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第二章・激闘
第25話 金川っ原の対決
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兼吉は国分の三蔵の手下によって殺された。
これにより、黒駒一家の全員が激怒したのは言うまでもない。
国分一家による兼吉殺しは偶発的な事件であるように見えて、実はそうとも言い切れない側面があった。
兼吉を殺した千米寺村の源吉という男は、兼吉から奪った脇差をわざわざいろんな所で見せびらかして自慢していた。そして他の国分一家の子分たちも、
「勝蔵は子分を殺されても、仕返しも出来ない腰抜けだ」
とあちこちで言いふらしていた。
「畜生。なめたマネしやがる」
と当然、勝蔵は思ったが、その一方で、
「これはどうも、わざと俺たちを挑発しているフシがある。ひょっとして何か罠を用意しているんじゃねえのか?」
という疑念もわいた。
周りでは子分たちの怒りが収まらない。大岩がわめく。
「罠だろうと何だろうと、ここまでなめたマネをされて黙っている手はねえ。もう、俺たちは百人近い戦力があるんだ。あっちはせいぜい五十人だろう。これから全員で三蔵の屋敷へ攻め込めば、三蔵の首を取ることなど造作もねえことだ」
と大いに息巻き、他の子分たちも「そうだ、そうだ」と気勢を上げている。
まったくもって赤穂浪士が吉良邸へ討ち入るかの如きだ。この当時、刀を持った男たちが考えることは大体「忠臣蔵」と五十歩百歩だ。
が、さすがにこれは乱暴すぎる。
浅野家は当主が即日切腹させられてお家も断絶という過酷な処置を受けたので、それに反発する意味合いからも討ち入りを敢行したが、子分一人を殺されたからといってそんなことをやっては、いくらなんでも間尺に合わないというものだ。
とはいえ、勝蔵としてもタダでは済ませられない。きっちりと三蔵にけじめをつけさせる必要がある。兼吉と仲の良かった猪之吉も、ぜひ敵討ちの先鋒として討ち入りたい、と勝蔵にせっついている。
それで参謀役の玉五郎に相談してみると、
「やはり何か罠があるんじゃないですかね。ここは一つ、三蔵の屋敷へ間諜を送り込んで、奴らの狙いを探ってみては?」
と答えた。
なるほどそれも道理だが、今さらそんな悠長なことはやってられない。日を置けば置くほど、奴らは俺たちのことを臆病者と言いふらすだろう。それに大岩や猪之吉たちの怒りを抑えきれないし、なにしろ自分自身も我慢がならない。
勝蔵は腹をかためた。
「よし。じゃあお前たちの望み通り、ここは正々堂々、やつらと合戦して決着をつけようじゃねえか」
そう言って勝蔵は、三蔵宛ての書状を書き始めた。
果たし状である。
ウチの子分の兼吉を殺したのはどういうつもりだ?兼吉殺しの犯人である源吉をこちらへ引き渡してもらおう。さもなくば、金川の河原で俺たちと勝負しろ。
といった内容の書状を書き、それを懐へ入れて国分の三蔵屋敷へ向かうことにした。付き添いとして大岩・小岩、それに綱五郎が付いて行くことになった。
「それじゃちょっと、人数が少ないのでは?」
と玉五郎などは勝蔵の安否を気づかったが、
「大勢でぞろぞろ出向くなんてみっともねえ真似ができるか。俺が三蔵ごときに斬られるわけがねえだろう」
と勝蔵は笑って答えた。
それから勝蔵たち四人は戸倉を出発し、国分の三蔵屋敷のところまで来た。
三蔵屋敷は人の背丈ほどもある立派な石垣の上に建っており、さらに頑丈そうな塀に囲まれている。ちょっとした陣屋敷並みの防御力はありそうに見えた。
勝蔵たちが門のところへ行くと、門番をしていた三蔵の子分二人が、さすがに驚いた表情で勝蔵に用件を尋ねた。
「な、何のご用ですかい?」
「三蔵親分に会いたい。勝蔵が来たと伝えてくれ」
そう勝蔵が言うと門番の二人はあわてて中へ知らせに行った。
突然勝蔵がやって来たことによって三蔵屋敷の玄関付近は蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。勝蔵はそういった喧噪をよそに平然と玄関先を通った。
そして勝蔵たちがしばらく玄関の土間で待っていると、廊下の奥から数名の子分を連れた三蔵らしき男が歩いて来た。
勝蔵はこのとき初めて三蔵という男を見た。
これまで三蔵は正体不明な点が多く、どういう男なのかよく分からなかったのだが、これでようやく顔を拝むことができた。
ただ、思ったよりも風格を感じない男で、多少拍子抜けした。
年の頃は四十か五十ぐらいに見える。やや小太りのパッとしない中年の親父だった。博徒の世界にいるだけあって確かにそれなりの凄みは体から感じられるのだが、これがいま売り出し中の博徒の親分か、と勝蔵は少し意外に思った。
実はこの男、三蔵であって三蔵でない。
確かに「国分の三蔵」とは、この男のことで間違いはない。
