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第四章・戊辰大乱

第60話 赤報隊と高松隊(八)

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 久しぶりに視点を中山道へと戻したい。
 一月二十五日に鵜沼から馬をすっ飛ばして京都へ戻った相楽総三は、新政府への東進許可の嘆願もそこそこにすぐまた東へ折り返し、二十八日には大久手へ戻って一番隊と合流した。
 京都で誰と会って何を話したのか、史料が残ってないのでよく分からない。が、どう考えても相楽の主張が受け入れられるはずもなく、新政府への嘆願もさっさとあきらめて、
「誠心誠意、二度も新政府へ直接足を運んでお願いしたのですから、きっと私の活動を認めていただけますよね」
 といったふうに情状酌量を得るための実績作り、として戻ったようなものだった。
 相楽の熱意はまったく衰えていない。断然、東進するつもりでいる。
 信州で平田門人の仲間を集め、そのあと信州を横断して碓氷峠を押さえる。
 そこから先は自分もよく知る北関東だ。そこで幕府に不満を抱く人々をかき集め、一気に南下して江戸城を落とし、それから横浜を焼き払う。
 救国の一策、これ以外になし!
 これさえ達成できれば、そのあと自分がどうなろうと構わない。
 この一念である。

 綾小路がいなくなり「赤報隊」の名前も消えた。
 相楽が率いてきた「赤報隊・一番隊」は、これより「嚮導きょうどう隊」と名乗ることになった。
 嚮導とは「先に立って案内する」という意味で、この場合、先導役、露払い役とでもいったところだ。
 皮肉なことに「相楽総三の赤報隊」と一般的に呼ばれているのは、この「嚮導隊」のことを指しているのだが、さすがにこんな難しい言葉が一般に流布るふするとは思えない。今後もこの隊はずっと「赤報隊」と呼ばれつづけることだろう。

 翌二十九日、相楽たち嚮導隊は中山道を東進して中津川宿に入った。
 中津川は北に木曽川が流れ、東に木曽十一宿と呼ばれる木曽谷を控えており、物資や情報が集積するこのあたりでは中心的な宿場町である。
 このとき相楽が率いていた人数についてはハッキリとしたことは分からない。おそらく百五十人ぐらいであったろう。このあと信州で人員を募集して多くの信州人が駆けつけ、最終的には二百から三百ぐらいの人数になったと思われる。軍勢は大砲を数門ばかり運んできている。
 総帥の相楽に次ぐ大監察の役には科野しなの東一郎という男が就いている。信州上田出身。といっても武士だったわけではない。商人の息子である。赤報隊は草莽の寄せ集めであったから総帥の相楽でさえ郷士に毛が生えたような身分であったし、副長的な立場にある科野でさえ根は商人だ。他は推して知るべし、といったところだろう。科野は薩摩藩邸の頃からの同志で、翔鳳丸にも同船してここまで相楽に付き合ってきた。また彼の義弟(妻の弟)の丸山梅夫も監察兼使番つかいばんという幹部役に就いている。丸山は出流山組の生き残りである。
 他に監察役に竹貫三郎、金原忠蔵という人物がおり、さらに羽田で上陸したのち上方へやって来た渋谷総司、神田みなとなども使番として幹部の末席にいる。神田は八王子から逃げ帰ってきた甲府勤番の息子だ。

