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第一章・青雲
第8話 千葉重太郎
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嘉永四年(1851年)の四月、竹居安五郎は新島への島送りとなった。
新島は伊豆七島の真ん中あたりに位置し、伊豆半島の下田から南東へ50キロほど行ったところにある。この伊豆七島は韮山代官・江川英龍の管轄下にあった。
そして安五郎を捕まえたのも、その江川であった。
この二年前、大場の久八と武州の幸次郎が『仁義なき戦い』さながらの抗争をくり広げていたことは前回書いた。その頃、久八の兄弟分である安五郎も手勢を従えて久八の地元(韮山のすぐ北にある)間宮へ援軍に向かったところ、そこで江川代官の部隊によって捕縛されたのだ。
これは安五郎にとって思いもよらない捕縛であった。
第一話で触れたように江川は以前、竹居村からそう遠くない郡内の代官を一時期つとめたこともあり、両者は知らぬ仲ではなかった。
それがかえって安五郎を油断させたのだろう。安五郎の一味が派手な格好をして歩いていたという事もあり、折りからの久八と幸次郎の抗争激化によって領民がおびえるなど博徒の横行を苦々しく思っていた江川が、見せしめとして安五郎を捕まえたのだった。
士気の低い八州廻りと違って江川は、自分の手元で農兵部隊を育成し、新式銃も配備している幕府内の最強硬派である。
決断すれば、ただちにやる。ご禁制である賭場を常習的に開いていた博徒の大親分・竹居安五郎を捕まえることは幕府にとって、決断さえすればいつでもできることだった。安五郎は目明しもつとめておらず、幕府には無用の男である。
しかも安五郎は博徒となる際に無宿人となっており、人別帳から外されている。生業についていない博徒や侠客というのは基本、無宿人である。
この時代、無宿人は人間扱いされない。
罪を犯した場合、無宿人は堅気の人間より一等重く裁かれる。それどころか、無宿人というだけで「佐渡送り」にされ、過酷な重労働に就かされたというケースも珍しくない(幕末までの百年間でおよそ二千人が佐渡送りにされ、多くの人間が佐渡の鉱山で亡くなっている)。要するに安五郎は、いつ捕まえられてもおかしくなかったのである。
そして前回も書いた通り、博徒の島送り(流罪)は基本「終身刑」である。
それゆえ「安五郎が島送りとなった」と聞いた人々は、皆一様に「これで二度と安五郎と会うことはあるまい」と思った。
むろん、勝蔵もそう思った。
勝蔵としては「地元の雄」としてある種の親近感を抱き、少なからず尊敬もしていた安五郎が島送りになったことを残念に思った。
一応、安五郎の子分たちは彼の兄甚兵衛がいくらか面倒を見てはいるものの、甚兵衛自身も名主を辞めさせられるなど竹居村の中村家は危機的状況にあった。しかし他家へ養子に出ていた彼らの兄弟、それはすなわち次男と三男なのだが、そういった兄弟も含めた一族全体が助け合って中村家はなんとか命脈を保っていた。
とはいえ、甲府を根拠地とする三井卯吉、さらにその代貸(若頭)として現在は石和や勝沼で活動している祐天仙之助など、安五郎と対立していた三井一家の勢力はここぞとばかりに安五郎の縄張りを奪いにかかった。
そういった訳でこのところ、安五郎一家の勢力は衰退の一途をたどっている。
この日、武藤家では、白衣に緋袴という巫女姿のお八重が庭のそうじをしていた。
十一歳となったお八重は、神主をつとめる武藤家でときどき巫女の役目についている。
彼女がほうきを持って庭の掃きそうじをしていると、門から猪之吉が入って来るのを見かけた。が、その様子を見て彼女は仰天した。
猪之吉は背中に弓を背負い、両手には血みどろのうさぎを一匹ずつぶら下げていたのだ。
ほうきを握ったまま呆然と立ち尽くすお八重のところまでやって来て、猪之吉はニッコリと獲物のうさぎをお八重に見せた。
「やあ、お八重ちゃん。今日は大猟だったから、一匹やるよ」
血みどろのうさぎを差し出され、お八重は卒倒しそうになるほど仰天したがなんとか持ちこたえ、作り笑顔で返答した。
「猪之吉さん、お気持ちはありがたいのだけれど……、ここは神社の神域だから、血だらけのけものを持ち込まれては困るの……」
