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第十章・パリ万博
第29話 1867年のパリ万博(前編)
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慶応三年(1867年)一月三日、パリ万博に参加する徳川昭武(清水民部大輔)は、兄であり将軍でもある徳川慶喜にあいさつをして京都を出発した。
この昭武一行には渋沢篤太夫も加わっている。彼らは伏見、大坂を経て兵庫へ行き、兵庫から長鯨丸に乗って横浜へ向かった。
そして横浜で準備を済ませた昭武一行は、一月十一日、横浜を出港してパリへ向かった。
ちなみに前年の慶応二年四月に日本人の海外渡航は解禁されていた。
ということで、それ以降「長州ファイブ」や「薩摩スチューデント」などといった「密航留学」をする必要もなくなり、日本人は自由に海外へ行けるようになったのである。
すでに曲芸などを披露する浜碇定吉や松井源水といった芸人たちが欧米へ渡っており、日本で最初にパスポート(旅券)を発行されたのは彼ら芸人一座の連中だった。そんなことを昭武たちは知る由もなかったが、昭武はパリで彼ら芸人一座と遭遇することになる。
また、この昭武一行には池田使節の時に参加した田辺太一、杉浦愛蔵(のちの譲)、山内六三郎(のちの堤雲)などもいて、この頃になると日本人がヨーロッパへ渡るのはある程度常態化しており、以前ほど珍しくなくなっていた。
とはいえ、篤太夫のように初めて海外渡航をする人間からすると、パリへ着くまでの二ヶ月間、カルチャーショックの連続だった。「取っ手を回すだけで蛇口から水道水が出る」ということにもビックリするぐらいなのだから、ガス灯や電信に驚嘆するのは言わずもがな、といったところで、すでに西洋化されていた上海の租界や香港を見るだけでもカルチャーショックだった。
その一方、「論語」が好きで中国の文物にある種の憧れを抱いていた篤太夫としては、現実の清国民衆の不潔さや無秩序さに呆れ、さらに西洋人に使役させられている清国人の姿に西洋と東洋の格差を思い知らされ、別の意味でのカルチャーショックも受けていた。ただしこういった清国の状況にショックを受けるのは篤太夫だけに限らず、すでにこの五年前に上海へ来た高杉晋作など多くの日本人が感じていたことだった。「日本を第二の清国にしてはならぬ」と。
また食事については、初めて食べる洋食に手こずる者が多い中、篤太夫はバターやコーヒーを美味しいと感じて喜んで食していた。篤太夫はこういった適応性が意外と高く、「良いものは良い」と物事を純粋に受け入れる感性を備えていた。そもそもそういった感性がなければ「後年の渋沢栄一」もあり得ないであろうし、以前の攘夷主義に凝り固まっていた頃のほうが「何かに取り憑かれた別人だった」と思われるほどである。
この船には清水卯三郎も乗っている。
卯三郎は横浜での経験が豊富で、しかもイギリス軍艦に乗って鹿児島まで行ったこともある。ゆえに、いまさら西洋の文明に驚くことはない。といっても、やはり初めての洋行である。各地の珍しい風物に感心しながら航海を楽しんでいた。
ある日、卯三郎は甲板で篤太夫を見かけて声をかけた。
「手前は瑞穂屋卯三郎と申す商人でございます。実は私の実家は羽生なのでございますが、お噂では渋沢様も北武蔵のご出身とうかがいましたが……」
「ああ。私の実家は榛沢郡血洗島村で、元は百姓だ。それにしてもお主、商人として博覧会に参加するとは大したものだ。私も百姓だった頃に藍玉の商いをやっていたが、さすがにパリの博覧会に参加するなどとは、もし百姓を続けていたとしても考えが及ばなかったろう」
「手前一人で博覧会に参加した訳ではございません。幡羅郡四方寺村の吉田六左衛門という者と一緒に参加したのでございます。六左衛門の代理の者が先にパリへ行っております」
「四方寺村の吉田家だと?」
「さては、渋沢様は六左衛門のことをご存知でございましたか?」
「いや、その者のことは知らぬが……。お主はその吉田家とどういう間柄だ?」
「我が清水家は吉田家の親戚でございます」
「それではお主、吉田寅之助という者を存じておるか?」
「ええっ!寅之助ですと!」
二人は寅之助のことを通じて、お互い知り合いとなった。
卯三郎は以前、寅之助をぶん殴って横浜襲撃計画への参加をやめさせたことがあったが、それを計画していたのが篤太夫だったことを初めて知った。また寅之助を一橋家へ連れていったのが篤太夫であったということも初めて知った。
「いやはや、そうでございましたか……。寅之助が一橋家へ行っていたことは耳にしておりましたが、幕臣になっていたとは知りませんでした……。とにかく、無事でいることが分かってホッといたしました……」
「いや、こちらもお主が寅之助の縁者と知って驚いた。そうか、四方寺村の吉田家といっても寅之助の吉田家は分家のほうだったのか……」
「しかし何ですな。どうして渋沢様は寅之助をこの使節に加えてくださらなかったのですか?あいつにパリを見せてやれば、あいつだっていっぺんに目が開かれたでしょうに……」
「無理を申すな!私でさえ、たまたま使節に加えてもらっただけなのだ。それにあいつは外国行きを嫌っていたのだぞ。大体何だ。そこまで言うなら、あんたが連れて行ってやれば良かったじゃないか!」
と、二人は言い争ったものの、いまさら言ってもしょうがない話なのでいい加減なところで言い争うのは止めにした。
一行が乗った船は上海、香港、サイゴン、シンガポール、セイロン、アデンを経由してスエズに着いた。スエズからアレクサンドリアまでは鉄道である。そして再び船で地中海を渡って南仏のマルセイユに入り、あとは鉄道でパリへ向かうことになる。
昭武一行がパリを目指している頃、斎藤健次郎が同行している薩摩藩の使節団はすでにパリへ入っていた。
薩摩使節団がパリに着いたのは一月二日のことで、篤太夫たちが京都を出発する前日のことだった。薩摩藩は幕府より二ヶ月も早く動き出していたのである。
薩摩藩が早めにパリへ来たのは、いろいろと下準備をするためだった。
しかしそれにしても、幕府の動き出しはどう見ても遅すぎるであろう。
こういった幕府のトロさはいつものことで、それゆえ幕府は、いつも後手に回ることになるのである。
昭武一行がパリに到着するのは三月七日である。西暦に直すと4月11日ということになる。
パリ万博の開会式は西暦の4月1日である。
要するに、昭武一行は開会式に間に合わないのだ。
日本が万博に正式参加するのはこれが初めての事とはいえ、どうやら幕府は開会式をそれほど重視していなかったらしい。だが、この万博参加の目的が「ヨーロッパで幕府の威光を示す」ということであるのなら、もっと早めにパリへ入って下準備を整えておくべきだったろう。薩摩藩のように。
