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第六章・熊谷にて
第16話 吉田家の人々
しおりを挟むひょんな事から寅之助は、実家へ帰ることになった。
もっとも、卯三郎が鹿児島から帰ってくれば、その卯三郎の鹿児島話をみやげに甲山の根岸友山のところへ行くつもりだった寅之助からすれば、それほど大きな予定変更というわけでもなかった。
とはいえ卯三郎から聞かされた話には面食らってしまった。
あの薩摩人二人を羽生で匿うため、卯三郎と一緒に羽生までついてきてくれ、というのである。
卯三郎が人助けのために一肌脱ごうとしているのは寅之助にもよく分かった。その卯三郎の頼みを断れるわけがないではないか。寅之助は二つ返事で引き受けた。
卯三郎が寅之助に言った。
「お二人は私と同じ、開国派だ。お前の考えとは反するだろうが、妙なことを頼んでしまってすまないな」
「まあ、それとこれとは話が別でしょ。困ってる人を助けるのは当然じゃないか」
「それと、この事は絶対に他言無用だぞ」
「分かってますって」
それからしばらくして、寅之助、卯三郎、松木弘安、五代才助の四人は浅草を出発し、卯三郎の実家のある羽生へ向かった。
中山道を徒歩で行き、途中一泊し、翌日鴻巣にたどり着いた。
鴻巣の次は寅之助の地元、熊谷である。が、その手前に吹上という日光脇往還と交差する間の宿があり、そこで忍方面へ曲がって羽生へ向かった。
卯三郎の実家である羽生の清水家に着くと、卯三郎は兄で当主の恒吉に薩摩人二人を匿う件で相談をした。その結果
「ここで匿うよりは熊谷の吉田家のほうが安全だろう」
ということになり、結局寅之助の地元へ向かうことになった。
四人はこの日は清水家で一泊して、翌日熊谷へ向かい、四方寺村の吉田六左衛門(六三郎)の家を訪ねた。“お東”と呼ばれる吉田一族の本家である。
六左衛門の家に着くと一人の若者が四人を出迎えた。
「やあ、卯三郎さんと寅之助じゃないですか。今日はまた、どうされたんですか?」
吉田二郎という若者である。寅之助と同い年で、養子ではあるが六左衛門の後継ぎである。寺門静軒に学んだあと江戸で勝海舟に学び、英語も多少勉強している。卯三郎と同じく開国派としての素養が強い男である。それゆえ、寅之助から見ると多少ソリが合わない部分もある。
このあと当主の六左衛門と卯三郎が薩摩人二人の処置について相談した。その結果
「ここは吉田家本家ということで目立つから、ここはやはり、市右衛門さんのところのほうが安全だろう」
ということで数日後、下奈良村の吉田市右衛門家へ松木と五代は移ることになった。
市右衛門家は、お多恵の実家である。
むろん寅之助は久しぶりに実家へ帰った。四方寺村の“お西”こと吉田茂兵衛家である。
家族が増えていた。兄茂吉と兄嫁みわとの間に娘が生まれていたのだ。名前はゆうといい、三歳だった。
父と母も相変わらず元気そうで、孫と一緒に幸せそうに暮らしていた。この家の中は田舎の穏やかな家庭を象徴するような、まことに平和な世界だった。
(あの江戸で感じる殺伐とした雰囲気とは、まったく別世界だな。ここは……)
一家団らんの夕べを囲みながら寅之助はしみじみと、そう感じた。
「新徴組を辞めたそうだな。もったいないことをしたもんだ。五一さんと一緒に新徴組に残れば良かったじゃないか。そうすれば定職を得られて、お多恵ちゃんも嫁に迎えられただろうに……」
と兄が強い口調で寅之助に言った。
「私は友山先生についていこうと決めたんです。友山先生が新徴組を去った以上、仕方がないじゃないですか」
「俺も友山先生を尊敬してはいるが、あの人はちょっと危険なところがある。ついていくのは危ないんじゃないか?」
「今のご時世ではどの世界にいても、危なくない世界など無いのです。私は友山先生を信じます」
こうやって兄弟が言い合っているのをじっと眺めていた父茂兵衛が、最後に寅之助に言った。
「……まあ、お前の気が済むようにやったら良い。ただし、人様に迷惑をかけることだけはやるな」
「承知いたしました」
そう答えつつも、寅之助は心の奥底で抗弁していた。
(この殺伐としたご時世で、人に迷惑をかけないなんて無理に決まっているでしょう、父上。私ですら浪士組の近藤たちから命を狙われたぐらいなのに……)
数日後、寅之助は甲山の根岸邸を訪れた。
そして再び門下生として加えてもらえるよう友山にお願いした。
