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第五章・イギリス艦隊の脅威

第14話 渋沢喜作と平岡円四郎

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 幕府は横浜で、五月十日の攘夷期日に合わせてイギリスに11万ポンド(約35万両)の生麦賠償金を支払った。と同時に、朝廷の顔を立てるために、建前だけの「外国人追放令および鎖港さこう令」をイギリスなどの諸外国に通告した。
 将軍後見職の一橋慶喜が苦心の末に、このような二枚舌作戦を駆使して「日英戦争」を回避したわけである。

 ところがこの「外国人追放令および鎖港令」すなわち日本側が言うところの「五月十日の攘夷期日」を、建前でも二枚舌でもなく、文字通り実行したのが長州藩だった。
 長州藩は下関で五月十一日、アメリカ商船ペンブローク号に対して砲撃を加え、攘夷を実行したのである。ちなみに長州藩はその陰で、攘夷実行とほぼ同じ頃に、横浜から伊藤俊輔たち五人の若者をイギリス留学へ出発させている。が、それはさておき、長州藩の攘夷実行はペンブローク号への砲撃だけにとどまらず、その後もフランス船、さらにはオランダ船と立て続けに砲撃を加えた。

 長州はたった一藩で、米仏蘭に宣戦布告を叩きつけて攘夷を実行したわけである。
 幕府の二枚舌と違って、正々堂々と攘夷を実行した長州藩に対し、朝廷は大いに喜んだ。
「攘夷期限にたがわず夷狄いてき掃攘そうじょうに及んだ事は大義である。いよいよもって精励し、皇国の武威を世界に輝かすべし」
 と朝廷は長州藩に褒勅ほうちょくを下した。
 その褒勅が下されたのと同じ日に、長州藩はアメリカ軍艦ワイオミング号によって下関を報復攻撃され、三隻の船を沈められるなどの惨敗を喫するという皮肉な運命に見舞われた。そして四日後にはフランス軍艦セミラミス号、タンクレード号から下関に追い打ちをくらい、これまた散々な敗北を喫することになった。が、この敗北をきっかけにして長州藩は「奇兵隊」を創設することになり、その後も次々と実戦の経験を積んでいくことになる。

 一方、諸外国に対して、建前とはいえ「外国人追放令および鎖港令」を出さざるを得ない状況に追い込まれた幕府も、さすがに朝廷への不信感を募らせ、しかも将軍家茂が数ヶ月に渡って京都で拘束されている状況も憂慮し、とうとう1,500名の幕軍を江戸から大坂へ船で進発させた。幕軍の指揮をとったのは、生麦賠償金を支払い、「外国人追放令および鎖港令」を諸外国に通告した小笠原長行ながみちだった。けれども、この派兵部隊は淀まで進軍したところで家茂の命によって大坂へ引き戻され、京都に入ることはできなかった。結局この作戦は、家茂の江戸帰還には役立ったものの「朝廷に攘夷をあきらめさせる」という点ではまったくの失敗に終わり、小笠原はそのあと罷免ひめんされた。

 文久三年(1863年)五月、六月の状況を概観すると、以上のようになる。
 まったくもって狂瀾きょうらん怒濤どとうの世界と言うしかない。が、この狂瀾怒濤はこれだけで収まらず、このあとすぐ、七月に入ると鹿児島で薩英戦争が展開されるのである。




 浪士組あらため新徴組しんちょうぐみの一員となった寅之助は、イギリス艦隊との戦争に備えて駐屯所で臨戦態勢を取っていたものの、幕府が賠償金を支払ったことによって日英の衝突は避けられた。そしてそのあと新徴組は通常の江戸市中警備の任に戻った。

 そんな中、寅之助は久しぶりに神田お玉が池の千葉道場へ顔を出した。
 するとそこには、浪士組上洛の頃には近在へ武者修行に出ていた真田範之助が、道場に戻ってきていた。
「おお、久しぶりではないか、寅之助。ちょうどよかった。俺もお前に会いたいと思っていたところだ。清河さんや京都での話をぜひ詳しく聞かせてくれ」
「まったく、真田さんが留守のうちにいろいろなことがありましたよ。いろいろとあり過ぎて、何から話していいものやら……」
「しかし清河さんの横浜襲撃計画はまったくもって惜しかった。江戸にいれば俺もきっと参加してただろう。俺はあの人をただの野心家だと思っていたが、実は凄い人だったのだな、と見直したよ。いや、実に惜しい人を亡くしたものだ」
「我々はその頃、京都から江戸へ向かっている途中だったので、清河さんが横浜でやろうとしていた事はよく分からないのです」
「そうか。で、京の様子はどうだった?」
「どうだったと言われましても……。浪士組の乱暴な連中とケンカになったり、長州の人と少しだけ会ったり。……ああ、そうそう。御所の拝観ができたことは幸運でした」
「なんだ、それは?そんなんじゃ京の様子などさっぱり分からんじゃないか。寅之助。お前たちは一体何しに京へ行ってきたんだ?」
「仕方がないじゃないですか。京に着いたと思ったらたった一ヶ月で江戸へ引き返して、江戸へ戻ってきたら清河さんは殺されているわ、すぐにイギリスとの戦争の準備をするわで、私も一体何がどうなっているのか、さっぱり分からないんですから」
「なるほどなあ。お前もいろいろと大変だったんだな。ところで、一昨年、うちに修行に来ていた渋沢栄一郎という男のことは知っているだろう?いつだったか深谷の道場で対戦した、あの男だ」
「ええ、憶えてます。彼が何か?」
「彼が今年もうちへ修行に来ている。おそらくあとで顔を出すだろう。といっても彼の場合、剣の修行というよりは国事について話し合うのが目的といった感じだがな。彼はお前に会いたがっていたぞ」

