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第十二章(終章)・武蔵国にて

第39話 飯能戦争

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 寅之助たち振武軍しんぶぐん飯能はんのうに入ったのは、彰義隊戦争が終わってから三日後の五月十八日のことだった。
 しかるに江戸の新政府軍が飯能の振武軍討伐に軍を出動させたのは、その二日後の五月二十日のことである。

 まったくもって手際が良い。というか、これはちょっと手際が良すぎるであろう。
 江戸と飯能の間にはかなりの距離があり、そう簡単に往復できるような距離ではない。しかも軍を出動させるのにもいろいろと準備が必要なはずで、これほど果断に行動できたのは不思議である。

「内部に間諜かんちょうか内応者でもいたのだろうか?」
 と筆者としては疑ってみたくもなる。

 実は彰義隊戦争についても間諜や内応者、要するに「スパイによって彰義隊は負けたのだ」とする説も少なくない。
 例の『戊辰物語』にもその事が書かれていて、彰義隊の使い走りをしていた男が「どうも山の様子がすっかり官軍にわかっている。妙なもんだ。妙なもんだ」とぶつぶつ独り言を言っているのを見かけた男の話が載っている。また『幕末百話』にも彰義隊の体験談として「裏切りがあったんです。これで総崩れ。私は坂本の所で鉄砲を撃っていたんですが『ソレ裏切りだ』となってドッと総崩れとなった」という話が載っている。しかしまあ、スパイがいようといまいと、どのみち彰義隊が勝つ可能性など万に一つもなかったのだが。

 こういった薩長側の抜け目のなさは鳥羽伏見の戦いについてもよく聞く話で、鳥羽伏見でも幕府軍に紛れ込んでいた内応者が「活躍した」という話をよく見かける。
 ただし、こういった風に「実力で負けたんじゃない。相手がズルをしてスパイを使ったから負けたんだ」的な言い訳はいつの時代でもよく聞く話なので、額面通りに受け取るわけにはいかない。大体こんな言い訳が通用するはずがない。ズルだろうが何だろうが、相手のズルを見抜けなかった不手際を自らさらすようなもので「恥の上塗り」というものだ。

 とはいえ、彰義隊の規律はザル同然で「入り放題、去り放題」だったのだからそんな内応者がいたとしても不思議ではない。いやむしろ、内応者を送り込まないほうが不思議なぐらいで、多分そういう連中はいたのだろう。

 そして振武軍にも彰義隊の敗残兵が多く加わっている。
 もしその中に内応者がいたのだとすれば、この新政府軍の手際の良さもつじつまが合う。が、これは筆者の憶測に過ぎない。

 新政府軍は二十日に岡山藩兵を川越へ向かわせ、そこから指示を出して岡山、川越、おし、芸州の藩兵によって飯能の北から振武軍を攻める布陣を敷いた。
 そして二十一日には南から攻める新政府軍の本隊が江戸を出発した。陣容は大村、佐土原さどわら、福岡、久留米の藩兵で、田無たなし、所沢を通って翌二十二日に扇町屋おおぎまちやへ入り、そこに本陣を構えた。新政府軍の総勢はおよそ二千人である。

 この作戦を立案したのは長州の大村益次郎だが、実際に現場で兵を指揮するのは大村藩の渡辺清左衛門せいざえもん(のちの渡辺きよし)である。

 以前第九話で寅之助が番町の練兵館を訪れた際に、当時塾長だった大村藩士の渡辺のぼるが「オシコト!オシコト!」と叫びながら剣術の指導をしていた場面があった。この昇の兄が清左衛門である。
 鳥羽伏見直前の倒幕派というと薩長の他には芸州と土佐の二藩が、それほど旗幟きし鮮明ではないものの一応薩長に近い存在だった。しかし実はその他に大村藩も、一藩あげてという訳ではないにしろ、この渡辺兄弟を中心として薩長の倒幕派と協力していたのである。そして実際、渡辺清左衛門は鳥羽伏見の時に京都で薩長軍を助け、その後も西郷と共に東海道軍の指揮官として江戸まで従軍してきたのだった。しかも彼は彰義隊戦争の時も大村藩兵を率いて参戦し、長州藩兵と共に谷中口で戦っていた。
 さらに余談ながら「西郷・勝会談」の直前に横浜でパークスと面会したため、のちに「江城攻撃中止始末」という『史談会速記録』の談話を残し、「江戸開城はパークス一人でやったものだ」的な言説の生みの親として、図らずも有名になってしまった人物でもある。