さて、その薩摩藩の一行について簡単に説明しておきたい。
使節の代表は家老、岩下左次右衛門(方平)である。
薩英戦争後の賠償金支払い交渉を担当したこともあり、薩摩藩の外交担当者として歴史書の中ではかなり頻繁に目にする人物ではあるのだが、なにしろ地味なので大河ドラマなどに登場することは(大昔の『獅子の時代』は例外として)滅多にない。
ちなみに彼の息子の長十郎も留学生として同行してきていた。また彼の補佐役である市来政清は西郷吉之助の妹、琴の夫である。
そしてフランス語の通訳として斎藤健次郎が、また英語の通訳として五代の時も一緒だった堀孝之が同行してきた。
健次郎は久しぶりにパリのモンブランの家に戻ってきた。
「モンブランさん、薩摩の使節をホテルへ案内してきました」
「よし、わかった。それにしてもケン(健次郎)、よく無事に日本から戻ってきてくれたな。うれしいぞ。それで、自分の目で見た感想として、薩摩の様子はどうだった?」
「確かに薩摩には勢いを感じました。幕府のことなどまったく恐れていないみたいです。それでどうやらイギリスと親しくしているらしく、私が鹿児島にいた時にイギリスのパークス公使を鹿児島に招待していました」
「それはそうだろう。薩摩はグラバーやオリファントといったイギリス人と仲が良い。それにやり手のパークスが薩摩に付けば薩摩はますます幕府に対して有利になるだろう。残念ながらフランス政府は多分、日本に介入できないだろう。イギリスがフランスの頭越しに日本へ影響力を強めるのは癪だが、現実を見なければならない。いや、これはむしろ私にとってはチャンスなのだ。幕府にはロッシュ氏という泥船しか残っていない。今こそ、私をないがしろにした幕府に復讐する絶好の機会だ。ケン、今、パリにカションが来ている。あいつに会って我々の側に引っ張ってきてくれ。私は万博の会場で幕府をやっつける」
こうしてモンブランの策謀が開始された。
昭武一行は二月二十九日(西暦4月3日)、ようやく南仏のマルセイユに到着した。
そして到着早々、使節団の実質的な代表である向山は、出迎えたフランス人フルーリ・エラールなど幕府の万博担当者から薩摩藩の策謀を聞かされた。ちなみにエラールは銀行家でパリ駐在の日本の名誉総領事でもある。
「薩摩は開会式に『琉球国王派遣の大使』として参列し、またフランス政府の要人に『薩摩琉球国の文字と丸に十字の紋章(島津家の紋章)が入った勲章』を配って歓心を買っている。そしてあまつさえ万博の展示会場の一画で独自の展示を行ない、ここでも『薩摩琉球国として丸に十字の紋章が入った立て札』を掲げている」
とのことだった。
要するに薩摩藩としては
「幕府すなわち日本政府、という訳ではない。日本は天皇を頂点とした連邦国家なのだ。特に琉球を支配する薩摩は幕府と同格なのだ」
と主張したいわけである。
これらの策謀はすべてモンブランが計画して手配したものだった。特に勲章を政府の要人に配るというのは、フランス人の勲章好きを踏まえたモンブラン独自の作戦だった。
とにかく向山としても、パリに到着してからでないと手の打ちようがないので、ひとまず様子を見ることにした。
三月七日、昭武一行はパリのリヨン駅に到着した。するとロッシュの片腕だった通訳のメルメ・カションが出迎えに来ていた。以後、カションは度々使節の前に姿を現すようになった。
それから一行はパリのグランドホテルに入った。このホテルは以前、池田使節や竹内使節も泊まった超高級ホテルである。ただし、篤太夫ら数人は「ホテルの費用が高すぎる」ということでさっそく借家を探すことにした。
当時の武士は「金銭は汚いもの」として金銭に無頓着な者がほとんどだった。元百姓の篤太夫だからこそこういった発想ができたのであり、篤太夫が会計係として任命されたのもこういった経済感覚を備えていたからだった。篤太夫はエラールと一緒に市内を回って借家を探した。そしてその借家に住み込んでフランス語教師を雇い、日常会話を勉強することにした。
三月十五日、とうとうモンブラン自身が向山のいるグランドホテルにやって来た。
モンブランは「琉球王国の博覧会委員長」の肩書で向山と面会しようとしたが、向山が不在だったので翌日あらためて出直すことにした。
そして翌十六日、モンブランはホテルを再訪して向山と面会した。その際、フルーリ・エラールも立ち会った。
向山は、モンブランの不相応な役職名などについて語気激しく詰問したが、モンブランはそれにまったく屈せずに反論し、この日は物別れになった。
ただしこのやり取りを「立ち聞き」したシーボルトはイギリス外務省へ次のように報告した。
「向山の態度は驚くほど弱腰だった。そして向山は、このような国家にとって重大な話を得体の知れないフランス人と話し合うことはできない、と言ってモンブランを追い返した」
この場に立ち会ったエラールは一言も意見を差し挟まなかったが、モンブランが帰った後に
「今となってはモンブランに先を越されてしまった。これではフランス政府に頼んで談判をしても、どうなるか分からない」
と、やや投げやりに答えて帰ってしまった。まあ開会式にも間に合わないぐらいのんびりとやってきた向山たちに対して、エラールとしても同情する気にはなれなかっただろう。また、こういった政治的な問題は博覧会とは無関係な話で、琉球王国(薩摩藩)が幕府と別々で展示をしようと、そんなことは別にどうでもいいじゃないか、とも思ったであろう。
ただしエラールはそのあと向山に手紙を寄こして
「明日、万博の日本館担当委員ジャン・ド・レセップス男爵の邸宅で幕府と薩摩が話し合えるように手配した。明日は日曜日なので私は出席しないが、幕府も公使(向山)ではなくて書記官(田辺)でも出席させたらどうか」
と伝えた。ちなみにこのレセップスという人物は、スエズ運河の建設に取り組んだレセップスとは別人である。
とにかくそのような訳で、翌十七日、レセップス邸で田辺太一を長とした幕府の代表と岩下、モンブランなど薩摩の代表が話し合うことになった。篤太夫は役目が違うのでこの席に加わってはいない。
立会人としてレセップス男爵とフランス外務省のドナという役人が立ち会った。
両者の服装は、田辺たち幕臣が洋装で、岩下たち薩摩藩士は紋付袴の和装である。
岩下は田辺たちと面会すると殊のほか丁重に挨拶した。むろん、大河ドラマの『獅子の時代』でやったような、わざとらしい土下座まではしなかったが。
「民部大輔様の当地お着きの儀、風聞にて承りながら、なにぶん不案内の土地にて御宿も相わからず、ご機嫌をも伺い申さず、お詫び申し上げます」
