]
ニケさんはサンタクロースの衣装を身に着けていた。もちろんのこと、お姉さんに似合うミニスカートのサンタクロース服だ。真っ赤なそれはファンタジー世界の町並みには少しの違和感を覚えさせるけれど、可愛いものは可愛い。というか、お姉さんが着ればなんでも可愛い。
はしゃぐ私に、ニケさんは素の言葉できっぱり告げた。
[ Berenices : よしわかった。とりあえず転環に乗れ。 ]
ここらへんにいる人みんなに聞こえるチャット機能で話していた私に、ニケさんはいつもの東屋行きの魔方陣を出してくれた。私はお口をチャックして、いそいそとそれに乗り込む。
見慣れたローディング画面はクリスマス仕様になっていて、そうかーゲームの世界もクリスマス一色なのかと不思議な気分になった。
東屋へ移動すると、いつもの場所に腰掛ける。ニケさんはベッド、私は地べただ。
[ ポチ : すごいすごい!可愛いですねー季節ものなんてあるんですね ]
[ Berenices : クリスマスの前にハロウィンがあったでしょ ]
[ ポチ : …そういわれて、みれば? ]
[ Berenices : まぁハロウィンは普通のモンスターと見分けも付きにくいし、ポチはずっとフィールドにいたし、馴染みが薄いか ]
[ ポチ : はいっ!可愛いですねぇお店で売ってるんですか? ]
[ Berenices : ううん、クリスマスイベントの特注クエ。 ]
[ ポチ : 難しいですか? ]
[ Berenices : うーん、ま、もう出来るでしょ。あとで夕星とやんなさいよ ]
ニケさんの言葉にタイピングがぴたりと止まった。
ニケさんとの電話やメールは、夕さんと付き合い始めてから控えている。特にこんな特別な話題を電話でするべきじゃないなと思っているため、中々相談できずにいた。東屋に二人しかいないのをいいことに、私はそっと文字を打つ。
[ ポチ : ニケさん、聞いてもいい? ]
[ Berenices : 何? ]
[ ポチ : ニケさんって私のこと好きなの? ]
たっぷり20秒の沈黙の後、チャット欄に文字が浮かぶ。
[ Berenices : はぁ? ]
ですよね。
[ Berenices : 今度は何を思い悩んでんの、っていうかどうしてそうなった ]
[ ポチ : いや、親切にしてくれるし。夕さんが気にしてるような気がしないでもなくって。もしそうなら、距離置かなきゃな~って… ]
[ Berenices : 何、お前のミノムシみたいな頭でも気づけたの? ]
[ ポチ : ミノ…。ええ、はい、まぁ… ]
[ Berenices : んー…俺がお前のこと好きだったら、まず今ここに女キャラはいない。 ]
[ ポチ : デスヨネ ]
[ Berenices : 即席でもなんでも男キャラ作ってきて、お前の中で出来上がってる『お姉さん像』をまず壊す。ギャップで意識させたところに、叩みかけるように甘やかす。レベル帯揃えて狩り時間はもちろん独占するし、正直ここにも連れてこない。みんなとも必要最小限しか会わせない程度には作戦を練る。 ]
[ ポチ : デスヨネ ]
[ Berenices : 気づかれない内にそれぐらいはするかな。お前ちょっと強引に押せば簡単に釣れそうだし。 ]
[ ポチ : デスヨネー!!ご高説ありがとうございましたっ!とっても!ためにっ!なりまし!た! ]
[ Berenices : ごめんな? ]
[ ポチ : 告ってもないのにふられたこの理不尽さ!!!!泣いていいですか!! ]
orzの形で丸まりたい気持ちを抑える。ここで負けてはいけないとキーボードに指を添えたときに、チャット欄に文字が流れた。
[ Berenices : お前はさ、俺なりに大事にしてるよ ]
[ ポチ : 知ってますぅ ]
[ Berenices : 泣いてりゃ話ぐらい聞いてやるし、飯だって付き合ってやるけどさ、一番大事、にはならないわけ ]
なるほど、とニケさんの文字を読んで思った。私が彼に前に思ったことはこれだったのだ。
彼にとっての、一定以上にいるから甘やかしてくれるけど、一番大事じゃないから何かあった時には迷いなく捨てられる。彼は、好きに優劣を作る。明確に、はっきりと。だから、唯一のもの以外を、捨てる強さを持っている。