 ともかくも、この渡辺が率いていた新政府軍は彰義隊戦争に勝利した直後で勢いに乗っており、兵士たちの士気はすこぶる高かった。



 この五月二十二日に新政府軍が飯能の北と南、正確には北東と南東に現れたという情報は、周辺に配置していた偵察部隊によってすぐに能仁寺のうにんじの振武軍本営へと伝えられた。飯能の南東にある扇町屋宿に入っているのが本隊と見られ、北東の高萩たかはぎ(現、日高市)の辺りにも別働隊が集まってきているという情報だった。

 成一郎たち振武軍首脳は、新政府軍があまりにも素早くやって来たことに驚いた。

 振武軍の総兵力は五百人弱しかいない。一方、敵の総兵力は正確には分からないが、どう見てもこちらの数倍はありそうだった。
 しかもその大きな軍勢がこちらの小さな軍勢に対して機先を制するかたちとなった。
 かなり分の悪い状況であることは明白である。

 すぐに首脳陣が能仁寺に集まって軍議を開くことになった。
(ここは大人しく秩父へ撤退したほうが良いだろう)
 と、頭取である成一郎は思った。が、そんな消極的な意見を頭取である自分から言い出すわけにはいかない、とも思った。
 おそらく自分以外のほとんどが、特に彰義隊の残党たちが「徹底抗戦」を唱えるはずで、実際、おそらくそうなる可能性が高い。となると、兵の士気を下げないためにも頭取である自分が撤退策を口にするわけにはいかない。それに、下手をすると連中は自分を殺してでも戦おうとするだろう。ここは一つ、新五郎さんに自分の意見を代弁してもらったほうが良い、と考えて事前にそのように新五郎へ伝えておいた。
 それを聞いた新五郎は嫌そうな顔をしたが、その方針自体には新五郎も賛成だったので、やむを得ずそれを引き受けたのだった。

 そんな訳で、軍議では新五郎が秩父への撤退策を述べた。
「ここはひとまず秩父へ退いて、後図こうとを計ったほうが良いのではなかろうか?」
 しかしながら案の定、彰義隊から新たに加わった幹部をはじめ、多くの幹部たちが新五郎を糾弾した。
「なんという臆病な言い草か!上野で戦った彰義隊のように潔く戦って雌雄を決すべきだ!」
「秩父へ退いたのちに戦うぐらいなら、今戦ったほうが良いに決まっている。いったん引き下がったら兵の士気はどんどん下がる」
「撤退戦となって敵に追撃されるほうがよっぽど危険だ」

 この軍議の席にはもちろん中軍の頭取である寅之助もいる。
 寅之助は新政府へのかたき討ちをするために振武軍へ身を投じたのだから当然、徹底抗戦派である。ただ、それが個人的な私怨であることは重々承知している。そのような個人的な感情のために中軍の部下たちを無意味に死なせるわけにはいかない。
 それで寅之助は意見を述べた。
「もし撤退するとしても、敵に一当てしてから撤退すべきだろう。今夜、敵に夜襲をかけ、もし上手くいかなかった場合は秩父へ撤退する、というのはどうか?」

 すると、この寅之助の意見を受けて成一郎が一変して強気になり
「うむ。その通りだ。敵が来たからといって一矢も放たずに撤退したとあっては天下の笑いものだ。今夜、敵に夜襲をかけよう!」
 と意気軒昂けんこうに述べたので一同、その意見に賛成した。新五郎にとってはいい面の皮であった。新五郎は憎々しげな表情をして隣りの成一郎をにらんでいた。