それから田辺はさっそく、薩摩藩が琉球王を名乗って万博に参加していること、また丸に十字の島津の紋章を掲げていることについて岩下に問い質した。
すると岩下は
「いまさら母国と連絡を取ることもできず、藩から博覧会の手配は一切モンブランに任せるよう命じられております。よって、その儀は何卒モンブランにお聞き頂きたく存ずる。また拙者はフランス語が分かり申さぬゆえ、これにて失礼つかまつります」
と答えてさっさと帰ってしまった。まさに慇懃無礼といったやり口で、まったく薩摩は幕府をナメていた。薩摩は表立って幕府を攻撃することはせず、「すべてモンブランが勝手にやったことです」という形をとって幕府の威信に傷をつけようとしたのだ。
以後、田辺とモンブランが論争することになった。
田辺とすれば、三年前の池田使節の時にモンブランの家へ行って彼と談笑したこともあり、その時は幕府を強化するための助言までしてもらったものだが、まさかその彼とこのように論争することになろうとは夢にも思わなかった。
やり取りする際の言語はもちろんフランス語で、田辺の発言はすべて通訳の山内文次郎がフランス語に翻訳した。しかし山内は横浜のフランス語学校で勉強しただけなのでモンブランを説破するほどのフランス語能力はない。もしこの場にカションがいればもっと上手く論争できたかも知れないが、向山がカションを嫌っていたので使おうとしなかった。もっとも、そのカションにも裏でモンブランがすでに手を回してはいたのだが。
まず田辺はレセップスに、日本と琉球の関係について説明したところ、この当時の外国人が日本と琉球の関係について正確に理解できるはずもなく
「万博担当者としては、そういった政治的な事情は重視しない。モンブランの言う通り、琉球王国として参加したいのならそれで受け付けざるを得ない」
として、田辺の意見を却下した。
そこで田辺はフランス外務省のドナに事情を説明した。外務省の人間であれば政治的な事情も重視せざるを得まい、と考えたのである。
案の定、ドナは日本と琉球の関係を正しく理解した。その際、田辺はトルコとギリシャの関係を例にとって説明した。ギリシャはこれより四十年ほど前に独立戦争をやってトルコから独立した。そのためギリシャは各国と条約を結んでフランスもギリシャの独立を承認した。しかるに琉球はそのような形でフランスと条約を結んではいない。琉球は薩摩の支配下にあり、薩摩は日本の一部なのだから、すなわち琉球も日本の一部である、と田辺は説明して、ドナもそれを了解した。
これで形勢が逆転した。
ドナの説明によってレセップスも幕府の言い分を認めた。そこでモンブランが猛然とドナとレセップスに反論したがモンブランの訴えは却下された。
これにより、万博会場の立て札に書かれている琉球の文字を削ることが決まった。
レセップスは田辺に、あらためて以前の経緯を説明した。
「先年、幕府の柴田氏が製鉄所の仕事でパリへ来た時に、私は彼から万博の担当を依頼された。しかしそのころ薩摩も同じくモンブラン氏に万博の担当を依頼した。モンブラン氏は幕府をはばかることなく琉球王国として参加準備を進めていたのだが、そのことについて柴田氏は私に何の相談もしなかった。だから柴田氏はそれを認めているものと思っていた。今日になってそれが違うと分かった以上、正式な書類として残しておきたい」
要するに、この二年前にパリへやって来た柴田剛中が問題を放置したことによって事が大きくなってしまったのである。
そもそもあの時、柴田はモンブランから面と向かって「薩摩の万博担当を任されたので大いに薩摩を応援するつもりだ」と宣戦布告を叩きつけられていたのだから、薩摩とモンブランに何か不穏な企みがあることを幕府の上層部にちゃんと伝えるべきであったろう。柴田が怠慢だったのか、例によって幕府の上層部が無能でこういった情報を共有しなかったのか、それは不明だが、幕府の危機意識の無さにはいつもの事ながら呆れるほかはない。
ところがその正式な書類を作成をするにあたって、また一波乱あった。
それはそうだろう。モンブランともあろう男がこのまますんなりと引き下がるわけがない。
ドナが書いた草稿では、幕府の立て札には「関東太守のグーヴェルマン(政府)」、薩摩の立て札には「薩摩太守のグーヴェルマン(政府)」として、両者とも天皇の菊の御紋の下に、幕府は三つ葉葵を、薩摩は丸に十字の島津の紋章を入れる、と書かれていた。
むろん、田辺はこの案を一蹴した。
これでは、琉球の文字は削られたものの、それ以外はすべて薩摩の言いなりではないか、と。
田辺は、天皇の菊の御紋を日の丸へ、幕府の「関東太守政府」を「日本大君政府」へと変更させた。大君とは将軍のことで、すなわち幕府のことである。
さらに田辺は「薩摩太守政府」から“政府<グーヴェルマン>”の文字を削って、単なる「薩摩太守」とすべきである、と主張した。
しかし「薩摩太守政府」から“政府<グーヴェルマン>”の文字を削れ、という田辺の意見にモンブランが猛然と反論し、レセップスとドナも含めて激論となった。
田辺は「もはや談判もこれまで」として席を立って帰ろうとした。が、その田辺をレセップスとドナが必死で引き止めた。
「日曜日にもかかわらず、せっかくここまで話し合ってようやく談判がまとまりかけているのに、薩摩の立て札から“政府<グーヴェルマン>”の文字を削るか削らないかで談判を破裂させるのはいかにも惜しい。なにより明日、皇帝ナポレオン三世が万博会場を視察されるのだ。なんとか今日中に決めなければならない。“政府<グーヴェルマン>”という言葉は、イギリスが植民地に対して、例えば香港の政府<グーヴェルマン>、カナダの政府<グーヴェルマン>と言うように、その土地の支配者を言う場合にも使われるのだ。日の丸の国旗の下に書かれる以上、よもや独立国と間違われることはない。薩摩の立て札の“政府<グーヴェルマン>”の文字をそのまま残すということで、なんとか認めてもらえないだろうか?」
と二人は田辺を説得した。
結局、田辺は渋々「薩摩太守政府<グーヴェルマン>」の表記を承諾した。
立て札の表記は両者とも日の丸(青地に赤の日の丸)を一番上に表記して、その下に、幕府は「日本大君政府」の文字と三つ葉葵の紋章を、薩摩は「薩摩太守政府」の文字と丸に十字の島津の紋章を表記する、ということで最終決定となった。
結果的には、田辺がモンブランに押し切られた形となった。
とはいえ、これだけであれば田辺も想定していたように、さしたる害も無いはずだった。
ところが翌日から各新聞がいっせいに、この“政府<グーヴェルマン>”の文字のことを取り上げて、薩摩藩の意見を代弁するような記事を発表し始めた。
薩摩藩の意見とは、とりもなおさず
