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第三章・狂瀾怒濤

第52話 相楽総三、脱出。そして開戦へ(四)

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 相楽たちが乗った翔鳳丸は傷だらけの状態でよろよろと西へ向かったが激しい冬の嵐に遭遇して船体は木の葉のように波間をただよい、もはや万事休すといった絶望的な状況に陥りながらも十二月二十九日の夜、どうにかこうにか九鬼港(現、三重県尾鷲市)にたどり着いた。
 夜が明けると雪が降ってきた。この日は大晦日だ。旧暦だから三十一日はない。港は正月を迎える準備で人々が慌ただしく行き交い、たいそう賑わっている。まさかこの船が江戸湾で幕府軍艦と戦ってきた船であるとは、誰一人気づく者はいない。

 この九鬼で伊牟田、落合、鯉淵四郎(荻野の山中陣屋を襲った時の隊長)の三人だけとりあえず上陸して、陸路京都へ向かった。彼らは伊勢方面から山越えをして奈良へ入り、そこから宇治、伏見を通って京都へ入ったのが一月四日のことだったという。ただし伏見を通ったといっても伏見奉行所のあたりを通ったわけではないだろう。その直前の一月三日の夜に、伏見奉行所をめぐって激しい戦争があったばかりなのだから。

 かたや翔鳳丸は九鬼港を出たあと、紀伊半島をぐるっと回って大坂湾へ入り、一月二日の夕七つ(午後四時)頃、兵庫港に到着した。
「やれやれ、やっと関西に到着したぞ」
 などと相楽たちが喜んだのもつかの間、港内には同じ薩摩藩の春日丸と平運丸がいたのだが、その二隻は、沖に停泊している開陽丸など五隻の幕府艦隊とただならぬ雰囲気でにらみ合っていた。開陽丸以外の四隻は富士山丸、蟠竜ばんりゅう丸、順動丸、翔鶴丸。千トンを超える大型艦は富士山丸だけで他は翔鳳丸と同様、数百トンクラスの小型艦である。
 ただし別格なのは開陽丸だ。
 幕府がオランダで特別に作らせた世界レベルの戦艦である。二千六百トンで砲二十六門。それも最新鋭のクルップ砲だ。半年ほど前にオランダから日本へと回航されてきた。
 対する薩摩側の春日丸は千トンで砲六門。この二ヶ月前に薩摩藩が長崎で買ったイギリス製の蒸気船である。開陽丸と比べれば軍艦と呼べる程の代物ではないが、唯一この船が開陽丸にまさっているのは開陽丸の速力が十二ノットであるのに対して春日丸は十六ノットを出せる高速船である、ということだ。もう一隻の平運丸は翔鳳丸と同じく数百トンクラスの小型運送船で、戦力としては話にならない。