そう言われても猪之吉には意味がよく分からない。神社だろうが寺だろうが、何か問題があるのだろうか?と思った。
甲州は山国なので、例えば海に近い地域などとくらべると獣肉に対する抵抗感がいくぶん薄い土地柄である。とはいえ、やはり当時の日本人は大体、四つ足や獣を食べることに少なからず抵抗感があった。
特にお八重は巫女で、神職に就いている。血の穢れはもっとも忌むべきものであった。お八重が卒倒しそうになるのも無理はない。
猪之吉は、もちろん純粋に肉をお八重に進呈する気持ちだった。さらに言うと、苦労して獲った獲物を自慢もしたかった。
が、それが意外にも不評だったので多少がっかりした。とはいうものの、お八重の笑顔が見れただけでも(猪之吉はそれを作り笑いとは知らずに)何とはなしに満足してしまった。
猪之吉はあれ以来、勝蔵の庇護のもと、山小屋に住みついて気ままな猟師生活を送っている。捕まえた獲物は自分で食べるほか、ときどき勝蔵のところへ持って行って金や米に替えてもらい、不猟の時は勝蔵から米を施してもらって食いつないでいる。楽な暮らしではないが以前の放浪生活とくらべれば雲泥の差だ。
そして何より猪之吉にとっては、勝蔵という兄貴分と一緒にいられることが生き甲斐となっていた。
お八重は猪之吉に尋ねた。
「勝蔵さんは相変わらずお元気?」
「ああ。多分ね」
「多分?最近会ってないの?」
「うん。今、勝の兄貴は江戸へ行ってるんだ」
「お江戸へ?それで最近あまり道場にいらしてなかったのね……」
「へへっ。兄貴に会えなくて寂しいんだろ?お八重ちゃん」
「そ、そんなこと……。変なこと言わないでちょうだい、猪之吉さん。……それで、勝蔵さんはどうしてお江戸へ?」
「よく分からないけど剣術の修行でしばらく江戸へ行くって言っていた。なんでも千葉とかいう人のところへ行ったらしい」
「へえ~、そうなの……。それでどれくらいで戻ってくるの?一年?二年?」
「何いってるんだよ。そんなに長く留守にするわけないじゃないか。そんなことになったら俺が困る。せいぜい一月、長くても二月ぐらいだって言ってた」
「なあんだ、そうだったのね。だけど……、うふふ。猪之吉さんこそ、勝蔵さんに会えなくて、とっても寂しがってるんじゃないの」
「だって、俺の兄貴だもの。早く帰ってこないかなあ。江戸から帰って来る日が、ほんとうに待ち遠しいよ」
「そうね……。早く戻って来てくれるといいわね……」
勝蔵が江戸へ行くことになったのはこれより一月ほど前、武藤家の道場で起きた出来事がきっかけだった。
その頃、江戸の千葉道場から千葉重太郎が出稽古にやって来たのだ。
以前から武藤藤太が千葉家に要請していた出稽古の願いを、この時になってようやくかなえてもらったのだった。
竹刀剣術の本場である千葉道場から来た重太郎の稽古は、武藤道場の剣士たちに大きな衝撃をあたえた。
中でも一番強い衝撃をうけたのは勝蔵だった。
この頃の勝蔵は武藤道場で最強の剣士に成長していた。ただし、勝蔵の剣術は技術も何もあったもんじゃなく、大柄な体格を活かして激しく竹刀を振り回し、あとは気合と度胸だけで相手を打ちのめす、といった態の乱暴な剣だった。この田舎道場ではそういった無手勝流の剣法でも無敵だったのだ。
そしてその日、勝蔵は重太郎との試合にのぞんだ。
重太郎は千葉周作の弟定吉の長男で、勝蔵より八つ年上である。このとき二十八歳。一般人よりはかなり大きめの体格だが、勝蔵のような大男にはさすがに及ばない。
中段に構えてピタリと動かない重太郎に対し、勝蔵はいつものように竹刀を振り回して乱打した。
しかし重太郎はそれらの打ち込みを冷静に受け止め、かつ的確に反撃した。その反撃はことごとく勝蔵の面・胴・小手へと入り、きれいに一本を決めた。
そのあと重太郎は素早い左右への身のこなしを披露し、流れるような足さばきで左右から勝蔵に攻撃をしかけた。勝蔵はその素早い動きに翻弄されつづけ、重太郎の体を追いかけるだけで精一杯、といったかたちになった。
まったくお手上げであった。完敗と言うしかない。
(本場の千葉道場の剣術が、これほど巧みなものだとは思わなかった)
と自分の未熟さを痛感した。
ただし、重太郎の華麗な剣術に多少の違和感を感じてもいた。
(真剣の殺し合いの際に、こんな華麗な技が本当に使えるものだろうか?)