「日本は朝廷を頂点とした諸侯連合政権で、幕府も諸侯の一つにすぎず、日本を代表する政府ではない。薩摩にも大君と同じように“政府<グーヴェルマン>”の文字が使われているのが何よりの証拠である」
という主張であった。
確かに上記のような立て札を使った場合、両者とも日の丸を使っているとはいえ、幕府と薩摩はあたかも同格であるかのように外国人の目には映ってしまうだろう。
この新聞を使ったプロパガンダ攻勢は、もちろんモンブランが仕組んだものである。
現代でも新聞やテレビを使ったプロパガンダは絶大な力を発揮しており、世間の風潮など新聞やテレビといったマスメディアを使えばいくらでも操作できるものだ。
しかしながら、この当時の日本には新聞などというメディアは存在しなかった。それゆえ、このプロパガンダの恐ろしさを知りようがなかった。
西洋人のモンブランが参謀だったからこそ、薩摩藩はこういったプロパガンダ作戦を駆使できたのである。
田辺は各新聞社に抗議して正しい情報を伝えようとしたが、新聞社は田辺を相手にしなかった。田辺は「おそらくモンブランの中傷のせいであろう」と思った。事実、モンブランはこのあとも新聞社に手を回してプロパガンダ攻勢を続けるのである。
「ヨーロッパで幕府の威光を示す」
という目的を掲げてやって来た昭武一行は、初手から致命的な失敗をやらかしてしまった。
このフランスでの状況は、やがて日本のロッシュ公使のところへ連絡が届き、それが幕府へ伝わり、田辺は失策の責任を問われて帰国させられるのである。
それから一週間後の日曜日、昭武たち幕府代表者はテュイルリー宮殿でナポレオン三世に謁見する儀式にのぞんだ。
この謁見は今回のパリ訪問で最も重要な儀式なのだが、なぜかこの時、カションが通訳を担当することになった。
このことについては少々説明が必要である。
向山がカションを嫌っている、ということはこれまで何度か書いた。カションがカトリックの神父だったことに加えて、その人柄が信用できないことが原因だった。
それでもカションはなんとかフランス外務省に働きかけて、フランスに留学する昭武の教育係として採用されることがほぼ内定した。またそのことが新聞に報じられもした。
けれども向山や昭武の傳役(後見役)である山高がカションの採用に強く反対して、フランス外務省にそれを取り消させた。そして結局、昭武の教育係には陸軍のヴィレット中佐が採用されることになった。
内定が決まりかけていて、しかも新聞にまで報じられてすっかりその気になっていたカションは激怒した。
しかもカションとしては、自分を嫌っている向山たちがよりにもよってこのパリで、日本で自分のライバルだったイギリス公使館員シーボルトを重用しているのをずっといまいましく思っていた。
(なぜこんなにも私を邪険にするのだ?日本でロッシュ公使と一緒に幕府を応援していた私のことを何だと思っているのだ?)
カションがこのように向山を恨んだとしても無理からぬ話である。この男の胸中に、我が身の不徳を顧みる、といった殊勝な心根があるはずもない。
そのあとカションは再びフランス外務省に働きかけて、ナポレオン三世との謁見式の際には自分を通訳として採用してもらいたい、と願い出た。が、またもや向山はこれを却下して、横浜のフランス語学校出身の保科俊太郎を通訳として同行することに決め、その旨をフランス外務省に伝えた。
カションが再び激怒したのは言うまでもない。
そしてカションは田辺のところに怒鳴り込んで来た。これに対し、田辺は冷静に説明した。
「保科は横浜の学校であなたに学んだ弟子である。その弟子が晴れの舞台をつとめるのは、師匠であるあなたにとっても名誉なことであろう。不平を唱えるとは心外である」
この田辺の説諭によってとりあえずカションは引き下がったのだが、しばらくすると再び怒鳴り込んで来た。
外務省に提出された謁見式の参列名簿にシーボルトの名前が加わっていることが分かり
「私を謁見式から排除しておいて、イギリス公使館員のシーボルトに謁見式の通訳をやらせるとは何事か!」
と怒鳴り込んで来たのだった。
その名簿のことは田辺も知らなかったようで、実はシーボルト自身も知らなかったことだった。どうやら向山たちが勝手に名簿に加えていたようである。
カションは夜中の十二時までグチグチと田辺に不平を訴え続けた。そしてとうとう向山も折れて、カションを謁見式の通訳として採用することになった。ただし、昭武の通訳は保科が担当し、ナポレオン三世の通訳をカションが担当する、というかたちをとった。
カションが謁見式の通訳を担当することになったのは、こういう事情だった。
ところが謁見式の三十分ほど前になって突然、フランス外務省からシーボルトのところに「通訳として出席してくれ」という連絡が来たのである。
カションが急な眼炎にかかって謁見式に参列できなくなり、シーボルトに通訳として参列してもらいたい、という説明だった。先述した通り、シーボルトはイギリス公使館員ということもあってこの謁見式に参加する予定はなかったのだが、向山が勝手に名簿に加えていた。
そんな訳でシーボルトは急いで準備をしてテュイルリー宮殿へ向かった。すると、ギリギリのタイミングでカションが現れ、結局当初の予定通り、カションがナポレオン三世の通訳をやることになった。シーボルトが見たところ、カションの眼炎はまったく大したことがないように見受けられた。
これはカションにとって、向山や幕府に対する最後のあがきだった。
もはやどうあがいても向山は、昭武に関係する仕事を自分に与える見込みは無い。眼炎と偽って遅れて来たのは、せめてもの腹いせだった。
このあとカションは、モンブランの指示を受けた健次郎からの誘いもあって、薩摩側に寝返るのである。
そして薩摩の意向に沿った主張をフランスの新聞に投書し続けることになる。薩摩の意向とはすなわち
「日本は朝廷を頂点とした諸侯連合政権で、幕府も諸侯の一つにすぎず、日本を代表する政府ではない」
という主張である。
モンブランのプロパガンダ作戦にカションが加わったことによって、ますます幕府の威光に傷がつくことになった。
幕府の側としても、まさかロッシュの片腕であったカションが裏切るとは夢にも思わず、これには非常な衝撃を受け、日本からカションの親友である幕臣の栗本鯤を呼び寄せることになったのである。
ちなみに謁見の儀式自体は滞りなく、無事とり行なわれた。
昭武一行は衣冠束帯の姿で馬車に乗り込んでテュイルリー宮殿へ向かった。ただし渋沢篤太夫は謁見式のメンバーに含まれていなかった。
沿道では多くのフランス人が昭武たちの乗る五台の馬車を見物していた。パリにはかつて竹内使節や池田使節などの幕府使節が来たことはあったが「将軍の弟」という貴人が来たのは今回が初めてだった。