「よかろう。戻ってくるが良い」
友山は寅之助の願いを承諾した。そして友山はさらに言った。
「いいか、よく聞け、寅之助。今、京では攘夷を実行した長州が絶大な支持を受けて、天下を取る勢いだ。今にその勢いは関東にも及ぶだろう。その時が我らの立つ時だぞ」
とりあえず寅之助は、根岸邸の振武所と、熊谷の町道場で剣術師範をしながら友山の弟子を続けることになり、実家の四方寺村と友山の甲山村を行き来する生活を送るようになった。
そんなある日、寅之助は久しぶりに五代と松木の顔を見るために下奈良の吉田市右衛門家を訪れた。
五代と松木は市右衛門家の離れにある家屋で潜伏生活を送っていた。寅之助がその部屋に入ると、そこに吉田二郎と吉田四郎の二人がいて、五代と松木から海外の話を聞いているところだった。
吉田四郎はこの市右衛門家の跡継ぎで、寅之助より三つ年下である。現在十九歳。そしてお多恵の兄である。
この二郎と四郎は暇を見ては松木、五代のところへやって来て、囲碁を打ったり、話を聞いたりして二人の相手をしていた。
「おお、寅之助君。久しぶりだな。ところで君は、ロンドンとパリとどちらへ行きたい?」
と五代が寅之助に聞いた。しかし二郎がそこに口を挟んだ。
「寅之助にそんなことを聞いても無駄ですよ、五代さん。奴は攘夷家ですから。多分ロンドンやパリと言っても何のことだか分かりもしないでしょう」
と冷ややかな笑みを浮かべつつ言った。
「バカ言うな、二郎。パリはフランス国だろう。そんなことぐらい知ってるぞ。ロンドン、とやらは、よく知らんが。むろん、どちらも行きたいとは思わん」
寅之助は以前、旧友の健次郎からフランスへ密航する話を告げられたことがあったので、健次郎が住んでいるであろうパリだけは知っていた。
「ほお、よく知ってたな。しかしもったいない話だ。せっかく自分のすぐ近くに海外へ行った人が潜伏しているというのに、話を聞こうともしないなんて。松木さんはヨーロッパへ、五代さんは上海へ行かれたんだ。お二人の話を聞けば、攘夷なんてバカバカしいって、すぐに分かるのにさ」
すると五代がムキになって言った。
「なに、俺もいずれ自由になったら、松木さんと同じようにヨーロッパへ行くさ。必ずな」
「この北関東の片田舎で、こんなみすぼらしい潜伏生活をしているというのに、五代くんは本当に元気だなあ。おっと失敬。片田舎とか、みすぼらしいとか、吉田家の方々に失礼だったな」
と松木が笑いながら言うと、皆もつられて笑った。
しかし実のところ、五代はすでにこの潜伏生活が嫌になりかけていた。
元々じっとしているのが苦手な性格で、しかも何といっても、ここには女がいない。女好きの五代としてはとても我慢できなかった。
「そうだ、ちょうど良かった、寅之助君。君はここのお多恵さんとどういう関係なのかね?許嫁なのか?そうじゃないのか?皆に聞いても、よく分からないんだが」
いきなりお多恵のことを聞かれて寅之助は、少しムッとした表情で五代に問い返した。
「なぜ、そんなことをお聞きになるんですか?」
「いや、なぜって……、あんな美しい女性が近くにいたら、誰だって気になるだろう?」
「そんなことを五代さんに答える義務はありません」
「でも、みんなだって知りたいよなあ?」
と五代が言うと、全員が寅之助を見つめて、答えを迫る雰囲気になった。
「何ですか?急に皆で、そんな風に見つめて。何でそんなことを皆の前で言わなくちゃならないんですか?」
「でもなあ、君に答えてもらわないと、俺が困る。ハッキリ答えをもらわないと、手を出さない、という自信が無い」
ここでお多恵の兄の四郎が寅之助に、そっと耳打ちした。
「言っときますけど、五代さんと私が裏で手を組んで、寅之助さんに告白させよう、なんて計略では決してありませんよ。五代さんは本当に女に飢えてるんです。時々『お忍びで深谷へ連れていってくれないか?』と私に相談してくるぐらいですから。ここは一つ、妹のためと思って、一言お願いしますよ」
そうまで言われちゃ仕方がない。
男が人前でこんなことを話すのは本来であればとんでもないことだが、これも人助けだ、と思って寅之助も覚悟を決めた。
「えーと……。お多恵さんは私の許嫁ではありません。ですが、以前、お互いに将来を約束したこともあり、私にとっては大切な女性でありまして、いつかは一緒になりたいと思っている相手で……」
この時、入り口の外でガチャンという音がした。