が、実は本当にこの国分一家の実権を握っているのは、この屋敷の奥に隠れている「高萩の万次郎」なのだ。
いわば、この国分の三蔵は、高萩の万次郎の影武者みたいなものだ。
その影武者の三蔵を相手に玄関で、勝蔵は兼吉殺しの件を詰問した。
どういうつもりでウチの兼吉を殺したんだ。ケンカを売るならいつでも買ってやるぜ。とにかく犯人の源吉をこちらへ渡してもらおうか。
といった事をたたみ込むように問い詰めた。
しかし三蔵は何を言われても「俺は何も知らねえ」と、知らぬ存ぜぬの一点張りで、まったく取り付くシマがない。
(この野郎……。俺たちを甘く見てやがるに違いねえ)
勝蔵は、この場で叩き斬ってやりたい気持ちをなんとか抑え、用意してきた果たし状を懐から出して三蔵へ叩きつけた。
「金川の河原で勝負してやる。明後日の朝、てめえら雁首そろえて河原へ来い」
こう言い放って三蔵屋敷を後にした。
戸倉に戻ると勝蔵はすぐにケンカ支度にかかった。
甲州各地の賭場に散っていた子分たちを呼び集め、さらに竹居一家からも何人か子分を貸してもらった。
子分たちは長脇差の他に竹槍も何本か用意した。ただし鉄砲や弓などの飛び道具は使わない。というのは普通こういった場合、飛び道具は投石を使うのが基本だからだ。
ケンカの準備をしている子分たちは、実に目が生き生きとしている。心の奥底ではおびえている奴も少しはいるだろうが、大半の連中はケンカをするためにヤクザになったような奴らばかりだ。それらの中でも猪之吉は、何としてでも兼吉の敵を討ってやる、と腕を撫して準備に取りかかっている。
明後日の朝となった。
勝蔵たちは暗い内から金川の河原に集まって布陣をしいた。集まった人数はおよそ百五十人。
川を挟んだ反対側には国分一家の連中がぞろぞろと集まって来ているが、見たところ人数は五十人いるかいないかぐらいだ。その中に親分の三蔵はいるが、用心棒の犬上郡次郎は見当たらない。そして三蔵に協力しているはずの祐天仙之助の姿も無かった。
このまま両者がぶつかり合えば、十中八九、人数の多い黒駒一家が勝つだろう。少なくとも勝蔵たちはそう思った。
まず、川を挟んでお互いが対岸の相手を罵り合う。ケンカはそれからだ。
しかしいつまで経っても罵ったり石を投げているばかりで、国分側はまったく仕かけてくる気配がない。
川を渡っている時は無防備になりやすい。それを恐れて仕かけるのを手控えているのか?
いいだろう。それならこちらから仕かけてやる。
と勝蔵は決断した。
「いくぞ、お前たち!俺について来い!」
そう叫ぶと勝蔵が長脇差を握りしめ、先頭切って川を渡って行った。それに猪之吉がつづき、さらに他の子分たちも「わあっ!」と喊声をあげて川に入って行った。
それを見た国分側の連中は、全員、後ろの方へ逃げてしまった。
「アッハッハ。なんだ。だらしのねえ」
と黒駒側の一同は国分側のことをあざ笑った。
それでも国分側の連中は、離れたところで黒駒側の様子を眺めている。そこで黒駒側が追いかけようとすると、国分側はまた後退し、そこからまた黒駒側の様子をうかがっている。
逆に黒駒側が後ろへ下がろうとすると、今度は前へ出てきて一定の距離を保とうとする。
こちらが前へ出ると下がり、こちらが後ろへ下がると前へ出てくる。
「あいつらめ。こっちをからかっているつもりか?それとも、どこかへ誘い込んで罠にかけようとしているのか?」
と勝蔵は思った。とにかく、国分側が正面切ってケンカをするつもりが無いことは分かった。
(用心棒の犬上が来られなかったからか?それとも思ったよりも人数を集められなかったからか?)
なんにせよ、これではケンカにならない。
「仕方がねえ。後日、仕切り直すしかないな」
そういう訳で、勝蔵たちは一旦引き上げることにした。子分たちは皆ぶつくさ文句を言いながらぞろぞろと戸倉へ引き返した。
それから後日、勝蔵は再び果たし状を書いて三蔵へ送り届けた。そして日時を指定し、あらためて金川の河原で決闘を挑んだ。
半月後に二度目の、さらに半月後に三度目の対決となったが、結局国分一家の対応は一度目の時と同じだった。一定の距離を保ったまま決して仕かけてこようとせず、罵声を飛ばしたり石を投げてくるだけだった。
「これじゃあ、いつまで経っても埒が明かねえ。正面切ってケンカを仕かけるのは止めだ。バカバカしい」
こうして勝蔵は正攻法で三蔵と勝負することはあきらめた。
そもそもこちらの狙いは、兼吉を殺した千米寺村の源吉なのである。
とにかく源吉の居所を探し出して、源吉への復讐を果たすことに狙いを定めた。
それから更に一ヶ月後、ようやく源吉の居所を突き止め、石和の近くの和戸村で源吉の姿を発見した。
見つけたのは肥後の次三郎と信州の喜十郎の二人だった。
ここで会ったが百年目、というほど長くはかかってないが、ようやく源吉を見つけた二人からすれば大袈裟でなく、そんな気持ちだった。
この機を逃してなるものか!