咄嗟に思ったことが、そこに私が入らなくてよかった、という自意識過剰なことだった。だって私は、彼にそれを同等なほど返せない。だって私も、ニケさんと夕さんなら迷うことなく、夕さんの手を取ってニケさんを日本海に筏で流す。
[ ポチ : じゃあニケさんにとっての一番ってどんな人なんですか? ]
[ Berenices : とりあえず、ぼんとしててきゅっとしててぼんとしてることは大前提 ]
ゲーム世界でのお姉さんの豊満な肉体。そして、オフ会での出会い頭の好みじゃない発言を思い出してイラっとした。妄想の中でニケさんがしがみついている筏を転覆させる。
[ Berenices : なんかあったか?また泣き虫ポチになってんの?泣きすぎてしっぽ巻いて逃げる前に、ちゃんと相談しろよ ]
日本海に沈めたニケさんを大慌てで助けた。想像の中の胡乱な目をしたニケさんからそっと目を背け、私は最近あった出来事を全部ぶちまけてしまいたい衝動と戦った。
[ Berenices : ぽーちー ]
[ ポチ : …よく、わからなくなってて。 ]
[ Berenices : ん? ]
[ ポチ : 私、逃げてないつもりなんですけど。逃げてる、って思われてるみたいで。 ]
[ Berenices : ふむ ]
[ ポチ : 今までが散々だったから、なんていうか。自信も、なくって。 ]
ニケさんにどこまで話していいのか迷う。紛うことなき男性に―――それも夕さんが意識してしまうほど近くにいる男性に、恋愛相談をすることがいいこととは思えない。だけど、ほんの少し。ほんの少しだけ、聞いてほしかった。
私の言葉を咀嚼しているのか、ニケさんはしばらくの間タイピングをしてこなかった。待っている間に半乾きの髪をどうしようかな、と指でいじった。今ドライヤーをあてに行く時間はないので、冷えないようにとタオルで包み込む。
しばらくして、ニケさんが再び話し始めた。
[ Berenices : 自信がないって? ]
[ ポチ : すぐに飽きられちゃうんだろうなーって。今までも、そうだったし。 ]
[ Berenices : ん? ]
[ ポチ : …今までも、結構物珍しさと尻の軽さで釣れたんですけど。どんどん、ウザったくなるほうが勝つみたいで。飽きられちゃうんです。 ]
[ Berenices : それは今までの話だろ ]
[ ポチ : 今まで全部そうだったんだもん。今回もそうですよ。 ]
後ろ向きの発言は相談相手にはあまり言いたくない。そんなことないよって言ってもらいたいんだろ、ってニケさんにも思われてる気がするからだ。
それに今、どんな風に慰められても、どんな素敵な解決案を提示されても、きっと素直に受け取ることはできないと思う。そんな自分がたまらなく愚かに感じた。
なのに、そうわかっているのに。
ぐずぐずに甘やかしてくれるニケさんの前で取り繕えるほど、私の心は強くなかった。
[ ポチ : きっとまたすぐ、野良ポチに格下げですよ。こんな夢みたいな時間、長く続くわけない ]
[ Berenices : うざい ]
[ ポチ : わかってますぅううごめんなさいーー!!でも聞いて! ]
[ Berenices : なに、そんなうまくいってないの? ]
[ ポチ : …頭、ポンポンってしてもらえないんです ]
[ Berenices : ほー ]
[ ポチ : 一緒にいるとよくギクシャクしちゃうし… ]
[ Berenices : ふーん ]
[ ポチ : 聞いてます!? ]
[ Berenices : 聞いてる聞いてる ]
[ ポチ : …はーあ。私はさ、こんなにさ。四六時中夕さんのことばっかなのにさ。夕さんは私と会ってる時くらいしかきっと、考えてないんですよ。私のことなんて ]
[ Berenices : はいはい ]
けれどそれはきっと、当たり前のことなのだ。惚れたほうが負け、よく言うじゃないか。
私と夕さんは、対等じゃない。今ニケさんと、ベッドと地べたという格差があるように、私と夕さんにもそれが存在する。
[ Berenices : そんなことないと思うけど ]
