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(92)面影
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アレイス王国の王城。
その国王であるアーガインの執務室にウルリックがいた。
「そうか、賠償金は分割で支払われるのだな。よくやった」
「いえ。すべてガイウス殿下の手柄です」
「そうか。で、奴はどうしているんだ?」
「…それが、王都に戻って来てから随分と機嫌が悪く、手が付けられない状態で…」
「今日も報告をおまえに任せて、どこぞをほっつき歩いているというわけか」
「申し訳ありません」
「この前ここへあれが乗り込んできた時には、少しは変わったと思っていたのだがな」
「…何か言っておられたのですか?」
「結婚したい娘がいるから、連れて戻ると言っていた。確かメルトアンゼル皇国の貴族の娘だとか言っていたな」
「…そうでしたか」
ウルリックは笑ったような困ったような複雑な表情をした。
「何かあったのか?」
「私にも良く分かりません。突然、人が変わったようになられて…。サラさんのことも忘れてしまっているようでした」
「サラ、というのか、その娘は」
「はい。傍から見ても呆れるほどの熱愛っぷりで、あれほど女遊びが激しかった殿下が、もう他の女には一切手を出さぬとおっしゃるほど、彼女に陶酔しておりました」
「ほう。あのガイウスがな」
「…それが、なぜか突然このようなことになってしまって、私も戸惑っているところです」
「ふむ。何か事情がありそうだな。それとも悩んでいるのか…。ウルリック、悪いがあれを見ていてやってくれないか」
「言われなくともそうするつもりです」
「そうか。助けが必要なら言ってくれ。あれには儂の轍を踏ませたくないのでな。頼んだぞ」
「心得ました」
王の間を辞して王宮の廊下を歩いていたウルリックは、通路から見える中庭に彼の主の姿を見つけた。
当然のことながら、彼は一人ではなかった。
彼の腕に抱かれているのは、赤と黒の魅惑的なドレスに身を包んだ貴婦人だった。
「あれは…バロウズ伯爵夫人」
彼らはウルリックが見ていることにも気付かず、抱き合ってキスをしていた。
王都へ戻って三日、ガイアが夜毎違う女を部屋に呼んでいるのを、ウルリックは知っている。
そしてまたこんな昼間っから、人目もはばからず女性を口説いている姿は、以前の彼に戻ってしまったかのようだと思った。
「まさかガイウス様からお誘いいただけるとは思ってもみませんでしたわ」
「どうしてそんなことを?あなたのような魅力的な女性を見て誘わない男がいるはずないだろう?」
「あら。この前お会いした時は、人妻に手を出すほど女に不自由していないとかおっしゃっていませんでした?」
「ハハ、そんなことを言ったりもしたかな」
「意中の女性がいるのではなかったの?」
「今俺の瞳に映っているのはあなただ、カルラ」
ガイアはカルラの腰を引き寄せて尻と太股を撫でまわした。
「フフッ、なんだか昔に戻ったみたい。何かありましたの?」
「いいや、俺は何も変わってなどいないさ」
彼はカルラの大きく開いたドレスの胸元に手を当てて、豊満な乳房を揉みしだいた。
「…」
カルラはガイアが自分の胸を揉み上げながら、じっと見ていることに気付いた。
「嫌ですわ。そんなに胸ばかり見つめてどうなさったんですの?」
「…いや、何か不思議なものだと思ってな。なぜこんなに大きな胸なのかと」
するとカルラは吹き出した。
「ホホホ、随分面白いことをおっしゃるのね。乳房が大きいのが好みだとおっしゃっていたじゃありませんか」
「…そうだったか?」
ガイアはカルラの胸を揉んだ自分の手を、じっと見つめた。
その手に妙な違和感を感じて、彼は首を傾げた。
「違う…」
カルラは彼の顔を覗き込んだ。
「…ガイウス様?」
「うっ」
ガイアを見つめるカルラの顔が、一瞬、別の誰かの顔に見えて、彼は戸惑った。
「何だ、今のは…」
「どうなさったんですの?」
「すまない、カルラ。また今度にしよう」
ガイアはカルラの体を押しのけるように遠ざけた。
その気になっていた彼女は機嫌を損ねたように口をへの字に曲げて、彼への不満を露わにした。