 軍議の結果、作戦は次のように決まった。
 寅之助が中軍の百人ほどを率いて、南から迂回して扇町屋の敵本陣を夜襲する。
 そして同じく平九郎が中軍の百人ほどを率いて、北の高萩方面の敵を夜襲する。
 さらに前軍の百人ほどの部隊を夜のうちに入間川いるまがわに近い最前線の野田村に伏せておいて、敵の本隊が来たら奇襲をかける。
 残りの部隊は飯能の防御に当たる。
 そして万一敵に敗れた場合は、秩父の三峰山みつみねさんへそれぞれが落ちのびて再結集する。
 以上である。

 寅之助たちは出陣の準備をして、夜を待った。



 そして夜になった。が、月明かりはなかった。
 当たり前である。二十二日の下弦かげんの月は午前零時を過ぎてからようやく東の空に現れる。旧暦、すなわち月を基準にした暦で生活している当時の日本人からすれば、現代の我々が「日曜日は休みだ」と思うのと同じくらい当たり前のことである。
 それで寅之助や平九郎の奇襲部隊は九つ(午前零時)を過ぎてから動き出すことにした。

 出陣前に寅之助が平九郎に語りかけた。
「信長の桶狭間のように見事、薩長軍を蹴散らして、歴史に残る大勝利をあげたいものだな、平九郎君」
「ええ、大いに一暴れしてみせましょう。ご武運を祈ります、吉田さん」
 しかしこれが、二人が顔を合わせた最後の場面となった。

 午前零時を過ぎ、寅之助と平九郎の部隊が飯能から出陣した。寅之助たちは南へ、平九郎たちは北へ向かった。ちなみに野田村に伏せておく部隊は早めに村へ入っていた。全員小銃を持った歩兵部隊である。

 雨は降ってないものの梅雨の終わり頃なので雲が多く、月明かりや星明かりはほとんど頼りにならなかった。といって、明かりを持って移動すれば敵に知られてしまうのでもちろん使えない。寅之助たちは暗い夜道を慎重に進み、南の入間川へ向かった。
 飯能の南東にある扇町屋までは大体十キロ弱の距離がある。そしてその中間には入間川が流れている。寅之助たち歩兵部隊は浅いところを選んで入間川を渡って行った。
鞭声べんせい粛粛しゅくしゅく、夜河を渡る、といったところだな。残念ながら馬はないが……)
 と寅之助は思った。おそらく寅之助だけに限らず、他の兵士の何人かも自分たちの夜襲を「川中島における上杉謙信の千曲川ちくまがわ渡河」になぞらえたことだろう。

 こうして寅之助たちの部隊が南から迂回して扇町屋を目指している頃、平九郎たち北へ向かった部隊はすでに新政府軍と遭遇していた。
 それは鹿山しかやま(現、日高市)という場所だった。ここから飯能へ進軍しようとしていた川越藩兵の斥候せっこう部隊とたまたま遭遇したのだった。
 たちまちお互い、闇雲に発砲し合った。が、暗闇の中での戦闘ということもあって川越藩兵はすぐに引き返していった。お互い死者は出ず、まったくの小競り合いに終わった。
 この出来事によって平九郎は、敵に夜襲を察知されたと思い夜襲を断念した。そして見張りの兵だけ残して中山(現、飯能市中山。飯能の北側)の智観寺ちかんじまで後退することにした。