[ ポチ : あるんですよ!あるんです! ]
[ Berenices : へーえ ]
素っ気ないニケさんの言葉に、ため息が零れる。
震える指先で、心の願いを吐き出すように、一つ一つ文字を打っていった。
[ ポチ : あーあ、頭ポンポン。クリスマスプレゼントに、サンタさん。くれないかなぁ ]
何度も打って消してを繰り返した自分の言葉を、読み返すだけで涙がぽろりと零れた。
嘘偽りない、私の本心はこんなところにあった。
飽きられるから、私が変だから、差があるから。
そんな風に斜に構えて見ないふりをしていた私の本心。
馬鹿みたいに簡単で、馬鹿みたいに単純な、私の本心。
[ 椋鳥 - muku - : はーっははははー!話は聞かせてもらったー! ]
パンパンパーンと耳を塞ぎたくなるほどの大音量のクラッカー音と、『メリークリスマース!』という野太い声の大合唱が聞こえた。
同時に東屋の真ん中に4人のキャラクターが現れる。
ニケさんとポチしかいなかったはずの東屋に、突然現れたキャラクターに、ポカンと口が開いた。
余りにも唐突な出来事に、呆気にとられすぎてタイピングすらできない。動転する頭で必死に理解しようとする。
[ Berenices : ちゃんと聞いてたかー ]
[ 椋鳥 - muku - : 聞いてた聞いてたばっちり聞いてた。いやーこのクリスマス限定アイテム『貴方も誰かのサンタになる』がこんな風に役に立つとは!説明しよう!このふざけた長いネーミングのアイテムは、パーティーでの集団ステルスがいつでもどこでも可能という、本当にちょっと狩場では嬉しいイベントアイテムなのだ!]
[ スコル : ねぇ何、この二人何話してたわけ? ]
[ orchid : ごめんねポチくん、盗み聞きはよくないって思ってたんだけど、ステルス、発動者しか解除できなくって… ]
[ 椋鳥 - muku - : ニケとポチが東屋にいるっていうから驚かしてやろうと思って身を隠してたら、こっちが会話の内容に驚いちゃったので、ちょっとニケに許可を得て見守っていたのであーる! ]
[ スコル : なぁだから!何話してたんだよ!こいつら! ]
よくわからないが、ニケさんと椋さんによるなにかしらのなにからしい。私は流れるログに目を回しそうになった。
しかもこの謀りは、初めてではないのだ。ニケさんに一度やられている。そう、あの居酒屋で。
[ 夕星 : ポチ ]
こんな風に、夕さんに声をかけられて。
[ ポチ : なんdtゆうさんがkっこに0 ]
[ 夕星 : 待ってろ。いいな ]
夕さんが話した言葉は、それだけだった。それからすぐに夕さんが画面から消える。しんと静まり返った東屋の中で、私はパニックになって叫んだ。
[ ポチ : うぇっわあああああああああああああああああああああああwdddddっだあああああああああああああ!!! ]
[ スコル : ちょっと!だからなんなわけ!! ]
[ orchid : よしよし、いい子に見守ろうね~ ]
[ Berenices : あーあ酒がうまーい酒がうまーい酒がうまいぞー ]
[ ポチ : まっで!まdて!まって!!!待って!!! ]
[ スコル : 何?!ポチと夕星って、もしかしてなんかあったわけ!? ]
[ orchid : 椋鳥くん発言ないねぇ ]
[ Berenices : 大方笑いすぎて死にそうなんだろ ]
[ ポチ : にげださん!むくsん!何やらかしてくrたんですかああああ!! ]
[ Berenices : 盗み聞きはよくないんじゃなかったの? ]
[ orchid : それはほら、建前ってあるじゃない? ]
[ Berenices : とりあえず死んでらー ]
[ orchid : うふふ いってらー ]
[ ポチ : みなssんのぉおぉおおお!!ばかぁああああ!! ]
[ スコル : ちょっと、だからなんだっての!? ]
とりあえずどうしよう、そうだ髪を乾かそうと大慌てでドライヤーをあてる。長く塗れた髪を包んでいたタオルは湿気と冷気を吸い込んでいて、随分と冷たくなっていた。お気に入りのオイルを塗り込みながら、ドライヤーの熱で香りを充満させていく。