「…今度があればよろしいのだけれど」
カルラはそう言い捨てて、ツンと顎を上げてその場を去った。
完全に怒らせてしまったと、ガイアは頭を抱えた。
「俺は、どうしてしまったんだ…?」
「主」
そこへやって来たのはウルリックだった。
「ウルリック…」
「何をやっているんですか」
「…おかしいんだ」
「何がです?」
「昨夜も娼婦を呼んで、いざ事に及ぼうとすると、なぜか萎えてしまって抱けなかった」
「…そうだったんですか」
「俺好みの、胸と尻のデカい、美い女だったのに」
「勃たなかったんですか?」
ガイアは大きくため息をついて頷いた。
「こんなことは初めてだ。俺は、もしかしてもう終わりなのか…?」
男としての危機感を感じている主に、ウルリックは言った。
「たぶん、違うと思いますよ」
「違う?何がだ?」
「本能的に、拒絶しているんです」
「本能…?どういう意味だ」
「本当に忘れてしまったんですか?結婚したいと切望する程溺愛していた女性のことを。忘れていても、その女性以外は抱きたくないと、無意識に体が拒否しているのではないですか?」
「…そんなバカな。この俺が一人の女しか抱かないなど、あり得ん」
「その方と出会う前は、確かにそうでした。しかし主は、彼女以外の女はもう抱かない、いえ、抱けないと公言なさっておりました」
「この間からおまえはよくそう言っているが、俺にはさっぱり理解できん。おまけにそのことを考えようとすると酷い頭痛がする」
「痛みに抗ってでも思い出そうとはお思いにならないんですか」
「…おまえ、一回味わってみるか?吐きそうなほど痛むんだぞ!」
声を荒げるガイアに、ウルリックは冷静に言った。
「では、このままでよろしいので?」
「…いいわけあるか。女を抱こうとしても抱けないんだぞ?男としてこんな情けないことがあるか」
「先程のバロウズ伯爵夫人にも?」
「…ああ。なぜかあのデカい胸に違和感があった」
「胸の大きな女性がお好きだったのに、ですか」
ウルリックは含み笑いをしながら訊き返した。
「…気持ち悪いと思ったんだ」
「え?」
「あのデカい胸が。俺が知っている女の胸はもっとこう…手のひらにすっぽり収まるような、それでいて形が良くて感度の良い…」
ウルリックはクスッと笑った。
「サラさんはスレンダーな体型でしたからね」
「…サラ…。サラだと…?不思議と聞き覚えがあるような名だ」
「ようやく反応しましたね。私が何を言ってもずっと、覚えていない、知らない、の一点張りで、名を聞こうともしなかったのに」
「おまえが俺の知らない女の話ばかりするから、興味が湧かなかっただけだ」
ウルリックの嫌味な言い方に、ガイアは苦虫を潰したような顔で言った。
「…それに、思い出そうとすると酷く頭が痛むから、考えないようにしていたんだ。…痛っ」
「また頭痛ですか?」
「ああ、くそっ…、時々うっすらと頭をよぎることもあるんだが、肝心なことは何一つ思い出せん」
「何がよぎるんです?」
「黒い髪だ。艶やかな長い黒髪。顔はよく思い出せないが、どこか懐かしいような、良く知っているような気がする。だが、それ以上思い出そうとすると、酷い頭痛がして邪魔するんだ」
「…間違いなく、それはサラさんです。彼女は長くて美しい黒髪をしていました」
「…そうなのか?」
「まったく忘れてしまったというわけではないんですね。少し安心しました。表面的には忘れているように思えても、記憶のどこかに彼女のことが残っているのでしょうか」
「…さあな」
「それにしてもサラさんがお気の毒です。あんなに愛されていたのに、忘れられてしまったなんて知ったらさぞ悲しむでしょうね。メルトアンゼル城を出発した時、馬車から見た彼女の悲しそうな顔が忘れられません」
ウルリックはあの時を思い出して、その原因を作った張本人であるガイアにチラッと視線を送った。
その横顔は苦悶に満ちていた。
「…俺だって思い出せるものならそうしたいさ」
「サラさんに直接お会いになってみてはいかがです?」
「俺はその女を知らん。会ったところで思い出せる自信もないし、正直、俺は…怖いんだ」
「怖いですって?」