 同じ頃、野田村の東に位置する笹井村でも同様のことが起こっていた。
 野田村に伏せていた振武軍の奇襲部隊が笹井村へ斥候を出したところ、すでに入間川を渡って笹井村に入っていた新政府軍の斥候とたまたまかち合ってしまったのだ。
 そこで振武軍の斥候が相手に向かって「誰か?」と誰何すいかした。
 すると相手は、同じ新政府軍の味方から誰何されたと勘違いして
「佐土原藩の小隊長、長谷川と申す者でござる」
 と答えた。
 これを受けて、すかさず振武軍の斥候は小銃を相手に向けて発射した。が、銃に不具合があって不発だった。そのため斥候はとっさに銃を振り上げて銃床で長谷川の頭を叩いた。
 しかし長谷川の傷は浅手だった。そして長谷川はすぐに刀を抜いて反撃し、その振武軍の斥候を斬り捨てた。
 それと同時に両軍の斥候同士による銃撃戦が始まった。そしてその背後にいた両軍の部隊、すなわち振武軍が野田村に伏せていた部隊と佐土原藩兵による銃撃戦となった。
 ただし佐土原藩兵の背後には、すでに大村藩兵をはじめとする新政府軍の主力部隊が控えていた。そしてその主力部隊が銃声を聞いて加勢に駆けつけて来たため、少数の振武軍はすぐに撤退していった。
 どのみち真っ暗闇の中で偶発的に起こった小競り合いに過ぎず、本格的な戦闘には至らなかった。
 さはさりながら、渡辺清左衛門が率いる新政府軍の主力は、すでに入間川を北へ渡っていたのだった。そして渡辺はその場で夜明けを待ち、夜が明け次第、総攻撃を開始するよう全軍に指示を出した。



 川の北側でこんな事が起こっているとはつゆ知らず、寅之助の部隊が扇町屋へ攻め寄せたところ、敵の本営はもぬけの殻だった。
 すでに新政府軍は渡辺が率いて全軍、入間川を北へ渡河していたのである。

 これも川中島の例で言えば、寅之助たちは謙信ではなくて逆に、妻女山さいじょさんを攻めた信玄軍の高坂こうさか弾正だんじょうや馬場美濃守みののかみのようなかたちになってしまった訳である。別働隊として敵陣に着いてみると、すでに敵の軍勢は自分たちの本隊へ向けて出陣した後だった、という事だ。
(なんということだ!夜襲作戦は大失敗だ!)
 と寅之助は天を仰いで嘆いた。
 現実の戦争は厳しい。そうそう歴史の英雄たちのように上手くはいかないのだ。
 寅之助たちは急いで飯能へと引き返した。しかしいくらも進まないうちに川の向こうから砲声が聞こえてきた。この頃にはもう、夜が明けつつあった。
 飯能で戦闘が始まったのである。


 笹井村にいた新政府軍は夜明けとともに西へ進み始めた。
 そして野田村にいた振武軍と銃撃戦になった。
 新政府軍は広く散開して、それぞれの部隊が建物や木といった遮蔽物しゃへいぶつを利用して銃撃をおこなった。兵の多くは元込め式のスナイドル銃を使用しており、振武軍の旧式銃よりは何倍も早く撃てた。そのうえ兵士の人数も圧倒的な差がある。
 そして極めつけは、新政府軍には四斤山砲しきんさんぽうという強力な大砲が数台あったということだ。この四斤山砲は大砲としては比較的軽量なので、この戦場へも数台運んできていた。別にアームストロング砲のような長距離砲などこの戦場では必要なく、四斤山砲で十分威力を発揮するのである。

 野田村の振武軍はしぶとく銃撃戦をおこなって抵抗を試みたが新政府軍の圧倒的な火力に押され、ほどなく西へ退却していった。
 新政府軍の指揮官である渡辺は野田村を制圧すると軍を二手に分けた。大村、佐土原、岡山の各藩兵は本隊としてこのまま真っ直ぐ西へ進み、福岡と久留米の藩兵は別働隊として北へ迂回し、双柳なみやなぎから中山を通って飯能の中心部へと進ませた。

 ちなみにこの飯能周辺の町民たちは皆すでに町外へ、例えば山の中などへ避難してしまっていた。事前に広まっていた戦争の噂によって早々と逃げてしまった者もいれば、この日の未明に発生した銃撃戦の銃声を聞いてにわかに逃げ出した者もいた。

