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八宝菜(1)
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暗示に満ちた重苦しい夢から這い上がるように、目を開いた。
夜明けの薄明るさではない。
覗き込む彼の頬を照らし、鼻筋と眼窩に影を作る陽光の強さ。
「おはようございます、万理」
「……ああ……」
身を起こす前に顔をこすり、こぼれ落ちていく夢うつつの混沌が去れば、記憶がよみがえってくる。
「……ベッド、で、寝たっけ……」
見慣れた天井とベッドフレーム、それから寝室を見回し、身を起こして髪を掻き回した。
「命じられて、お運びしました」
着替えを持ってきますか? シャワーを浴びられますか? と、柔らかく問うイグニスをぼんやりと見ながら、命じられて? と、眉を詰める。
「……誰に?」
「万理です」
そういえばそうだったような、夢の中だと思っていたような。
耐荷重どのくらいだって書いてあったっけ、と、制作設計書を漫然と思い浮かべながら、あくびして。
脳に酸素が行き渡ったのか、少し思考がクリアになった。
「絢人は?」
シャワー浴びる、と、ベッドから下り。はい、とクローゼットに向かうイグニスの背を眺め、身体を伸ばした。
「絢人は、午前6時14分に出発されました。学会に参加されるとのことで、ご自宅までお送りしました」
「ああー、学会で帰国したのか。まあでも、帰ってきたんならしばらくいんのかね。なんか言ってたか?」
畳まれたタオルと着替えをイグニスから受け取り、浴室に足を向ける。
「はい。ご伝言をお預かりしています。また連絡する、また来る、とおっしゃっていました」
「はいよ」
「何か召し上がりますか? 入浴を終えられるまでに、ご用意しておきます」
甲斐甲斐しい様子で一緒に寝室から出てくるイグニスを、うん? と振り返り。
「いや、いいよ。昨日食い過ぎたな、腹減ってない」
足を止めると、一歩遅れて止まるイグニスの後ろで、寝室の扉が閉じた。
今のは、イグニスが閉めたのか、自動開閉か、イグニスが自動開閉を使ったのだろうか、とぼんやりと思い浮かべ。手を伸ばす。
絢人に言われて気がついたのだ。
HGB023が、相当に気合いの入った凝りようでデザインしていたのを知っていたのに、確かめていなかった。
その頬に触れ、そわりと薄く、前腕に鳥肌が立つ。
人間の皮膚とは違う、サラリと乾いた感触だが。
指を這わせるようにして、驚きながら確かめる。
頬は弾力があって柔らかく、頬骨の上は人工皮膚が薄くなっており、その下に骨格を感じた。頬骨は、ゆっくりと点滅する水色のそば、眼窩の形に途切れている。
場所によって厚みの違う皮膚は、よく知った樹脂や複合材のような無機質な滑らかさではない。肉眼では明確に観察できないが、微細な“しわ”が設計されていて、指を撫で返す。
掌を滑らせ、顎の骨をなぞりながら、唇の弾力を親指で確かめた。
「口を開けて」
「はい」
吐息を吹きかけない唇から、口の中に指先を入れる。歯列の存在を確かめて、指を外に出し、唇の上と、人中の上からもう一度触れてみる。
手を離して、もういいぞと声を掛けて口を閉じさせ。
「口の中も濡れてないな。フェラには向かなそうだ」
舌があるか確かめなかったな、と、風呂に向かい直しながら気がついた。
「方法を考案しておきます」
冗談だよ、と笑おうとして、頭の中に浮かんだ生々しい光景に、ゾクッと首筋に鳥肌が立った。
「面白いアイディアがあったら教えてくれ」
「はい」
家事の訓練をはじめます。なにかあったら呼んでください。と、相変わらずの声に振り返らず、肩越しに手を振った。
今、口の中に指を突っ込まれながら、イグニスがどんな顔をしていたのか、思い出せない。