「ああ。この俺が、知らない間に出会って、そんなに愛した女がいるなんて、どうしても信じられない。話を聞いても他人事のようだ。まるでもう一人の俺がいるみたいで、その女の存在自体が信じられんのだ」
「ですが、サラさんをどうするんです?ウォルフがいるとはいえ、あの皇帝もサラさんを狙っているのに放っておくんですか?思い出してから後悔しても遅いんですよ?」
「だからって、今の俺にどうしろっていうんだ?俺は、サラなんて女は知らないんだ!」
ガイアは自分自身に苛立ったように言った。
ウルリックは肩を落とした。
「そうですか…。他のことは覚えているのに、どうしてサラさんのことだけスッポリと抜け落ちているんでしょうね?」
「それがわかれば苦労はせん。くっ…、この痛みさえなければ…」
「光魔法の治療の副作用か何かでしょうか…?」
痛みのせいで冷や汗をかいているガイアの顔を、ウルリックは心配そうに覗き込んだ。
「一度スイレン様に診てもらいますか?おそらくはもう山に戻られていると思いますので」
「スイレン…?」
ウルリックの提案に、ガイアは眉をひそめた。
そして額を押さえて、何事かをブツブツと呟き始めた。
「…待てよ…。そうだ…確かその前の晩、俺は誰かと一緒にいたはず…。くそ、思い出せん。その翌朝、なぜか俺はスイレンと一緒に居た。…俺が眠っている間にあの人が俺に何かしたのか…?」
「スイレン様が主に?何かの治療では?」
「…治療だと?いや、もしかして…」
ガイアは頭痛に苦しみながらも、突然思いついてウルリックに尋ねた。
「ウルリック、魔力測定器を持っているか?」
「えっ?はい、まだ持っていますが」
「俺の魔力を測ってくれ」
「いいですが、なぜですか?」
「俺の考えが正しければ、俺の魔力は元に戻っているはずだ」
「…どういうことです?」
「俺の記憶では、俺は異界人の女を抱いて魔力を取り込んだということになっている。抱いたという割に、その異界人が誰だったか、どんな女だったか、一切思い出せんのだ。おまえの話を聞く限り、その異界人とサラという娘は同一人物のようだが、俺にその認識はない。…どうやら俺の記憶は改ざんされているらしい」
「記憶が…変えられているんですか?」
「ああ、都合よく辻褄が合うようにな」
ウルリックは上着の内ポケットに後生大事に仕舞っていた測定器を取り出した。
ガイアはその上に手をかざした。
その数値を見た彼はため息をついた。
「…やっぱりか。俺の魔力はスイレンに取り上げられたんだ」
ウルリックはその数値を見て驚いていた。
「本当だ…。確か、以前は6800程あったはず…」
「くそっ…、まんまとやられた」
「…魔力が奪われたこととサラさんの記憶だけが失われたことと関係があるんですか?」
「ああ。スイレンは以前、俺の体から異界人の魔力が失われると、その異界人を求めて狂って死んでしまうと言った。そうさせないために俺から異界人の記憶を奪ったんだろう。魔力の主を覚えていなければ求めることもできんからな」
「なんですって…!」
「…くそっ…!どうせならもっと完璧に記憶を消去してくれれば良いものを。中途半端な術をかけるから、どこの誰だか分らん女を無意識に追い求めてしまうんだ」
「主…」
ガイアは再び頭痛に襲われ、それに耐えた。
「たぶん、俺の中にその娘の面影が残っているんだろう。だから他の女を抱くこともできないというわけだ。ハッ…!いい迷惑だ」
「待ってください。そもそもスイレン師は、一体何のためにそんなリスクを冒してまで、主からサラさんの魔力を奪ったんです?」
「知るか!そんなことは直接スイレンに会って問い詰めるしかあるまい」
「…わかりました。ではスイレン様の元へ参りましょう。すぐに準備いたします」
「…ああ、頼む。くそ、よくも俺を玩具のように扱ってくれたな…!」
怒りをにじませるガイアは、大股で中庭を出て行った。
その国王であるアーガインの執務室にウルリックがいた。
「そうか、賠償金は分割で支払われるのだな。よくやった」
「いえ。すべてガイウス殿下の手柄です」
「そうか。で、奴はどうしているんだ?」
「…それが、王都に戻って来てから随分と機嫌が悪く、手が付けられない状態で…」
「今日も報告をおまえに任せて、どこぞをほっつき歩いているというわけか」
「申し訳ありません」