 町の北側にある中山では平九郎たちの部隊が川越藩兵と銃撃戦をおこなっていた。
 未明に一度衝突して引き返していた川越藩兵が、夜が明けるとともに再び攻め寄せてきたのである。
 しかし平九郎の部隊は善戦して、川越藩兵を寄せつけなかった。川越藩兵は新政府軍といっても西国諸藩の兵と違ってそれほど強くはなかったのだ。
 ところが野田村から北へ回った福岡と久留米の部隊がやって来ると、平九郎たちは一気に劣勢に立たされた。
 平九郎たちはしばらく抵抗を続けたものの抗しきれず、本営の能仁寺へ退却した。中山の振武軍の拠点だった智観寺は新政府軍によって焼き払われた。

 この頃ようやく、寅之助の部隊が南から戻ってきて戦線に加わった。そして新政府軍の本隊を南側から銃撃した。
 ただし残念なことに奇襲部隊なので銃弾の備えをそれほど持っていなかった。それで手持ちの銃弾を撃ち尽くしたのち、振武軍の陣地の寺へ戻って銃弾を補充し、それから再び市街戦に加わった。
 そして本営の能仁寺にいた成一郎と新五郎も、戦闘の指揮をするために各寺を駆け回っていた。

 が、衆寡しゅうか敵せず。
 午前十一時頃には振武軍は完全に飯能から駆逐され、秩父方面の山中へと敗走した。
 そして振武軍の本営があった能仁寺は新政府軍の砲弾によって焼き払われた。また陣地として使っていた観音寺と広渡寺こうどじも焼かれ、さらに戦火によって二百軒の民家が焼失した。

 新政府軍からすれば鎧袖がいしゅう一触いっしょくと言っていい程の圧勝であった。
 事実、新政府軍を指揮していた渡辺は後年「戦争という程のものでもなかった」と豪語している。確かに比較的激戦だった彰義隊戦争と比べればそういう感想になったかもしれないが、渡辺はこの市街戦の際、銃弾が顔をかすめて傷を負っており、もう少しで死にかけていたのだから少々強気すぎる発言なのではなかろうか?とも思う。

 あっけなく戦争が終わってしまった。
 と思うかもしれないが、振武軍からすれば本当の戦争はここから始まるのである。

 彰義隊戦争の時も書いたように、敗残兵が捕まった場合、その多くは首を斬られることになる。
 そしてこの時も新政府軍の敗残兵狩りは徹底していた。北から川越、忍、芸州の藩兵が振武軍の退路を絶って秩父方面へ追い込む形を作っており、これらの藩兵はこれからそのまま山へ入って山狩りをおこなうのである。

 実は飯能の戦いで戦死した振武軍の兵士は十数名だが、この敗残兵狩りではそれ以上の死者が出ることになるのだ。

 振武軍は敗戦の混乱の中、バラバラになって逃走した。そして多くの敗残兵は秩父方面へ向かった。
 当初の取り決めとして「敗れた場合は秩父の三峰山へ落ちのびて再結集する」と決めてあったから、ということもあるが、実際に敵が手薄なのもその方面しかなかった。
 しかしながら飯能と秩父を結ぶ主要な道、すなわち吾野あがのを通って行く秩父往還などはすでに新政府軍によって押さえられている可能性が高く、いろんな脇道を通って秩父へ向かう必要があった。そしてそうやって山道を通っているうちに結局秩父へ向かわず、他所へ向かってしまった者も少なからずいた。

 寅之助は中軍の部下十名ほどと一緒に南西方面の山道へ向かった。
 そのため成一郎や新五郎、それに平九郎とは別々で動くことになった。
 寅之助たちは秩父往還よりかなり南回りで、途中名栗なぐり村(二年前の武州世直し一揆の発端となった村)を通って秩父へ向かった。このルートを通って秩父へ向かった兵士たちが一番多く、実際このルートは新政府軍の手がまだ及んでいなかった。そのためここを通った兵士たちは概ね無事、秩父の三峰山へたどり着いた。その一方、秩父往還の周辺やその北側では多くの敗残兵が新政府軍に捕まり、そのほとんどが首を斬られた。