そして、そこに居合わせている人々はまったく知らなかったが、これがパリに来た最後の幕府使節となるのである。
この昭武一行には渋沢篤太夫も加わっている。彼らは伏見、大坂を経て兵庫へ行き、兵庫から長鯨丸に乗って横浜へ向かった。
そして横浜で準備を済ませた昭武一行は、一月十一日、横浜を出港してパリへ向かった。
ちなみに前年の慶応二年四月に日本人の海外渡航は解禁されていた。
ということで、それ以降「長州ファイブ」や「薩摩スチューデント」などといった「密航留学」をする必要もなくなり、日本人は自由に海外へ行けるようになったのである。
すでに曲芸などを披露する浜碇定吉や松井源水といった芸人たちが欧米へ渡っており、日本で最初にパスポート(旅券)を発行されたのは彼ら芸人一座の連中だった。そんなことを昭武たちは知る由もなかったが、昭武はパリで彼ら芸人一座と遭遇することになる。
また、この昭武一行には池田使節の時に参加した田辺太一、杉浦愛蔵(のちの譲)、山内六三郎(のちの堤雲)などもいて、この頃になると日本人がヨーロッパへ渡るのはある程度常態化しており、以前ほど珍しくなくなっていた。
とはいえ、篤太夫のように初めて海外渡航をする人間からすると、パリへ着くまでの二ヶ月間、カルチャーショックの連続だった。「取っ手を回すだけで蛇口から水道水が出る」ということにもビックリするぐらいなのだから、ガス灯や電信に驚嘆するのは言わずもがな、といったところで、すでに西洋化されていた上海の租界や香港を見るだけでもカルチャーショックだった。
その一方、「論語」が好きで中国の文物にある種の憧れを抱いていた篤太夫としては、現実の清国民衆の不潔さや無秩序さに呆れ、さらに西洋人に使役させられている清国人の姿に西洋と東洋の格差を思い知らされ、別の意味でのカルチャーショックも受けていた。ただしこういった清国の状況にショックを受けるのは篤太夫だけに限らず、すでにこの五年前に上海へ来た高杉晋作など多くの日本人が感じていたことだった。「日本を第二の清国にしてはならぬ」と。
また食事については、初めて食べる洋食に手こずる者が多い中、篤太夫はバターやコーヒーを美味しいと感じて喜んで食していた。篤太夫はこういった適応性が意外と高く、「良いものは良い」と物事を純粋に受け入れる感性を備えていた。そもそもそういった感性がなければ「後年の渋沢栄一」もあり得ないであろうし、以前の攘夷主義に凝り固まっていた頃のほうが「何かに取り憑かれた別人だった」と思われるほどである。
この船には清水卯三郎も乗っている。
卯三郎は横浜での経験が豊富で、しかもイギリス軍艦に乗って鹿児島まで行ったこともある。ゆえに、いまさら西洋の文明に驚くことはない。といっても、やはり初めての洋行である。各地の珍しい風物に感心しながら航海を楽しんでいた。
ある日、卯三郎は甲板で篤太夫を見かけて声をかけた。
「手前は瑞穂屋卯三郎と申す商人でございます。実は私の実家は羽生なのでございますが、お噂では渋沢様も北武蔵のご出身とうかがいましたが……」
「ああ。私の実家は榛沢郡血洗島村で、元は百姓だ。それにしてもお主、商人として博覧会に参加するとは大したものだ。私も百姓だった頃に藍玉の商いをやっていたが、さすがにパリの博覧会に参加するなどとは、もし百姓を続けていたとしても考えが及ばなかったろう」
「手前一人で博覧会に参加した訳ではございません。幡羅郡四方寺村の吉田六左衛門という者と一緒に参加したのでございます。六左衛門の代理の者が先にパリへ行っております」
「四方寺村の吉田家だと?」
「さては、渋沢様は六左衛門のことをご存知でございましたか?」
「いや、その者のことは知らぬが……。お主はその吉田家とどういう間柄だ?」
「我が清水家は吉田家の親戚でございます」
「それではお主、吉田寅之助という者を存じておるか?」
「ええっ!寅之助ですと!」
二人は寅之助のことを通じて、お互い知り合いとなった。
卯三郎は以前、寅之助をぶん殴って横浜襲撃計画への参加をやめさせたことがあったが、それを計画していたのが篤太夫だったことを初めて知った。また寅之助を一橋家へ連れていったのが篤太夫であったということも初めて知った。
「いやはや、そうでございましたか……。寅之助が一橋家へ行っていたことは耳にしておりましたが、幕臣になっていたとは知りませんでした……。とにかく、無事でいることが分かってホッといたしました……」
「いや、こちらもお主が寅之助の縁者と知って驚いた。そうか、四方寺村の吉田家といっても寅之助の吉田家は分家のほうだったのか……」
「しかし何ですな。どうして渋沢様は寅之助をこの使節に加えてくださらなかったのですか?あいつにパリを見せてやれば、あいつだっていっぺんに目が開かれたでしょうに……」
「無理を申すな!私でさえ、たまたま使節に加えてもらっただけなのだ。それにあいつは外国行きを嫌っていたのだぞ。大体何だ。そこまで言うなら、あんたが連れて行ってやれば良かったじゃないか!」
と、二人は言い争ったものの、いまさら言ってもしょうがない話なのでいい加減なところで言い争うのは止めにした。
一行が乗った船は上海、香港、サイゴン、シンガポール、セイロン、アデンを経由してスエズに着いた。スエズからアレクサンドリアまでは鉄道である。そして再び船で地中海を渡って南仏のマルセイユに入り、あとは鉄道でパリへ向かうことになる。
昭武一行がパリを目指している頃、斎藤健次郎が同行している薩摩藩の使節団はすでにパリへ入っていた。
薩摩使節団がパリに着いたのは一月二日のことで、篤太夫たちが京都を出発する前日のことだった。薩摩藩は幕府より二ヶ月も早く動き出していたのである。
薩摩藩が早めにパリへ来たのは、いろいろと下準備をするためだった。
しかしそれにしても、幕府の動き出しはどう見ても遅すぎるであろう。
こういった幕府のトロさはいつものことで、それゆえ幕府は、いつも後手に回ることになるのである。
昭武一行がパリに到着するのは三月七日である。西暦に直すと4月11日ということになる。
パリ万博の開会式は西暦の4月1日である。
要するに、昭武一行は開会式に間に合わないのだ。
日本が万博に正式参加するのはこれが初めての事とはいえ、どうやら幕府は開会式をそれほど重視していなかったらしい。だが、この万博参加の目的が「ヨーロッパで幕府の威光を示す」ということであるのなら、もっと早めにパリへ入って下準備を整えておくべきだったろう。薩摩藩のように。
さて、その薩摩藩の一行について簡単に説明しておきたい。
使節の代表は家老、岩下左次右衛門(方平)である。