 このころ相楽は隊の規律を引き締めている。
 水野一家や滋野井隊の不始末によって赤報隊の悪い噂が広まっていたことに加えて、赤報隊を真似まねた偽者があちこちで「悪事」をはたらいていた。前年暮れに相楽たちが江戸で「悪事」をやっていた時もそうだったように、単なる金目当ての者もいれば、相楽たちの評判を落とそうとして赤報隊の名をかたった連中もいた。
「新政府が相楽の評判を落とそうとしてワザとやったのだ」
 と見る向きも一部にはあるようだが、これから民衆の支持を得ようとしている新政府がわざわざ治安を悪化させるといったバカな真似はすまい。そんな回りくどいことをするぐらいなら直接相楽を処断すれば済む話だ。相楽の評判を落としたい連中といえば、おそらく「年貢半減」の波及を恐れた諸藩の連中が一番疑わしい。
 そこで相楽は道すがらの村々で、
「赤報隊の名をかたって悪事をはたらく者がいたら竹槍で突き殺しても構わない」
 と布告を出し、隊内にも、以前定めた軍規よりさらに厳しい軍規を制定した。違反者は入牢、放逐、重い場合は切腹、打ち首と明記して「百姓町民を大事にしなければならない」ということを隊士たちに厳しく徹底させた。
 そして相楽が強調してきた「年貢半減」も、以前通り近隣の村々に布告しつづけている。

 翌二月一日(旧暦の小の月は二十九日が晦日みそか(月末)となる)、名古屋から綾小路が送った「帰京命令」がようやく相楽のもとへ届いた。
 しかしやはり、相楽はその命令に耳を貸さず、とりあえず科野を京都の新政府へ送って弁明させることにした。
 こうしてみると相楽は一見頑固な姿勢ではあるものの、まめに弁明はしているのだ。自分が二度京都へ説明に行き、使者も二度京都へ送っている。
 ただし理由はよく分からないが、科野はそのあと相楽のところへ戻って来なかった。

 そして翌日、相楽たちは中津川を出発して木曽路へ入っていった。
 次の落合宿を過ぎて、さらに次の馬籠まごめ宿も過ぎ、その次の妻籠つまご宿との中間にある橋場村でこの日は泊まった。あららぎ川を越えたところにあり、ここから伊那いなだにの飯田へ向かう清内路せいないじが分岐している。相楽たちは木曽福島などがある木曽路を通らず、飯田へ出てから伊那路いなじを北上するつもりだ。
 飯田には幕末屈指の女丈夫、松尾多勢子たせこがいる。豪農に嫁いで三男四女を生み育て、すでに家宰かさいを長男の嫁に譲って隠居の身だ。女性の歳を言うのもなんだが当年とって五十八。庄屋の家で育ったため教養が高く、和歌を得意としており、のちに平田国学も学んだ。それゆえ相楽とは同門の友人である。文久のころに上京して勤王活動に奔走。その当時蟄居ちっきょ中だった岩倉具視にも近づいて彼を支援した。「岩倉の周旋婆」「飯田のうたみ婆さん」として若い志士たちから母のように慕われた存在である。相楽も当然、彼女と再会するつもりであった。

 以前少し触れたように、相楽がこの日とおった馬籠宿は島崎藤村の生まれ故郷で、かつ小説『夜明け前』の舞台である。藤村が生まれるのはこの四年後のことだ。
「木曾路はすべて山の中である」
 という冒頭の書き出しで有名な『夜明け前』は、平田門人の主人公・青山半蔵が維新前後に馬籠宿で苦悩する物語で、半蔵のモデルは藤村の父・島崎正樹である。それゆえ馬籠だけに限らず、妻籠、中津川、飯田、木曽福島といったこの周辺の地名がたびたび物語の中に出てくる。
 幕末の中山道における三大事件を挙げるとすれば、和宮降嫁こうか、天狗党の乱、そしてこの相楽総三の赤報隊、ということになろう。むろん『夜明け前』の中でもこれらの事件については詳しく描かれている。
 幕末の中山道のイメージはどうも、暗い。
 それはおそらく天狗党と相楽総三の悲惨な末路が影響しているのだろう。そして和宮降嫁も、一見おめでたい話のように見えるが婚約を取り消されて無理やり降嫁させられた和宮の苦痛、さらにこの降嫁の道中、『夜明け前』にも描かれているように行列が通るときに様々な混乱があり、役人が地元民に金をせびっていったとか行き倒れの死傷者が続出するなど、負の側面もけっして小さくなかった。
 中山道六十九次は、馬籠から木曽福島などの木曽十一宿を通って下諏訪へ出るのが本来のルートである。ただし清内路・飯田・伊那路という東寄りのルートでも下諏訪とつながっている。天狗党や相楽たちは飯田を経由して、和宮は木曽福島を経由していった。
「木曽のかけはし、太田の渡し、碓氷峠がなくばよい」
 という中山道の難所を示す有名なうたい文句がある。『夜明け前』の冒頭でも「木曾路はすべて山の中である。あるところはそばづたいに行く崖の道であり(中略)名高いかけはしも、つたのかずらを頼みにしたような危い場所ではなくなって」とつづく。うたい文句にある「木曽のかけはし」の難所とは「この名高いかけはし」のことを指しており、上松あげまつ宿と木曽福島宿の中間にある。断崖絶壁の桟道さんどうというと三国志に出てくる「蜀の桟道」のようなものを思い浮かべてしまうが、この当時の「木曽のかけはし」がどのようなものであったのかは広重と渓斎けいさい英泉えいせんが描いた『木曽街道六十九次』にも描かれていないので、よく分からない。相楽が飯田へ向かったのは、これを避けたのか、あるいは単に多勢子と会いたかっただけなのか、それもよく分からない。