 三峰山に着いた寅之助たちはここで成一郎、新五郎、平九郎などの幹部が到着するのを待つことにした。
(まったくひどいいくさだった……。こんなんじゃとても薩長軍に一矢報いたとは言えねえ。なんとしても、もう一度どこかで再起せねばならん。やはり会津へ行くのが一番良いだろう。それでもとにかく、成一郎さんたちが来なければハッキリとした計画が立てられぬ。早く来てくれれば良いが……)



 その頃、成一郎と新五郎は部下四人と共に吾野にいた。
 平九郎とは戦いの最中、別々で動いていたため、この逃避行も別行動となった。
 成一郎たちは吾野へ来る前に横手という、飯能から少し山へ入ったところに立ち寄ってきていた。
 その横手は一橋領だった。そしてそのツテを利用して成一郎は領民に道案内を要請し、その案内で、新政府軍の厳しい監視をくぐり抜けてなんとかこの吾野へ潜入したのだった。
 彰義隊が負けた時もそうだったように、この時も「敗残兵を匿った者は厳罰に処す」と領民たちには触れが回っていた。にもかかわらず、彼らは危険を冒して成一郎たちを助けたのだった。人の良い領民に助けてもらえた成一郎たちは運が良かった。
 ここで成一郎たちは町人姿に変装して北へ向かい、山越えをして秩父郡大野村(現、比企郡ひきぐんときがわ町大野)にたどり着いた。
 そしてここで名主の森田常右衛門に助力を求めたところ、これがまた人の良い人物で、成一郎たちを匿ってくれることになった。

 成一郎たちはここで数日滞在したのち、秩父へは行かず、そのまま北上して上州を目指すことにした。
 いまさら危険を冒して秩父へ向かう気にはならなかったのだ。

 振武軍の結成はまったくの失敗だった、と成一郎は痛感していた。
(振武軍をもう一度結集するなんて無意味だ。これから再起するとすれば会津を頼るか、榎本の艦隊を頼るしかない。どうせ自分は新政府側に名前を知られ過ぎている。捕まれば死罪は免れない。しばらく上州の僻地に潜伏して、そこでその後の身の振り方を考えるとしよう)

 振武軍の結成に後悔していたのは新五郎もまったく同じだった。
(彰義隊を作り、上様(慶喜)の助命が認められたところまでは良かったのだ……。しかしその後、彰義隊から別れて振武軍を作ったのは一体何のためだったのか?いや。意味などまったく無かった。ついついその場の勢いに流されて、成一郎の「一城の主となる」という夢の片棒を担いでしまったのだ。なぜ私は、どこかの場面で成一郎を止めなかったのか……)

 このあと成一郎と新五郎は上州の伊香保温泉にたどり着き、そこでしばらく潜伏することになった。



 一方、成一郎や新五郎とは別行動となった平九郎は、一人で顔振かあぶり峠(吾野の少し北の辺り)周辺の山中をさまよい歩いていた。
 途中、農家に入って助力を請い、百姓の服装をもらって着替えた。代わりに武士の服装と鉄砲を渡し
「持ってるのが恐ろしければ焼くなり捨てるなりしてくれ」
 と申しつけた。そして髷も町人風に結い直した。さらに茣蓙ござをもらって大小の刀をつつみ、それを背中に背負って歩くことにした。

 平九郎は山道を歩きながら初めて体験したいくさのことを思い起こしていた。
 事前に想像していたのと全然違っていた。特に新政府軍が使っていた大砲の威力に驚いた。事実、平九郎はその砲弾の破裂によって左足を負傷し、包帯を巻いている状態だった。
(大砲の威力があれほどのものとは思わなかった。これからは武士も大砲の使い方を学ばなければならないのか……。秩父へ逃れたら、私も大砲術を学んだほうが良いのかも知れぬ……)

