A bruise left by Kiss

ROKI

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drop kiss

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「……また来たのか…飽きないな」

  明け方近く路地に隠れたBARの扉を開けるなり、薄暗い店内のカウンターから呆れた物言いが聞こえてくる。
いつものやり取りは毎回ここから始まる。

「そりゃ何度でも来るさ」

 冷めた表情の彼に苦笑しながらカウンター越しの真ん前に座る。
今日はシンク回りに並んだグラスの数が多い。
丁寧にグラスを磨く彼の手元を見ているのがとても好きだ。

「……酒は出さない…車だろう」

 こんな言いぐさのバーテンダーがいるか、とツッコミを入れたくなりつつ、律儀にもチャームを出してくる事に笑ってしまった。

「別に飲みに来ている訳じゃないってことはいつも分かってるだろう?」

 彼とのからかい混じりのこのやり取りがとても好きだ。
小気味いい冗談の掛け合いに終始ニヤけてしまう。

 このBARはとっくに閉店している。
けれど、明け方近くの来訪者のためにバーテンダーが帰るその瞬間までいつも表の扉は施錠されない。CLOSEの看板が下がった扉が外から開かれるのを彼は明け方まで待っているのだ。

「……なら何しに来た」

「つれないな」

 チャームのナッツを齧りながらカウンターの中へ紛れ込む。棚にグラスを片付ける彼の背後に立つと早速腰を捕まえる。

一路いちろ、帰ろう」

 さほど身長差のない彼の身体を抱きすくめると、彼の髪の香りが感じられる。片付けの妨げになるのかあからさまに不満気な顔をする一路の額にAidanエイデンは自らの額を重ねる。

「……また派手にシャツに口紅を付けられてきたな…売れっ子ホスト」

 襟を指で弾きながら一路が皮肉を吐き出す。

「口紅じゃないよ」

「…………分かってる、言うな」

 最後のグラスを棚に戻すとAidanの手を邪魔そうにしながら一路はエプロンを外した。

「いちいち絡むな…鬱陶しい…」

 Aidanが食べたチャームの皿まで片付けを終え、帰り支度を始める一路にしつこくついて回るAidanを心底うざったそうにかわしながら、一路の手によってようやくBARの表の扉が施錠される。

 逃げるようにして足早に裏口に向かう一路をAidanが追い掛ける。裏口の扉の鍵を閉めるのはいつもAidanの仕事だった。

「今日もお疲れ様」

「……少しは自分の店の経営くらい真面目にやったほうがいいんじゃないのか、オーナー殿…」

「一路の方がセンスがいいし、何でも出来るだろ?俺の名義でいいから、一路が好きなようにやっていい。この店は一路のものだって言っただろう?」

 すっかり呆れた一路の溜息が白く浮かび上がる。冷えきった外の空気に鼻の先がすぐ痛くなる。

「……好き放題やって責任はとらなくていいなんざ、そんな上手い話があるか…お前は馬鹿か…」

「一路の事なら俺が許すよ。とにかく早く帰ろう、今日は特に冷え込むから君の体に悪い」

 BARのすぐそばに停めた車は既にスターターでエンジンが掛けられていてすっかり暖まっている。Aidanは甲斐甲斐しく一路を助手席に乗せると早速帰路を走り出した。

「食事はどうする?」

 しばらく走った所でAidanが尋ねる。
ぼんやりと外を眺めていた一路が時計を確認する。

「……昨日の残りがある、それでいい」

「薬は?まだ足りてる?」

「…あぁ、来週分まである」

 生活感丸出しの会話を交わしながらマンションに到着する。
自宅付近に戻ってくると気が抜けたのか一路があくびをする。
とにかく外気に当てたくない様子のAidanがそんな一路をグイグイとマンションの中に押し込んでいく。1階の奥にある部屋が二人の自宅だった。仕事帰りにAidanは一路を迎えに行くのが日課なのだ。



 すっかりAidanに囲われる生活になってしまった一路は、体を患っていた。生まれつき心臓が悪く、そのケアにかかる薬代を稼ぐためにあちこちの職場を転々としていた。体調との兼ね合いがあるために安定した職に就くことが一路には難しかったのだ。