「この前ここへあれが乗り込んできた時には、少しは変わったと思っていたのだがな」
「…何か言っておられたのですか?」
「結婚したい娘がいるから、連れて戻ると言っていた。確かメルトアンゼル皇国の貴族の娘だとか言っていたな」
「…そうでしたか」
ウルリックは笑ったような困ったような複雑な表情をした。
「何かあったのか?」
「私にも良く分かりません。突然、人が変わったようになられて…。サラさんのことも忘れてしまっているようでした」
「サラ、というのか、その娘は」
「はい。傍から見ても呆れるほどの熱愛っぷりで、あれほど女遊びが激しかった殿下が、もう他の女には一切手を出さぬとおっしゃるほど、彼女に陶酔しておりました」
「ほう。あのガイウスがな」
「…それが、なぜか突然このようなことになってしまって、私も戸惑っているところです」
「ふむ。何か事情がありそうだな。それとも悩んでいるのか…。ウルリック、悪いがあれを見ていてやってくれないか」
「言われなくともそうするつもりです」
「そうか。助けが必要なら言ってくれ。あれには儂の轍を踏ませたくないのでな。頼んだぞ」
「心得ました」
王の間を辞して王宮の廊下を歩いていたウルリックは、通路から見える中庭に彼の主の姿を見つけた。
当然のことながら、彼は一人ではなかった。
彼の腕に抱かれているのは、赤と黒の魅惑的なドレスに身を包んだ貴婦人だった。
「あれは…バロウズ伯爵夫人」
彼らはウルリックが見ていることにも気付かず、抱き合ってキスをしていた。
王都へ戻って三日、ガイアが夜毎違う女を部屋に呼んでいるのを、ウルリックは知っている。
そしてまたこんな昼間っから、人目もはばからず女性を口説いている姿は、以前の彼に戻ってしまったかのようだと思った。
「まさかガイウス様からお誘いいただけるとは思ってもみませんでしたわ」
「どうしてそんなことを?あなたのような魅力的な女性を見て誘わない男がいるはずないだろう?」
「あら。この前お会いした時は、人妻に手を出すほど女に不自由していないとかおっしゃっていませんでした?」
「ハハ、そんなことを言ったりもしたかな」
「意中の女性がいるのではなかったの?」
「今俺の瞳に映っているのはあなただ、カルラ」
ガイアはカルラの腰を引き寄せて尻と太股を撫でまわした。
「フフッ、なんだか昔に戻ったみたい。何かありましたの?」
「いいや、俺は何も変わってなどいないさ」
彼はカルラの大きく開いたドレスの胸元に手を当てて、豊満な乳房を揉みしだいた。
「…」
カルラはガイアが自分の胸を揉み上げながら、じっと見ていることに気付いた。
「嫌ですわ。そんなに胸ばかり見つめてどうなさったんですの?」
「…いや、何か不思議なものだと思ってな。なぜこんなに大きな胸なのかと」
するとカルラは吹き出した。
「ホホホ、随分面白いことをおっしゃるのね。乳房が大きいのが好みだとおっしゃっていたじゃありませんか」
「…そうだったか?」
ガイアはカルラの胸を揉んだ自分の手を、じっと見つめた。
その手に妙な違和感を感じて、彼は首を傾げた。
「違う…」
カルラは彼の顔を覗き込んだ。
「…ガイウス様?」
「うっ」
ガイアを見つめるカルラの顔が、一瞬、別の誰かの顔に見えて、彼は戸惑った。
「何だ、今のは…」
「どうなさったんですの?」
「すまない、カルラ。また今度にしよう」
ガイアはカルラの体を押しのけるように遠ざけた。
その気になっていた彼女は機嫌を損ねたように口をへの字に曲げて、彼への不満を露わにした。
「…今度があればよろしいのだけれど」
カルラはそう言い捨てて、ツンと顎を上げてその場を去った。
完全に怒らせてしまったと、ガイアは頭を抱えた。
「俺は、どうしてしまったんだ…?」
「主」
そこへやって来たのはウルリックだった。
「ウルリック…」
「何をやっているんですか」
「…おかしいんだ」
「何がです?」
「昨夜も娼婦を呼んで、いざ事に及ぼうとすると、なぜか萎えてしまって抱けなかった」
「…そうだったんですか」
「俺好みの、胸と尻のデカい、美い女だったのに」
「勃たなかったんですか?」
ガイアは大きくため息をついて頷いた。
「こんなことは初めてだ。俺は、もしかしてもう終わりなのか…?」