寅之助たちが入り口の方を振り向くと、すぐに戸が開いて下女のお松が顔をのぞかせた。そして部屋の中の男たちに
「お騒がせして申し訳ございません。運んできたお食事を落としてしまいまして……。今、あらためてお持ちしますので……」
と説明した。それから戸を閉めて、母屋へ戻って行った。
男たちは気がつかなかったが食膳を落としたのは、実はお多恵だった。
二人で一緒に松木と五代の食膳を運んできたところ、入り口の外で寅之助の声を聞き、気が動転したお多恵が落としてしまったのだ。そこで下女のお松が気を利かせて、このように答えたのだった。
二人は母屋の台所で再び食膳を用意し始めたが、その時、お多恵の頬には嬉し涙が光っていた。
こういったこともあって寅之助はこれ以降、時々お多恵と会うようになった。
別にこれ以前も時々顔を合わせることはあったのだが、この時以降、寅之助なりに責任を感じるようになり、わざわざ時間を作って二人っきりでお多恵と会うようになったのだ。
逢瀬、ということである。が、清い逢瀬だった。
会ってなにをするという訳でもなく、他愛もない話をするだけだった。お多恵は、どんな本を読んだとか、どんな習い事をしたとか、かたや寅之助は剣術道場での何気ない話、例えば稽古に来ている子どもたちがどうしたこうしたとか、お互い日常の何気ない話をするだけのことだった。それでも、お多恵にとっては十分幸せな時間だった。
寅之助のあの発言に、嘘はなかった。
こうして地元に戻って兄夫婦の平和な家庭を眺めていると、自分も、といった気持ちが多少は浮かんできていた。貧乏ながらも剣術の先生をやりながらお多恵と所帯を持つことも可能だろうか?などと考えたりもした。
今、お多恵は十八歳。今が盛りの桜の如き美しさである。
お政のような派手派手しい美貌とは違い、清楚でしっとりとした、見方によっては「地味すぎるのでは」と言われそうなぐらい慎ましい美人である。
寅之助にとっては、それがまさに理想の女性像だった。
いっそ抱いてしまおう、と思ったことも一度や二度ではない。だが、寅之助は踏みとどまった。
踏み越えてしまえば、間違いなく結婚することになろう。しかし今の自分では、堂々と嫁を迎えられる立場ではない。そして漠然とだが
「おそらく自分は、お多恵と結ばれることは無いのではなかろうか?」
という気がしている。自分はそう遠くない内に志士として討ち死にするのではないか?という予感である。
寅之助の心の中には、かつて見た有村次左衛門の潔い死に様が鮮烈な記憶として残っている。
死を前にして恋した相手が幸せになることだけを願い、何の未練も残さずに死んでいった男、有村次左衛門。男としては、やはりあのようにありたい、と強く思う。
お多恵が大切な女性であるだけに、寅之助にとしても一線を踏み越えられなかったのだ。
とはいえ、もし仮にお多恵のほうから誘いをかけてきたら、いくら寅之助といえども踏みとどまれなかったであろう。
だがお多恵にはそんなことはできなかった。「ふしだらな女と思われたくない」というのも当然の理由だが、さらに、志士として思う存分活動しようとしている寅之助の心を乱したくない、というのが一番の理由だった。良きにつけ悪しきにつけと言うべきか、お多恵は「待つ女」だったのである。
しかし幕末の激動が、二人をそういった穏やかな異次元の世界にとどめておかなかった。
しばらくしてから寅之助は、友山のところで新たな京都の状況を聞かされた。
友山は、京都にいる松本奎堂や長州藩士たちからの書状で、京都の状況を逐一教えてもらっていた。友山は浪士組上京の際にも彼らと京都で親しく面談していた。
松本奎堂は三河の刈谷藩を脱藩した男で、松本が江戸の昌平黌で学んでいた時に友山は彼と知り合った。昌平黌という幕府直轄の名門校で舎長をつとめるほど優秀な男なのだが十八歳の時に槍術の試合で左目を失明しており、隻眼の志士として有名な男だった。
書状によると、彼らは大和で挙兵を企てていることが分かった。
いわゆる大和行幸、大和挙兵(のちに天誅組の変と呼ばれる)計画である。
長州をはじめとする京都の尊王攘夷派は以前、賀茂社行幸と石清水八幡行幸を挙行することに成功した。
これらは孝明天皇が「攘夷祈願」をおこなうための行幸で、さらには幕府の権威失墜を狙って挙行された行幸だった。
ところが今回の大和行幸は目的がまるで違う。
今回の行幸は、天皇による「攘夷親征」が目的なのである。
