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第十二章(終章)・武蔵国にて
第37話 振武軍、結成。いざ、上野へ
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いきなりだが訃報をお伝えしたい。
慶応四年(1868年)三月二十四日、甲山の根岸邸内にある終焉堂という小さな庵で、寺門静軒が七十三年の天寿をまっとうした。
静軒はこの物語の第一話で一番最初に登場した人物なのだが、その後まったく出番がなかった。そして二度目の登場がこの最終章で、しかも死去の場面というのはいささか気の毒な感じもするので、あれ以降の彼の足跡について多少触れておきたい。
彼はあの後、万延元年(1860年)に熊谷宿の北郊にある大里郡妻沼村(現、熊谷市妻沼。かつて熊谷駅から東武妻沼線が通っていた地域)に両宜塾を開いて学問を教えていた。両宜塾の塾名は「先生は宜しく老ゆべし、子弟は宜しく学ぶべし」という塾の学風に由来する。この塾はのちに静軒の弟子の松本万年という人物が継承するのだが、日本初の女医として知られる荻野吟子がこの塾に通っていた。荻野吟子は妻沼より少し利根川の下流にある俵瀬村の豪農の娘で、この年十八歳。そしてこの頃ちょうど結婚しており、実はこの結婚がのちのち彼女にとって大きな問題となるのだが、それはこの作品の本筋とはあまりに縁遠い話なので割愛せざるを得ない。
静軒は慶応三年に妻沼から熊谷へ、さらに甲山の根岸邸へと転居した。このころ根岸邸には娘のまちと娘婿の三蔵も暮らしており、この慶応四年の三月二十四日、静軒は娘夫婦や友山に看取られて七十三年の生涯を閉じた。
おそらく静軒は亡くなる前に幕府の倒壊を耳にしていたであろう。そして「まさか、あの幕府の倒れる日が本当に来ようとは」と感慨深く思ったことだろう。
幕府の終わりと共に殉死した川路聖謨と同列にすることはできないが、結果的には、寺門静軒も幕府と共にこの世から去っていった。
さて、ここで視点を北武蔵から江戸へと移す。
この三月二十四日は西暦で言うと4月16日にあたり、この頃はまだ桜が咲いている季節であったろう。ただしこの年、江戸では花見客があまりいなかったようだ。それはまあ、江戸が焼き討ちされるかどうかの瀬戸際だったのだから仕方があるまい。
前回書いた通り、「西郷・勝会談」によって新政府軍による「三月十五日の江戸総攻撃」は回避された。が、これで新政府軍が江戸を掌握した、というには程遠い状態だった。
どんな戦争でもそうだが「軍隊が都市を占領する」というのは並大抵のことではない。
なにしろ江戸は当時世界最大級の百万都市で、しかも徳川家のお膝元である。
そして江戸湾では旧幕府海軍の榎本艦隊がにらみを効かせており、陸軍も全部が全部武装解除したわけではない。
勝海舟が体を張って陸軍の暴発を抑えてはいるものの兵士は次々と脱走していった。そういった混乱の中で勝自身が兵士に銃撃され、勝には当たらなかったが勝の側近が数名死傷するといった事件もあった。それで、しまいには勝も脱走を容認するようになった。おそらく勝としても、危険の種が江戸に残るよりも関東周辺へ散っていったほうが何かと好都合だと思ったのだろう。
とにかく、こういった有り様だったのでまだまだ旧幕府軍は不穏な状態にあった。
そんな中、四月四日に京都の新政府から遣わされた勅使が江戸城に入った。
そして西郷・勝会談の際に話し合われた内容について、新政府側の回答が旧幕府側に伝えられた。
「慶喜は死罪とせず水戸での謹慎とする。徳川家の家名は残す。江戸城は一旦尾張家に預ける。軍艦や武器は一旦すべて引き取ったのち相当分は差し戻す」
といった内容だった。
そして十一日、新政府軍が江戸城に入り、いわゆる「江戸無血開城」となった。
が、これに合わせて榎本の艦隊が脱走して館山へ向かい、大鳥圭介も伝習隊を率いて下総(千葉)方面へ脱走した。また大鳥に続いて撒兵隊を率いる福田道直や江原鋳三郎(のちの素六)なども下総方面へ脱走した。ただしのちに榎本は八隻あった艦船のうち、四隻は新政府に差し出した。新政府の要求に少しは応えて、交渉が破談とならないよう折合う姿勢を見せたのである。とはいえ無論、虎の子の開陽丸は手元に残して渡さなかったが。
ちなみに榎本は陸軍奉行の松平太郎と相談して徹底抗戦を企て、新政府軍が江戸城に入るのを阻止しようとしたところ、松平太郎が慶喜から呼び出されて
「そのような暴挙は予の首に刃を当てるのも同じである」
と叱責されて中止した、という逸話もある。
この城明け渡しに先立ってこの日の未明、慶喜が上野寛永寺を出て水戸へ向かった。
そしてこの時も高橋泥舟が遊撃隊や精鋭隊を率いて護衛にあたり、他に西周などの幕臣も慶喜に随行した。
さらに渋沢成一郎など彰義隊の一部も千住まで随行して、そこで慶喜の一行を見送った。
その中には寅之助もいた。
寅之助は最後まで慶喜のことが好きになれなかったが、自分の人生に大きな影響を与えた男の最後を、とにもかくにも歴史の表舞台から去って行くその姿を、見届けたいと思ったのだ。
こうして慶喜が江戸を去り、徳川家の家名も一応は存続されることになり、旧幕臣たちは、重しが取れたように活気づいた。
下総へ向かった大鳥圭介の軍およそ二千は国府台に集まったのち北上を開始し、日光を目指した。その途中、各所で新政府軍と戦いながら、四月十九日には宇都宮城を陥落させた。このとき戦った旧幕府軍の中には土方歳三もいた。ちなみに彼の盟友である近藤勇は四月三日に流山で投降し、二十五日に板橋で斬首された。
旧幕府軍は宇都宮城の占領にいったんは成功したものの、すぐに新政府軍が増援部隊を派遣して攻勢に出て、二十三日には新政府軍が宇都宮城を取り戻した。その後、大鳥たち旧幕府軍は日光へ退き、それから会津へ向かった。
大鳥たちの後を追うように国府台へやって来た福田、江原たち撒兵隊は閏四月三日、市川・船橋周辺で新政府軍と戦った。