 実はこの日、鳥羽伏見より一日早く、すでに海上で幕府と薩摩は一戦を交えていた。
 薩摩の平運丸が幕府艦隊から砲撃され、被害を受けていたのである。
 平運丸は鹿児島から兵士を上京させる際に使用した船で、この日、関西にいた薩摩人の家族などを乗せて鹿児島へ帰還するため出港したところ、幕府艦隊が追いかけて来た。そして明石海峡の近くまで来たところで、幕府側はまず一発空砲を放って威嚇した。「停船せよ」の合図である。
 しかし平運丸は「幕府に命令されるいわれはない」とばかりに無視して走りつづけた。
 すると幕府艦隊はドカドカと実弾を発射。
 その一発が平運丸に命中して、死傷者は出なかったものの船体の一部が損傷した。
 平運丸にとっては思いもよらぬ出来事であった。とにかく大事をとって兵庫港へ引き返し、春日丸の同僚と相談したうえで開陽丸の榎本武揚のところへ軍使を派遣。榎本に砲撃の真意を問いただした。
 開陽丸の船上で談判がおこなわれ、榎本が薩摩側の軍使に対して答えた。
「すでに十二月二十五日に江戸で我が徳川家と貴藩(薩摩藩)は交戦状態に入っている。しかも大坂と兵庫は徳川家の港である。上様のご命令がなくても我が海軍の一存でいかようにも取り締まることができる。貴藩の船が勝手に港を出ようとしたので空砲によって停船を命じたのだ。それを無視したので実弾を撃った。以後、貴藩の船は一隻たりとも出港することはあいならん。さよう心得よ」
 幕府側は二十五日の薩摩藩邸の焼き討ちがあった直後に江戸から船を急行させ、二十八日にはその情報が大坂に伝わっていた。その一方、薩摩側にはまだその情報が届いていなかった。このとき榎本から告げられて初めてその事を知り、さらにこの日、相楽たちが乗った翔鳳丸が兵庫へやって来たことによって彼らから江戸での詳しい経緯を聞くことになったのだった。
 このように榎本は強硬な姿勢を示しているとはいえ、この兵庫港にいる限りは一応、砲撃される心配はない。
 兵庫港は先月(十二月)七日に開港されて国際港となっており、ここで激しいドンパチをやらかすことは榎本といえども不可能なのである。開港直後のこの兵庫港には開陽丸クラスの外国軍艦が何隻も停泊しており、彼らと事を構えるわけにはいかず、榎本は兵庫港の沖合いに幕府艦隊を展開させて薩摩の船を待ち構える態勢をとっていた。これにより薩摩の船を兵庫港内に封殺し、もし突破してこようとすれば、沖合いでそれを叩くつもりなのだ。

 相楽たちの翔鳳丸は、こういった緊張状態にある兵庫港へ飛び込んで来たのだった。
 開陽丸から砲撃される心配はないとはいえ、陸上には幕府の陸軍が大勢おり、彼らが翔鳳丸へ襲いかかってくることもあり得る。
 大坂の幕府軍はこの一月二日、京都へ向けて大軍を出陣させている。二十八日に江戸から届いた情報によって大坂の幕臣たちが激高し、ついに京都への進軍を開始したのだ。
 そんな連中が陸にいる以上、兵庫港にいる相楽たちも油断はできない。
 相楽は浪士たちに訓戒した。
「我々はこの兵庫で幕府軍から襲撃されるかも知れぬ。その時は死力を尽くして戦うつもりである。ただし、あくまで我々の目的は京の都へ上って天朝様にご奉公することである。一人でも多く京の都へたどり着けるよう心がけよ」
 こうして相楽たちが決戦の決意をかためて船内で緊張の一夜を過ごしていたところ、翌三日の未明(午前四時頃)、数人の薩摩藩士が相楽たちのところへやって来て小船に乗り込むよう命じた。
 これはこのとき兵庫にいた五代才助(友厚)が手配した小船だった。五代が大坂の商人から小船を借りてきて、それを翔鳳丸まで送ってよこしたのだ。
 相楽たちはそれに乗り込むと西宮にしのみやへ向かい、そこで上陸した。そして西宮からは西国街道を通って京都を目指した。
 ともかくも、相楽たちはこうして密かに船から脱出することに成功したのであった。

 相楽たちを降ろした翔鳳丸は、翌四日、幕府艦隊との「阿波沖海戦」に巻き込まれることになった。
 薩摩の三隻はこの日の早朝、兵庫港からの脱出作戦を決行したのである。
 薩摩側は敵を分断するために二手に別れた。
 平運丸は西の明石海峡を目指し、春日丸は翔鳳丸を曳航えいこうして南の紀淡海峡(和歌山と淡路島の間)を目指した。
 このとき春日丸には、のちの元帥が三人乗っている。
 一人は前にも述べた伊東祐亨すけゆきで、彼はこのとき翔鳳丸から春日丸に乗り移っていた。他の二人は東郷平八郎と井上直八(良馨よしか)である。
 伊東二十六歳、井上二十四歳、東郷二十二歳。
 余談だが井上直八は五年前の薩英戦争のときに桜島の南西にある沖小島に配備され、イギリス艦隊と激しい砲撃戦をおこなって太ももと尻に重傷を負った。さらに余談として、そのとき沖小島にいた井上たちの小隊がイギリス艦隊へ砲撃せずにやり過ごしていれば、沖小島と桜島の間に敷設してあった最新式の電気水雷によってイギリスの軍艦を撃沈できたはずだ、という伝説が鹿児島には残っているらしい(が、イギリス艦隊がそんな狭い水路をわざわざ通るはずがない、と海音寺潮五郎氏などは著書で述べている)。