とばかりに次三郎と喜十郎はすぐさま長脇差を抜いて源吉に斬りかかった。
源吉が二人に気づいた時は、もう手遅れだった。
逃げる暇もなく、バッサリと二人の長脇差の餌食となった。血みどろの源吉の死体が路上に転がる。
それから二人は、源吉の死体から兼吉の脇差を取り戻し、意気揚々と戸倉へ引き上げた。
二人が戸倉の本部へ戻ると、皆が二人の敵討ちを褒め称えた。勝蔵も「よくやった」と二人を褒め、ご祝儀の金も渡した。現代風に言えば、敵討ちの手柄をたてた「ボーナス」だ。
猪之吉は、自分の手で敵を討てなかったのは惜しかったと思いつつも、とにかく兼吉の無念が晴れたことを喜んだ。
が、その喜びもつかの間のことだった。
この翌日、黒駒一家の吉田村の房吉が、狐新井村で仙之助の子分、菱山の佐太郎など数人によって斬殺された。
のみならず、この日は坪井村でも黒駒一家の中川村の新左衛門が三蔵の子分数人によって斬殺されたのだった。
源吉を殺されたことに対する報復攻撃であることは明らかだった。
まさに血で血を洗う『仁義なき戦い』の世界である。
今度は二人も子分を殺され、勝蔵もとうとう堪忍袋の緒が切れた。
こうなったら、かつて大岩が言っていたように、
「多人数で三蔵屋敷へ討ち入って三蔵の首をあげる」
それしかないと決心した。そしてすぐに討ち入りの準備をはじめた。
今度は一人や二人を殺す、といったチャチな話ではない。なにしろ多人数で敵の屋敷へ斬り込むのだ。大量の人死にが発生することは目に見えている。次郎長が人を殺すたびに「長い草鞋を履く」、すなわち他国へ高飛びしたように、これだけ派手な刃傷沙汰を引き起こすとなれば、そのあと甲州にとどまることはできない。三蔵の首をみやげに、そのまま討ち入り部隊は甲州から脱出せざるを得ない。
その討ち入り部隊の人員は勝蔵の他、大岩・小岩、綱五郎、猪之吉などの四十人を選んだ。残りの半分は戸倉に残し、玉五郎に留守番の指揮を執らせることにした。
一同は水盃を飲み交わして別れの儀式を済ませ、それから勝蔵たち四十人は戸倉から出陣して行った。
「今、幸い祐天も三蔵屋敷にいるはずだ。目指すは三蔵と祐天の首だ。他の首には目もくれるな!」
と勝蔵が命令すると子分たちは「おう!」と応えて付き従った。
四十七士には少し足りないが、皆の心は赤穂義士と重なっているつもりである。とはいえ、季節は暑い盛りの六月であり、真冬の十二月に討ち入った赤穂浪士とはずいぶん趣きが異なっている。
勝蔵たちが金川を渡り、いざ国分村の三蔵屋敷へ近づこうとした時、猪之吉が叫んだ。
「あっ!あそこに代官所の捕り方が大勢いるぞ!」
三蔵屋敷の門前に石和代官所の捕り方、目明しの祐天仙之助、それに三蔵の子分たち、総計百人は優に超える軍勢が待ち構えていた。彼らの中には鉄砲を持っている者もいる。それを、目の良い猪之吉がいち早く遠間から見つけたのだ。
(罠か!奴らはこれを狙っていたのか!)
と勝蔵は愕然とした。
こうなっては討ち入りどころの騒ぎではない。
いくらなんでも石和代官所、すなわちお上に対して真正面から戦さを仕かけることはできない。目明しの仙之助などと小競り合いで済んでいる内はともかく、代官所の役人が本腰をあげて黒駒一家の一掃に乗り出してきたとなると、話の次元がいっきに変わってくる。
「お上への謀反」
となると、実家の小池家にも危難が及ばないとも限らない。
(あの腰抜けぞろいの甲府勤番役人が、まさか本気で立ち上がる日が来ようとは思わなかった!)
勝蔵としてはまったく意表を突かれた形となった。
「作戦失敗だ!みんな、すぐに逃げろ!」
こうして討ち入り部隊は散り散りとなって逃げ去った。
本来なら三蔵の首を取ってから逃げる予定だったのが、逃げるのが先になってしまった。とにかく逃げ道はもともと考えていたので、さっそくそれぞれ予定していた逃亡先へ向かった。
勝蔵は大岩・小岩、綱五郎、猪之吉の側近だけを連れて、東海道へ逃げるつもりだ。
他の子分たちには、
「当面の間はそれぞれの才覚で生き延びろ。いずれほとぼりが冷めたらまた黒駒に呼び寄せる」
そう言い聞かせて、いったん黒駒一家は解散となった。幸い一人も捕まることなく無事に逃げおおせた。
一時は百人近くもいた、甲州では最大規模を誇った博徒集団・黒駒一家は、たった三年の活動期間で消滅することになったのである。
勝蔵は東海道へ行く前にいったん戸倉へ立ち寄って玉五郎に事の顛末を説明した。
それで、玉五郎にはそのまま数名の子分と共に戸倉に残ってもらうことにした。この戸倉は山奥なので代官所の役人が大挙して攻めてくることはないだろう。もし万一そんなことがあっても、近くの山中へ逃げ入って山ごもりすることも可能だ。それに少人数であれば堀内喜平次の世話を受けてなんとかやっていけるだろう。
ということで玉五郎にはそのまま留守番を任せることになった。
一方、三蔵一家を実質的に支配し、八州廻りの指令で甲州に送り込まれた道案内(目明し)高萩の万次郎としては、念願の「竹居安五郎の捕縛」へ向けて、安五郎の右腕である勝蔵を甲州から追い払ったのは、その目的達成へ一歩前進という形になった。
このあと勝蔵は竹居安五郎にも別れのあいさつをしに行った。
