星に牙、魔に祈り

種田遠雷

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47、本能の主

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 アマランタ自身は、早速また身を低くして同じ薬草を探しているようで、ならうようにして辺りの草を掻き分ける。
 先祖返りというのはね、と、話し始めるアマランタから、あまり離れぬように気をつけながら下に目を落として。
「大きな怪我や病気をした男がごくまれにかかることがあるの」
 ああ、と、思わず声を上げ、思い当たることがある、と相槌を打つ。
「狼や犬の発情に似ているというので、先祖返りと呼ぶのだけど。どうしてか、自分でもコントロールできないほど強い性衝動に駆られることと、…あれはなんというのかしらね“逃がすまいとして”と言われてるけど、女の方に逃げる気もそぶりもなくてもやっぱり、牙が食い込むほど強く噛みついてしまうのが、共通ね」
 これが少なくとも前代未聞で未知の異常ではないと明かされることに、思いがけず深く深く安堵が落ちて。そうか、と、頷きながら息を抜いた。
「男達はみんな力が強いから、残念なことだけど、我を忘れて妻や恋人を殺してしまうことがあってね」
 アマランタの静かな声に、何故だか、目の奥が痺れるような感覚を覚えて。耳を傾けながら、教えられたのと同じ薬草を、ようやく見つけて茎からむしり。
「でも、ヴァルグの男達は、自分の妻や恋人をとても大事にしているの。…先祖返りがつらい結果を招いてしまった後は、それはひどいものよ。後を追ってしまったものさえいると聞いたことがあるわ」
 具体的には表現されない悲劇の救われなさに、ゾクリと背筋が震えた。
 そろそろいいかしら、と、声を掛けられ、自分の採集したわずかな分の薬草を見せ、差し出される手に渡して。一度戻りましょうと、促される声の後につく。
「陽が落ちちゃうわね。嫌でなければ、山を下りるのは夜が明けてからの方がいいわ」
 天幕で夜露をしのぎましょう、と招いてもらうのに、さすがにそれは、と辞退して。
「女性と二人で小さな天幕の中、夜を過ごすのはあまりにも申し訳ない。野営には慣れているから、ご心配なく」
 雨よけの布をお貸しするわ、という申し出はありがたく受け、何やら火をおこして調理の仕度をしているらしい彼女をあれこれと手伝い。
「理不尽な“先祖返り”に、失わなくてもよかったはずの男や女を奪われていたのは、古い話よ。よく効く薬があるの。こんな遠いところにも同じ薬草があるのね、って、先日ちょうど見つけたところだったのよ」
 さすがエルフは祝福されてるわね、と向けられる笑みに、目を瞠って、短い間言葉を失う。
 ありがとうございます、と、つい何度も繰り返して、今度は笑われるのに、浮つく心を抑えるように唇を結んで、アマランタが火にくべる小さなカップを見守る。
 薬草を煮出し、彼女が作ってくれたのは香油こうゆだった。
 先祖返りにかかった男を落ち着かせる効果があるもので、身近に置いたり男が身につけたりしてもいいが、男の相手の方が腰回りに少しつけておくのが、一番よく効くとされているそうだ。
 お前の匂いが、と、アギレオが言ったのを思い出し、きっと実際の事象に基づいた知恵なのだろうと深く感心する。
 そうして、アマランタが香油を作り、今後のためにと、親切にもその手順を記してくれるのを待ちながら、アマランタの生まれた氏族や、境の森の砦の話をし合って時を過ごし。
 教えられた先祖返りについて考える内に小さく湧いたひとつの考えが、おやすみなさいと告げてアマランタと離れた後に、次第に大きくなって。
 夜の間中気に掛かったそれが、いつの間にか落ちた眠りから目を覚ますと、小さく柔らかく、けれど少しヒリつくような悲しみに形を変えていた。
「それじゃあ気をつけて」
「あなたも、アマランタ。近くに来たら、ぜひ砦を訪れて欲しい」
 ぜひそうしましょうと、快い返答を聞き、返そうとした踵が、突っかかって。
 ためらう己に何度か瞬いた、ヴァルグの植物学者の笑みは優しく、もう少し残った躊躇を噛み殺して、口を開く。
「――大きな怪我や病気の後に起きる、獣の発情に似た症状。押さえがたい性欲……。この指し示すところは、生物学的には繁殖行動だ。…先祖返りにかかる男は、子を成したいのだろうか…」
 そうね、と、穏やかに頷いて手を伸ばされ、それを見守る。
 首元を彼女が触る仕草に、ああと気づく。襟の内側を埋めていたスカーフが、高原の強い風で解けかけたのを、整えてくれているのだろう。
「私も、多分そういうことだと思うわ。でもね、ハルカレンディア」
 丁寧に名を呼ばれ、ああ、ではなく、思わずはいと答えてしまう。
「繁殖行動だと単純にみるなら、相手を噛み殺してしまっては意味がないじゃない。肉体の声がたいてい大事なことを訴えているのは認めるけど、振り回されて現実を傷つけないようにしたいわ。私たちは――私たちヒトだけが、本能のしもべじゃなく、そのあるじになれるんだから」
 自然に寄り添う植物学の手練れが、自然ではなく理性をと解く言葉に、素直に感銘を受け。
 そうして、エルフでありながら、間違いなく自分よりも年の若い他種族に理性を説かれたことに、己の未熟さを思い知って。
 胸のつかえが取れたような思いに、頬が緩む。
「そのヴァルグの、本能ではなく、心に聞いてみたらいいんじゃないかしら。…きっとね」
「はい…」
 噛み締めるように頷き、もう一度別れを告げて踵を返して。
 馬に乗って山を下りながらようやく、彼女が、“ヴァルグの男の相手”は自分だと気づいていたのではないかと思い当たり、赤面する。
 アギレオとのことを説明する自分への答えとして、アマランタは彼女や女性ではなく“相手”と言っていたように思え。
 解けたスカーフの下の傷が見えたら、もちろんアマランタには、それがヴァルグの牙の跡だと分かっただろう。何よりも、最後に与えてくれた助言の、あの言い方は。
 頭にぐるぐると渦巻く羞恥は、気づかれていたということもそうだが、これほど親切にものを教えてくれた彼女に、つまらない隠し立てをしてしまったことの方が重い。
 額を擦って髪を掻くだけでは飽き足らず、時折こらえきれず唸りながら、麓の村を目指すこととなった。