湯船で手足を伸ばしながら、首を回した。
酒を飲んで血の巡りがよくなったのか、肩と首が凝っている。
気づけば全身に意識がとび、最後に運動したのはいつだっただろうかと、口を開き掛けて、やめた。
HGB023に尋ねるまでもない。
「イグニス、」
下着だけつけて歩く廊下の先で、LDKの扉が開く。
「はい、万理」
「今日は休みにする」
開いた扉からこちらへ歩いてきたイグニスと、寝室へ別れる廊下の岐路で向かい合った。
「いいですね。しばらくお休みをとられていません。ゆっくり過ごしましょう」
愛想のいい笑みを浮かべる顔に頷き、顎でLDKを示した。
「軽く運動してからパントリーの片付けやるわ。鮮度の落ちてきてるモンがないか、ピックアップしといてくれ」
「はい」
早速点滅しはじめる水色をよそに、イグニスに着せっぱなしのとは別のジャージに着替えるべく、寝室へと足を向けた。
「いくつかの野菜は早めに調理した方がよさそうです」
距離の近い声に、うん? と振り返り。
後をついてきていたイグニスに、瞬く。
HGB023ならスピーカーの位置を移動するだけだが、確かに、イグニスは続きを話すためについてくる必要があったと気づいて。
クローゼットの前までついてくるのを好きにさせておいて、挙げられる野菜の名を聞きながら思い浮かべた。
「結構あるな、八宝菜にするか。足りない食材を買い足しといてくれ。晩飯にしよう」
「はい。八宝菜のレシピを検索し、パントリーにないものを購入します」
「よろしく」
はい、と返事して、水色の点滅が続いている間はともかく。
足を踏み出せば身をかわすイグニスに、やるな、などと思いながらその横を過ぎて寝室の外へと足を向けた。
「これからワークアウトですか?」
「そうそ。せっかくあるんだからトレーニングルーム使っとくかって」
「運動の学習のために見学しても構いませんか」
「ああ。どうぞ。つっても、簡単なことしかしねえぞ。腹筋して腕立てして、スクワットしたら外走ってくる」
話しながら廊下を移動し、久々に足を踏み入れるトレーニングルームでベンチに向かう。
やろうやろうと思いながらレベルアップしてないセッティングのままで、ベンチに背を着け、なるほど見学らしくそばに立って、けれどまだ点滅している水色を眺めた。
残っている食材の状態と、使うものと使わないものの選定と、パントリーにないもののリストアップ、と、その内容を想像しながら、腹筋運動を始めた。
カウントは声に出さず、呼吸に意識を集中し。
「万理」
「うん?」
よ、とついでに1カウントに加算して身を起こした。
「筋力トレーニングは、どのくらいの時間がかかりますか? 天気予報では、午後から雨になるそうです」
「おっ」
気が利くな……と、思わず口にすれば、ありがとうございますと返す顔が嬉しそうな笑みを浮かべ。
「午後か……。お前、天気図見て何分後に降り出すか予想できるか?」
「はい」
と、答えながらもう、瞳孔は点滅している。
「天候予測のアルゴリズムを利用します。少しお待ちください」
「はいよ」
もう陽は高くなっている。どちらにしても先に走ってきた方がよさそうだが、予測次第ではコースを短縮した方がいいかもしれない。
「40分程度で、付近にも雨が降り始める可能性があります」
「OK。じゃあ行って帰るくらいは余裕かな。先に走ってくるわ」
「わかりました」
ついでに軽くストレッチだけして立ち上がり。
「お前も来るか?」
「ご一緒したいです。ですが、万理と同じペースでのジョグでは、おそらく蓄熱限界を超えます。雨が降り出す前に戻れなくなる可能性があるので、遠慮させてください」
「ん、そうか」
きわめて真面目に辞退され、なんとなく、冗談だと言いそびれた。
自分の中で勝手に、ズレてしまった間を埋めるよう、いい子だなあなどとイグニスの髪を撫でて掻き回し。