ここまで理屈で整理された意識ではなかったが、直感として心に浮かんだ違和感は、ひらたく言えばそんな感じだった。
しかしながら勝蔵が剣術を習うのは「人殺しのため」というよりも、今はなにより「武士になるため」に習うのであって、そのために必要とあらば多少の違和感があろうとなかろうと、この千葉道場の剣術を習得するしかないのだ、と自分なりに納得した。
それで勝蔵は重太郎との稽古が終わったあと、さっそく重太郎に「江戸の千葉道場に入門したい」と申し込んだ。
重太郎はそれをこころよく受け入れた。そして勝蔵は稽古をつけてもらった縁から、本家のお玉が池の玄武館ではなく、定吉・重太郎親子の道場へ通うことに決めた。
そのあと勝蔵は家に帰ると父嘉兵衛に、江戸でしばらく剣術修行をしたい、と願い出た。
順序が逆であろう。完全に事後承諾を求めるかたちである。勝蔵としては、父に断られても何とかして江戸へ行くつもりでいる。
ところが嘉兵衛は意外にも、あっさりと許可した。
嘉兵衛からすれば、勝蔵が甲州で賭場に出入りするなどして博徒と関わりを持つよりは、もともと勝蔵の希望であった武士になる道へ進んでもらったほうが良い。そのためであれば多少の金を出してやることなど、むしろ賭場で浪費されるよりはるかにマシだ、と考えて許可したのだ。
それから半月後、江戸行きの準備を済ませた勝蔵は黒駒を発って江戸へ向かった。
黒駒から坂を下りて甲州街道に出ると一路、東へ向かった。勝沼を過ぎて山間部へ入ると笹子峠の難所を越え、大月、猿橋、上野原を過ぎ、最後に小仏峠を越えれば関東平野へと出る。
その間、犬目など富士山を見られる場所ではしばらく大好きな富士山を眺めた。勝蔵は、御坂峠を通って河口湖へ出る用事がある時はもちろん、用事がなくても天気の良い時はときどき御坂峠へ行って富士山を間近に見ている。だから別に、こんな離れた場所からわざわざ富士山を見なくても良いだろう、とは思うのだが、ふだん富士山を見られない黒駒に住んでいる者の悲しい性か、富士山が見られる場所へ来るとついつい見入ってしまうのだ。
そういった多少の道草はあったものの小仏峠を越えて駒木野へ出てからは八王子、日野、府中と過ぎ、そのあともずんずん進んでようやく内藤新宿まで来た。
ここから先は江戸である。ただし当時は現在のように明確な都市の境界線があったわけではない。が、江戸四宿、すなわち内藤新宿、品川、板橋、千住から中へ入ればだいたい皆「江戸へ入った」と実感した。
勝蔵が江戸へ来たのはこれが初めてではない。かつて父嘉兵衛に連れられて何度か来たことがあった。しかしこうやって一人で、しかも一月程度とはいえ当分のあいだ滞在する、というのは初めてだった。現在の地方出身者の大学生が初めて上京した時のように、わくわくする気持ちで大江戸の街路を歩き回った。
千葉定吉・重太郎親子の道場は新材木町というところにあった。現在で言うと日本橋堀留町一丁目、駅名だとだいたい小伝馬町や人形町の辺りである。千葉定吉の道場というと一般には八重洲にあった「桶町の千葉」として知られているが、そこへ移るのはこれよりしばらく後のこととなる。
勝蔵は道場に着くと定吉先生へのあいさつを済ませ、そのあと重太郎の指導のもと北辰一刀流を基礎から学び始めた。
といってもやはり、このとき二十歳の勝蔵だ。せっかく江戸へ出て来たというのに遊ばないわけにはいかないだろう。剣術修行の合間を見て、各地を歩き回った。
さすがに剣術修行の最中に賭場へ顔を出すのはまずかろう、とは思いつつも浅草へ行ったときなどは、その少し東の花川戸で、番太郎や町民が道端で一銭、二銭の小銭を賭けて楽しむ「ちょぼ一」をやっていたのでそれに加わって少しだけ遊んだ。また、奥山の矢場で矢場女を相手に楊弓を楽しむなど、俗っぽい遊びに興じたりもした。ちなみに「ちょぼ一」とはサイコロ一個を振る簡単な博打で、張り子は一から六までの好きな目に張り、当たったら胴親から四倍の額をもらう、といったものである。
そういった遊興の場で勝蔵は、たびたびこの一帯を取り仕切っている親分の名前を耳にした。
それは「新門辰五郎」といった。
浅草寺の前に伝法院という寺院があり、その少し西に「新門」という門がある。上野寛永寺と伝法院を結ぶ道に新しく作られた門なので、そう呼ばれた。その新門のすぐ脇に住んでいるのが新門辰五郎である。本職は火消しだが裏社会(侠客)の大親分として浅草一帯を牛耳っている。
とりあえず先に予告しておくと、勝蔵が将来、この任侠世界の大立者、新門辰五郎と何か具体的なかかわりを持つということは、ほとんどない。