撒兵隊は中山の法華経寺(現在の中山競馬場の近く)と船橋大神宮に陣を構えて新政府軍と戦い、初戦は優勢だったものの、ここでもやはり新政府軍の増援部隊が到着すると一転して劣勢となり、結局は敗れて撒兵隊は四散した。
この戦いによって市川と船橋では大きな火災が発生し、特に船橋は船橋大神宮も含めた広範囲が焼失した。ちなみにこの戦いで敗れた撒兵隊の江原鋳三郎は、敵兵と取っ組み合いになったり足を撃たれたりして死にかけた話を手記として残している。江原は奇跡的に助かって四谷の自宅へ帰りつき、そのあと所々を転々として潜伏し、生き延びた。維新後、素六と名乗り、政治家、教育者となって麻布中学校などを作った。
一方その頃、江戸では彰義隊が浅草の東本願寺から上野の山へ移っていた。
移ったのは三月半ば以降のことで当初は慶喜の護衛のためという名目だったのだが、慶喜が去ったあとも上野に居座り続けていた。
この事を巡って彰義隊で内紛が勃発した。
頭取である成一郎は上野から退去することを主張した。
「すでに上様が水戸へ御退去された以上、我々が上野にいても仕方がない。もしここで薩長と戦うことになれば江戸の町に害が及ぶかも知れず、何よりここは地の利がない。いっそ東照大権現様の日光へ移ったほうが得策である」
成一郎としては上様(慶喜)の助命が成就された時点で、一番の目的は達せられたのである。もはや成一郎にとって彰義隊の存在意義はほとんどなくなっていた。
ただ、このまま敗軍の一人として終わるのは確かに自分としても面白くない。もし新政府軍が崩れる場面があれば、そのスキを突いてどこかで割拠したいという考えもある。割拠するのであれば自由に動ける地方のほうが良い。こんな目立つかたちで江戸に留まっていては、いずれ一網打尽にされてしまうに決まっている、というのが成一郎の考えである。
しかしながら、成一郎を除くほとんどの隊士はそこまで深く物事を考えてはいない。
この勢いのある彰義隊で一旗あげてやろう、できれば薩長をぶっ潰してやろう、などとただ単純に考えているだけである。
この頃になると彰義隊は旧幕臣だけの組織ではなくなっており、雑多な人間が集まるようになっていた。中には純粋に徳川家への忠義心から集まった者もいるにはいるが、無頼の浪士や町人、それに金目当ての者なども多く加入し、軍隊としての秩序や規律はほとんど有名無実と化していた。
その彼らが成一郎の言うような「上野の山を去って江戸から離れる」などという話に賛同するはずがなかった。
なにしろこの上野の彰義隊には勢いがあった。ゆえに、ここを去るのは惜しい、と思うのも無理はなかった。
このころ彰義隊は新政府に反抗する江戸の拠点、いや、東日本の拠点とも言うべき存在となっていたのである。
前回も書いたように、何と言ってもこの上野寛永寺には輪王寺宮というかけがえのない人物がいる。
慶喜が去ったあと、彰義隊がお神輿として担ぐべき存在は輪王寺宮しかいないのだ。
しかもその輪王寺宮の側近である覚王院義観が新政府を激しく敵視しており、彰義隊を強力に後押ししていた。まだ二十二歳の輪王寺宮がこういったきわどい政治的判断などできるはずもなく、寺の実務は義観と竹林院光映の二人が差配していた。そしてこの光映も義観と同じく新政府を敵視して彰義隊に肩入れしていた。
言うなれば、この義観と光映が彰義隊という暴走機関車に、ありったけの石炭を放り込んでいたのである。
ちょうどこのころ、新政府軍が上野の山を取り囲んで威圧し、山を新政府軍の陣地として明け渡すよう寛永寺に命令したことがあった。けれども寺はこれを拒絶した。そして数日後、新政府側も一旦これをあきらめて包囲を解いた、という事件があった。
この事件によって義観や彰義隊はますます意気盛んとなり「西軍(新政府軍)くみしやすし」といった機運が高まっていたのである。
これほど勢いのある彰義隊が江戸を去るなど、多くの隊士たちからすればあり得ない話だった。
輪王寺宮がおられる上野の山だからこそ、これほどの勢力を保ち得るのだ。この勢いで、いずれ関八州を我々の手に取り戻すのだ、と彼らの野望は大きく膨らんでいた。
この「上野に残って正面から西軍(新政府軍)と対峙すべき」と主張する隊士たちの代表者は天野八郎だった。
そして「上野を去るべき」と主張する成一郎たちと天野派との対立はのっぴきならない状態となり、ついに天野派の隊士が成一郎を襲撃するという事態にまで発展した。
が、成一郎はなんとかその場から逃げのびて、危機を脱した。
そして成一郎は、新五郎や寅之助と相談して彰義隊から去ることに決めた。
「まったくあいつらはどうかしておる。西軍から狙われるのならまだしも、身内から狙われたのではたまったものではない。新五郎さん、吉田君、ここは潔く彰義隊から離れて我々独自の軍を起こそうではないか」
新五郎は黙って成一郎の意見にうなずいた。これまでずっと地元の下手計村にいた新五郎としては、こういった政争に巻き込まれた経験がなく、とにかく成一郎に判断を委ねるしかなかったのだ。
一方、寅之助は成一郎に意見を述べた。
「彼らは上野を去ることの他に、成一郎さんが江戸の豪商から盛んに軍費を調達していることも気に入らないようだ。確かにちょっとやりすぎなんじゃないんですか?」
「何を言うか。金がなくては戦はできんよ、吉田君。大体、江戸の町民は彰義隊に感謝しているんだから金なら喜んで出すさ。それに新しく我々の軍を起こすのだから、これからもどんどん軍費を調達しないと軍を維持できないではないか」
「それはまあ、その通りだし、俺にはそんな軍費調達の手腕もありませんから成一郎さんにお任せしますがね、彼らは成一郎さんが本当に西軍と戦う意志があるのかどうかを疑っているんじゃないですか?」
「西軍と対峙するために作ったのが彰義隊だ。その頭取だった私が西軍の軍門に下るなど、できるはずがないではないか。もちろん戦う意志はある」
「それを聞いて安心しました」
寅之助は松吉と健次郎の敵討ちをするために彰義隊へ入ったのだ。もし成一郎に戦う意志がないのであれば寅之助も上野に残ろうと思っていたのだが、成一郎の本心を聞いてこのままついて行くことに決めた。