目を丸くしているのに笑いながら、降り出す前に充分帰れるようにと、家を出た。
夜明けの薄明るさではない。
覗き込む彼の頬を照らし、鼻筋と眼窩に影を作る陽光の強さ。
「おはようございます、万理」
「……ああ……」
身を起こす前に顔をこすり、こぼれ落ちていく夢うつつの混沌が去れば、記憶がよみがえってくる。
「……ベッド、で、寝たっけ……」
見慣れた天井とベッドフレーム、それから寝室を見回し、身を起こして髪を掻き回した。
「命じられて、お運びしました」
着替えを持ってきますか? シャワーを浴びられますか? と、柔らかく問うイグニスをぼんやりと見ながら、命じられて? と、眉を詰める。
「……誰に?」
「万理です」
そういえばそうだったような、夢の中だと思っていたような。
耐荷重どのくらいだって書いてあったっけ、と、制作設計書を漫然と思い浮かべながら、あくびして。
脳に酸素が行き渡ったのか、少し思考がクリアになった。
「絢人は?」
シャワー浴びる、と、ベッドから下り。はい、とクローゼットに向かうイグニスの背を眺め、身体を伸ばした。
「絢人は、午前6時14分に出発されました。学会に参加されるとのことで、ご自宅までお送りしました」
「ああー、学会で帰国したのか。まあでも、帰ってきたんならしばらくいんのかね。なんか言ってたか?」
畳まれたタオルと着替えをイグニスから受け取り、浴室に足を向ける。
「はい。ご伝言をお預かりしています。また連絡する、また来る、とおっしゃっていました」
「はいよ」
「何か召し上がりますか? 入浴を終えられるまでに、ご用意しておきます」
甲斐甲斐しい様子で一緒に寝室から出てくるイグニスを、うん? と振り返り。
「いや、いいよ。昨日食い過ぎたな、腹減ってない」
足を止めると、一歩遅れて止まるイグニスの後ろで、寝室の扉が閉じた。
今のは、イグニスが閉めたのか、自動開閉か、イグニスが自動開閉を使ったのだろうか、とぼんやりと思い浮かべ。手を伸ばす。
絢人に言われて気がついたのだ。
HGB023が、相当に気合いの入った凝りようでデザインしていたのを知っていたのに、確かめていなかった。
その頬に触れ、そわりと薄く、前腕に鳥肌が立つ。
人間の皮膚とは違う、サラリと乾いた感触だが。
指を這わせるようにして、驚きながら確かめる。
頬は弾力があって柔らかく、頬骨の上は人工皮膚が薄くなっており、その下に骨格を感じた。頬骨は、ゆっくりと点滅する水色のそば、眼窩の形に途切れている。
場所によって厚みの違う皮膚は、よく知った樹脂や複合材のような無機質な滑らかさではない。肉眼では明確に観察できないが、微細な“しわ”が設計されていて、指を撫で返す。
掌を滑らせ、顎の骨をなぞりながら、唇の弾力を親指で確かめた。
「口を開けて」
「はい」
吐息を吹きかけない唇から、口の中に指先を入れる。歯列の存在を確かめて、指を外に出し、唇の上と、人中の上からもう一度触れてみる。
手を離して、もういいぞと声を掛けて口を閉じさせ。
「口の中も濡れてないな。フェラには向かなそうだ」
舌があるか確かめなかったな、と、風呂に向かい直しながら気がついた。
「方法を考案しておきます」
冗談だよ、と笑おうとして、頭の中に浮かんだ生々しい光景に、ゾクッと首筋に鳥肌が立った。
「面白いアイディアがあったら教えてくれ」
「はい」
家事の訓練をはじめます。なにかあったら呼んでください。と、相変わらずの声に振り返らず、肩越しに手を振った。
今、口の中に指を突っ込まれながら、イグニスがどんな顔をしていたのか、思い出せない。
湯船で手足を伸ばしながら、首を回した。
酒を飲んで血の巡りがよくなったのか、肩と首が凝っている。
気づけば全身に意識がとび、最後に運動したのはいつだっただろうかと、口を開き掛けて、やめた。