勝蔵はそういった遊びもほどほどに、普段はまじめに剣術修行に励んでいる。
(それにしても、江戸には珍しい女子がいるものだ。甲州にこんな女子は一人としておるまい)
と勝蔵は、この道場へ来てからずっと感心している。
その女子はまだ少女から娘になりかけの小娘なのだが、父の定吉や兄の重太郎から剣術の手ほどきを受け、さらに薙刀や馬術まで学んでいるのである。
彼女は主に元服前の男の子たちと一緒に稽古をしており、ときどき男の子と試合をするとたいていの相手は彼女の素早さについていけず敗れてしまう、というほどの腕前を持っている。男の子たちは彼女のことを「千葉の鬼小町」と呼んでいる。
彼女の名は佐那という。歳は十四。
すっと通った鼻筋と涼やかな眼をしており、誰が見ても美人とみとめる顔立ちである。しかも父や兄から学問も学んでいる。
文武両道、才色兼備。フィクションや空想の世界ならこんな女性もいるかも知れないが、彼女の場合、あの宇和島の伊達宗城が残した『稿本藍山公記』にその記録が残っており、この五年後、広尾の伊達家下屋敷(現、渋谷区恵比寿三丁目。伊達児童遊園地のあたりにあった)へ前藩主・伊達宗紀の娘たちに剣術や馬術の指導をするために通い、その時の評価として「彼女の腕前や容姿はとても良い」と書かれているのである。
「佐那は容色も御殿中、第一にて、薙刀にも熟達し、世子殿も敗を取らるるくらい、珍しき婦人なり」
とあり、世子すなわち世継ぎの伊達宗徳(当時二十七歳)を薙刀で打ち負かしてしまったことが書かれている。さらに「佐那は器量(容姿)もよほどよろしく」といった記述もある。
ある日、稽古の合間に勝蔵が中庭の縁側で汗をふきながら休んでいると、そこへたまたま佐那もやってきて、二人っきりで顔を合わせるかたちとなった。
佐那が勝蔵に声をかけた。
「新入りさんですね。どちらから来られたのですか?」
「甲州から参った小池勝蔵と申す」
「甲州?というと……、武田信玄公と風林火山のところですね」
「ハッハッハ。他国の人は皆、それしか知らないんだよなあ。確かにそれしかないところだが」
「小池さんはこれまでどういった流派で剣を学んでいらしたのですか?」
「いや、甲州ではずっと自己流でやっていたから、恥ずかしながらちゃんとした剣術を学ぶのはこの千葉先生のところが初めてだ。それにしてもお佐那さんはその歳でその腕前とは、さすが先生の娘さんだ」
「いえ。まだまだ未熟者です」
「しかし、女子の身でそのように剣術を身に付けて、いったい将来、どうなさるおつもりか?仕官できるわけでもないでしょうに」
などと勝蔵は、ジェンダーやポリコレなどといった外国由来の堅苦しい概念が口うるさい現代であれば、非難ごうごうとなりそうな発言をさらっと言った。むろん、この当時であればこの感覚はごく自然なもので、勝蔵に悪意などあろうはずもなく、佐那もこれを悪意とは受け止めない。
「ご心配には及びません。大名や旗本の子女が剣術や薙刀を学ぶこともあるのです。私は将来、そういった方々をご指導するお役目に就くことを望んでおります」
「ははあ、なるほど。そういったお勤め先があるとは知らなかった。さすが江戸は大したものだ」
「それで、不躾ながら逆にお尋ねしますが、小池さんはなぜ、剣術を学ぼうとされているのですか?」
「おっと、これはしたり。今度はこっちが困ったことを聞かれてしまったな、ハハハ……。まあ包まず申せば、やはり武士になりたい、ということかな」
「なぜ武士になりたいのですか?」
「なぜ?と言われても……」
(なぜ武士になりたいのか?「武士になれば立派になれる」くらいのことしか今まで考えてなかったが……。彼女のようにしっかり将来を考えている女子の前でそんなことを言うのも、ちょっと決まりが悪いな……)
と思った勝蔵は、適当にごまかして答えた。
「まあ、武士になって、強い剣士になって、強い男になりたい、ということかな……」
「なるほど、ごもっともです。ところで、小池さんは水戸の斉昭公をご存じですか?」
「そりゃもちろん、お名前は存じているが……」
「尊王攘夷という言葉の意味はご存じですか?」
「うーん……、それは、武藤先生のところで聞いたことはあるが……、意味は……」
「お耳にされているということは一応、小池さんも捨てたものじゃありません。ですが、武士になられるのであれば、もう少し学問にもお力を入れられたほうがよろしいかも知れませんね」
と佐那はやさしく微笑みながら言い、丁寧に頭を下げてその場から去っていった。