安五郎親分を守ることができなくなって誠に申し訳ない。なにとぞ、親分も役人や目明しの追及からうまく逃げのびてください、と勝蔵は詫び事を述べた。
これに対し安五郎は、俺はこれまでもずっと身を隠し続けてきたから潜伏するのは慣れている。それよりお前たちこそ、逃げるのは初めてだろうから俺が潜伏する際の心得を教えてやる、といって勝蔵に身の隠し方を伝授した。
勝蔵たちは安五郎と別れたあと、富士川を下って駿河に出た。そして東海道を西へ進んで遠州を抜けて三河へ入り、平井の雲風亀吉のところで草鞋を脱いだ。以前、勝蔵が東海道の旅をした際に亀吉と懇意になっていたので、その縁を頼ったのである。亀吉は喜んで勝蔵たちを迎え入れた。
博徒の旅暮らしというと、これまでは次郎長たちが目明しに追われて各地を流浪していたものだが、勝蔵もとうとうそういった境遇に陥ってしまった。そして次郎長が何かある度に三河の寺津の間之助を頼っているように、勝蔵もこれ以降、何かと三河の亀吉を頼るようになる。
勝蔵は平井でしばらく滞在したあと、亀吉の紹介で岐阜の水野弥太郎という博徒のところへ行くことになった。
水野弥太郎、本名は弥三郎というが通称の弥太郎で名前が通っていた。
文化二年(1805年)生まれなのでこの年五十七歳。この世界では長老格にあたる人物で、岐阜の矢島町に住んでいる。同じ美濃の有力な博徒、関の小左衛門、神戸の政五郎と並んで「美濃三人衆」の一人として名高い。
ちなみにこの「美濃三人衆」という言葉は、戦国に詳しい人は知っているだろうが、信長と敵対していた斎藤義龍の家老、稲葉一鉄・安藤守就・氏家直元の「美濃三人衆」から取ったものと思われる(三人はのちに信長の家臣となる)。
勝蔵は弥太郎と会ってみて、驚いた。
「世の中に、こんな博徒がいるのか?」
と思わざるを得なかった。勝蔵がこれまで見てきた博徒というのはほとんどが荒くれ者ばかりで、字も読めない連中が多かった。それに反して弥太郎は武張った感じがほとんどなく、部屋には書画が飾ってあり、どう見ても学者か文人のような雰囲気なのである。
弥太郎の父は京都で医者をやっていた男で、西本願寺で典医を勤めていた。それで弥太郎も本来は医者になるはずだったところ、いつの間にやら博徒の道へ入り込んでしまった。父が西本願寺と縁があったことから弥太郎も京風文化を好んでおり、たびたび京都へ通っている。そうして京都へ出入りしているうちに、この当時、世間一般から先進的な思想と見られていた尊王攘夷思想にも触れることになった。それで、後の話になるが、弥太郎は新選組とも関係を持つようになる。
その弥太郎は、勝蔵が気に入ったようだった。
勝蔵は、博徒としてはかなり教養がある部類に入る。武藤藤太から学問を習い、読み書きも一通りはできる。しかも尊王攘夷思想にも武藤塾や江戸の千葉道場で触れている。弥太郎としても、同じ博徒で勝蔵のように最低限の教養を備えた人物に出会うことは稀だった。それで、この三十近くも年が離れた若者のことが気に入ったのだ。
むろん勝蔵が弥太郎を嫌う点などあるはずもなく、これ以降、三河の亀吉と並んで、この岐阜の水野弥太郎にもたびたび世話になるのである。
そのあと勝蔵たちは岐阜を去って伊勢へ向かった。伊勢古市の丹波屋伝兵衛を訪ねることにしたのだ。
伝兵衛は竹居安五郎や大場の久八と提携している伊勢きっての大親分で、勝蔵にとっても親分筋に当たる人物である。旅回りをしている勝蔵としても一度はあいさつをしておかねばならない相手だ。
古市は伊勢神宮のすぐ近くにある。その古市の遊郭で「精進落とし」をするかどうかはともかくとして、ここまで来て伊勢神宮に参拝しないなんてことはあり得ない。
それで勝蔵たちは伊勢の内宮へ向かった。
お伊勢講などの人々でごった返す門前町を通り抜けて宇治橋へ向かって歩いていると、向こうの宇治橋の方から見知った男たちが歩いて来るのを、また目の良い猪之吉が見つけた。
「親分。あれは以前、鰍沢の賭場で会った男たちじゃないですか?」
その男たちは次郎長の一行だった。大政などの子分たちも数名、引き連れている。
猪之吉は、あのとき次郎長に助けてもらったこともあり、しかもこの男が次郎長であるということも知らず、まして都田の吉兵衛を殺したり赤鬼金平と敵対している男であるということも知らない。それで、特に次郎長を敵視するような視線は送らなかった。
が、勝蔵は、確信しているわけではないにしろ、「あれは次郎長だったに違いない」と思っていたので、今は確実に自分の敵となった次郎長を鋭い目つきでにらんだ。
といって、こんな神聖な場所で斬った張ったのケンカなどできるはずがないことも、十分承知している。
やがてお互いの距離が縮まり、真正面から向かい合って足を止めた。
「おい、久しぶりだな、駿河の次郎さんよ。ところであんた、実は清水の次郎長なんだろう?」
「そうだ。黒駒の勝蔵。お前の噂もいろいろと聞いているぜ。甲州から追い出されたんだってなあ。お気の毒さまだ」
「そっちこそ、都田の吉兵衛を殺したあと、方々を逃げ回っているんだろう?吉兵衛は俺と誼を通じた仲だった。仲間を殺されたお礼はいつか必ず返すぜ」