 二日後、相楽は飯田に入って多勢子の家を訪れた。が、多勢子は相楽とすれ違いで京都へ行っていて留守だった。
 仕方がないので、とにかく飯田でも同志を募って嚮導きょうどう隊へ参加させた。その中には多勢子の松尾家からも何人か入隊者があった。この信州には平田門人が多くいるため、道中、数十人の門人が参加してきた。ただし相楽の急進的な行動を危険視し、また「赤報隊の悪評」を忌み嫌って参加を見送る者も少なからずいた。そうやって見送った者の中には、のちに岩倉具定が率いる正規軍が来たときに協力を申し出た人々もいる。なかなかの慧眼けいがんである。
 相楽からすると、全体的に、思ったよりも隊への参加者が少ないように感じられた。
 もっと多くの人が集まってくるのではないか?と思っていたのだ。
 参加者が少ない原因は、この数日前に高松隊がここを通って行ったため、御一新の勢いに乗って一旗あげてやろう、などと思っていた連中の多くは高松隊が連れて行ってしまった、と道中の村人たちから聞かされた。
 相楽としては、まったく割を食ってしまうかたちとなった。

 それから相楽たちは伊那路を北上して三日後、すなわち二月七日、下諏訪宿に着いた。
 下諏訪宿は諏訪湖の北岸にある。ここが、これから長らく相楽たちの拠点となる。
 この諏訪地方を領有しているのは諏訪高島藩である。三十年ほど前、この物語の第一話で紹介した「郡内騒動」があった際、ここから一揆鎮圧のために藩兵が甲州へ送られた。
 というのは、ここから南東へ甲州街道が走っており、武田信玄の息子勝頼が若いころ諏訪を地元としていたように、諏訪と甲州は深い関係で結ばれている。
 そして実は相楽より二日早く、高松隊がこの下諏訪を通過して甲州へ向かっていた。さらにその先遣隊として一仙が甲州へ先乗りし、このころ既に甲州へ入っている。
 一方、北東の和田峠を越えると次の中山道の宿場となる和田宿があり、さらに進むと小諸・佐久地方へ出て、そこから先が追分おいわけ、軽井沢、そして碓氷うすい峠となる。相楽の目的地である。
 二月七日というとちょうど諏訪湖名物「御神おみわたり」の時期だな、と一見連想するかも知れない。現代のような温暖化が進んでいない当時は、きっと見事に御神渡りの跡が残っていただろう、と。この少し南にある諏訪大社の上社から男の神が諏訪湖の氷面ひょうめんを通って、相楽たちがいる下社の女神のところへ会いに来た。その軌跡が御神渡りである。と、純粋に夢想できた当時の信心深い人々は、心豊かな幸せ者である。
 ただし、この二月七日は旧暦なので新暦(現代の暦)に直すと二月二十九日だ。おそらくちょうど御神渡りも解けて見えなくなっていた頃だろう。この頃は、まだまだ寒い日がつづいているとはいえ「春遠からず」といった雨水うすいの節気である。
 また、その諏訪大社の下社と上社には合計四つのやしろがあり、それぞれが四本の御柱おんばしらによって囲まれているため合計十六本の御柱が立っている。それらの御柱を数え年で七年目ごと(つまり六年ごと。具体的にはとら年とさる年)に立て直すのが有名な「御柱おんばしら祭」である。千二百年以上の伝統がある。
 相楽はその下社秋宮のすぐ脇にある本陣亀屋に泊まっている。後年、この亀屋の主人となる岩波太左衛門はこの頃まだ子どもだったが、当時みた相楽たちのことを語り残している。相楽は下諏訪へやって来たとき緋色ひいろの陣羽織を着て黒い馬にまたがっていたという。