勝蔵は多少決まりの悪い思いをしながらも、この才色兼備で、しかも物腰もやわらかな佐那という娘に対して好感を持った。それはまあ、勝蔵でなくとも、このような娘であれば誰だって好感を持つだろう。現代の若者が女性アイドルに憧れを抱くように、勝蔵もこの鬼小町にほのかな憧れを抱いたのだ。
勝蔵は修業期間を終えるといったん黒駒へ帰った。
その後、勝蔵は時々このような短期合宿のかたちで江戸へ出て剣術修行をし、それ以外の時は黒駒で実家の農業を手伝う、という生活を交互にくり返し、二年の月日が過ぎた。
そして嘉永六年(1853年)の四月、勝蔵が江戸の千葉道場で剣術修行をしている時に、一人の土佐人が道場へやって来て入門した。
その男は道場にあがると、定吉、重太郎、佐那、それに勝蔵も含めた門弟たちの前で自己紹介をはじめた。
「拙者、土佐から参った坂本龍馬と申す。国元では日根野道場で小栗流を学んでおりました。この度、日根野先生のご推挙により江戸で一年の剣術修行を許され、本日こちらへまかりこしました。皆様方におかれましては、何とぞよろしゅうお願い申し上げます」
新島は伊豆七島の真ん中あたりに位置し、伊豆半島の下田から南東へ50キロほど行ったところにある。この伊豆七島は韮山代官・江川英龍の管轄下にあった。
そして安五郎を捕まえたのも、その江川であった。
この二年前、大場の久八と武州の幸次郎が『仁義なき戦い』さながらの抗争をくり広げていたことは前回書いた。その頃、久八の兄弟分である安五郎も手勢を従えて久八の地元(韮山のすぐ北にある)間宮へ援軍に向かったところ、そこで江川代官の部隊によって捕縛されたのだ。
これは安五郎にとって思いもよらない捕縛であった。
第一話で触れたように江川は以前、竹居村からそう遠くない郡内の代官を一時期つとめたこともあり、両者は知らぬ仲ではなかった。
それがかえって安五郎を油断させたのだろう。安五郎の一味が派手な格好をして歩いていたという事もあり、折りからの久八と幸次郎の抗争激化によって領民がおびえるなど博徒の横行を苦々しく思っていた江川が、見せしめとして安五郎を捕まえたのだった。
士気の低い八州廻りと違って江川は、自分の手元で農兵部隊を育成し、新式銃も配備している幕府内の最強硬派である。
決断すれば、ただちにやる。ご禁制である賭場を常習的に開いていた博徒の大親分・竹居安五郎を捕まえることは幕府にとって、決断さえすればいつでもできることだった。安五郎は目明しもつとめておらず、幕府には無用の男である。
しかも安五郎は博徒となる際に無宿人となっており、人別帳から外されている。生業についていない博徒や侠客というのは基本、無宿人である。
この時代、無宿人は人間扱いされない。
罪を犯した場合、無宿人は堅気の人間より一等重く裁かれる。それどころか、無宿人というだけで「佐渡送り」にされ、過酷な重労働に就かされたというケースも珍しくない(幕末までの百年間でおよそ二千人が佐渡送りにされ、多くの人間が佐渡の鉱山で亡くなっている)。要するに安五郎は、いつ捕まえられてもおかしくなかったのである。
そして前回も書いた通り、博徒の島送り(流罪)は基本「終身刑」である。
それゆえ「安五郎が島送りとなった」と聞いた人々は、皆一様に「これで二度と安五郎と会うことはあるまい」と思った。
むろん、勝蔵もそう思った。
勝蔵としては「地元の雄」としてある種の親近感を抱き、少なからず尊敬もしていた安五郎が島送りになったことを残念に思った。
一応、安五郎の子分たちは彼の兄甚兵衛がいくらか面倒を見てはいるものの、甚兵衛自身も名主を辞めさせられるなど竹居村の中村家は危機的状況にあった。しかし他家へ養子に出ていた彼らの兄弟、それはすなわち次男と三男なのだが、そういった兄弟も含めた一族全体が助け合って中村家はなんとか命脈を保っていた。
とはいえ、甲府を根拠地とする三井卯吉、さらにその代貸(若頭)として現在は石和や勝沼で活動している祐天仙之助など、安五郎と対立していた三井一家の勢力はここぞとばかりに安五郎の縄張りを奪いにかかった。
そういった訳でこのところ、安五郎一家の勢力は衰退の一途をたどっている。
この日、武藤家では、白衣に緋袴という巫女姿のお八重が庭のそうじをしていた。
十一歳となったお八重は、神主をつとめる武藤家でときどき巫女の役目についている。
彼女がほうきを持って庭の掃きそうじをしていると、門から猪之吉が入って来るのを見かけた。が、その様子を見て彼女は仰天した。
猪之吉は背中に弓を背負い、両手には血みどろのうさぎを一匹ずつぶら下げていたのだ。
ほうきを握ったまま呆然と立ち尽くすお八重のところまでやって来て、猪之吉はニッコリと獲物のうさぎをお八重に見せた。
「やあ、お八重ちゃん。今日は大猟だったから、一匹やるよ」