 一路が成人する三年前に父親が一路と同じく患っていた心臓が原因で亡くなり、母もまた一路が独り立ちして間もなく突然の病で急死してしまった。代々心臓に難を抱える家系のためかその後身寄りがないままに一路は暮らしていた。両親はこうなることを予期していたようにして一路を育てた。一人になっても暮らす事に困らぬようにと…。


 細々と暮らしていた一路に転機が訪れたのは、酷い発作を起こした日の事だった。
その日はクリスマスイブだった。
街はクリスマスを楽しむ多くの人々と、客をかき入れようと活気付く店々とでひどく賑わっていて目まぐるしい夜だった。
一路はとあるレストランの裏方として働いていたが、稼ぎ時の猛烈な忙しさに無理が祟った。クタクタになった体に刺さるような寒さ。どっとのしかかる疲労感と解放された気の緩み。
 それまでの時間体が悲鳴を上げないほうが不思議だったのだ。
ノロノロと歩いていた帰り道、突然のひどい発作で一路はその場に膝をついた。
苦しさと痛みと衝撃とで震える手で薬を探す。呪わしい体。
こんなことは一度や二度じゃない。けれど、何度この苦痛を味わっても決して慣れることはない。病が憎らしくて悔しい。辛い。
やっと見つけた薬を口に入れ飲み下しながら一路は涙を零した。
心臓の発作と共に心も荒れる。思う通りに行かない体に抑えきれない感情がせめぎ合う。そんな自分が情けなくて泣けてしまう。
 こんなところで一人で何をしているのか、疎外感と孤独が、置かれた現状に伴って一路の心のざわめきを煽る。なかなか胸の痛みが治まらず焦りと動揺が悪循環を引き起こす。心も心臓も暴れはじめたら止まらない。


 不意に一路の体が浮いた。驚く事にすら胸が痛い。
路上に蹲る男を何の躊躇いもなく抱き上げたのはAidanだった。
少し離れたところで自分の客の帰りを見送りながらAidanは一路の様子を一部始終窺っていた。人懐こい性格のAidanは一路の事を特に詮索することもなく、当たり前のように店の事務所に担ぎこむと、一路の容体が落ち着くまで手厚く介抱した。どこかで聞いたことがあるようなありがちな出会いだった。

 Aidanという男は気さくな欧米人そのままだ。ルックスと中身が分かりやすく合致する。欧米人特有の堀の深い整った顔立ちに、気取らず好奇心旺盛でポジティブな性格のこの男は、口も上手く何をしても立ち振る舞いがキマってしまう。プラスの要素に恵まれた存在であり、当たり前のように誰をも魅了する。きっと誰も疑いもしないだろう、この男に濃い影がある事など。


 一路は先日の介抱の礼にとAidanの店を訪れていた。裏口から通されたが、なかなか姿を見せないAidanに仕事の邪魔をしてはならぬと菓子折りを置いて一路はすぐさま帰ることにした。再び裏口を潜り抜け通りの方に目をやるも、裏口の奥の店の裏手でAidanの声が微かに聞こえてくる。
 一言お礼を、一路はそう考えてしまった。店の影の通路を奥に進むと、Aidanは女を壁に押し付けていた。睦事の最中のように見えたが女の様子がおかしい。目が離せずに凝視すると、Aidanが女の首に喰らいついているのが分かった。
ズッと吸い上げる音が微かに聞こえる。悪ふざけではないようで、Aidanはその体勢のまま動かずに視線だけを向けてくる。
真っ赤な瞳が一路を射抜く。一路は呆然としていた。
思いもよらぬ光景に圧倒されていたのは確かだったが、不思議と動揺はしなかった。非現実的な物事だというのに一路の思考は冷めていた。この男らしい裏の顔だ、と冷静に感じていた。

「……邪魔をしてすまない…先日の礼をしに来た…それだけだ」

 淡々と告げる一路の様子にAidanの方が焦っていた。気配のない一路に油断しきっていた。まさかこんな場面を目撃されるとは、人の世に紛れて生きるAidanにとっては致命的なことだった。踵を返す一路にすかさず立ち塞がる。支えを失った女がそのまま壁から崩れ落ちるのを放ったままに。