 それからしばらくすると、真田の言う通り、渋沢栄一郎が千葉道場へやって来た。
 栄一郎は二年前に江戸へ出て来たのと同じように、今回も江戸へ数ヶ月、剣術および学問修行の名目で出て来たのだが、実際のところを言えば、江戸の志士たちと政治まつりごとの話をするために出てきたようなものだった。
「やあ、渋沢さん。お久しぶりです。お元気そうで何よりです」
「これはこれは吉田さん。お久しぶりです。今度もまた、こちらでお世話になります」
「そういえば最近、おたくの天狗の化身、長七郎殿を見かけませんがどうかされたんですか?」
「実は今、長七郎さんは京へ行っているんです。吉田さんも最近、京へ行っていたと聞きましたが、向こうで長七郎さんと会いませんでしたか?」
「いや、お会いしてません。向こうにおられることも知りませんでしたし」
「そうですか……。まあ、それはそれとして、京の様子はどうでしたか?」
 寅之助は真田に言ったことを再び栄一郎にも語ったが、やはり栄一郎も、寅之助の説明に釈然としない様子だった。
「よく分からんですなあ、吉田さんの説明では……。一体何しに京へ行かれたんですか?」
「仕方がないじゃないですか。京に着いたと思ったら……」
 と、やはり真田に言ったことをくり返すハメになった。

「なるほど。分かりました。しかしそれにしても……」
 と言ってから栄一郎は、激しく幕政を批判し始めた。
「あまりに幕府は不甲斐ないじゃありませんか!なぜ幕府はイギリスと戦わなかったんですか?!」
「……私も戦争になると覚悟して、屯所に入っていたのですが……」
「たった一人の異人を殺害しただけで35万両も強請ゆするイギリスも強欲だが、それを唯々いい諾々だくだくと支払う幕府も幕府だ!」
「その悔しさは私もまったく同感です」
「いや、この際、金額の多寡たかは問題ではない。夷狄いてきにはわずかでも譲歩してはならんのです。朝廷から攘夷実行を命じられておきながら、横浜を閉じるふりをするだけで済まそうという、その幕府の因循いんじゅんさがいかんのです!清河さんの策は本当に惜しかった。やはり横浜は何とかしなければなりません。ところで吉田さん。噂によると、あなたは志士にしては珍しく、その横浜へ何度か遊びに行かれたことがある、とお聞きしたのですが?」
 寅之助はギクッとした。確かに寅之助は以前、横浜でお政やモンブランと交流したことがある。本来であれば、志士として恥ずべき行為である。
 栄一郎は厳しい表情で寅之助をにらみ、返答を迫っているようだった。
「いえ、あの、それはその……。私の親戚が横浜であきないをしているので、その人に会いにちょっと横浜をのぞいてきただけのことで……。それに、ホラ、敵情視察も兼ねてというか、『敵を知りおのれを知れば百戦あやうからず』って言うでしょ?」
 と、寅之助は懸命に弁解した。

 寅之助の説明を聞いて、栄一郎はとりあえず納得した。
「なるほど。分かりました。いや、実はあなたのように剣の腕が立ち、尊王攘夷の志が強く、しかも横浜の事情に詳しい人を探していたのです」
「……?」
「実は今度、一橋家のご家臣の家を訪ねるつもりなのです。私の従兄いとこも同道するのですが、吉田さんも一緒に行きませんか?」
「一橋家と言うと、あの水戸烈公のご子息、一橋慶喜公の?」
「はい。きっと攘夷実行について、有意義な話が聞けると思います」