そして成一郎はおよそ百人ほどを率いて彰義隊を脱退し、その際
「誓って西軍とはならぬこと、西軍に降伏せぬこと」
を天野たちに約束した。
その後、成一郎の部隊は堀之内村(現、杉並区堀ノ内)へ移り、そこの「信楽」という茶屋で軍議を開いた。その結果、さらに西にある田無村(現、西東京市田無町)を拠点として駐屯することに決めた。ただしその前に、あらためて人員の募集ならびに軍費や武器の調達を行ない、隊を再結集することした。
この隊がのちに「振武軍」と呼ばれることになるのである。
とはいえ、後に三千人とも四千人とも言われる規模にまで膨れ上がる彰義隊とは比較にならない程、小さな軍である。
そんな訳で、成一郎たちが抜けたあとも彰義隊の勢いはとどまるところを知らなかった。
前回も引用した塚原渋柿園の『明治元年』や岩波文庫の『戊辰物語』を読むと、この頃の彰義隊や脱走兵たちが如何に江戸の人々から人気があったか分かる。
もちろん、西国人ばかりの新政府軍に屈するかたちとなった江戸人が悔しく思うのは当たり前のことで、そのうえ新政府軍は強く、旧幕府軍は弱い。その弱いのを贔屓にする判官びいきもあって、とにかく彰義隊や脱走兵は人気があった。実際、旧幕臣の青年が江戸でぶらぶらしていると「あの誰さんは脱走一つしようとしないで!」といった風に後ろ指を指される始末だった。
塚原はたまたま、次のような場面を見かけたという。ある老齢の夫婦が遅くして授かった一粒種の男児を兵営へ連れて来て「この何太郎を是非兵士として加えてやって下さい。自分は年なので差し控えますが、これが討ち死にしたと聞きましたら夫婦一緒に死ぬ覚悟でございます。本当は手放したくありませんが、せめて人並みの男にしてやりたいのです」とぼろぼろ泣きながら老夫婦は頼んでいたという。塚原はその男児のことを知っていたのだが、その男児は運良く討ち死にしなかったらしい。
ただし岩波文庫の『幕末百話』にはもっと露骨な話もあり、入るつもりはなかったのに「入らないと殺す」と脅されて無理やり彰義隊に入れられた男の話なども載っている。
そして「戦時下」ということで通常の商いが不調な一方、盛り場や遊女屋はたいへん繁盛していた。「いつ死ぬとも分からない兵士たち」が遊女屋へ通いつめるのは古今東西、変わりはない。特に吉原は上野から近いということもあって彰義隊の隊士たちがよく通っていた。
彰義隊は義観の後ろ盾があったのでなかなか金回りが良かった。なんせ寛永寺は広大な上野の山を占有していたのだから金はある。金払いがよく、しかも江戸っ子が多いので隊士たちは吉原でモテモテだった。「情夫に持つなら彰義隊」と言うのが遊女たちの口癖で、逆に新政府軍の兵士たちはひどく遊女たちから嫌われていた。
このころ新政府軍は筒袖服の肩のあたりに官軍の印である「錦裂」を付けていたのだが、それに反発する江戸の人々は「錦裂取り」を試みようとしてしょっちゅう新政府軍の兵士たちとモメていた。が、モメ事はそれだけで収まらず、夜中に彰義隊の隊士や新政府軍の兵士が斬られるという事件もたびたび起こるようになっていた。そういった事件は大体、吉原、浅草、上野といった両陣営の兵士たちがかち合いやすい盛り場で起こっていた。
ところが彰義隊が勢いづいてくると、隊士たちは意図的に新政府の藩士たちを襲撃するようになり、薩摩、佐賀、鳥取などの藩士が各所で斬殺された。
その頃にはすでに彰義隊は市中見回りの任務を解かれ、新政府軍がその任務にとって代わっていた。これらの襲撃事件はその反発の意味も込められていた。
彰義隊の市中見回りの任務を解いたのは、京都から新しく送り込まれてきた長州藩の大村益次郎だった。
西郷の宥和路線に業を煮やした京都の新政府が、大村に彰義隊討伐の指揮を執らせようとしたのである。
そのため新政府は岩倉と並ぶ新政府の重鎮、三条実美も関東大監察使として江戸へ送り込んだ。三条は「七卿落ち」以降、長州で長く匿われていた経験があり、長州藩士の大村を支えるために送り込まれたのだった。
西郷の宥和路線は彰義隊や勝海舟の増長を招く結果となってしまった、と京都の新政府は見ていた。
事実、彰義隊は上記の通り、増長していた。そして勝も、西郷が勝を信頼して任せきっているのにつけ込んで次々と要求をエスカレートさせていた。
本来、勝は彰義隊や脱走兵を抑える役回りだったのだが、この頃になると逆に彰義隊や脱走兵による混乱を利用するようになっていた。「この混乱を抑えるためには上様(慶喜)を水戸から江戸へ呼び戻して再び徳川家に江戸の統治を任せるべきだ」とか、「徳川家の石高を削ると反発はもっと大きくなるので石高を削ってはならない。新政府の運営に必要な分は諸藩同様、徳川家からも一定程度は差し出す」などといった過大な要求を新政府に突きつけていたのだ。まあ、確かに交渉事というのは「最初は図々しいぐらい高めの球を投げておいて、そこから少しずつ要求を引き下げる」というのがセオリーであり、いかにも図太い勝らしいやり方ではある。
しかし、これではもはや「西郷・勝会談」の合意などあってなきが如しで、西郷としては立場がない。
実は京都の新政府では既に「徳川家の駿河移転、新石高は七十万石」という方針を決めていた。
ただしこれを先に発表してしまうと彰義隊や旧幕臣たちの反発は必至なので、これを秘したまま閏四月二十九日に「徳川宗家を田安亀之助に相続させる」と発表した。
新政府としてはひとまず徳川家の家名存続を正式に承認し、旧幕府を安心させるためにワンクッション入れた形ではあるのだが、一番肝心な駿河移転および七十万石の公表は
「旧幕府に一発ガツンとかまして、相手の気勢をくじいてから」
ということにした訳である。
ともかくも、新政府は西郷に代えて「江戸平定」の指揮を大村に任せることにしたのだった。
そんな新政府の強硬方針を知る由もない寛永寺側は、というか義観は、反新政府の姿勢を崩さなかった。いや、おそらく義観はそれを知らされたとしても姿勢を変えなかったであろう。それほど彼の姿勢は頑なだった。