「アンタ、俺らみたいなのを知ってるの?」

「……なんの事だ?」

 とぼけているのか本当に何も知らないのか、一路の心は全く読めない。迷惑そうに顔を顰める男をAidanは攫った。


 軟禁したのは一週間。その期間の間に二人は馬鹿正直に話し合いをした。初めの三日間は、拉致された事に終始一路が怒り心頭で、だんまりを決め込んでしまい何の話も出来なかった。四日目からようやく互いの素性を語りはじめ、一週間かけてやっと和解した。


 Aidanは正真正銘のヴァンパイアだった。しかし、Aidanは生みの親に捨てられ、人に育てられた。ヴァンパイアとしての特性は薄く、時折血を欲するだけの底辺な存在だ、と本人は語った。
彼を養子として引き取り育てた両親は、彼の性質に理解を持ち、愛情深く育てた。それ故に彼は人の世で暮らすことを選んだのだった。然し、決して綺麗な生き方ではない。
 ターゲットを酒で酔わせ、更にヴァンパイアの唾液が及ぼす催淫効果を利用して、深く傷付けることなく惑わしたまま血を吸う。そんなやり方で安全に糧を得るために、Aidanはホストとなった。不容易に誰かを傷つけ殺した事など無い。

 Aidanの身の上話を聞いている間も一路は落ち着いていて、Aidanは一路がヴァンパイア側の世界を知る者なのではないかと疑い恐れていた。人の世に居続けたいAidanにとって、厄介な事に巻き込まれて今の暮らしが壊れることが何より怖かった。
しかし、それは一路も同じ。一路は初めからどこにもリークする気などない。ただ静かに、平穏に暮らしていたいだけだった。互いの思惑がようやく通じ安堵する頃に、Aidanは何故一路がこれほど、どんな物事にでも冷めているのかを理解した。


 一路はきっと短命なのだ。
人より命の限りが短い一路にとって、世の移ろいや変化、奇想天外さは鮮やかなものではないのだろう。何にも期待していない。
終える事だけを見ている、Aidanにはそんなふうに思えた。達観する、という事はどう抗っても絶望的な事もあると悟ってしまっているという事かもしれない。誰にも言えない諦めの中に静かに身をおいている、一路はそんな男だった。



 Aidanはその日から一路を手放さなくなった。
強引ながらに監視下に置いた。素性をバラされることよりも、自分よりも遥かに儚い命を持つ一路を放って置けなくなった。

 たかだか一週間を共にしただけで 暮らしを抱きこまれる一路にとっては迷惑極まりなかったが、仕事に住居にと宛てがわれては抗うことも面倒になってしまった。何より身の安全という保障が一番大きかった。相手は信用ならないヴァンパイアだ。離れても側にいてもどちらも危険でしかない。ならばせめて気が楽そうな方を選ぶしかない…。
 こうして一路はAidanに雇われ、BARを経営する事になり、監視されるために同じ家に住むことになった。


何不自由ない生活
思いの外、気が合う同居人


 気が利くAidanに労られ、いたれりつくせりの状況に一路は逆に悩んでいた。Aidanに甘え過ぎている、と。
 そしてAidanもまた、付かず離れずながら何でもこなし、さり気なく尽くす一路の存在に、添う時間が増える程に惹かれずには居られなくなっていた。



 絆されたのはどちらからか分からない。
口が悪く素っ気ない一路の本心は未だに読めない。
口八丁手八丁のAidanは飄々とし過ぎて真意が見えない。
だと言うのに1年目のクリスマスには床を共にしていた。
甘え上手のAidanのせいなのか、無頓着に許した一路のせいなのか、未だに決着はつかない。




「一路、薬、忘れないで」

「……分かってる…」

 Aidanが昨夜の残りのシチューを温めている間に一路はソファでウトウトしていた。もう出会ってから三年目の冬だった。ここ最近、Aidanは特に一路の体調管理に余念が無い。ダイニングテーブルに向かい合わせに座りながら、構いたがりのAidanがシチューを食べる一路の髪に触れる。

「また白髪。君本当に20代か?」

「……煩い…」

 煩わしそうに一路がAidanの手を払う。食事を終え一路が大量の薬を飲み終えるまでAidanはそんなふうにからかいながら見守る。




「………キスは出来ないんじゃなかったのか…」

 一路を構い倒しながら二人で風呂に入り床に就く。
この上なく幸せな時間に思わずボーダーラインを超えそうになってしまう。Aidanは一路の発した一言にハッとして顔を離した。