待ってろって、まさかこんな時間から来るわけじゃないよね。電話だろうか、とちらりと視線を流す。携帯のディスプレイには23:11と表示されている。そろそろ寝なければ明日に支障の出る時間だ。今日は木曜日だから、来るとしても電話だろう。電話してそのまま眠れるように、就寝前の準備を彼もしているのかもしれない。
電話で何を言われるのだろう。
あんなことをニケさんに相談していたことを、咎められるのだろうか。もしくはあんな卑下するような、慰めを求めるようなことを言っていたことを罵られるだろうか。彼に秋波を送っていたと勘違いされるだろうか。あんな大事なことを他の男に相談するなんて、自分を信用していないんじゃないかと詰られるだろうか。信頼関係も築けていないのなら、丁度いい機会とばかりに別れを切り出されるだろうか。
どれも、悪いことと分かっていながら思わずにはいられなかった。ニケさんに吐き出してしまった。
どうしよう、とスッカリ乾いてしまった髪の毛に手を差し込む。ぎゅうと握りしめて、鏡を見た。
鏡の中の自分は、腐り落ちそうなほど熟した目をしている。
ピンポーン、と玄関から音が鳴った。
えっ、と。その場で飛び跳ねる。揶揄ではなく、たぶん3cmほど本当に飛び跳ねた。
恐る恐る、インターフォンに向かう。住み始めるときにオートロックのアパートでないと両親が許してくれなかったこの部屋では、エントランスに入る前の来客が確認できる。
通話ボタンを押して固まった。このまま逃げたい衝動に駆られる。
そんな、まさか。別れ話ならせめて電話で。いいや、メールだっていい。そんな。顔を見ながらなんて。そんなの無理だ。
おざなりな対応でいいのに。誠意をぶつけてくれなくていいのに。
「愛歩、迎えに来た。うちに行こう。降りてきてくれないか」
インターフォン越しの、固く冷たい音が届く。どうしよう、どうしようとぐるぐるぐるぐると頭の中で夕さんの言葉が巡る。ふんわりといい匂いが香る髪に藁のように縋りつく。
「わた、わたし、すっぴんだし、ぱじゃまだし」
「開けてくれ。」
「まだ、まだまって」
「愛歩」
待って、待ってぇえと思いながら、開錠ボタンを押した。大慌てでパジャマを脱いでクローゼットを開ける。夕さんに会うのに、適当な服なんて着られない。
ワンピースに袖を通し、タイツをひっつかむ。上はこの間買ったダウンコートにしようと頭の中で考えながら化粧ポーチに走ろうとしているところで、もう一度チャイムが鳴った。
あぁぁぁあああああああぁぁあああああああ!!!
と。
今すぐ、いまだつけっぱなしのパソコンに入力したくなった。
化粧は残念ながら諦めた。あのオフ会明けの、あの日しか見せていないすっぴんを。しかも泣いてどうしようもないほど不細工になったこの顔を、夕さんに見せるのかと思うと大層気が重い。
別れ話なんて、いつか来るってわかってた。
ただそれが、一日でも長引けばと。長くあればと。ずっとずっとそう思っていた。
「…はい」
「開けて」
ガチャリ、と無情な音がして冷たい外気がびゅんと室内に入ってきた。ドアの向こうにいた夕さんは顔も上げられなかった私の手を取って胸に埋める。夕さんのウール生地のコートが頬に痛い。
「このまま話したいけど、悪い。路肩に停めてるんだ。一度うちに行こう。明日の準備をして来てくれないか。」
意外な言葉に固まる。
そうだ私はこのアパートに駐車場を持っていない。近くにコインパーキングもないので、停める場所がないことはわかった。だけど、明日の準備というのがよくわからない。私は今日、夕さんの家に泊まるのだろうか。それほどに長い別れ話になるのだろうか。
「愛歩」
そう呼ぶ声は、何かを必死に堪えているかのように切なく私に響いた。準備をしろと言っているくせに、私の手を掴み、背中を抱えている手は緩まない。
このまま、ぎゅっと夕さんに抱き付ければ。何かが変わるのだろうか。
わからない。わからなくて、進めない。
私が一度コクリと頷いたのを感じると、ゆっくりと夕さんの手が離れる。触れられていた手は、冷え性の私よりもずっとずっと冷たかった。
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