このころ義観は諸藩へ檄文を送っていた。その内容をかいつまんで言えば、大体以下の通りである。
「昨年の暮れ以来、四藩(薩摩、長州、土佐、芸州)の兇賊が幼主(天皇)をだまし申し、日本の歴史上、かつて見たこともない暴虐非道をおこなっている。よろしく大義の旗をたてて兇賊どもをただし、国家の危機を救うべし。我らの勝算、もとより疑いなし」
すでに東北では閏四月二十日、仙台藩士たちが、新政府軍の参謀で長州藩士の世良修蔵を暗殺し、東北諸藩は列藩同盟の結成に向けて動き出していた。それと時を同じくして白河口で会津藩と新政府軍の戦いが始まっていた。さらに五月二日には長岡藩の家老、河井継之助と新政府軍の小千谷談判が決裂し、それからほどなく北越戦争が開始された。
この頃、江戸では福地源一郎が、現代の新聞のハシリのような『江湖新聞』を創刊しており、それ以外にもいくつか新聞が創刊されていた。そしてそれらの新聞は盛んに東北、北越諸藩の戦勝を報じていた。事実、この頃は各地で東北、北越諸藩が善戦していた。とはいえ、それ以上に、江戸では「東北、北越諸藩が勝ったと書かないと新聞が売れない」という事情もあった。福地自身がのちに「旧幕府側の戦勝を派手に称賛し、甚だしきは戦勝の空説や政治の虚説をワザと書いた」と告白しており、当時その読者であった塚原も「多くは見てきたような嘘ばかり書いてあった」と述べている。が、まだこの初戦の頃、新政府軍が各地で苦戦していたのは事実である。
義観と彰義隊の背後にはこれら東北、北越諸藩という強い味方がいたのである。
それゆえ「西軍、何するものぞ」と意気軒昂だったのだ。
しかし彰義隊がこれ以上暴れると「慶喜の助命および徳川家の家名存続」がフイになってしまうかも知れない。それを恐れた旧幕府は山岡鉄太郎を寛永寺へ派遣して義観を説得した。が、義観はこれを拒絶した。
一方、新政府の側も、少なくとも輪王寺宮を上野から引き離すために宮や義観を江戸城へ呼び出そうとした。しかし二人は病気と称して登城せず、こちらも交渉は失敗に終わった。
一時期は彰義隊を駆け引きの道具として利用していた勝海舟も、戦争になるのを避けるために必死で仲裁に動いたが効き目がなかった。のらりくらりと立ち回っていられる内は彰義隊もブラフ(ハッタリ)として利用できるが、相手が戦争を決意した以上、もはや平身低頭するしかない。「なぜ、それが分からないのか?」と勝は義観を憎んだ。
万策は尽きた。処置なし、ということである。
となれば、行き着くところまで行くしかない。
そて、そろそろ田無へ行った成一郎や寅之助たちの様子へ目を向けよう。
彼らが堀之内村から青梅街道を西へ行き、田無に着陣したのは五月一日のことで、そのころ振武軍はおよそ三百人の部隊になっていた。本陣は西光寺(現在の総持寺)に置かれた。
振武軍の頭取が渋沢成一郎であることは言うまでもない。ただし彼はこの時「大寄隼人」という変名を用いていた。
また尾高新五郎は会計頭取という役職だが実質副頭取のような立場にあり、彼もまた「榛沢新六郎」という変名を用いていた。
が、面倒なのでここでは「成一郎、新五郎」のままで通すことにする。
ところがこの振武軍は田無での滞在もそこそこに、さらに青梅街道の先にある箱根ヶ崎村(現、東京都西多摩郡瑞穂町。八高線が走っている所)へと転陣することにしたのだった。
田無だと江戸の新政府軍から一日で攻撃される距離なので、一日では届かない距離の箱根ヶ崎まで退くことにしたのである。転陣したのは五月十二日のことだった。
そして成一郎は田無から江戸の番町まで各所に騎馬の伝令を配置して「上野でドンという砲声を聞いたらすぐに馳せ戻ってこい」と命じておいた。
その知らせが箱根ヶ崎に届き次第、振武軍は彰義隊の援軍として駆けつけるつもりなのである。
ちなみにこの振武軍は前軍、中軍、後軍の三軍に分けられており、寅之助は中軍の頭取に、また渋沢平九郎は中軍の組頭に就いていた。
箱根ヶ崎への転陣の途中、歩きながら寅之助が平九郎に話しかけた。
「箱根ヶ崎まで転陣するなんて腰が引けすぎていると思わないか?平九郎君」
「昔と違って今の喜作……、いや成一郎さんは用心深くなりましたからねえ」
「こんなに江戸から遠く離れたら彰義隊の応援に間に合わないんじゃないだろうか?」
「まあ彰義隊は三千人もいるんだから、そう簡単に破られはしないでしょうよ」
「まったく、そう願いたいもんだ。ところで成一郎さんから聞いたんだが、君は江戸の自宅を発つ時に『人の楽しみを楽しむ者は人の憂いを憂う。人の食を喰う者は人の事に死す』と障子に大書してきたそうじゃないか。どういう意図なのかね?」
「あっ、成一郎さんが話しちゃったんですか……、恥ずかしいなあ、もう。……いや、我々武士は人から食わせてもらうんだから、人のために戦って死ぬ、と、ただその覚悟を記しただけのことですよ。まあ私は武士になったばかりの俄か武士ですけどね」
「そうか。立派な心掛けだ。ただ、俺が戦う理由は鳥羽伏見やその他で死んだ朋友の敵討ちなんだ。どうせ俺は継ぐべき家もなければ妻子もない。だが、君は篤太夫さんの跡取りだ。君たちの一族が強く望んでいた上様の助命は一応かなえられた。それなのに、君はまだ戦うつもりなのか?」
「だって上様を追い落とした薩長賊の天下なんて見たくないでしょう?どうせロクな世になりゃしませんよ。それに、養父がパリから帰ってきた時に『よく幕府のために戦った』と褒めてもらいたいじゃないですか」
「そうか……」
この日、振武軍の一同は箱根ヶ崎の円福寺に入った。
そしてその三日後、すなわち五月十五日、箱根ヶ崎の本陣に早馬が届いた。
「ご注進!今朝、上野で盛んに砲声が聞こえたとのこと。よって早駆けで伝えに参った。とりあえずこの段、ご注進申し上げる!」
これを受けて頭取の成一郎は全軍に
「それっ、出陣じゃ!」
と下知し、振武軍はすぐに江戸へ向けて出陣した。
もちろん寅之助も欣喜雀躍として出陣した。
(いよいよ、松吉と健次郎を殺した奴らに目にもの見せてやる日が来たか!)