薩英戦争後の賠償金支払い交渉を担当したこともあり、薩摩藩の外交担当者として歴史書の中ではかなり頻繁に目にする人物ではあるのだが、なにしろ地味なので大河ドラマなどに登場することは(大昔の『獅子の時代』は例外として)滅多にない。
ちなみに彼の息子の長十郎も留学生として同行してきていた。また彼の補佐役である市来政清は西郷吉之助の妹、琴の夫である。
そしてフランス語の通訳として斎藤健次郎が、また英語の通訳として五代の時も一緒だった堀孝之が同行してきた。
健次郎は久しぶりにパリのモンブランの家に戻ってきた。
「モンブランさん、薩摩の使節をホテルへ案内してきました」
「よし、わかった。それにしてもケン(健次郎)、よく無事に日本から戻ってきてくれたな。うれしいぞ。それで、自分の目で見た感想として、薩摩の様子はどうだった?」
「確かに薩摩には勢いを感じました。幕府のことなどまったく恐れていないみたいです。それでどうやらイギリスと親しくしているらしく、私が鹿児島にいた時にイギリスのパークス公使を鹿児島に招待していました」
「それはそうだろう。薩摩はグラバーやオリファントといったイギリス人と仲が良い。それにやり手のパークスが薩摩に付けば薩摩はますます幕府に対して有利になるだろう。残念ながらフランス政府は多分、日本に介入できないだろう。イギリスがフランスの頭越しに日本へ影響力を強めるのは癪だが、現実を見なければならない。いや、これはむしろ私にとってはチャンスなのだ。幕府にはロッシュ氏という泥船しか残っていない。今こそ、私をないがしろにした幕府に復讐する絶好の機会だ。ケン、今、パリにカションが来ている。あいつに会って我々の側に引っ張ってきてくれ。私は万博の会場で幕府をやっつける」
こうしてモンブランの策謀が開始された。
昭武一行は二月二十九日(西暦4月3日)、ようやく南仏のマルセイユに到着した。
そして到着早々、使節団の実質的な代表である向山は、出迎えたフランス人フルーリ・エラールなど幕府の万博担当者から薩摩藩の策謀を聞かされた。ちなみにエラールは銀行家でパリ駐在の日本の名誉総領事でもある。
「薩摩は開会式に『琉球国王派遣の大使』として参列し、またフランス政府の要人に『薩摩琉球国の文字と丸に十字の紋章(島津家の紋章)が入った勲章』を配って歓心を買っている。そしてあまつさえ万博の展示会場の一画で独自の展示を行ない、ここでも『薩摩琉球国として丸に十字の紋章が入った立て札』を掲げている」
とのことだった。
要するに薩摩藩としては
「幕府すなわち日本政府、という訳ではない。日本は天皇を頂点とした連邦国家なのだ。特に琉球を支配する薩摩は幕府と同格なのだ」
と主張したいわけである。
これらの策謀はすべてモンブランが計画して手配したものだった。特に勲章を政府の要人に配るというのは、フランス人の勲章好きを踏まえたモンブラン独自の作戦だった。
とにかく向山としても、パリに到着してからでないと手の打ちようがないので、ひとまず様子を見ることにした。
三月七日、昭武一行はパリのリヨン駅に到着した。するとロッシュの片腕だった通訳のメルメ・カションが出迎えに来ていた。以後、カションは度々使節の前に姿を現すようになった。
それから一行はパリのグランドホテルに入った。このホテルは以前、池田使節や竹内使節も泊まった超高級ホテルである。ただし、篤太夫ら数人は「ホテルの費用が高すぎる」ということでさっそく借家を探すことにした。
当時の武士は「金銭は汚いもの」として金銭に無頓着な者がほとんどだった。元百姓の篤太夫だからこそこういった発想ができたのであり、篤太夫が会計係として任命されたのもこういった経済感覚を備えていたからだった。篤太夫はエラールと一緒に市内を回って借家を探した。そしてその借家に住み込んでフランス語教師を雇い、日常会話を勉強することにした。
三月十五日、とうとうモンブラン自身が向山のいるグランドホテルにやって来た。
モンブランは「琉球王国の博覧会委員長」の肩書で向山と面会しようとしたが、向山が不在だったので翌日あらためて出直すことにした。
そして翌十六日、モンブランはホテルを再訪して向山と面会した。その際、フルーリ・エラールも立ち会った。
向山は、モンブランの不相応な役職名などについて語気激しく詰問したが、モンブランはそれにまったく屈せずに反論し、この日は物別れになった。
ただしこのやり取りを「立ち聞き」したシーボルトはイギリス外務省へ次のように報告した。
「向山の態度は驚くほど弱腰だった。そして向山は、このような国家にとって重大な話を得体の知れないフランス人と話し合うことはできない、と言ってモンブランを追い返した」
この場に立ち会ったエラールは一言も意見を差し挟まなかったが、モンブランが帰った後に
「今となってはモンブランに先を越されてしまった。これではフランス政府に頼んで談判をしても、どうなるか分からない」
と、やや投げやりに答えて帰ってしまった。まあ開会式にも間に合わないぐらいのんびりとやってきた向山たちに対して、エラールとしても同情する気にはなれなかっただろう。また、こういった政治的な問題は博覧会とは無関係な話で、琉球王国(薩摩藩)が幕府と別々で展示をしようと、そんなことは別にどうでもいいじゃないか、とも思ったであろう。
ただしエラールはそのあと向山に手紙を寄こして
「明日、万博の日本館担当委員ジャン・ド・レセップス男爵の邸宅で幕府と薩摩が話し合えるように手配した。明日は日曜日なので私は出席しないが、幕府も公使(向山)ではなくて書記官(田辺)でも出席させたらどうか」
と伝えた。ちなみにこのレセップスという人物は、スエズ運河の建設に取り組んだレセップスとは別人である。
とにかくそのような訳で、翌十七日、レセップス邸で田辺太一を長とした幕府の代表と岩下、モンブランなど薩摩の代表が話し合うことになった。篤太夫は役目が違うのでこの席に加わってはいない。
立会人としてレセップス男爵とフランス外務省のドナという役人が立ち会った。
両者の服装は、田辺たち幕臣が洋装で、岩下たち薩摩藩士は紋付袴の和装である。
岩下は田辺たちと面会すると殊のほか丁重に挨拶した。むろん、大河ドラマの『獅子の時代』でやったような、わざとらしい土下座まではしなかったが。
「民部大輔様の当地お着きの儀、風聞にて承りながら、なにぶん不案内の土地にて御宿も相わからず、ご機嫌をも伺い申さず、お詫び申し上げます」
それから田辺はさっそく、薩摩藩が琉球王を名乗って万博に参加していること、また丸に十字の島津の紋章を掲げていることについて岩下に問い質した。
すると岩下は