血みどろのうさぎを差し出され、お八重は卒倒しそうになるほど仰天したがなんとか持ちこたえ、作り笑顔で返答した。
「猪之吉さん、お気持ちはありがたいのだけれど……、ここは神社の神域だから、血だらけのけものを持ち込まれては困るの……」
そう言われても猪之吉には意味がよく分からない。神社だろうが寺だろうが、何か問題があるのだろうか?と思った。
甲州は山国なので、例えば海に近い地域などとくらべると獣肉に対する抵抗感がいくぶん薄い土地柄である。とはいえ、やはり当時の日本人は大体、四つ足や獣を食べることに少なからず抵抗感があった。
特にお八重は巫女で、神職に就いている。血の穢れはもっとも忌むべきものであった。お八重が卒倒しそうになるのも無理はない。
猪之吉は、もちろん純粋に肉をお八重に進呈する気持ちだった。さらに言うと、苦労して獲った獲物を自慢もしたかった。
が、それが意外にも不評だったので多少がっかりした。とはいうものの、お八重の笑顔が見れただけでも(猪之吉はそれを作り笑いとは知らずに)何とはなしに満足してしまった。
猪之吉はあれ以来、勝蔵の庇護のもと、山小屋に住みついて気ままな猟師生活を送っている。捕まえた獲物は自分で食べるほか、ときどき勝蔵のところへ持って行って金や米に替えてもらい、不猟の時は勝蔵から米を施してもらって食いつないでいる。楽な暮らしではないが以前の放浪生活とくらべれば雲泥の差だ。
そして何より猪之吉にとっては、勝蔵という兄貴分と一緒にいられることが生き甲斐となっていた。
お八重は猪之吉に尋ねた。
「勝蔵さんは相変わらずお元気?」
「ああ。多分ね」
「多分?最近会ってないの?」
「うん。今、勝の兄貴は江戸へ行ってるんだ」
「お江戸へ?それで最近あまり道場にいらしてなかったのね……」
「へへっ。兄貴に会えなくて寂しいんだろ?お八重ちゃん」
「そ、そんなこと……。変なこと言わないでちょうだい、猪之吉さん。……それで、勝蔵さんはどうしてお江戸へ?」
「よく分からないけど剣術の修行でしばらく江戸へ行くって言っていた。なんでも千葉とかいう人のところへ行ったらしい」
「へえ~、そうなの……。それでどれくらいで戻ってくるの?一年?二年?」
「何いってるんだよ。そんなに長く留守にするわけないじゃないか。そんなことになったら俺が困る。せいぜい一月、長くても二月ぐらいだって言ってた」
「なあんだ、そうだったのね。だけど……、うふふ。猪之吉さんこそ、勝蔵さんに会えなくて、とっても寂しがってるんじゃないの」
「だって、俺の兄貴だもの。早く帰ってこないかなあ。江戸から帰って来る日が、ほんとうに待ち遠しいよ」
「そうね……。早く戻って来てくれるといいわね……」
勝蔵が江戸へ行くことになったのはこれより一月ほど前、武藤家の道場で起きた出来事がきっかけだった。
その頃、江戸の千葉道場から千葉重太郎が出稽古にやって来たのだ。
以前から武藤藤太が千葉家に要請していた出稽古の願いを、この時になってようやくかなえてもらったのだった。
竹刀剣術の本場である千葉道場から来た重太郎の稽古は、武藤道場の剣士たちに大きな衝撃をあたえた。
中でも一番強い衝撃をうけたのは勝蔵だった。
この頃の勝蔵は武藤道場で最強の剣士に成長していた。ただし、勝蔵の剣術は技術も何もあったもんじゃなく、大柄な体格を活かして激しく竹刀を振り回し、あとは気合と度胸だけで相手を打ちのめす、といった態の乱暴な剣だった。この田舎道場ではそういった無手勝流の剣法でも無敵だったのだ。
そしてその日、勝蔵は重太郎との試合にのぞんだ。
重太郎は千葉周作の弟定吉の長男で、勝蔵より八つ年上である。このとき二十八歳。一般人よりはかなり大きめの体格だが、勝蔵のような大男にはさすがに及ばない。
中段に構えてピタリと動かない重太郎に対し、勝蔵はいつものように竹刀を振り回して乱打した。
しかし重太郎はそれらの打ち込みを冷静に受け止め、かつ的確に反撃した。その反撃はことごとく勝蔵の面・胴・小手へと入り、きれいに一本を決めた。
そのあと重太郎は素早い左右への身のこなしを披露し、流れるような足さばきで左右から勝蔵に攻撃をしかけた。勝蔵はその素早い動きに翻弄されつづけ、重太郎の体を追いかけるだけで精一杯、といったかたちになった。
まったくお手上げであった。完敗と言うしかない。
(本場の千葉道場の剣術が、これほど巧みなものだとは思わなかった)
と自分の未熟さを痛感した。
ただし、重太郎の華麗な剣術に多少の違和感を感じてもいた。
(真剣の殺し合いの際に、こんな華麗な技が本当に使えるものだろうか?)