 そして同じくこの日、京都から相楽を追いかけてきた金輪かなわ五郎が下諏訪へやって来た。
 金輪は以前少しだけ触れたことがあるが、羽田に上陸したあと陸路上方を目指した相楽の同志で、後年、大村益次郎を死へ追いやる刺客の一人となる。彼は同じく薩摩藩邸で同志だった伊牟田尚平から預かってきた手紙を相楽に手渡した。
「先日、相楽君の考えを聞いて一応は納得したが、やはり急いで京都へ戻ったほうが良い。幸い新政府も、このあと相楽君が会津や仙台で活躍してくれることを期待している。悪いことは言わない。ぜひ私の忠告を受け入れてもらいたい」
 といったような内容だった。そして金輪も相楽に京都へ引き返すよう説得した。
 伊牟田も金輪も幕末のかなり早い段階から尊攘活動に挺身ていしんしてきており、これまで何度も命を危険にさらしてきた男である。昨年末の薩摩藩邸での“暴発”もその一つだったと言える。その彼らですら、今の相楽の突出は暴走に思えた。
 そう思うのも当然だろう。
 薩摩藩邸での“暴発”から幸運にも無事生還し、そのあと鳥羽伏見の戦いでも新政府は奇跡的な大勝利を収めた。
 一世一代の大博打に勝つとは、まさにこのことであろう。
 幕府が潰れるのは、もはや時間の問題だ。どう考えてもこれから朝廷の時代が来る。それを見届けずに死んでなるものか。
 誰だってそう考えるだろう。

 だのに、この相楽はもう一回、一世一代の大博打をやらかすつもりらしい。
「薩摩藩邸での“暴発”も上からの命令を無視して独断でやった事だが、結果的には鳥羽伏見の勝利によって命令違反は帳消しとなった。今回も、たとえ命令違反を犯しても結果を出しさえすれば、きっと帳消しとなるに違いない」
 そう相楽は考えているのだろう。と、ずっと相楽の近くにいた伊牟田と金輪はすぐに理解できた。
「いや、それは違う、相楽君。昨年末とは状況が全然違うのだ。今はそんな博打を仕かけるような状況じゃない。確実に一手一手、外堀を埋めるようにして幕府を追いつめるべきだ」
 そんな風に説得したが相楽は耳を貸さない。

 というほど、相楽は頑迷ではない。
 そこまで頑迷であれば何度も京都へ釈明に行ったりはしない。
 相楽にも最低限の理性はある。
「ここまでであれば、上層部も自分の行動を理解してくれるはずだ」
 というギリギリの線で行動しているつもりなのだ。ただし「新政府が攘夷を実行する気がないのであれば、自分がやるしかない」という部分だけは別として。
 とにかく信州を押さえて碓氷峠も押さえる、ということに関しては新政府にとって、なんら悪いことではないはずだ。
 年貢半減令も、幕府領にしか出していないし、もしこれを撤回せざるをえないとしても、民衆に対しては申し訳ないが、攘夷を実行して国を閉ざすことで民衆の豊かな生活を取り戻すしかない。まずは攘夷を優先すべきである。
 これが相楽の考え方である。そして金輪にもそのように説明した。
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