振武軍は青梅街道をひた走って江戸へ向かった。
慶応四年(1868年)三月二十四日、甲山の根岸邸内にある終焉堂という小さな庵で、寺門静軒が七十三年の天寿をまっとうした。
静軒はこの物語の第一話で一番最初に登場した人物なのだが、その後まったく出番がなかった。そして二度目の登場がこの最終章で、しかも死去の場面というのはいささか気の毒な感じもするので、あれ以降の彼の足跡について多少触れておきたい。
彼はあの後、万延元年(1860年)に熊谷宿の北郊にある大里郡妻沼村(現、熊谷市妻沼。かつて熊谷駅から東武妻沼線が通っていた地域)に両宜塾を開いて学問を教えていた。両宜塾の塾名は「先生は宜しく老ゆべし、子弟は宜しく学ぶべし」という塾の学風に由来する。この塾はのちに静軒の弟子の松本万年という人物が継承するのだが、日本初の女医として知られる荻野吟子がこの塾に通っていた。荻野吟子は妻沼より少し利根川の下流にある俵瀬村の豪農の娘で、この年十八歳。そしてこの頃ちょうど結婚しており、実はこの結婚がのちのち彼女にとって大きな問題となるのだが、それはこの作品の本筋とはあまりに縁遠い話なので割愛せざるを得ない。
静軒は慶応三年に妻沼から熊谷へ、さらに甲山の根岸邸へと転居した。このころ根岸邸には娘のまちと娘婿の三蔵も暮らしており、この慶応四年の三月二十四日、静軒は娘夫婦や友山に看取られて七十三年の生涯を閉じた。
おそらく静軒は亡くなる前に幕府の倒壊を耳にしていたであろう。そして「まさか、あの幕府の倒れる日が本当に来ようとは」と感慨深く思ったことだろう。
幕府の終わりと共に殉死した川路聖謨と同列にすることはできないが、結果的には、寺門静軒も幕府と共にこの世から去っていった。
さて、ここで視点を北武蔵から江戸へと移す。
この三月二十四日は西暦で言うと4月16日にあたり、この頃はまだ桜が咲いている季節であったろう。ただしこの年、江戸では花見客があまりいなかったようだ。それはまあ、江戸が焼き討ちされるかどうかの瀬戸際だったのだから仕方があるまい。
前回書いた通り、「西郷・勝会談」によって新政府軍による「三月十五日の江戸総攻撃」は回避された。が、これで新政府軍が江戸を掌握した、というには程遠い状態だった。
どんな戦争でもそうだが「軍隊が都市を占領する」というのは並大抵のことではない。
なにしろ江戸は当時世界最大級の百万都市で、しかも徳川家のお膝元である。
そして江戸湾では旧幕府海軍の榎本艦隊がにらみを効かせており、陸軍も全部が全部武装解除したわけではない。
勝海舟が体を張って陸軍の暴発を抑えてはいるものの兵士は次々と脱走していった。そういった混乱の中で勝自身が兵士に銃撃され、勝には当たらなかったが勝の側近が数名死傷するといった事件もあった。それで、しまいには勝も脱走を容認するようになった。おそらく勝としても、危険の種が江戸に残るよりも関東周辺へ散っていったほうが何かと好都合だと思ったのだろう。
とにかく、こういった有り様だったのでまだまだ旧幕府軍は不穏な状態にあった。
そんな中、四月四日に京都の新政府から遣わされた勅使が江戸城に入った。
そして西郷・勝会談の際に話し合われた内容について、新政府側の回答が旧幕府側に伝えられた。
「慶喜は死罪とせず水戸での謹慎とする。徳川家の家名は残す。江戸城は一旦尾張家に預ける。軍艦や武器は一旦すべて引き取ったのち相当分は差し戻す」
といった内容だった。
そして十一日、新政府軍が江戸城に入り、いわゆる「江戸無血開城」となった。
が、これに合わせて榎本の艦隊が脱走して館山へ向かい、大鳥圭介も伝習隊を率いて下総(千葉)方面へ脱走した。また大鳥に続いて撒兵隊を率いる福田道直や江原鋳三郎(のちの素六)なども下総方面へ脱走した。ただしのちに榎本は八隻あった艦船のうち、四隻は新政府に差し出した。新政府の要求に少しは応えて、交渉が破談とならないよう折合う姿勢を見せたのである。とはいえ無論、虎の子の開陽丸は手元に残して渡さなかったが。
ちなみに榎本は陸軍奉行の松平太郎と相談して徹底抗戦を企て、新政府軍が江戸城に入るのを阻止しようとしたところ、松平太郎が慶喜から呼び出されて
「そのような暴挙は予の首に刃を当てるのも同じである」
と叱責されて中止した、という逸話もある。
この城明け渡しに先立ってこの日の未明、慶喜が上野寛永寺を出て水戸へ向かった。
そしてこの時も高橋泥舟が遊撃隊や精鋭隊を率いて護衛にあたり、他に西周などの幕臣も慶喜に随行した。
さらに渋沢成一郎など彰義隊の一部も千住まで随行して、そこで慶喜の一行を見送った。
その中には寅之助もいた。
寅之助は最後まで慶喜のことが好きになれなかったが、自分の人生に大きな影響を与えた男の最後を、とにもかくにも歴史の表舞台から去って行くその姿を、見届けたいと思ったのだ。
こうして慶喜が江戸を去り、徳川家の家名も一応は存続されることになり、旧幕臣たちは、重しが取れたように活気づいた。
下総へ向かった大鳥圭介の軍およそ二千は国府台に集まったのち北上を開始し、日光を目指した。その途中、各所で新政府軍と戦いながら、四月十九日には宇都宮城を陥落させた。このとき戦った旧幕府軍の中には土方歳三もいた。ちなみに彼の盟友である近藤勇は四月三日に流山で投降し、二十五日に板橋で斬首された。
旧幕府軍は宇都宮城の占領にいったんは成功したものの、すぐに新政府軍が増援部隊を派遣して攻勢に出て、二十三日には新政府軍が宇都宮城を取り戻した。その後、大鳥たち旧幕府軍は日光へ退き、それから会津へ向かった。
大鳥たちの後を追うように国府台へやって来た福田、江原たち撒兵隊は閏四月三日、市川・船橋周辺で新政府軍と戦った。
撒兵隊は中山の法華経寺(現在の中山競馬場の近く)と船橋大神宮に陣を構えて新政府軍と戦い、初戦は優勢だったものの、ここでもやはり新政府軍の増援部隊が到着すると一転して劣勢となり、結局は敗れて撒兵隊は四散した。