 薩摩側の三隻は兵庫港から脱出することには一応成功した。
 この時たまたま幕府艦隊の封鎖網がゆるくなっていたのだ。
 というのは、この前日、すなわち一月三日に鳥羽伏見で戦争が始まっており、伏見であがった煙は大坂からも遠望することができた。それで幕府艦隊の一部は念のため大坂の天保山へ引きあげていたのだ。
 このことについて後の海軍中将・小笠原長生ながなり(この当時、幕府老中をつとめていた唐津藩主小笠原長行ながみちの息子)は『思ひ出を語る』という自著の中で「福の神といわれる東郷元帥の運気は、この時分から豪勢なものだったね」と書いている。
 春日丸の指揮をしていたのは赤塚源六艦長と林謙三だった。この林謙三も後に海軍中将となるが、その頃は安保あぼ清康きよやすという名になっている。広島人だが薩摩で船に乗り込んで航海術を学んでおり、薩摩と近しい関係にあったイギリスの船に乗り込んだ経験もある。またアーネスト・サトウや坂本龍馬の友人でもあった。
 幕府艦隊がこのとき手薄だったとはいえ、開陽丸は兵庫沖に留まっていた。
 そして開陽丸は、西へ向かった平運丸を追うのはあきらめて、春日丸と翔鳳丸を追って南へ向かった。
 こうして開陽丸と春日丸は、日本初の蒸気軍艦同士の海戦、いわゆる「阿波沖海戦」をくり広げることになったのである。

 その様子は、再び小笠原長生の『思ひ出を語る』から以下に引用する。
(以下、引用。ただし読みやすくするため若干意訳してある)
 折りしも春日丸の艦橋上には先任士官林謙三(のち安保清康と改名し中将に至る)が当直士官と共にいたので望遠鏡をとってその巨艦を見ると、まごう方なき榎本司令官の旗艦開陽丸であった。
「きおったわい」
 沈着豪快なる林士官は笑みを浮かべてこう叫び、ただちにこれを赤塚艦長に報告した。
「翔鳳丸の曳索ひきづなを放せ。戦闘配置!」
 瞬間にして諸準備は整い、翔鳳丸は単独で先へ進み、春日丸は敵が近づくのを待ち受けた。
 艦首に白泡を立てつつ全速力で近づいてきた開陽丸は、さすがに戦闘の秩序をわきまえ、まず空砲を一発放って「停止せよ」との意を表した。
「こしゃくなまねをしおるわい」
 秩序などには頓着せぬ春日丸の艦長はすぐに一令を下して島津の紋が入った旗をかかげ、同時に撃ち方はじめの命令が出た。このとき素早く井上直八が操作する百斤砲から巨弾が放たれ、開陽丸のあたりに水柱が立った。
「うわー!」「うわー!」
 開闢かいびゃく以来初めての欧式軍艦同士の戦闘だから彼我ひがともに手心がわからないので意気のみ軒昂し、やっつけ主義の薩摩隼人は得意の棒打ちでもする了見で「チェストー!」と金切り声を張り上げつつ遮二無二撃ち出した。ところで春日丸の砲門は六門に過ぎないが、開陽丸は大小二十六門を有し、砲力春日丸を凌駕しているのみならず、榎本司令官は舶来の腕前を見せたくてならず、薩摩っぽうに海戦の呼吸がわかってたまるかい、失敬だが棒踊りとは訳がちがうぜ、と江戸っ子口調でタンカを切りつつ、クルップ砲やカノン砲を一斉に放って次々と水柱を立てた。撃ちつ撃たれつ、ついに千二百メートルまで接近して砲戦をつづけた。そのとき東郷平八郎が狙い定めて放った一弾が開陽丸の前面に落ち、さらに跳躍して同艦のヤードを打ち削った。榎本の顔はみるみる真っ赤に紅潮し、生意気なとばかりにまたもや十三門の右舷砲を連発したが、一弾が春日丸の車輪にブルッと音をたてて触れ、艦上をおどり越えた。
 と、こう記述してくると、いかにも激戦のようで両艦ともに死傷者続出と言いたいところだが、全員すこぶる健全!ノミを潰したほどの血も見なかったというメデタさで、出たものは汗ばかりだったそうな。話がこれに及ぶと東郷元帥はいつもしょっぱい顔をして、
「不思議と命中あたらんじゃった」
 といわれるよ。(以下略)