「赤鬼の金平と一緒になってか?」
「他人の手を借りるまでもねえ。お前なんぞ、俺たちだけで十分だ」
「ふん。そいつは無理だな」
「何ィ?俺たちをナメてんのか」
この勝蔵の言うことに次郎長は答えず、ニヤッと笑みを浮かべただけでそのまま勝蔵の横を通り過ぎようとした。そしてすれ違いざまに、次郎長が静かな声で言った。
「金平とのケンカは手打ちになった。伝兵衛に聞けば分かる」
そう言い残して次郎長は子分たちと共に去って行った。
このあと勝蔵が古市に戻って伝兵衛に会ってみると、次郎長が言っていた言葉の意味が分かった。
次郎長は伝兵衛にケンカの仲裁を頼みに来たのだ。
そして話し合いのすえ、次郎長は敵対していた赤鬼金平と遠州菊川で手打ち式をおこなうことになった。
この手打ち式には、勝蔵も金平側の一人として参列することになる。
これにより、黒駒一家の全員が激怒したのは言うまでもない。
国分一家による兼吉殺しは偶発的な事件であるように見えて、実はそうとも言い切れない側面があった。
兼吉を殺した千米寺村の源吉という男は、兼吉から奪った脇差をわざわざいろんな所で見せびらかして自慢していた。そして他の国分一家の子分たちも、
「勝蔵は子分を殺されても、仕返しも出来ない腰抜けだ」
とあちこちで言いふらしていた。
「畜生。なめたマネしやがる」
と当然、勝蔵は思ったが、その一方で、
「これはどうも、わざと俺たちを挑発しているフシがある。ひょっとして何か罠を用意しているんじゃねえのか?」
という疑念もわいた。
周りでは子分たちの怒りが収まらない。大岩がわめく。
「罠だろうと何だろうと、ここまでなめたマネをされて黙っている手はねえ。もう、俺たちは百人近い戦力があるんだ。あっちはせいぜい五十人だろう。これから全員で三蔵の屋敷へ攻め込めば、三蔵の首を取ることなど造作もねえことだ」
と大いに息巻き、他の子分たちも「そうだ、そうだ」と気勢を上げている。
まったくもって赤穂浪士が吉良邸へ討ち入るかの如きだ。この当時、刀を持った男たちが考えることは大体「忠臣蔵」と五十歩百歩だ。
が、さすがにこれは乱暴すぎる。
浅野家は当主が即日切腹させられてお家も断絶という過酷な処置を受けたので、それに反発する意味合いからも討ち入りを敢行したが、子分一人を殺されたからといってそんなことをやっては、いくらなんでも間尺に合わないというものだ。
とはいえ、勝蔵としてもタダでは済ませられない。きっちりと三蔵にけじめをつけさせる必要がある。兼吉と仲の良かった猪之吉も、ぜひ敵討ちの先鋒として討ち入りたい、と勝蔵にせっついている。
それで参謀役の玉五郎に相談してみると、
「やはり何か罠があるんじゃないですかね。ここは一つ、三蔵の屋敷へ間諜を送り込んで、奴らの狙いを探ってみては?」
と答えた。
なるほどそれも道理だが、今さらそんな悠長なことはやってられない。日を置けば置くほど、奴らは俺たちのことを臆病者と言いふらすだろう。それに大岩や猪之吉たちの怒りを抑えきれないし、なにしろ自分自身も我慢がならない。
勝蔵は腹をかためた。
「よし。じゃあお前たちの望み通り、ここは正々堂々、やつらと合戦して決着をつけようじゃねえか」
そう言って勝蔵は、三蔵宛ての書状を書き始めた。
果たし状である。
ウチの子分の兼吉を殺したのはどういうつもりだ?兼吉殺しの犯人である源吉をこちらへ引き渡してもらおう。さもなくば、金川の河原で俺たちと勝負しろ。
といった内容の書状を書き、それを懐へ入れて国分の三蔵屋敷へ向かうことにした。付き添いとして大岩・小岩、それに綱五郎が付いて行くことになった。
「それじゃちょっと、人数が少ないのでは?」
と玉五郎などは勝蔵の安否を気づかったが、
「大勢でぞろぞろ出向くなんてみっともねえ真似ができるか。俺が三蔵ごときに斬られるわけがねえだろう」
と勝蔵は笑って答えた。
それから勝蔵たち四人は戸倉を出発し、国分の三蔵屋敷のところまで来た。
三蔵屋敷は人の背丈ほどもある立派な石垣の上に建っており、さらに頑丈そうな塀に囲まれている。ちょっとした陣屋敷並みの防御力はありそうに見えた。
勝蔵たちが門のところへ行くと、門番をしていた三蔵の子分二人が、さすがに驚いた表情で勝蔵に用件を尋ねた。
「な、何のご用ですかい?」
「三蔵親分に会いたい。勝蔵が来たと伝えてくれ」
そう勝蔵が言うと門番の二人はあわてて中へ知らせに行った。
突然勝蔵がやって来たことによって三蔵屋敷の玄関付近は蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。勝蔵はそういった喧噪をよそに平然と玄関先を通った。
そして勝蔵たちがしばらく玄関の土間で待っていると、廊下の奥から数名の子分を連れた三蔵らしき男が歩いて来た。
勝蔵はこのとき初めて三蔵という男を見た。
これまで三蔵は正体不明な点が多く、どういう男なのかよく分からなかったのだが、これでようやく顔を拝むことができた。
ただ、思ったよりも風格を感じない男で、多少拍子抜けした。