「天皇が大和へ行幸されるのに合わせて、大和で尊王攘夷の義軍として挙兵する。そして天皇が直接攘夷軍の指揮をおとりになるのだ」
こういった計画であった。そしてこの計画の延長線上には「倒幕」も予定されていた。
ついに来るところまで来た、といったところである。
友山と寅之助は期待と興奮に包まれた。
この計画が成功すれば関東でも義軍が蜂起するだろう。その時は我々も一目散に駆けつけて尊王攘夷に命を燃やすのだ、と二人は決意した。
こうした状況の中、渋沢栄一郎が四方寺の寅之助を訪問した。
八月下旬のことである。といっても西暦に換算すると十月初旬にあたり、季節はすでに秋である。
この時たまたま寅之助は下奈良の市右衛門家のところへ行っていたので、栄一郎は場所を教えてもらって市右衛門家へ向かった。
家に着くとその門前で、町民の姿をしているくせに何だか一本ピシッと筋が通ったような、硬質の雰囲気をただよわせる男が立ちながらキセルを吸っていた。
栄一郎は何となくその男が気になった。それで、声をかけてみた。
「すみません。こちらのお家の方ですか?こちらに吉田寅之助さんが来てませんか?」
するとその男は
「ああ、いるよ。あそこの離れのところにいるはずだ」
と割り合いぞんざいに答えた。が、その男の仕草がなんとも武士みたくサマになっていたので、栄一郎もムッとはならず、威服されるかのように自然とお礼を述べてしまった。
この男は五代だった。
部屋でじっとしているのが苦手なため、近くを散歩して回って、それからここで煙草を吸っていたのだった。
この二人はのち、明治の世になってから「東の渋沢・西の五代」と並び称されるのだが、もちろんこのとき話した相手が誰であったかなど知る由もない。
五代は離れの家屋へ戻るついでに栄一郎をそこまで案内してやった。そして二人が離れの近くまで来ると、その離れの表で、寅之助とお多恵が逢瀬を交わして何やら話をしている最中だった。
しかし何も知らない栄一郎が寅之助に声をかけようとしたので、五代がそれを止めた。
「無粋なことをしなさんな。ちょっとだけ待ってあげなよ」
「えっ?あの女性は吉田さんのご新造さん(若奥さん)ですか?」
「いや、違う。いずれはそうなるらしいが。今はただの恋人なんだとよ。なのに、あの野暮天ときたら、まだ手をつけてないらしい。あ~、もったいねえ。俺だったら散々可愛がってやるのによお」
(いきなり何を言い出すんだ、この男は……)
と栄一郎は不審に思いながらも、五代の言う通り、物陰に隠れてしばらく待つことにした。
しばらく経つとお多恵が母屋へ戻っていった。それで栄一郎は、たった今やって来たかのようなフリをして表れ、寅之助に声をかけた。
そしてお多恵のいたところに栄一郎が代わりに収まるかたちになり、そこで二人の立ち話が始まった。
ヒマを持て余していた五代はこっそりと隠れて、二人の話を盗み聞きした。
「実は一昨日、長女が生まれましてね」
と栄一郎は言った。
「それはまことにおめでとうございます」
「昨年は生まれたばかりの長男を病で亡くしまして……。今度こそ健やかに育って欲しいものです。とにかく娘とはいえ、跡取りができて私も一安心です。これで私に何かあっても後の心配は要りません……」
「わざわざそのことを伝えに来られるなんて、よほど嬉しかったんですね。まあ、お気持ちは分かりますよ」
「あっ……。いえいえ、違います。そのことを言いに来たわけではないんです」
栄一郎は、寅之助の私生活をのぞいてしまったせいか思わず自分の私生活を語ってしまったが、さっそく本題に入ることにした。
「私はここ最近、江戸とこちらを行き来することが多いのですが、吉田さんは最近、千葉道場に顔を出されてませんね。もうあそこは辞められたのですか?」
「まあ、そうですね。完全に縁が切れたわけではありませんけど。今は千葉道場の人間ではありません。すっかり地元に戻ってしまいまして、今は根岸先生の弟子です」
「なるほど、そうですか。実は今、私は千葉道場の真田さんたちと一緒に活動しているのです。それで、吉田さんが道場におられないので心配していたんです」
「それはまた、ご心配をおかけして申し訳ありません。ところで、真田さんたちとどういった活動をされてるんですか?」
「……これは極秘の計画なので他言無用に願います」
「合点、承知」
「実は、清河さんの意志を継いで、横浜を襲撃するのです」
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