この戦いによって市川と船橋では大きな火災が発生し、特に船橋は船橋大神宮も含めた広範囲が焼失した。ちなみにこの戦いで敗れた撒兵隊の江原鋳三郎は、敵兵と取っ組み合いになったり足を撃たれたりして死にかけた話を手記として残している。江原は奇跡的に助かって四谷の自宅へ帰りつき、そのあと所々を転々として潜伏し、生き延びた。維新後、素六と名乗り、政治家、教育者となって麻布中学校などを作った。
一方その頃、江戸では彰義隊が浅草の東本願寺から上野の山へ移っていた。
移ったのは三月半ば以降のことで当初は慶喜の護衛のためという名目だったのだが、慶喜が去ったあとも上野に居座り続けていた。
この事を巡って彰義隊で内紛が勃発した。
頭取である成一郎は上野から退去することを主張した。
「すでに上様が水戸へ御退去された以上、我々が上野にいても仕方がない。もしここで薩長と戦うことになれば江戸の町に害が及ぶかも知れず、何よりここは地の利がない。いっそ東照大権現様の日光へ移ったほうが得策である」
成一郎としては上様(慶喜)の助命が成就された時点で、一番の目的は達せられたのである。もはや成一郎にとって彰義隊の存在意義はほとんどなくなっていた。
ただ、このまま敗軍の一人として終わるのは確かに自分としても面白くない。もし新政府軍が崩れる場面があれば、そのスキを突いてどこかで割拠したいという考えもある。割拠するのであれば自由に動ける地方のほうが良い。こんな目立つかたちで江戸に留まっていては、いずれ一網打尽にされてしまうに決まっている、というのが成一郎の考えである。
しかしながら、成一郎を除くほとんどの隊士はそこまで深く物事を考えてはいない。
この勢いのある彰義隊で一旗あげてやろう、できれば薩長をぶっ潰してやろう、などとただ単純に考えているだけである。
この頃になると彰義隊は旧幕臣だけの組織ではなくなっており、雑多な人間が集まるようになっていた。中には純粋に徳川家への忠義心から集まった者もいるにはいるが、無頼の浪士や町人、それに金目当ての者なども多く加入し、軍隊としての秩序や規律はほとんど有名無実と化していた。
その彼らが成一郎の言うような「上野の山を去って江戸から離れる」などという話に賛同するはずがなかった。
なにしろこの上野の彰義隊には勢いがあった。ゆえに、ここを去るのは惜しい、と思うのも無理はなかった。
このころ彰義隊は新政府に反抗する江戸の拠点、いや、東日本の拠点とも言うべき存在となっていたのである。
前回も書いたように、何と言ってもこの上野寛永寺には輪王寺宮というかけがえのない人物がいる。
慶喜が去ったあと、彰義隊がお神輿として担ぐべき存在は輪王寺宮しかいないのだ。
しかもその輪王寺宮の側近である覚王院義観が新政府を激しく敵視しており、彰義隊を強力に後押ししていた。まだ二十二歳の輪王寺宮がこういったきわどい政治的判断などできるはずもなく、寺の実務は義観と竹林院光映の二人が差配していた。そしてこの光映も義観と同じく新政府を敵視して彰義隊に肩入れしていた。
言うなれば、この義観と光映が彰義隊という暴走機関車に、ありったけの石炭を放り込んでいたのである。
ちょうどこのころ、新政府軍が上野の山を取り囲んで威圧し、山を新政府軍の陣地として明け渡すよう寛永寺に命令したことがあった。けれども寺はこれを拒絶した。そして数日後、新政府側も一旦これをあきらめて包囲を解いた、という事件があった。
この事件によって義観や彰義隊はますます意気盛んとなり「西軍(新政府軍)くみしやすし」といった機運が高まっていたのである。
これほど勢いのある彰義隊が江戸を去るなど、多くの隊士たちからすればあり得ない話だった。
輪王寺宮がおられる上野の山だからこそ、これほどの勢力を保ち得るのだ。この勢いで、いずれ関八州を我々の手に取り戻すのだ、と彼らの野望は大きく膨らんでいた。
この「上野に残って正面から西軍(新政府軍)と対峙すべき」と主張する隊士たちの代表者は天野八郎だった。
そして「上野を去るべき」と主張する成一郎たちと天野派との対立はのっぴきならない状態となり、ついに天野派の隊士が成一郎を襲撃するという事態にまで発展した。
が、成一郎はなんとかその場から逃げのびて、危機を脱した。
そして成一郎は、新五郎や寅之助と相談して彰義隊から去ることに決めた。
「まったくあいつらはどうかしておる。西軍から狙われるのならまだしも、身内から狙われたのではたまったものではない。新五郎さん、吉田君、ここは潔く彰義隊から離れて我々独自の軍を起こそうではないか」
新五郎は黙って成一郎の意見にうなずいた。これまでずっと地元の下手計村にいた新五郎としては、こういった政争に巻き込まれた経験がなく、とにかく成一郎に判断を委ねるしかなかったのだ。
一方、寅之助は成一郎に意見を述べた。
「彼らは上野を去ることの他に、成一郎さんが江戸の豪商から盛んに軍費を調達していることも気に入らないようだ。確かにちょっとやりすぎなんじゃないんですか?」
「何を言うか。金がなくては戦はできんよ、吉田君。大体、江戸の町民は彰義隊に感謝しているんだから金なら喜んで出すさ。それに新しく我々の軍を起こすのだから、これからもどんどん軍費を調達しないと軍を維持できないではないか」
「それはまあ、その通りだし、俺にはそんな軍費調達の手腕もありませんから成一郎さんにお任せしますがね、彼らは成一郎さんが本当に西軍と戦う意志があるのかどうかを疑っているんじゃないですか?」
「西軍と対峙するために作ったのが彰義隊だ。その頭取だった私が西軍の軍門に下るなど、できるはずがないではないか。もちろん戦う意志はある」
「それを聞いて安心しました」
寅之助は松吉と健次郎の敵討ちをするために彰義隊へ入ったのだ。もし成一郎に戦う意志がないのであれば寅之助も上野に残ろうと思っていたのだが、成一郎の本心を聞いてこのままついて行くことに決めた。
そして成一郎はおよそ百人ほどを率いて彰義隊を脱退し、その際
「誓って西軍とはならぬこと、西軍に降伏せぬこと」
を天野たちに約束した。
