この奇妙なる虜

種田遠雷

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20、獣食った報い

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 砦と森の境にいくつか転がる岩のひとつに腰掛け、少し手元が暗くなったのに気付いて、読んでいた本から顔を上げる。
 今は大分整い始めてはいても人手が足りないらしく、朝に家の外に出れば何かしら手伝えることがあり、なければ勝手に厩舎の世話をしていれば暇が埋まる。大人しくしていると見られていれば隙はあるだろう、と、間を見つけて鍛錬の時間も組み入れるようにし始めた。
 夜になればアギレオに抱かれ、積み上げては崩れる何かを、欠片からまた拾い集めて積み直すような、どこか遠くで淀む混迷と、それを洗って流れるような平穏がある。
 砦の向こうの森に沈んでいく入り日が空の色を変え、移ろわせ、境目は溶けていつの間にか紫紺に沈んでいく。
 アギレオが戻ってくる前に身を清めておきたい。
 風呂の使い方も教わったが、砦に流れる川は水源に近いらしく澄んでいて、どちらかといえば自分にはそちらの方が合う。
 濡らしてはいけないから一度本を置いて、水浴びして、夕食は今日はいいかと、頭に浮かべながら短い家路を歩いた。

 身の上に覆い被さって陰を成す混色の瞳が、笑うのを見る。
 相変わらず忌々しい口を利きたがるのを手で塞いで、手を退けて唇で封をしておく。擦り合わせる肌の間にサラサラと砂を崩すような音がする錯覚も、互いの汗が混じり始めればどろりとぬるく溶けて熱に滲んでいく。
 甘やかな愚弄を許して受け入れ、招き入れすらして。
 最後にはもう笑っておらず、それでもこちらに焦点を合わせてくる混色の瞳を見上げ。異国の色をしている、と、思いながら目を閉じた。

 先にアギレオが起きて衣服を着けているらしい気配に、うとうとしながら、寝坊してしまったなと大した悔いもなく思い浮かべ。
 アギレオが立てる足音の荒々しさに不意に意識は急激に覚醒し、ハルカレンディアはガバと身を起こした。
 駆けていったといって過言ではない気配と、たった今乱暴に閉じられた玄関の方を見て、耳を澄ます。家々がそれほど近くないここでは、砦の中で交わされる声も明らかには捉えられず、それでも、幾人かが声を張っているのが判る。
 衣服を身に着けて家を後にし、何人かが出入りしているのを見つけて、食堂へと足を早める。
「アギレオ、」
 珍しく、長いローブで身を隠し、その上に顔を隠すようにフードを被りながら、こちらを振り返るアギレオに、顔を合わせざまに舌打ちされて、眉を上げる。
「いいか、ウロウロすんじゃねえ。そこで大人しくしてろ」
「何かあったのか」
 同じような格好をした二人を連れて慌ただしく向けられる背に掛ける声を、再びの「大人しくしてろ」で切り捨てられ、少し突っ立ちになる。
 辺りを見回せば、もう夜も明けきっているのに獣人達の姿も幾らか見え、這い上がるざわつきは、胸騒ぎを越えている。
 食堂から出てきたナハトが腰に剣を下げているのを見て、足早に近寄り。
「何があったんだ?」
 表情はなく鋭いだけだった顔に、こちらに気づけば途端に性悪そうな笑みを浮かべ、ニィッと口角を引き上げナハトが笑う。
「なぁんてことねぇさぁぁ。鬼に食われにきた間抜けがいたんだよぉ。ハルはアギレオに配置ぃ聞いたかぁ?」
 陽の光の下で見るせいなのか、黒瞳は鋭い。その言いように反して胸騒ぎを欠片もなだめぬナハトの顔を、思わず食い入るように見つめる。
「…大人しくしていろと」
「そうかぁ。――なら、大人しくしてな」
 アギレオと同じように背を向けられて、立ち尽くす。何も、おかしくはないと思えるのに、違和感が拭えない。けれどその正体は、すぐに明らかになった。
 あの夜に名前を聞きそびれ、後から山犬の獣人だと知った三人がそれぞれ武器を手にしてナハトに駆け寄り、どうするのか、待機だよぉなどと言い合う端に、エルフが、と誰かが言ったのが妙にくっきりと耳に飛び込んでくる。
 注目していたことをはっきりと隠すつもりで背けた顔の視界の端、一瞬の入れ違いに、ナハトがこちらを確認したのが見えて、予感は確信に変わる。
 愚鈍に誰彼聞き回ろうとするように装い、隙を見て食堂へと足を踏み入れる。アギレオも、顔は見なかったがそれに伴ったリーもローブの下に隠してはいたが、ナハトも山犬達も、武器を持って食堂から出てきた。恐らくそういうことだ、と、当たりをつけて探すものも、すぐに見つかる。
 食料庫の奥が武器庫になっており、刀剣や弓、戦斧、それ以外にも様々な武器が予想よりも丁寧に保管されている。
 何をどうしようというのか、どうするべきか、自問と自答を繰り返して己を研ぎ澄ませていく。成したいことは何か、最低限の目的は何か、避けられない事態に対応はできるのか。
 武器庫にあったローブで身を覆い、布を巻いて鼻から下を隠した上で、深くフードを被り十分に顔を隠す。
 耳をそばだてて物音のないのを確かめてから、食堂の扉を開き、身を滑らせるように間口を潜って、
「ハル、どこへ行くの」
 厳しい声に咎められて、歯噛みしながら足を止める。
 身体ごと振り返り、短剣を両脇に下げたルーに向き合い、口許を覆う布を毟るように下げる。
「クリッペンヴァルト軍が現れたんだろう? 私に無関係なことではない」
「行かせられないわ。解るでしょう」
「砦に害のあるようなことはしない。逃げる気もない。ついてきて、疑わしければその場で喉を裂いてくれてもいい」
「アギレオとリーが砦を離れている間、私がここを動くわけにはいかないの」
 ああ、と。その理由が理解できる。それと同時にふと、まるで変わりないよう各々の仕事に取りかかり始め、或いはただ立ち話をしている人間達まで、誰ひとり残らず武器を帯びているのが視界に入る。
「ただ動くなというだけではなくて、私は、あなたにもここにいて欲しいと考えてるわ」
「……。残る者が多くはないか。アギレオとリーの腕が立つのは分かるが…」
 口に出してみて、自分が何を案じているのか、その一端に気づく。頷くルーに、大きく息を吸って吐いて、胸を緩める。
「交戦に行ったのではないの。エルフ達が峠を越えた辺りで、恐らく、買い出しから戻ってくる子たちとぶつかってしまう。戦いを避けるために行ったのよ」
「だが、……。だが、ルー…」
 知らず、視線が下がってしまう。
「あまりいい状況ではない。私が行って何ができるとも限らないが、少なくとも、私が行ったせいで悪事を招くような真似はしない。だから、」
 ハアー…、と、大きなため息が聞こえて、顔を上げる。天を仰ぐルーの顔にはいつもの微笑みは勿論なく、狼らしい淡々とした貫禄だけがある。琥珀の瞳をじっと据えられ、唇を引き結ぶ。
「……。分かったわ。もしもこの判断が過ちだったなら、私がアギレオに斬られましょう」
「! そんなことにはさせない。……ありがとう」
「行きなさい。エルフ達はあなた達の時と逆方向に峠を通るはずよ」
「ありがとう…! ありがとう、ルー。必ず、ここに戻ってくる…!」
 そう願うわ、と、送る声を背に、枷に戒められ重い足を運んで駆け出した。