年の頃は四十か五十ぐらいに見える。やや小太りのパッとしない中年の親父だった。博徒の世界にいるだけあって確かにそれなりの凄みは体から感じられるのだが、これがいま売り出し中の博徒の親分か、と勝蔵は少し意外に思った。
実はこの男、三蔵であって三蔵でない。
確かに「国分の三蔵」とは、この男のことで間違いはない。
が、実は本当にこの国分一家の実権を握っているのは、この屋敷の奥に隠れている「高萩の万次郎」なのだ。
いわば、この国分の三蔵は、高萩の万次郎の影武者みたいなものだ。
その影武者の三蔵を相手に玄関で、勝蔵は兼吉殺しの件を詰問した。
どういうつもりでウチの兼吉を殺したんだ。ケンカを売るならいつでも買ってやるぜ。とにかく犯人の源吉をこちらへ渡してもらおうか。
といった事をたたみ込むように問い詰めた。
しかし三蔵は何を言われても「俺は何も知らねえ」と、知らぬ存ぜぬの一点張りで、まったく取り付くシマがない。
(この野郎……。俺たちを甘く見てやがるに違いねえ)
勝蔵は、この場で叩き斬ってやりたい気持ちをなんとか抑え、用意してきた果たし状を懐から出して三蔵へ叩きつけた。
「金川の河原で勝負してやる。明後日の朝、てめえら雁首そろえて河原へ来い」
こう言い放って三蔵屋敷を後にした。
戸倉に戻ると勝蔵はすぐにケンカ支度にかかった。
甲州各地の賭場に散っていた子分たちを呼び集め、さらに竹居一家からも何人か子分を貸してもらった。
子分たちは長脇差の他に竹槍も何本か用意した。ただし鉄砲や弓などの飛び道具は使わない。というのは普通こういった場合、飛び道具は投石を使うのが基本だからだ。
ケンカの準備をしている子分たちは、実に目が生き生きとしている。心の奥底ではおびえている奴も少しはいるだろうが、大半の連中はケンカをするためにヤクザになったような奴らばかりだ。それらの中でも猪之吉は、何としてでも兼吉の敵を討ってやる、と腕を撫して準備に取りかかっている。
明後日の朝となった。
勝蔵たちは暗い内から金川の河原に集まって布陣をしいた。集まった人数はおよそ百五十人。
川を挟んだ反対側には国分一家の連中がぞろぞろと集まって来ているが、見たところ人数は五十人いるかいないかぐらいだ。その中に親分の三蔵はいるが、用心棒の犬上郡次郎は見当たらない。そして三蔵に協力しているはずの祐天仙之助の姿も無かった。
このまま両者がぶつかり合えば、十中八九、人数の多い黒駒一家が勝つだろう。少なくとも勝蔵たちはそう思った。
まず、川を挟んでお互いが対岸の相手を罵り合う。ケンカはそれからだ。
しかしいつまで経っても罵ったり石を投げているばかりで、国分側はまったく仕かけてくる気配がない。
川を渡っている時は無防備になりやすい。それを恐れて仕かけるのを手控えているのか?
いいだろう。それならこちらから仕かけてやる。
と勝蔵は決断した。
「いくぞ、お前たち!俺について来い!」
そう叫ぶと勝蔵が長脇差を握りしめ、先頭切って川を渡って行った。それに猪之吉がつづき、さらに他の子分たちも「わあっ!」と喊声をあげて川に入って行った。
それを見た国分側の連中は、全員、後ろの方へ逃げてしまった。
「アッハッハ。なんだ。だらしのねえ」
と黒駒側の一同は国分側のことをあざ笑った。
それでも国分側の連中は、離れたところで黒駒側の様子を眺めている。そこで黒駒側が追いかけようとすると、国分側はまた後退し、そこからまた黒駒側の様子をうかがっている。
逆に黒駒側が後ろへ下がろうとすると、今度は前へ出てきて一定の距離を保とうとする。
こちらが前へ出ると下がり、こちらが後ろへ下がると前へ出てくる。
「あいつらめ。こっちをからかっているつもりか?それとも、どこかへ誘い込んで罠にかけようとしているのか?」
と勝蔵は思った。とにかく、国分側が正面切ってケンカをするつもりが無いことは分かった。
(用心棒の犬上が来られなかったからか?それとも思ったよりも人数を集められなかったからか?)
なんにせよ、これではケンカにならない。
「仕方がねえ。後日、仕切り直すしかないな」
そういう訳で、勝蔵たちは一旦引き上げることにした。子分たちは皆ぶつくさ文句を言いながらぞろぞろと戸倉へ引き返した。
それから後日、勝蔵は再び果たし状を書いて三蔵へ送り届けた。そして日時を指定し、あらためて金川の河原で決闘を挑んだ。
半月後に二度目の、さらに半月後に三度目の対決となったが、結局国分一家の対応は一度目の時と同じだった。一定の距離を保ったまま決して仕かけてこようとせず、罵声を飛ばしたり石を投げてくるだけだった。
「これじゃあ、いつまで経っても埒が明かねえ。正面切ってケンカを仕かけるのは止めだ。バカバカしい」
こうして勝蔵は正攻法で三蔵と勝負することはあきらめた。
そもそもこちらの狙いは、兼吉を殺した千米寺村の源吉なのである。
とにかく源吉の居所を探し出して、源吉への復讐を果たすことに狙いを定めた。
それから更に一ヶ月後、ようやく源吉の居所を突き止め、石和の近くの和戸村で源吉の姿を発見した。
見つけたのは肥後の次三郎と信州の喜十郎の二人だった。
ここで会ったが百年目、というほど長くはかかってないが、ようやく源吉を見つけた二人からすれば大袈裟でなく、そんな気持ちだった。
この機を逃してなるものか!