男としての危機感を感じている主に、ウルリックは言った。
「たぶん、違うと思いますよ」
「違う?何がだ?」
「本能的に、拒絶しているんです」
「本能…?どういう意味だ」
「本当に忘れてしまったんですか?結婚したいと切望する程溺愛していた女性のことを。忘れていても、その女性以外は抱きたくないと、無意識に体が拒否しているのではないですか?」
「…そんなバカな。この俺が一人の女しか抱かないなど、あり得ん」
「その方と出会う前は、確かにそうでした。しかし主は、彼女以外の女はもう抱かない、いえ、抱けないと公言なさっておりました」
「この間からおまえはよくそう言っているが、俺にはさっぱり理解できん。おまけにそのことを考えようとすると酷い頭痛がする」
「痛みに抗ってでも思い出そうとはお思いにならないんですか」
「…おまえ、一回味わってみるか?吐きそうなほど痛むんだぞ!」
声を荒げるガイアに、ウルリックは冷静に言った。
「では、このままでよろしいので?」
「…いいわけあるか。女を抱こうとしても抱けないんだぞ?男としてこんな情けないことがあるか」
「先程のバロウズ伯爵夫人にも?」
「…ああ。なぜかあのデカい胸に違和感があった」
「胸の大きな女性がお好きだったのに、ですか」
ウルリックは含み笑いをしながら訊き返した。
「…気持ち悪いと思ったんだ」
「え?」
「あのデカい胸が。俺が知っている女の胸はもっとこう…手のひらにすっぽり収まるような、それでいて形が良くて感度の良い…」
ウルリックはクスッと笑った。
「サラさんはスレンダーな体型でしたからね」
「…サラ…。サラだと…?不思議と聞き覚えがあるような名だ」
「ようやく反応しましたね。私が何を言ってもずっと、覚えていない、知らない、の一点張りで、名を聞こうともしなかったのに」
「おまえが俺の知らない女の話ばかりするから、興味が湧かなかっただけだ」
ウルリックの嫌味な言い方に、ガイアは苦虫を潰したような顔で言った。
「…それに、思い出そうとすると酷く頭が痛むから、考えないようにしていたんだ。…痛っ」
「また頭痛ですか?」
「ああ、くそっ…、時々うっすらと頭をよぎることもあるんだが、肝心なことは何一つ思い出せん」
「何がよぎるんです?」
「黒い髪だ。艶やかな長い黒髪。顔はよく思い出せないが、どこか懐かしいような、良く知っているような気がする。だが、それ以上思い出そうとすると、酷い頭痛がして邪魔するんだ」
「…間違いなく、それはサラさんです。彼女は長くて美しい黒髪をしていました」
「…そうなのか?」
「まったく忘れてしまったというわけではないんですね。少し安心しました。表面的には忘れているように思えても、記憶のどこかに彼女のことが残っているのでしょうか」
「…さあな」
「それにしてもサラさんがお気の毒です。あんなに愛されていたのに、忘れられてしまったなんて知ったらさぞ悲しむでしょうね。メルトアンゼル城を出発した時、馬車から見た彼女の悲しそうな顔が忘れられません」
ウルリックはあの時を思い出して、その原因を作った張本人であるガイアにチラッと視線を送った。
その横顔は苦悶に満ちていた。
「…俺だって思い出せるものならそうしたいさ」
「サラさんに直接お会いになってみてはいかがです?」
「俺はその女を知らん。会ったところで思い出せる自信もないし、正直、俺は…怖いんだ」
「怖いですって?」
「ああ。この俺が、知らない間に出会って、そんなに愛した女がいるなんて、どうしても信じられない。話を聞いても他人事のようだ。まるでもう一人の俺がいるみたいで、その女の存在自体が信じられんのだ」
「ですが、サラさんをどうするんです?ウォルフがいるとはいえ、あの皇帝もサラさんを狙っているのに放っておくんですか?思い出してから後悔しても遅いんですよ?」
「だからって、今の俺にどうしろっていうんだ?俺は、サラなんて女は知らないんだ!」
ガイアは自分自身に苛立ったように言った。
ウルリックは肩を落とした。
「そうですか…。他のことは覚えているのに、どうしてサラさんのことだけスッポリと抜け落ちているんでしょうね?」
「それがわかれば苦労はせん。くっ…、この痛みさえなければ…」