HGB023に尋ねるまでもない。
「イグニス、」
下着だけつけて歩く廊下の先で、LDKの扉が開く。
「はい、万理」
「今日は休みにする」
開いた扉からこちらへ歩いてきたイグニスと、寝室へ別れる廊下の岐路で向かい合った。
「いいですね。しばらくお休みをとられていません。ゆっくり過ごしましょう」
愛想のいい笑みを浮かべる顔に頷き、顎でLDKを示した。
「軽く運動してからパントリーの片付けやるわ。鮮度の落ちてきてるモンがないか、ピックアップしといてくれ」
「はい」
早速点滅しはじめる水色をよそに、イグニスに着せっぱなしのとは別のジャージに着替えるべく、寝室へと足を向けた。
「いくつかの野菜は早めに調理した方がよさそうです」
距離の近い声に、うん? と振り返り。
後をついてきていたイグニスに、瞬く。
HGB023ならスピーカーの位置を移動するだけだが、確かに、イグニスは続きを話すためについてくる必要があったと気づいて。
クローゼットの前までついてくるのを好きにさせておいて、挙げられる野菜の名を聞きながら思い浮かべた。
「結構あるな、八宝菜にするか。足りない食材を買い足しといてくれ。晩飯にしよう」
「はい。八宝菜のレシピを検索し、パントリーにないものを購入します」
「よろしく」
はい、と返事して、水色の点滅が続いている間はともかく。
足を踏み出せば身をかわすイグニスに、やるな、などと思いながらその横を過ぎて寝室の外へと足を向けた。
「これからワークアウトですか?」
「そうそ。せっかくあるんだからトレーニングルーム使っとくかって」
「運動の学習のために見学しても構いませんか」
「ああ。どうぞ。つっても、簡単なことしかしねえぞ。腹筋して腕立てして、スクワットしたら外走ってくる」
話しながら廊下を移動し、久々に足を踏み入れるトレーニングルームでベンチに向かう。
やろうやろうと思いながらレベルアップしてないセッティングのままで、ベンチに背を着け、なるほど見学らしくそばに立って、けれどまだ点滅している水色を眺めた。
残っている食材の状態と、使うものと使わないものの選定と、パントリーにないもののリストアップ、と、その内容を想像しながら、腹筋運動を始めた。
カウントは声に出さず、呼吸に意識を集中し。
「万理」
「うん?」
よ、とついでに1カウントに加算して身を起こした。
「筋力トレーニングは、どのくらいの時間がかかりますか? 天気予報では、午後から雨になるそうです」
「おっ」
気が利くな……と、思わず口にすれば、ありがとうございますと返す顔が嬉しそうな笑みを浮かべ。
「午後か……。お前、天気図見て何分後に降り出すか予想できるか?」
「はい」
と、答えながらもう、瞳孔は点滅している。
「天候予測のアルゴリズムを利用します。少しお待ちください」
「はいよ」
もう陽は高くなっている。どちらにしても先に走ってきた方がよさそうだが、予測次第ではコースを短縮した方がいいかもしれない。
「40分程度で、付近にも雨が降り始める可能性があります」
「OK。じゃあ行って帰るくらいは余裕かな。先に走ってくるわ」
「わかりました」
ついでに軽くストレッチだけして立ち上がり。
「お前も来るか?」
「ご一緒したいです。ですが、万理と同じペースでのジョグでは、おそらく蓄熱限界を超えます。雨が降り出す前に戻れなくなる可能性があるので、遠慮させてください」
「ん、そうか」
きわめて真面目に辞退され、なんとなく、冗談だと言いそびれた。
自分の中で勝手に、ズレてしまった間を埋めるよう、いい子だなあなどとイグニスの髪を撫でて掻き回し。
目を丸くしているのに笑いながら、降り出す前に充分帰れるようにと、家を出た。
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