その後、成一郎の部隊は堀之内村(現、杉並区堀ノ内)へ移り、そこの「信楽」という茶屋で軍議を開いた。その結果、さらに西にある田無村(現、西東京市田無町)を拠点として駐屯することに決めた。ただしその前に、あらためて人員の募集ならびに軍費や武器の調達を行ない、隊を再結集することした。
この隊がのちに「振武軍」と呼ばれることになるのである。
とはいえ、後に三千人とも四千人とも言われる規模にまで膨れ上がる彰義隊とは比較にならない程、小さな軍である。
そんな訳で、成一郎たちが抜けたあとも彰義隊の勢いはとどまるところを知らなかった。
前回も引用した塚原渋柿園の『明治元年』や岩波文庫の『戊辰物語』を読むと、この頃の彰義隊や脱走兵たちが如何に江戸の人々から人気があったか分かる。
もちろん、西国人ばかりの新政府軍に屈するかたちとなった江戸人が悔しく思うのは当たり前のことで、そのうえ新政府軍は強く、旧幕府軍は弱い。その弱いのを贔屓にする判官びいきもあって、とにかく彰義隊や脱走兵は人気があった。実際、旧幕臣の青年が江戸でぶらぶらしていると「あの誰さんは脱走一つしようとしないで!」といった風に後ろ指を指される始末だった。
塚原はたまたま、次のような場面を見かけたという。ある老齢の夫婦が遅くして授かった一粒種の男児を兵営へ連れて来て「この何太郎を是非兵士として加えてやって下さい。自分は年なので差し控えますが、これが討ち死にしたと聞きましたら夫婦一緒に死ぬ覚悟でございます。本当は手放したくありませんが、せめて人並みの男にしてやりたいのです」とぼろぼろ泣きながら老夫婦は頼んでいたという。塚原はその男児のことを知っていたのだが、その男児は運良く討ち死にしなかったらしい。
ただし岩波文庫の『幕末百話』にはもっと露骨な話もあり、入るつもりはなかったのに「入らないと殺す」と脅されて無理やり彰義隊に入れられた男の話なども載っている。
そして「戦時下」ということで通常の商いが不調な一方、盛り場や遊女屋はたいへん繁盛していた。「いつ死ぬとも分からない兵士たち」が遊女屋へ通いつめるのは古今東西、変わりはない。特に吉原は上野から近いということもあって彰義隊の隊士たちがよく通っていた。
彰義隊は義観の後ろ盾があったのでなかなか金回りが良かった。なんせ寛永寺は広大な上野の山を占有していたのだから金はある。金払いがよく、しかも江戸っ子が多いので隊士たちは吉原でモテモテだった。「情夫に持つなら彰義隊」と言うのが遊女たちの口癖で、逆に新政府軍の兵士たちはひどく遊女たちから嫌われていた。
このころ新政府軍は筒袖服の肩のあたりに官軍の印である「錦裂」を付けていたのだが、それに反発する江戸の人々は「錦裂取り」を試みようとしてしょっちゅう新政府軍の兵士たちとモメていた。が、モメ事はそれだけで収まらず、夜中に彰義隊の隊士や新政府軍の兵士が斬られるという事件もたびたび起こるようになっていた。そういった事件は大体、吉原、浅草、上野といった両陣営の兵士たちがかち合いやすい盛り場で起こっていた。
ところが彰義隊が勢いづいてくると、隊士たちは意図的に新政府の藩士たちを襲撃するようになり、薩摩、佐賀、鳥取などの藩士が各所で斬殺された。
その頃にはすでに彰義隊は市中見回りの任務を解かれ、新政府軍がその任務にとって代わっていた。これらの襲撃事件はその反発の意味も込められていた。
彰義隊の市中見回りの任務を解いたのは、京都から新しく送り込まれてきた長州藩の大村益次郎だった。
西郷の宥和路線に業を煮やした京都の新政府が、大村に彰義隊討伐の指揮を執らせようとしたのである。
そのため新政府は岩倉と並ぶ新政府の重鎮、三条実美も関東大監察使として江戸へ送り込んだ。三条は「七卿落ち」以降、長州で長く匿われていた経験があり、長州藩士の大村を支えるために送り込まれたのだった。
西郷の宥和路線は彰義隊や勝海舟の増長を招く結果となってしまった、と京都の新政府は見ていた。
事実、彰義隊は上記の通り、増長していた。そして勝も、西郷が勝を信頼して任せきっているのにつけ込んで次々と要求をエスカレートさせていた。
本来、勝は彰義隊や脱走兵を抑える役回りだったのだが、この頃になると逆に彰義隊や脱走兵による混乱を利用するようになっていた。「この混乱を抑えるためには上様(慶喜)を水戸から江戸へ呼び戻して再び徳川家に江戸の統治を任せるべきだ」とか、「徳川家の石高を削ると反発はもっと大きくなるので石高を削ってはならない。新政府の運営に必要な分は諸藩同様、徳川家からも一定程度は差し出す」などといった過大な要求を新政府に突きつけていたのだ。まあ、確かに交渉事というのは「最初は図々しいぐらい高めの球を投げておいて、そこから少しずつ要求を引き下げる」というのがセオリーであり、いかにも図太い勝らしいやり方ではある。
しかし、これではもはや「西郷・勝会談」の合意などあってなきが如しで、西郷としては立場がない。
実は京都の新政府では既に「徳川家の駿河移転、新石高は七十万石」という方針を決めていた。
ただしこれを先に発表してしまうと彰義隊や旧幕臣たちの反発は必至なので、これを秘したまま閏四月二十九日に「徳川宗家を田安亀之助に相続させる」と発表した。
新政府としてはひとまず徳川家の家名存続を正式に承認し、旧幕府を安心させるためにワンクッション入れた形ではあるのだが、一番肝心な駿河移転および七十万石の公表は
「旧幕府に一発ガツンとかまして、相手の気勢をくじいてから」
ということにした訳である。
ともかくも、新政府は西郷に代えて「江戸平定」の指揮を大村に任せることにしたのだった。
そんな新政府の強硬方針を知る由もない寛永寺側は、というか義観は、反新政府の姿勢を崩さなかった。いや、おそらく義観はそれを知らされたとしても姿勢を変えなかったであろう。それほど彼の姿勢は頑なだった。
このころ義観は諸藩へ檄文を送っていた。その内容をかいつまんで言えば、大体以下の通りである。