 こうして平九郎が歩いていると峠で一軒の茶屋を見つけた。
 店の中をのぞくと老婆が一人いた。ちょうどいい、ここで一休みしよう、と思ってお茶と団子を頼んだ。
 しばらくすると老婆がお茶と団子を持ってきた。平九郎はそれをガツガツと食べ始めた。

 その老婆は、平九郎のことを「飯能で敗れた落ち武者であろう」と一目見ただけで分かった。この凛々しい顔とたくましい体、そして足の傷に加えて、太刀が入っているであろう茣蓙の包み。どう考えても落ち武者以外に考えられない、と。
「お前様は飯能から来なすったお武家様ではねえだか。この辺りには錦裂きんぎれを付けた官軍がいっぱいおるだ。そこの間道から南へお逃げになったほうがええだ」
「ふむ。これほど見事に変装したのによく分かったな、婆様。ただ、ご忠告はかたじけないが、あいにく拙者は北へ向かわねばならんのでそちらへは行けん」
「官軍に捕まったら首さ斬られるだよ」
「なに。そう簡単に捕まりはせん。もし見つかっても斬り抜けてみせるさ」
「お前様のように凛々しい若者がどうしてそう、死に急ぎなさるか。家へ帰れば嫁になりたがる娘っ子もたくさんおるだろうに。もっと自分の命を惜しみなされ」
「男は人から惜しまれて死んだほうが人の心に長く生き続けるのさ。それが武士というものだ」
「だけど、せめてその刀は置いていったほうが良くねえだか?なんなら婆が預かってやるだ」
「ふむ。やはり茣蓙にくるんでいても一目で刀と分かるか。それじゃあ、これも何かの縁だ。目立つ太刀のほうは婆様に預けるとして、脇差しだけ持ち歩くとしよう」
 それで平九郎は太刀を老婆に預けて、脇差しを懐へ入れて茶店を出た。

 それから平九郎がしばらく歩いて行くと黒山くろやま村というところへ来た。
 そこへ折悪しく、芸州藩の兵士三名が通りの向こうからやって来た。
 急に逃げ出せば逆に怪しまれる。ゆえに、平九郎は平然とした表情で通り過ぎようとした。
 が、やはり兵士たちから誰何すいかされた。
「待て。お前は誰だ?どこの村の者か?」
「私は隣り村の神社の神主でございます。けっして怪しい者ではございません」
「神主であるという何かあかしを持っているか?」
「あいにく今は持ち合わせておりませんが、神社へ戻ればございます」
「ふーむ……。ところで、その足の傷はどうした?」

 この尋問を受けて、平九郎は意を決した。
 懐の脇差しを抜き放って正面の男の右手首を斬り落とし、すかさず振り向いて後ろの男の眉間を斬りつけた。
 そして平九郎は叫んだ。
「我々にはまだ山上に六十人の仲間がおるのだぞ!」
 それから三人目の男に斬りつけようとした瞬間、その男はとっさに小銃で平九郎を撃った。その弾は平九郎の右足に当たった。が、平九郎の突進は止まらず、その男に斬りつけた。
 男は背中を見せて逃げようとしたところで背中を斬られた。しかしそれほど深手ではなかった。男は必死で逃げて平九郎から距離を取り、それから平九郎のほうを振り向いた。そして小銃に新たな弾を込めようとした。残りの二人は仲間のいるところへ走って逃げていった。

 平九郎は「もはやこれまで」と覚悟した。
 そして足を引きずりながら路傍まで行って、そこにあった盤石に座った。そのすぐ近くには大きなグミの木が立っていた。

 平九郎は男に向かって叫んだ。
「平九郎は武士だぞ!武士の死に様、しかとその目で見届けよ!」
 そう叫ぶと、脇差しを腹に刺して真一文字に切り、それから喉を突いて自決した。
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