「光魔法の治療の副作用か何かでしょうか…?」
痛みのせいで冷や汗をかいているガイアの顔を、ウルリックは心配そうに覗き込んだ。
「一度スイレン様に診てもらいますか?おそらくはもう山に戻られていると思いますので」
「スイレン…?」
ウルリックの提案に、ガイアは眉をひそめた。
そして額を押さえて、何事かをブツブツと呟き始めた。
「…待てよ…。そうだ…確かその前の晩、俺は誰かと一緒にいたはず…。くそ、思い出せん。その翌朝、なぜか俺はスイレンと一緒に居た。…俺が眠っている間にあの人が俺に何かしたのか…?」
「スイレン様が主に?何かの治療では?」
「…治療だと?いや、もしかして…」
ガイアは頭痛に苦しみながらも、突然思いついてウルリックに尋ねた。
「ウルリック、魔力測定器を持っているか?」
「えっ?はい、まだ持っていますが」
「俺の魔力を測ってくれ」
「いいですが、なぜですか?」
「俺の考えが正しければ、俺の魔力は元に戻っているはずだ」
「…どういうことです?」
「俺の記憶では、俺は異界人の女を抱いて魔力を取り込んだということになっている。抱いたという割に、その異界人が誰だったか、どんな女だったか、一切思い出せんのだ。おまえの話を聞く限り、その異界人とサラという娘は同一人物のようだが、俺にその認識はない。…どうやら俺の記憶は改ざんされているらしい」
「記憶が…変えられているんですか?」
「ああ、都合よく辻褄が合うようにな」
ウルリックは上着の内ポケットに後生大事に仕舞っていた測定器を取り出した。
ガイアはその上に手をかざした。
その数値を見た彼はため息をついた。
「…やっぱりか。俺の魔力はスイレンに取り上げられたんだ」
ウルリックはその数値を見て驚いていた。
「本当だ…。確か、以前は6800程あったはず…」
「くそっ…、まんまとやられた」
「…魔力が奪われたこととサラさんの記憶だけが失われたことと関係があるんですか?」
「ああ。スイレンは以前、俺の体から異界人の魔力が失われると、その異界人を求めて狂って死んでしまうと言った。そうさせないために俺から異界人の記憶を奪ったんだろう。魔力の主を覚えていなければ求めることもできんからな」
「なんですって…!」
「…くそっ…!どうせならもっと完璧に記憶を消去してくれれば良いものを。中途半端な術をかけるから、どこの誰だか分らん女を無意識に追い求めてしまうんだ」
「主…」
ガイアは再び頭痛に襲われ、それに耐えた。
「たぶん、俺の中にその娘の面影が残っているんだろう。だから他の女を抱くこともできないというわけだ。ハッ…!いい迷惑だ」
「待ってください。そもそもスイレン師は、一体何のためにそんなリスクを冒してまで、主からサラさんの魔力を奪ったんです?」
「知るか!そんなことは直接スイレンに会って問い詰めるしかあるまい」
「…わかりました。ではスイレン様の元へ参りましょう。すぐに準備いたします」
「…ああ、頼む。くそ、よくも俺を玩具のように扱ってくれたな…!」
怒りをにじませるガイアは、大股で中庭を出て行った。
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殿下にはほとほと愛想も尽きましたから。もういいです。
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田舎貴族の学園無双~普通にしてるだけなのに、次々と慕われることに~
おとら@ 書籍発売中
ファンタジー
田舎貴族であるユウマ-バルムンクは、十五歳を迎え王都にある貴族学校に通うことになった。
最強の師匠達に鍛えられ、田舎から出てきた彼は知らない。
自分の力が、王都にいる同世代の中で抜きん出ていることを。
そして、その価値観がずれているということも。
これは自分にとって普通の行動をしているのに、いつの間にかモテモテになったり、次々と降りかかる問題を平和?的に解決していく少年の学園無双物語である。
※ 極端なざまぁや寝取られはなしてす。
基本ほのぼのやラブコメ、時に戦闘などをします。
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