「昨年の暮れ以来、四藩(薩摩、長州、土佐、芸州)の兇賊が幼主(天皇)をだまし申し、日本の歴史上、かつて見たこともない暴虐非道をおこなっている。よろしく大義の旗をたてて兇賊どもをただし、国家の危機を救うべし。我らの勝算、もとより疑いなし」
すでに東北では閏四月二十日、仙台藩士たちが、新政府軍の参謀で長州藩士の世良修蔵を暗殺し、東北諸藩は列藩同盟の結成に向けて動き出していた。それと時を同じくして白河口で会津藩と新政府軍の戦いが始まっていた。さらに五月二日には長岡藩の家老、河井継之助と新政府軍の小千谷談判が決裂し、それからほどなく北越戦争が開始された。
この頃、江戸では福地源一郎が、現代の新聞のハシリのような『江湖新聞』を創刊しており、それ以外にもいくつか新聞が創刊されていた。そしてそれらの新聞は盛んに東北、北越諸藩の戦勝を報じていた。事実、この頃は各地で東北、北越諸藩が善戦していた。とはいえ、それ以上に、江戸では「東北、北越諸藩が勝ったと書かないと新聞が売れない」という事情もあった。福地自身がのちに「旧幕府側の戦勝を派手に称賛し、甚だしきは戦勝の空説や政治の虚説をワザと書いた」と告白しており、当時その読者であった塚原も「多くは見てきたような嘘ばかり書いてあった」と述べている。が、まだこの初戦の頃、新政府軍が各地で苦戦していたのは事実である。
義観と彰義隊の背後にはこれら東北、北越諸藩という強い味方がいたのである。
それゆえ「西軍、何するものぞ」と意気軒昂だったのだ。
しかし彰義隊がこれ以上暴れると「慶喜の助命および徳川家の家名存続」がフイになってしまうかも知れない。それを恐れた旧幕府は山岡鉄太郎を寛永寺へ派遣して義観を説得した。が、義観はこれを拒絶した。
一方、新政府の側も、少なくとも輪王寺宮を上野から引き離すために宮や義観を江戸城へ呼び出そうとした。しかし二人は病気と称して登城せず、こちらも交渉は失敗に終わった。
一時期は彰義隊を駆け引きの道具として利用していた勝海舟も、戦争になるのを避けるために必死で仲裁に動いたが効き目がなかった。のらりくらりと立ち回っていられる内は彰義隊もブラフ(ハッタリ)として利用できるが、相手が戦争を決意した以上、もはや平身低頭するしかない。「なぜ、それが分からないのか?」と勝は義観を憎んだ。
万策は尽きた。処置なし、ということである。
となれば、行き着くところまで行くしかない。
そて、そろそろ田無へ行った成一郎や寅之助たちの様子へ目を向けよう。
彼らが堀之内村から青梅街道を西へ行き、田無に着陣したのは五月一日のことで、そのころ振武軍はおよそ三百人の部隊になっていた。本陣は西光寺(現在の総持寺)に置かれた。
振武軍の頭取が渋沢成一郎であることは言うまでもない。ただし彼はこの時「大寄隼人」という変名を用いていた。
また尾高新五郎は会計頭取という役職だが実質副頭取のような立場にあり、彼もまた「榛沢新六郎」という変名を用いていた。
が、面倒なのでここでは「成一郎、新五郎」のままで通すことにする。
ところがこの振武軍は田無での滞在もそこそこに、さらに青梅街道の先にある箱根ヶ崎村(現、東京都西多摩郡瑞穂町。八高線が走っている所)へと転陣することにしたのだった。
田無だと江戸の新政府軍から一日で攻撃される距離なので、一日では届かない距離の箱根ヶ崎まで退くことにしたのである。転陣したのは五月十二日のことだった。
そして成一郎は田無から江戸の番町まで各所に騎馬の伝令を配置して「上野でドンという砲声を聞いたらすぐに馳せ戻ってこい」と命じておいた。
その知らせが箱根ヶ崎に届き次第、振武軍は彰義隊の援軍として駆けつけるつもりなのである。
ちなみにこの振武軍は前軍、中軍、後軍の三軍に分けられており、寅之助は中軍の頭取に、また渋沢平九郎は中軍の組頭に就いていた。
箱根ヶ崎への転陣の途中、歩きながら寅之助が平九郎に話しかけた。
「箱根ヶ崎まで転陣するなんて腰が引けすぎていると思わないか?平九郎君」
「昔と違って今の喜作……、いや成一郎さんは用心深くなりましたからねえ」
「こんなに江戸から遠く離れたら彰義隊の応援に間に合わないんじゃないだろうか?」
「まあ彰義隊は三千人もいるんだから、そう簡単に破られはしないでしょうよ」
「まったく、そう願いたいもんだ。ところで成一郎さんから聞いたんだが、君は江戸の自宅を発つ時に『人の楽しみを楽しむ者は人の憂いを憂う。人の食を喰う者は人の事に死す』と障子に大書してきたそうじゃないか。どういう意図なのかね?」
「あっ、成一郎さんが話しちゃったんですか……、恥ずかしいなあ、もう。……いや、我々武士は人から食わせてもらうんだから、人のために戦って死ぬ、と、ただその覚悟を記しただけのことですよ。まあ私は武士になったばかりの俄か武士ですけどね」
「そうか。立派な心掛けだ。ただ、俺が戦う理由は鳥羽伏見やその他で死んだ朋友の敵討ちなんだ。どうせ俺は継ぐべき家もなければ妻子もない。だが、君は篤太夫さんの跡取りだ。君たちの一族が強く望んでいた上様の助命は一応かなえられた。それなのに、君はまだ戦うつもりなのか?」
「だって上様を追い落とした薩長賊の天下なんて見たくないでしょう?どうせロクな世になりゃしませんよ。それに、養父がパリから帰ってきた時に『よく幕府のために戦った』と褒めてもらいたいじゃないですか」
「そうか……」
この日、振武軍の一同は箱根ヶ崎の円福寺に入った。
そしてその三日後、すなわち五月十五日、箱根ヶ崎の本陣に早馬が届いた。
「ご注進!今朝、上野で盛んに砲声が聞こえたとのこと。よって早駆けで伝えに参った。とりあえずこの段、ご注進申し上げる!」
これを受けて頭取の成一郎は全軍に
「それっ、出陣じゃ!」
と下知し、振武軍はすぐに江戸へ向けて出陣した。
もちろん寅之助も欣喜雀躍として出陣した。
(いよいよ、松吉と健次郎を殺した奴らに目にもの見せてやる日が来たか!)
振武軍は青梅街道をひた走って江戸へ向かった。
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