「……別にどうなったっていい…したいならすらばいい…」

 一路は笑いながら言う。

「ダメだ、一路。それだけは…」

 代わりに額に口付けながらAidanは表情が険しくなる。
Aidanは自らのヴァンパイアの体液が一路に交わるのを恐れていた。健康な人間でも惑わす強い作用があるのだ。心臓の悪い一路となるとどうなるか計り知れない。どんなに愛し合っていても超えてはいけない一線が一路とAidanにはあった。

「君の心臓が治ったら嫌と言うほどするよ。キス耐久マラソンに参加するくらいにね」

「……アホか…」

 あしらいながらも一路はAidanに体を許す。
心臓に負担をかけないようにとゆるゆるとAidanは一路に触れる。暗がりの中にいると赤さを増すAidanの美しい瞳が一路は好きだった。篭っていく熱に浮かされながら見上げるその瞳は一層綺麗に揺れて愛しく感じた。触れたくて伸ばした手を大きな手が重なってエスコートする。熱い頬に触れるとじんわりと胸が熱くなってくる。いつ終わりが来てもおかしくない、常にそんな瀬戸際に苛まれている。けれど、今なら終えたとしても悔いは無いだろう…。幸せな人生だったと言える、一路はそんな気持ちになっていた。



「……先に出るぞ」

 身支度を終えた一路が未だベッドの中にいるAidanに声を掛けた。夕方に差し掛かる少し前にはいつも一路は出勤する。今日は酒屋が店に配達に来る日で少し早めに家を出ねばならない日だった。寝ぼけ眼のまま玄関まで見送りに出るAidanに一路は苦笑した。

「寝癖、相当ひどいぞ…」

 笑いを誤魔化すようにしてそのまま、すっとマンションを後にしていった。

この時何故もっと早く起きなかったのか、何故この日は車で送らなかったのか…。

 Aidanはこの後永遠に続く終わりのない後悔に陥る事を知らなかった。





 次にAidanが一路の姿を見たのは集中治療室のガラス越しだった。凍結した路面でスリップした車が、玉突き事故の連鎖の末に大通りの歩道に突っ込み、何人をも巻き込んだ悲惨な事故が起きたのだと、出掛けにテレビの緊急速報で知った。

 まさか一路が巻き込まれているとは思いもよらず、Aidanはいつも通りに店に出勤していた。異変に気づいたのは夜中になってからだった。一路のスマートフォンにいくら連絡しても応答はなかった。何度も何度もかけ続けた末に、ようやく応答があったが、それは一路自身ではなかった…。

 駆けつけた病院で事情を知り、やっと再会を果たした一路の姿を見て、Aidanは絶望に満ちた。ベッドに横たわる姿が、本当に一路だったのかどうか判断がつかないほど変わり果てており、ごちゃごちゃとしたチューブやコードがあちこちを覆いつくしている。生命維持装置から発せられる電子音は不規則で、呼吸すら補助があって辛うじて繰り返されてるものだと分かってしまう。これまでも紙一重だった一路の命は遂に途切れようとしてる。

 三年もの月日はAidanの執着を募らせるのに十分過ぎる程の期間だった。病によって一路を失いたくなくて日々足掻いていた事が激しくAidanの脳裏をかけめぐる。弱々しい一路の心臓がやがて止まるのだとしても、もっと緩やかに命を終えるのだとばかり思っていた。なのにこんなに突然、呆気無く失ってしまうものなのか…。

 悲しみなのか辛さなのか悔しさなのかAidanには分からなかった。ただ止めどなく涙が溢れてくる。自分がどう感じているのか理解出来無い。漠然とした思考が広がるばかりだった。

 気が付くと、Aidanは隔てられていたはずのガラスをすり抜けて一路のすぐ側に佇んでいた。ギリギリと無意識に唇を噛み締めている。薄っすらと切れた唇から、細く一筋血が溢れた。
 Aidanは一路の酸素マスクを外し、色のない唇に自らの唇を重ねる。これまで決して交わすことの無かった口づけを今、交わす。滲むAidanの血液で一路の唇が赤く染まる。堪えることの出来ない感情を込めて、Aidanは一路に貪るようなキスを繰り返す。

 やがて、Aidanは一路をベッドから引き剥がすと、大事そうに抱えたまま暗がりへと消えていった…。

drop kiss END
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