「いまさら母国と連絡を取ることもできず、藩から博覧会の手配は一切モンブランに任せるよう命じられております。よって、その儀は何卒モンブランにお聞き頂きたく存ずる。また拙者はフランス語が分かり申さぬゆえ、これにて失礼つかまつります」
と答えてさっさと帰ってしまった。まさに慇懃無礼といったやり口で、まったく薩摩は幕府をナメていた。薩摩は表立って幕府を攻撃することはせず、「すべてモンブランが勝手にやったことです」という形をとって幕府の威信に傷をつけようとしたのだ。
以後、田辺とモンブランが論争することになった。
田辺とすれば、三年前の池田使節の時にモンブランの家へ行って彼と談笑したこともあり、その時は幕府を強化するための助言までしてもらったものだが、まさかその彼とこのように論争することになろうとは夢にも思わなかった。
やり取りする際の言語はもちろんフランス語で、田辺の発言はすべて通訳の山内文次郎がフランス語に翻訳した。しかし山内は横浜のフランス語学校で勉強しただけなのでモンブランを説破するほどのフランス語能力はない。もしこの場にカションがいればもっと上手く論争できたかも知れないが、向山がカションを嫌っていたので使おうとしなかった。もっとも、そのカションにも裏でモンブランがすでに手を回してはいたのだが。
まず田辺はレセップスに、日本と琉球の関係について説明したところ、この当時の外国人が日本と琉球の関係について正確に理解できるはずもなく
「万博担当者としては、そういった政治的な事情は重視しない。モンブランの言う通り、琉球王国として参加したいのならそれで受け付けざるを得ない」
として、田辺の意見を却下した。
そこで田辺はフランス外務省のドナに事情を説明した。外務省の人間であれば政治的な事情も重視せざるを得まい、と考えたのである。
案の定、ドナは日本と琉球の関係を正しく理解した。その際、田辺はトルコとギリシャの関係を例にとって説明した。ギリシャはこれより四十年ほど前に独立戦争をやってトルコから独立した。そのためギリシャは各国と条約を結んでフランスもギリシャの独立を承認した。しかるに琉球はそのような形でフランスと条約を結んではいない。琉球は薩摩の支配下にあり、薩摩は日本の一部なのだから、すなわち琉球も日本の一部である、と田辺は説明して、ドナもそれを了解した。
これで形勢が逆転した。
ドナの説明によってレセップスも幕府の言い分を認めた。そこでモンブランが猛然とドナとレセップスに反論したがモンブランの訴えは却下された。
これにより、万博会場の立て札に書かれている琉球の文字を削ることが決まった。
レセップスは田辺に、あらためて以前の経緯を説明した。
「先年、幕府の柴田氏が製鉄所の仕事でパリへ来た時に、私は彼から万博の担当を依頼された。しかしそのころ薩摩も同じくモンブラン氏に万博の担当を依頼した。モンブラン氏は幕府をはばかることなく琉球王国として参加準備を進めていたのだが、そのことについて柴田氏は私に何の相談もしなかった。だから柴田氏はそれを認めているものと思っていた。今日になってそれが違うと分かった以上、正式な書類として残しておきたい」
要するに、この二年前にパリへやって来た柴田剛中が問題を放置したことによって事が大きくなってしまったのである。
そもそもあの時、柴田はモンブランから面と向かって「薩摩の万博担当を任されたので大いに薩摩を応援するつもりだ」と宣戦布告を叩きつけられていたのだから、薩摩とモンブランに何か不穏な企みがあることを幕府の上層部にちゃんと伝えるべきであったろう。柴田が怠慢だったのか、例によって幕府の上層部が無能でこういった情報を共有しなかったのか、それは不明だが、幕府の危機意識の無さにはいつもの事ながら呆れるほかはない。
ところがその正式な書類を作成をするにあたって、また一波乱あった。
それはそうだろう。モンブランともあろう男がこのまますんなりと引き下がるわけがない。
ドナが書いた草稿では、幕府の立て札には「関東太守のグーヴェルマン(政府)」、薩摩の立て札には「薩摩太守のグーヴェルマン(政府)」として、両者とも天皇の菊の御紋の下に、幕府は三つ葉葵を、薩摩は丸に十字の島津の紋章を入れる、と書かれていた。
むろん、田辺はこの案を一蹴した。
これでは、琉球の文字は削られたものの、それ以外はすべて薩摩の言いなりではないか、と。
田辺は、天皇の菊の御紋を日の丸へ、幕府の「関東太守政府」を「日本大君政府」へと変更させた。大君とは将軍のことで、すなわち幕府のことである。
さらに田辺は「薩摩太守政府」から“政府<グーヴェルマン>”の文字を削って、単なる「薩摩太守」とすべきである、と主張した。
しかし「薩摩太守政府」から“政府<グーヴェルマン>”の文字を削れ、という田辺の意見にモンブランが猛然と反論し、レセップスとドナも含めて激論となった。
田辺は「もはや談判もこれまで」として席を立って帰ろうとした。が、その田辺をレセップスとドナが必死で引き止めた。
「日曜日にもかかわらず、せっかくここまで話し合ってようやく談判がまとまりかけているのに、薩摩の立て札から“政府<グーヴェルマン>”の文字を削るか削らないかで談判を破裂させるのはいかにも惜しい。なにより明日、皇帝ナポレオン三世が万博会場を視察されるのだ。なんとか今日中に決めなければならない。“政府<グーヴェルマン>”という言葉は、イギリスが植民地に対して、例えば香港の政府<グーヴェルマン>、カナダの政府<グーヴェルマン>と言うように、その土地の支配者を言う場合にも使われるのだ。日の丸の国旗の下に書かれる以上、よもや独立国と間違われることはない。薩摩の立て札の“政府<グーヴェルマン>”の文字をそのまま残すということで、なんとか認めてもらえないだろうか?」
と二人は田辺を説得した。
結局、田辺は渋々「薩摩太守政府<グーヴェルマン>」の表記を承諾した。
立て札の表記は両者とも日の丸(青地に赤の日の丸)を一番上に表記して、その下に、幕府は「日本大君政府」の文字と三つ葉葵の紋章を、薩摩は「薩摩太守政府」の文字と丸に十字の島津の紋章を表記する、ということで最終決定となった。
結果的には、田辺がモンブランに押し切られた形となった。
とはいえ、これだけであれば田辺も想定していたように、さしたる害も無いはずだった。
ところが翌日から各新聞がいっせいに、この“政府<グーヴェルマン>”の文字のことを取り上げて、薩摩藩の意見を代弁するような記事を発表し始めた。
薩摩藩の意見とは、とりもなおさず
「日本は朝廷を頂点とした諸侯連合政権で、幕府も諸侯の一つにすぎず、日本を代表する政府ではない。薩摩にも大君と同じように“政府<グーヴェルマン>”の文字が使われているのが何よりの証拠である」
という主張であった。