とばかりに次三郎と喜十郎はすぐさま長脇差を抜いて源吉に斬りかかった。
源吉が二人に気づいた時は、もう手遅れだった。
逃げる暇もなく、バッサリと二人の長脇差の餌食となった。血みどろの源吉の死体が路上に転がる。
それから二人は、源吉の死体から兼吉の脇差を取り戻し、意気揚々と戸倉へ引き上げた。
二人が戸倉の本部へ戻ると、皆が二人の敵討ちを褒め称えた。勝蔵も「よくやった」と二人を褒め、ご祝儀の金も渡した。現代風に言えば、敵討ちの手柄をたてた「ボーナス」だ。
猪之吉は、自分の手で敵を討てなかったのは惜しかったと思いつつも、とにかく兼吉の無念が晴れたことを喜んだ。
が、その喜びもつかの間のことだった。
この翌日、黒駒一家の吉田村の房吉が、狐新井村で仙之助の子分、菱山の佐太郎など数人によって斬殺された。
のみならず、この日は坪井村でも黒駒一家の中川村の新左衛門が三蔵の子分数人によって斬殺されたのだった。
源吉を殺されたことに対する報復攻撃であることは明らかだった。
まさに血で血を洗う『仁義なき戦い』の世界である。
今度は二人も子分を殺され、勝蔵もとうとう堪忍袋の緒が切れた。
こうなったら、かつて大岩が言っていたように、
「多人数で三蔵屋敷へ討ち入って三蔵の首をあげる」
それしかないと決心した。そしてすぐに討ち入りの準備をはじめた。
今度は一人や二人を殺す、といったチャチな話ではない。なにしろ多人数で敵の屋敷へ斬り込むのだ。大量の人死にが発生することは目に見えている。次郎長が人を殺すたびに「長い草鞋を履く」、すなわち他国へ高飛びしたように、これだけ派手な刃傷沙汰を引き起こすとなれば、そのあと甲州にとどまることはできない。三蔵の首をみやげに、そのまま討ち入り部隊は甲州から脱出せざるを得ない。
その討ち入り部隊の人員は勝蔵の他、大岩・小岩、綱五郎、猪之吉などの四十人を選んだ。残りの半分は戸倉に残し、玉五郎に留守番の指揮を執らせることにした。
一同は水盃を飲み交わして別れの儀式を済ませ、それから勝蔵たち四十人は戸倉から出陣して行った。
「今、幸い祐天も三蔵屋敷にいるはずだ。目指すは三蔵と祐天の首だ。他の首には目もくれるな!」
と勝蔵が命令すると子分たちは「おう!」と応えて付き従った。
四十七士には少し足りないが、皆の心は赤穂義士と重なっているつもりである。とはいえ、季節は暑い盛りの六月であり、真冬の十二月に討ち入った赤穂浪士とはずいぶん趣きが異なっている。
勝蔵たちが金川を渡り、いざ国分村の三蔵屋敷へ近づこうとした時、猪之吉が叫んだ。
「あっ!あそこに代官所の捕り方が大勢いるぞ!」
三蔵屋敷の門前に石和代官所の捕り方、目明しの祐天仙之助、それに三蔵の子分たち、総計百人は優に超える軍勢が待ち構えていた。彼らの中には鉄砲を持っている者もいる。それを、目の良い猪之吉がいち早く遠間から見つけたのだ。
(罠か!奴らはこれを狙っていたのか!)
と勝蔵は愕然とした。
こうなっては討ち入りどころの騒ぎではない。
いくらなんでも石和代官所、すなわちお上に対して真正面から戦さを仕かけることはできない。目明しの仙之助などと小競り合いで済んでいる内はともかく、代官所の役人が本腰をあげて黒駒一家の一掃に乗り出してきたとなると、話の次元がいっきに変わってくる。
「お上への謀反」
となると、実家の小池家にも危難が及ばないとも限らない。
(あの腰抜けぞろいの甲府勤番役人が、まさか本気で立ち上がる日が来ようとは思わなかった!)
勝蔵としてはまったく意表を突かれた形となった。
「作戦失敗だ!みんな、すぐに逃げろ!」
こうして討ち入り部隊は散り散りとなって逃げ去った。
本来なら三蔵の首を取ってから逃げる予定だったのが、逃げるのが先になってしまった。とにかく逃げ道はもともと考えていたので、さっそくそれぞれ予定していた逃亡先へ向かった。
勝蔵は大岩・小岩、綱五郎、猪之吉の側近だけを連れて、東海道へ逃げるつもりだ。
他の子分たちには、
「当面の間はそれぞれの才覚で生き延びろ。いずれほとぼりが冷めたらまた黒駒に呼び寄せる」
そう言い聞かせて、いったん黒駒一家は解散となった。幸い一人も捕まることなく無事に逃げおおせた。
一時は百人近くもいた、甲州では最大規模を誇った博徒集団・黒駒一家は、たった三年の活動期間で消滅することになったのである。
勝蔵は東海道へ行く前にいったん戸倉へ立ち寄って玉五郎に事の顛末を説明した。
それで、玉五郎にはそのまま数名の子分と共に戸倉に残ってもらうことにした。この戸倉は山奥なので代官所の役人が大挙して攻めてくることはないだろう。もし万一そんなことがあっても、近くの山中へ逃げ入って山ごもりすることも可能だ。それに少人数であれば堀内喜平次の世話を受けてなんとかやっていけるだろう。
ということで玉五郎にはそのまま留守番を任せることになった。
一方、三蔵一家を実質的に支配し、八州廻りの指令で甲州に送り込まれた道案内(目明し)高萩の万次郎としては、念願の「竹居安五郎の捕縛」へ向けて、安五郎の右腕である勝蔵を甲州から追い払ったのは、その目的達成へ一歩前進という形になった。
このあと勝蔵は竹居安五郎にも別れのあいさつをしに行った。
安五郎親分を守ることができなくなって誠に申し訳ない。なにとぞ、親分も役人や目明しの追及からうまく逃げのびてください、と勝蔵は詫び事を述べた。
これに対し安五郎は、俺はこれまでもずっと身を隠し続けてきたから潜伏するのは慣れている。それよりお前たちこそ、逃げるのは初めてだろうから俺が潜伏する際の心得を教えてやる、といって勝蔵に身の隠し方を伝授した。