 麓の村で、山にいるのは鬼女ではなく植物学者だ、生活を助ける立派な薬師だと、人間達が納得するまで何度でも惜しまず語り。
 では薬を作ってもらえるとでも言うのか、と訝るのに、薬師にそうするように丁寧に頼めば、きっと相談に乗ってくれると請け負う。
 渋々という顔でひとまずは収めてくれた村人達と、アマランタの間に間違いが起こらぬようにと、これは王都に戻ってから、グレアディルによくよく頼んでおいて。
 砦への決まった報酬と、マゴルヒアが用意してくれた見舞いを受け取る前にと、思い出して、装飾や細工を扱うエルフの元へ立ち寄った。
 隠しから小さな布をくるんだものを取り出し、それを解いてみせれば、目を丸くされ。
「…これは…獣の牙ですか? 狼のものにも似ていますが…」
「もしかしたら、狼の血を引いているかもしれないな」
 アマランタに聞いたばかりの話を思い出し、思わず頬を緩める。では犬?と問われるのに、いいや、と思わず笑ってしまう。
「これを、身につけるようにできるだろうか」
 ううん、と細工師が口元を覆って唸るのに、難しいのだろうかと首をひねり。
「どのようにも出来ますが…。どのようにしますか?」
 顔を上げた細工師と目が合い、何か言いよどむような様子に、なんだろうと少し考え。すぐに、ああ、と思い当たって。
「獣の身体の一部を見えるところにぶら下げておくのは、悪趣味だろうか」
 はい感心しません、と、深く頷かれて、少し笑ってしまう。
 戦利品だとしても、装飾としても、他者の身体の一部を身につけるというのは、確かにエルフらしくない。そうではないのだが、と思いながらも、だが人が見ればそう思うだろうと考え及んで。
「では、首から下げられるようになら? それなら、衣服の下にしておくことができる」
「そうですね…それなら…」
 請け負ってくれた細工師に、4本全て首飾りにするのか、1本だけでいいが、残りも保存ができるようにして欲しい、などと、処理を決めて全ての牙を渡し。
 細工師の元を後にしながら、アギレオが知ったらどんな顔をするだろうかと、少しいたずらするような気持ちで笑ってしまう。
 そうして、その他にも雑事を済ませ、あれやこれやと受け取り、愛馬を伴って。
 王都を背にし、砦へ戻る道を揚々と歩ませた。

 短くはない砦への道を、愛馬のスリオンと黙々と歩み。
 もう境の森が見えてくる頃だと顔を上げて、少し考える。
 頭の中に近辺の地形を思い浮かべ、しばらくうろうろと探して、水量のある川を見つけた。
 衣服を脱いでたっぷりの水で身を清め、騎馬の旅路で強張った身体を伸ばして寛げる。やっと家に、アギレオのところに戻れる、と深く胸を緩めた。
 きっと大丈夫だと思いながら、香油が上手くいかなかったらどうしようかと、小さな不安にため息をついたりして。
 胸元に揺れる牙を手に取り、少し眺めて。確かに、何か野蛮なことや残酷なことのように見えるのに、ひとり笑ってしまう。
 実際、生えてきたとはいえ、歯を折るなど残酷で野蛮なことだ。可哀想に、と、思いながらも、尖った牙で唇を掻いて遊べば、不思議な楽しさがある。
 むごい目に遭ったアギレオの牙を、黙って持ち帰り、黙って身につけているごく複雑な、言葉にするのが難しいような想い。
 人を想う心を持てば、ただ美しいばかりではなくて。
 傷をつけぬよう歯を立てずに唇に咥えて、そろりと舌を忍ばせ、硬く滑らかな曲線をなぞる。
 疼く脚の間に手を伸ばし、戯れのようにごく軽く、薄く、手と肌を遊ばせて。
「っ、」
 少し離れたところで、スリオンが川の水を飲んでいるのに気づいて、慌てて手を離す。
 跳び上がりそうになった己を笑いながら、水から上がって身体を拭った。
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