確かに上記のような立て札を使った場合、両者とも日の丸を使っているとはいえ、幕府と薩摩はあたかも同格であるかのように外国人の目には映ってしまうだろう。
この新聞を使ったプロパガンダ攻勢は、もちろんモンブランが仕組んだものである。
現代でも新聞やテレビを使ったプロパガンダは絶大な力を発揮しており、世間の風潮など新聞やテレビといったマスメディアを使えばいくらでも操作できるものだ。
しかしながら、この当時の日本には新聞などというメディアは存在しなかった。それゆえ、このプロパガンダの恐ろしさを知りようがなかった。
西洋人のモンブランが参謀だったからこそ、薩摩藩はこういったプロパガンダ作戦を駆使できたのである。
田辺は各新聞社に抗議して正しい情報を伝えようとしたが、新聞社は田辺を相手にしなかった。田辺は「おそらくモンブランの中傷のせいであろう」と思った。事実、モンブランはこのあとも新聞社に手を回してプロパガンダ攻勢を続けるのである。
「ヨーロッパで幕府の威光を示す」
という目的を掲げてやって来た昭武一行は、初手から致命的な失敗をやらかしてしまった。
このフランスでの状況は、やがて日本のロッシュ公使のところへ連絡が届き、それが幕府へ伝わり、田辺は失策の責任を問われて帰国させられるのである。
それから一週間後の日曜日、昭武たち幕府代表者はテュイルリー宮殿でナポレオン三世に謁見する儀式にのぞんだ。
この謁見は今回のパリ訪問で最も重要な儀式なのだが、なぜかこの時、カションが通訳を担当することになった。
このことについては少々説明が必要である。
向山がカションを嫌っている、ということはこれまで何度か書いた。カションがカトリックの神父だったことに加えて、その人柄が信用できないことが原因だった。
それでもカションはなんとかフランス外務省に働きかけて、フランスに留学する昭武の教育係として採用されることがほぼ内定した。またそのことが新聞に報じられもした。
けれども向山や昭武の傳役(後見役)である山高がカションの採用に強く反対して、フランス外務省にそれを取り消させた。そして結局、昭武の教育係には陸軍のヴィレット中佐が採用されることになった。
内定が決まりかけていて、しかも新聞にまで報じられてすっかりその気になっていたカションは激怒した。
しかもカションとしては、自分を嫌っている向山たちがよりにもよってこのパリで、日本で自分のライバルだったイギリス公使館員シーボルトを重用しているのをずっといまいましく思っていた。
(なぜこんなにも私を邪険にするのだ?日本でロッシュ公使と一緒に幕府を応援していた私のことを何だと思っているのだ?)
カションがこのように向山を恨んだとしても無理からぬ話である。この男の胸中に、我が身の不徳を顧みる、といった殊勝な心根があるはずもない。
そのあとカションは再びフランス外務省に働きかけて、ナポレオン三世との謁見式の際には自分を通訳として採用してもらいたい、と願い出た。が、またもや向山はこれを却下して、横浜のフランス語学校出身の保科俊太郎を通訳として同行することに決め、その旨をフランス外務省に伝えた。
カションが再び激怒したのは言うまでもない。
そしてカションは田辺のところに怒鳴り込んで来た。これに対し、田辺は冷静に説明した。
「保科は横浜の学校であなたに学んだ弟子である。その弟子が晴れの舞台をつとめるのは、師匠であるあなたにとっても名誉なことであろう。不平を唱えるとは心外である」
この田辺の説諭によってとりあえずカションは引き下がったのだが、しばらくすると再び怒鳴り込んで来た。
外務省に提出された謁見式の参列名簿にシーボルトの名前が加わっていることが分かり
「私を謁見式から排除しておいて、イギリス公使館員のシーボルトに謁見式の通訳をやらせるとは何事か!」
と怒鳴り込んで来たのだった。
その名簿のことは田辺も知らなかったようで、実はシーボルト自身も知らなかったことだった。どうやら向山たちが勝手に名簿に加えていたようである。
カションは夜中の十二時までグチグチと田辺に不平を訴え続けた。そしてとうとう向山も折れて、カションを謁見式の通訳として採用することになった。ただし、昭武の通訳は保科が担当し、ナポレオン三世の通訳をカションが担当する、というかたちをとった。
カションが謁見式の通訳を担当することになったのは、こういう事情だった。
ところが謁見式の三十分ほど前になって突然、フランス外務省からシーボルトのところに「通訳として出席してくれ」という連絡が来たのである。
カションが急な眼炎にかかって謁見式に参列できなくなり、シーボルトに通訳として参列してもらいたい、という説明だった。先述した通り、シーボルトはイギリス公使館員ということもあってこの謁見式に参加する予定はなかったのだが、向山が勝手に名簿に加えていた。
そんな訳でシーボルトは急いで準備をしてテュイルリー宮殿へ向かった。すると、ギリギリのタイミングでカションが現れ、結局当初の予定通り、カションがナポレオン三世の通訳をやることになった。シーボルトが見たところ、カションの眼炎はまったく大したことがないように見受けられた。
これはカションにとって、向山や幕府に対する最後のあがきだった。
もはやどうあがいても向山は、昭武に関係する仕事を自分に与える見込みは無い。眼炎と偽って遅れて来たのは、せめてもの腹いせだった。
このあとカションは、モンブランの指示を受けた健次郎からの誘いもあって、薩摩側に寝返るのである。
そして薩摩の意向に沿った主張をフランスの新聞に投書し続けることになる。薩摩の意向とはすなわち
「日本は朝廷を頂点とした諸侯連合政権で、幕府も諸侯の一つにすぎず、日本を代表する政府ではない」
という主張である。
モンブランのプロパガンダ作戦にカションが加わったことによって、ますます幕府の威光に傷がつくことになった。
幕府の側としても、まさかロッシュの片腕であったカションが裏切るとは夢にも思わず、これには非常な衝撃を受け、日本からカションの親友である幕臣の栗本鯤を呼び寄せることになったのである。
ちなみに謁見の儀式自体は滞りなく、無事とり行なわれた。
昭武一行は衣冠束帯の姿で馬車に乗り込んでテュイルリー宮殿へ向かった。ただし渋沢篤太夫は謁見式のメンバーに含まれていなかった。
沿道では多くのフランス人が昭武たちの乗る五台の馬車を見物していた。パリにはかつて竹内使節や池田使節などの幕府使節が来たことはあったが「将軍の弟」という貴人が来たのは今回が初めてだった。
そして、そこに居合わせている人々はまったく知らなかったが、これがパリに来た最後の幕府使節となるのである。
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