 遅かったか、と、ほとんど口先から響かせぬようなリーの歯噛みする声に、アギレオとフードの下の目線を交わして、リーが先に立ち、アギレオがその後に控える。
 騎馬のまま人間達を取り囲むエルフ軍に、フードで顔を隠した三人が聞こえるように足音を立てて歩み寄り。
 既に崖道を抜け開けた道で、ハルカレンディア達がやってきたのと同じような人数と構成のエルフの騎馬軍は、充分に広がって道を塞ぎ、エルフらしく極めて整った陣形でそれぞれに控えている。
「おい。デカイのがごちゃごちゃ道を塞ぐなよ、エルフ。うちのやつらが帰れないだろう」
 リーの投げかけた声に応じるよう、馬を下ろさせた人間達に詰め寄るようにしていた一人が馬の鼻先を変え、ザッと道を開くエルフ達の間から出てくる。砂避けのフードを取り、金の髪を垂らした顔をさらしても下馬はしない、彼らの指揮官だろうエルフを見て、リーがあからさまに肩を竦める。
「お前がこの者達の長か? ただ尋ねごとをしていただけなのだが、何故か一言も喋らなくてな。こちらとしても困っていたところだ」
「人に道を尋ねるのなら、せめて馬から降りたらどうだ? 迷子のエルフ?」
 当て擦りのように言って顎をしゃくるリーに、相手にせぬよう指揮官はフと淡く鼻で笑う。
「その必要はない。尋ねたいのは道ではなく、それほど長い話でもないのだ」
「エルフは礼儀正しいと聞いていたんだがな」
 再び肩を竦めるリーの仕草に、指揮官の顔から笑みが消える。
「…返答によっては、馬に乗り直す必要があるかもしれぬ」
「なにがだ」
 間を置かぬよう問いが返り、馬上では一瞬の沈黙の後、その唇が開かれる。
「お前達はこの近くに住む者か?」
「ああ」
「何者だ」
「獣人だよ」
「…なるほど、それで付近には住処が見えぬか…。正確には、お前達のねぐらはどこになる」
「獣人が隠してる縄張りを教えると思うのか?」
 腕組みし不遜な態度を崩さぬリーに、やれやれとばかり指揮官は頭を振る。
「いいだろう。他のことを問おう」
 まだあるのか、うんざりだと言わんばかりに、フードで顔が見えぬままでも分かるほど大きく息をつく。
「先頃、数週間ほど前になるか。私達と同じようなエルフがここを通らなかったか」
「知らん」
「……。隠し立てすれば身のためにならんぞ」
「知らんものを他にどう答えればいい」
「辻褄が合わぬことがあるのだ」
 首を捻ってみせるリーに、エルフの指揮官は少し思案の間を置いてから、口を開く。
「こちらのエルフと、谷のエルフが共に幾人も戦って死んだ。報告に間違いはないだろう、境の森には谷のエルフらしき痕跡が見つかった」
 だが、と、言葉を切り、フードの下に隠した顔を見抜きでもするよう、指揮官は視線を据える。
「我が軍の痕跡がないのだ」
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