ここまで理屈で整理された意識ではなかったが、直感として心に浮かんだ違和感は、ひらたく言えばそんな感じだった。
しかしながら勝蔵が剣術を習うのは「人殺しのため」というよりも、今はなにより「武士になるため」に習うのであって、そのために必要とあらば多少の違和感があろうとなかろうと、この千葉道場の剣術を習得するしかないのだ、と自分なりに納得した。
それで勝蔵は重太郎との稽古が終わったあと、さっそく重太郎に「江戸の千葉道場に入門したい」と申し込んだ。
重太郎はそれをこころよく受け入れた。そして勝蔵は稽古をつけてもらった縁から、本家のお玉が池の玄武館ではなく、定吉・重太郎親子の道場へ通うことに決めた。
そのあと勝蔵は家に帰ると父嘉兵衛に、江戸でしばらく剣術修行をしたい、と願い出た。
順序が逆であろう。完全に事後承諾を求めるかたちである。勝蔵としては、父に断られても何とかして江戸へ行くつもりでいる。
ところが嘉兵衛は意外にも、あっさりと許可した。
嘉兵衛からすれば、勝蔵が甲州で賭場に出入りするなどして博徒と関わりを持つよりは、もともと勝蔵の希望であった武士になる道へ進んでもらったほうが良い。そのためであれば多少の金を出してやることなど、むしろ賭場で浪費されるよりはるかにマシだ、と考えて許可したのだ。
それから半月後、江戸行きの準備を済ませた勝蔵は黒駒を発って江戸へ向かった。
黒駒から坂を下りて甲州街道に出ると一路、東へ向かった。勝沼を過ぎて山間部へ入ると笹子峠の難所を越え、大月、猿橋、上野原を過ぎ、最後に小仏峠を越えれば関東平野へと出る。
その間、犬目など富士山を見られる場所ではしばらく大好きな富士山を眺めた。勝蔵は、御坂峠を通って河口湖へ出る用事がある時はもちろん、用事がなくても天気の良い時はときどき御坂峠へ行って富士山を間近に見ている。だから別に、こんな離れた場所からわざわざ富士山を見なくても良いだろう、とは思うのだが、ふだん富士山を見られない黒駒に住んでいる者の悲しい性か、富士山が見られる場所へ来るとついつい見入ってしまうのだ。
そういった多少の道草はあったものの小仏峠を越えて駒木野へ出てからは八王子、日野、府中と過ぎ、そのあともずんずん進んでようやく内藤新宿まで来た。
ここから先は江戸である。ただし当時は現在のように明確な都市の境界線があったわけではない。が、江戸四宿、すなわち内藤新宿、品川、板橋、千住から中へ入ればだいたい皆「江戸へ入った」と実感した。
勝蔵が江戸へ来たのはこれが初めてではない。かつて父嘉兵衛に連れられて何度か来たことがあった。しかしこうやって一人で、しかも一月程度とはいえ当分のあいだ滞在する、というのは初めてだった。現在の地方出身者の大学生が初めて上京した時のように、わくわくする気持ちで大江戸の街路を歩き回った。
千葉定吉・重太郎親子の道場は新材木町というところにあった。現在で言うと日本橋堀留町一丁目、駅名だとだいたい小伝馬町や人形町の辺りである。千葉定吉の道場というと一般には八重洲にあった「桶町の千葉」として知られているが、そこへ移るのはこれよりしばらく後のこととなる。
勝蔵は道場に着くと定吉先生へのあいさつを済ませ、そのあと重太郎の指導のもと北辰一刀流を基礎から学び始めた。
といってもやはり、このとき二十歳の勝蔵だ。せっかく江戸へ出て来たというのに遊ばないわけにはいかないだろう。剣術修行の合間を見て、各地を歩き回った。
さすがに剣術修行の最中に賭場へ顔を出すのはまずかろう、とは思いつつも浅草へ行ったときなどは、その少し東の花川戸で、番太郎や町民が道端で一銭、二銭の小銭を賭けて楽しむ「ちょぼ一」をやっていたのでそれに加わって少しだけ遊んだ。また、奥山の矢場で矢場女を相手に楊弓を楽しむなど、俗っぽい遊びに興じたりもした。ちなみに「ちょぼ一」とはサイコロ一個を振る簡単な博打で、張り子は一から六までの好きな目に張り、当たったら胴親から四倍の額をもらう、といったものである。
そういった遊興の場で勝蔵は、たびたびこの一帯を取り仕切っている親分の名前を耳にした。
それは「新門辰五郎」といった。
浅草寺の前に伝法院という寺院があり、その少し西に「新門」という門がある。上野寛永寺と伝法院を結ぶ道に新しく作られた門なので、そう呼ばれた。その新門のすぐ脇に住んでいるのが新門辰五郎である。本職は火消しだが裏社会(侠客)の大親分として浅草一帯を牛耳っている。
とりあえず先に予告しておくと、勝蔵が将来、この任侠世界の大立者、新門辰五郎と何か具体的なかかわりを持つということは、ほとんどない。
勝蔵はそういった遊びもほどほどに、普段はまじめに剣術修行に励んでいる。
(それにしても、江戸には珍しい女子がいるものだ。甲州にこんな女子は一人としておるまい)
と勝蔵は、この道場へ来てからずっと感心している。
その女子はまだ少女から娘になりかけの小娘なのだが、父の定吉や兄の重太郎から剣術の手ほどきを受け、さらに薙刀や馬術まで学んでいるのである。
彼女は主に元服前の男の子たちと一緒に稽古をしており、ときどき男の子と試合をするとたいていの相手は彼女の素早さについていけず敗れてしまう、というほどの腕前を持っている。男の子たちは彼女のことを「千葉の鬼小町」と呼んでいる。