勝蔵たちは安五郎と別れたあと、富士川を下って駿河に出た。そして東海道を西へ進んで遠州を抜けて三河へ入り、平井の雲風亀吉のところで草鞋を脱いだ。以前、勝蔵が東海道の旅をした際に亀吉と懇意になっていたので、その縁を頼ったのである。亀吉は喜んで勝蔵たちを迎え入れた。
博徒の旅暮らしというと、これまでは次郎長たちが目明しに追われて各地を流浪していたものだが、勝蔵もとうとうそういった境遇に陥ってしまった。そして次郎長が何かある度に三河の寺津の間之助を頼っているように、勝蔵もこれ以降、何かと三河の亀吉を頼るようになる。
勝蔵は平井でしばらく滞在したあと、亀吉の紹介で岐阜の水野弥太郎という博徒のところへ行くことになった。
水野弥太郎、本名は弥三郎というが通称の弥太郎で名前が通っていた。
文化二年(1805年)生まれなのでこの年五十七歳。この世界では長老格にあたる人物で、岐阜の矢島町に住んでいる。同じ美濃の有力な博徒、関の小左衛門、神戸の政五郎と並んで「美濃三人衆」の一人として名高い。
ちなみにこの「美濃三人衆」という言葉は、戦国に詳しい人は知っているだろうが、信長と敵対していた斎藤義龍の家老、稲葉一鉄・安藤守就・氏家直元の「美濃三人衆」から取ったものと思われる(三人はのちに信長の家臣となる)。
勝蔵は弥太郎と会ってみて、驚いた。
「世の中に、こんな博徒がいるのか?」
と思わざるを得なかった。勝蔵がこれまで見てきた博徒というのはほとんどが荒くれ者ばかりで、字も読めない連中が多かった。それに反して弥太郎は武張った感じがほとんどなく、部屋には書画が飾ってあり、どう見ても学者か文人のような雰囲気なのである。
弥太郎の父は京都で医者をやっていた男で、西本願寺で典医を勤めていた。それで弥太郎も本来は医者になるはずだったところ、いつの間にやら博徒の道へ入り込んでしまった。父が西本願寺と縁があったことから弥太郎も京風文化を好んでおり、たびたび京都へ通っている。そうして京都へ出入りしているうちに、この当時、世間一般から先進的な思想と見られていた尊王攘夷思想にも触れることになった。それで、後の話になるが、弥太郎は新選組とも関係を持つようになる。
その弥太郎は、勝蔵が気に入ったようだった。
勝蔵は、博徒としてはかなり教養がある部類に入る。武藤藤太から学問を習い、読み書きも一通りはできる。しかも尊王攘夷思想にも武藤塾や江戸の千葉道場で触れている。弥太郎としても、同じ博徒で勝蔵のように最低限の教養を備えた人物に出会うことは稀だった。それで、この三十近くも年が離れた若者のことが気に入ったのだ。
むろん勝蔵が弥太郎を嫌う点などあるはずもなく、これ以降、三河の亀吉と並んで、この岐阜の水野弥太郎にもたびたび世話になるのである。
そのあと勝蔵たちは岐阜を去って伊勢へ向かった。伊勢古市の丹波屋伝兵衛を訪ねることにしたのだ。
伝兵衛は竹居安五郎や大場の久八と提携している伊勢きっての大親分で、勝蔵にとっても親分筋に当たる人物である。旅回りをしている勝蔵としても一度はあいさつをしておかねばならない相手だ。
古市は伊勢神宮のすぐ近くにある。その古市の遊郭で「精進落とし」をするかどうかはともかくとして、ここまで来て伊勢神宮に参拝しないなんてことはあり得ない。
それで勝蔵たちは伊勢の内宮へ向かった。
お伊勢講などの人々でごった返す門前町を通り抜けて宇治橋へ向かって歩いていると、向こうの宇治橋の方から見知った男たちが歩いて来るのを、また目の良い猪之吉が見つけた。
「親分。あれは以前、鰍沢の賭場で会った男たちじゃないですか?」
その男たちは次郎長の一行だった。大政などの子分たちも数名、引き連れている。
猪之吉は、あのとき次郎長に助けてもらったこともあり、しかもこの男が次郎長であるということも知らず、まして都田の吉兵衛を殺したり赤鬼金平と敵対している男であるということも知らない。それで、特に次郎長を敵視するような視線は送らなかった。
が、勝蔵は、確信しているわけではないにしろ、「あれは次郎長だったに違いない」と思っていたので、今は確実に自分の敵となった次郎長を鋭い目つきでにらんだ。
といって、こんな神聖な場所で斬った張ったのケンカなどできるはずがないことも、十分承知している。
やがてお互いの距離が縮まり、真正面から向かい合って足を止めた。
「おい、久しぶりだな、駿河の次郎さんよ。ところであんた、実は清水の次郎長なんだろう?」
「そうだ。黒駒の勝蔵。お前の噂もいろいろと聞いているぜ。甲州から追い出されたんだってなあ。お気の毒さまだ」
「そっちこそ、都田の吉兵衛を殺したあと、方々を逃げ回っているんだろう?吉兵衛は俺と誼を通じた仲だった。仲間を殺されたお礼はいつか必ず返すぜ」
「赤鬼の金平と一緒になってか?」
「他人の手を借りるまでもねえ。お前なんぞ、俺たちだけで十分だ」
「ふん。そいつは無理だな」
「何ィ?俺たちをナメてんのか」
この勝蔵の言うことに次郎長は答えず、ニヤッと笑みを浮かべただけでそのまま勝蔵の横を通り過ぎようとした。そしてすれ違いざまに、次郎長が静かな声で言った。
「金平とのケンカは手打ちになった。伝兵衛に聞けば分かる」
そう言い残して次郎長は子分たちと共に去って行った。
このあと勝蔵が古市に戻って伝兵衛に会ってみると、次郎長が言っていた言葉の意味が分かった。
次郎長は伝兵衛にケンカの仲裁を頼みに来たのだ。
そして話し合いのすえ、次郎長は敵対していた赤鬼金平と遠州菊川で手打ち式をおこなうことになった。
この手打ち式には、勝蔵も金平側の一人として参列することになる。
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