 結局このあと春日丸は十六ノットの速力をいかして開陽丸を振り切り戦線離脱に成功。数日後、無事鹿児島にたどり着いた。そして平運丸も同様に帰国した。
 しかしながら翔鳳丸はボロボロの船体のうえに武装もなく、とても開陽丸から逃げ切れるとは思えず、艦長の判断で阿波の由岐ゆき海岸(現、徳島県海部郡美波町)に打ち上げ、乗組員を全員上陸させたあとに火をかけて自焼した。そのあと乗組員は全員鹿児島へ帰国できたものの、艦長の伊地知八郎は島津久光への報告を済ませたあと、艦を自焼させた責任を取って切腹した。



 この海戦の前日(一月三日)、西宮に上陸した相楽たち二十数人の浪士は西国街道を通って京都を目指していた。
 その日の夕方には鳥羽で、夜には伏見で戦いが始まった。
 しかし相楽たちはそれを知らずに戦場へ向かって歩きつづけた。この日は昆陽こや(現、伊丹市)に泊まった。
 翌四日。この先で戦争が始まったことはさすがに相楽たちにも伝わってきた。それでも彼らは構わず先へ進んだ。進むにつれて戦場で鳴り響く砲声や立ちのぼる煙にだんだんと近づいていることを実感した。
 そして夜には山崎に到着した。その昔、秀吉と光秀が合戦したところだ。
 もう鳥羽伏見の戦場は目と鼻の先である。今はこの関門を幕府方の津藩藤堂軍が守っている。有名な「藤堂軍の寝返り」があるのはこの二日後のことで、今はまだギリギリ幕府側の味方をしている状態だ。
 こんな緊迫した状況のなか、山崎の関門を通ろうとするなんて非常識にも程がある。
 と言って藤堂軍がこの怪しい浪士たちを通さなかったのは、当然といえば当然だった。
 ところがこのとき偶然、相楽の知り合いの長州藩士がこの山崎まで来ており、彼の口添えでなんとか通行することが許された。
 おそらくこの長州藩士は藤堂軍を寝返らせるための使者として来ていたのであろう。すでにこの段階で藤堂軍もかなり朝廷方に心が傾きかけていたのだ。
 関門を通過した相楽たちはこの日、近くの農家に泊めてもらった。
 翌五日。相楽たちは山崎を出発した。戦場のすぐ脇をすり抜けて北上し、ついにこの日、京都に到着した
 同じ日、戦場では錦の御旗がひるがえり、薩長新政府側の勝利が決定づけられた。


 甲州から中山道を通って京都へ向かっていた猪之吉が、京都の勝蔵のところへ帰還したのはこの前日のことだった。
 これでようやく京都に役者がそろった。
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