彼女の名は佐那という。歳は十四。
すっと通った鼻筋と涼やかな眼をしており、誰が見ても美人とみとめる顔立ちである。しかも父や兄から学問も学んでいる。
文武両道、才色兼備。フィクションや空想の世界ならこんな女性もいるかも知れないが、彼女の場合、あの宇和島の伊達宗城が残した『稿本藍山公記』にその記録が残っており、この五年後、広尾の伊達家下屋敷(現、渋谷区恵比寿三丁目。伊達児童遊園地のあたりにあった)へ前藩主・伊達宗紀の娘たちに剣術や馬術の指導をするために通い、その時の評価として「彼女の腕前や容姿はとても良い」と書かれているのである。
「佐那は容色も御殿中、第一にて、薙刀にも熟達し、世子殿も敗を取らるるくらい、珍しき婦人なり」
とあり、世子すなわち世継ぎの伊達宗徳(当時二十七歳)を薙刀で打ち負かしてしまったことが書かれている。さらに「佐那は器量(容姿)もよほどよろしく」といった記述もある。
ある日、稽古の合間に勝蔵が中庭の縁側で汗をふきながら休んでいると、そこへたまたま佐那もやってきて、二人っきりで顔を合わせるかたちとなった。
佐那が勝蔵に声をかけた。
「新入りさんですね。どちらから来られたのですか?」
「甲州から参った小池勝蔵と申す」
「甲州?というと……、武田信玄公と風林火山のところですね」
「ハッハッハ。他国の人は皆、それしか知らないんだよなあ。確かにそれしかないところだが」
「小池さんはこれまでどういった流派で剣を学んでいらしたのですか?」
「いや、甲州ではずっと自己流でやっていたから、恥ずかしながらちゃんとした剣術を学ぶのはこの千葉先生のところが初めてだ。それにしてもお佐那さんはその歳でその腕前とは、さすが先生の娘さんだ」
「いえ。まだまだ未熟者です」
「しかし、女子の身でそのように剣術を身に付けて、いったい将来、どうなさるおつもりか?仕官できるわけでもないでしょうに」
などと勝蔵は、ジェンダーやポリコレなどといった外国由来の堅苦しい概念が口うるさい現代であれば、非難ごうごうとなりそうな発言をさらっと言った。むろん、この当時であればこの感覚はごく自然なもので、勝蔵に悪意などあろうはずもなく、佐那もこれを悪意とは受け止めない。
「ご心配には及びません。大名や旗本の子女が剣術や薙刀を学ぶこともあるのです。私は将来、そういった方々をご指導するお役目に就くことを望んでおります」
「ははあ、なるほど。そういったお勤め先があるとは知らなかった。さすが江戸は大したものだ」
「それで、不躾ながら逆にお尋ねしますが、小池さんはなぜ、剣術を学ぼうとされているのですか?」
「おっと、これはしたり。今度はこっちが困ったことを聞かれてしまったな、ハハハ……。まあ包まず申せば、やはり武士になりたい、ということかな」
「なぜ武士になりたいのですか?」
「なぜ?と言われても……」
(なぜ武士になりたいのか?「武士になれば立派になれる」くらいのことしか今まで考えてなかったが……。彼女のようにしっかり将来を考えている女子の前でそんなことを言うのも、ちょっと決まりが悪いな……)
と思った勝蔵は、適当にごまかして答えた。
「まあ、武士になって、強い剣士になって、強い男になりたい、ということかな……」
「なるほど、ごもっともです。ところで、小池さんは水戸の斉昭公をご存じですか?」
「そりゃもちろん、お名前は存じているが……」
「尊王攘夷という言葉の意味はご存じですか?」
「うーん……、それは、武藤先生のところで聞いたことはあるが……、意味は……」
「お耳にされているということは一応、小池さんも捨てたものじゃありません。ですが、武士になられるのであれば、もう少し学問にもお力を入れられたほうがよろしいかも知れませんね」
と佐那はやさしく微笑みながら言い、丁寧に頭を下げてその場から去っていった。
勝蔵は多少決まりの悪い思いをしながらも、この才色兼備で、しかも物腰もやわらかな佐那という娘に対して好感を持った。それはまあ、勝蔵でなくとも、このような娘であれば誰だって好感を持つだろう。現代の若者が女性アイドルに憧れを抱くように、勝蔵もこの鬼小町にほのかな憧れを抱いたのだ。
勝蔵は修業期間を終えるといったん黒駒へ帰った。
その後、勝蔵は時々このような短期合宿のかたちで江戸へ出て剣術修行をし、それ以外の時は黒駒で実家の農業を手伝う、という生活を交互にくり返し、二年の月日が過ぎた。
そして嘉永六年(1853年)の四月、勝蔵が江戸の千葉道場で剣術修行をしている時に、一人の土佐人が道場へやって来て入門した。
その男は道場にあがると、定吉、重太郎、佐那、それに勝蔵も含めた門弟たちの前で自己紹介をはじめた。
「拙者、土佐から参った坂本龍馬と申す。国元では日根野道場で小栗流を学んでおりました。この度、日根野先生のご推挙により江戸で一年の剣術修行を許され、本日こちらへまかりこしました。皆様方におかれましては、何とぞよろしゅうお願い申し上げます」
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