 この頃、多くの浪士たちにとって一橋慶喜は、水戸烈公・徳川斉昭の息子で
「彼がひとたび立ち上がりさえすれば、たちどころに尊王攘夷は成し遂げられる」
 と信じられていた。水戸といえば尊王攘夷のメッカであり、しかも尊攘のシンボル、斉昭の息子ということで浪士たちはそのように信じたのである。
 当時は現代のように広く情報がゆきわたっていた時代ではない。浪士や庶民が幕府内部の詳しい事情など知り得るはずもなかった。
 前述したように「幕府の二枚舌作戦」は、まさにその慶喜が首謀者となって行なった計略だった。その彼が攘夷実行などやるはずがないのだが、栄一郎はそんな裏事情など知るはずもなかった。
「もし慶喜様が攘夷を実行できないのなら、それは慶喜様の周囲が邪魔をしているからに違いない」
 と栄一郎や浪士たちは信じたのである。まったく皮肉な話と言うか、これはもう、ここまで来るとさすがに滑稽と言うしかない。
 けれども、この滑稽な奇縁がなければ「後の渋沢栄一」もなかったのであるから、人の運命など本当に分からないものだ。

 寅之助はこの栄一郎の提案をうけて、後日、一橋家の家臣である平岡円四郎えんしろうの自宅を訪問することになった。



 江戸時代、根岸には「御行おぎょうまつ」という「江戸名所図会ずえ」にも描かれるくらい有名な巨松が立っていた。現在で言えば山手線・鶯谷うぐいすだに駅の北東のあたりにあったのだが、今、そこには御行の松不動尊がある。残念ながらその巨松はもう、残っていない(現在、何代目かの松が植えられているようである)。
 平岡円四郎の自宅はその御行の松の近くにあった。
 この日、その平岡宅に寅之助、渋沢栄一郎、それに栄一郎の従兄である渋沢喜作きさくの三人が訪れた。
 喜作は、尾高新五郎や長七郎などと同じく栄一郎の従兄だが、喜作の場合は同じ渋沢一族の従兄である。栄一郎より二歳年上で、この頃一緒に志士として活動していた。この喜作が一橋家の川村恵十郎という人物と知り合いになり、そのツテで今回、三人は平岡宅を訪問することになったのだった。

 平岡円四郎は一橋家では慶喜の片腕と目されるほどの重臣である。歳は四十二歳。元来、粗野で武骨な男だったようで、その昔、慶喜の側に仕えて給仕をしている時に慶喜から
「不器用な男だ。しゃもじでご飯をよそうのは、こうやってやるのだ」
 と手ずから教えられたという有名なエピソードがある。
 ただしこの頃の平岡は、聡明にして才気煥発かんぱつ、かつ舌鋒ぜっぽう鋭いキレ者ということで、侮りがたい人物として周囲から恐れられていた。そして平岡自身は、一橋家を強化するためには旧弊きゅうへいを改めて、有能な人材を広く求めようとしていた。

 平岡は三人を応接間へ招き入れて時事について語り合った。
 一通りのあいさつを済ませたあと、まず栄一郎が意見を述べた。
「先頃、朝廷の命に従って長州が攘夷を実行しました。今後各地で攘夷の勢いが盛んになるでありましょう。水戸ご出身の一橋公はもちろん、攘夷の先陣を切られることでございましょう。恐れながら我ら下々の者も、攘夷実行に身をていする覚悟でございます」
 これに喜作が続いた。
「もはや我々草莽そうもうも国難を座視するわけにはまいりません。つきましては、平岡様の攘夷実行のご存念を承りたく、本日まかり越しました」

 平岡が鋭い目つきで三人に語りかけた。
「お主たちは皆、北武蔵の百姓と聞いておるが、相違ないか」
「はい」
「今はお主たちのような若い力が必要だ。もはや士分の者だけでは立ち行かない世になっている。有為な人材は百姓であれ誰であれ、力になってもらわねばならん。だが、攘夷はいかん」
 攘夷はいかん、と言われて三人は驚き、険しい表情で平岡をにらんだ。そして栄一郎が反論した。
「これは、一橋公のご側近のお言葉とも思えません。なにゆえ攘夷はいかんとおっしゃるのですか?」
「では聞くが、お主らはどれだけイギリスやフランスのことを知っているのか?勝てる相手だと思っているのか?もし勝てると言うのなら、その確信はどこから出てくるのか?」
「勝てる勝てないの問題ではございません!実際に戦ってみなくては勝敗など分かりようがないでしょう。なれど、横浜から異人を追放するぐらいのことは、皆で一致団結して攘夷を行なえば不可能とは思えません!」
「外国人を横浜から追い出せば攘夷ができるのか?一度追い出したぐらいで、彼らが大人しく引き下がると思っているのか?彼らに勝つということは、海の向こうにある本国を倒さなければならないということだ。で、もう一度聞くが、お主らはどれだけイギリスやフランスのことを知っている?我が国の軍勢が西欧まで攻めていけると思うのか?」
「それは暴論です!」
「だが、イギリスやフランスといくさをするということは、極論すればそういうことだ。とても出来ることではない」
「承服できません!」
「おそらく口で言っても承服は出来まい。今は世の中全体が攘夷の熱に侵されてしまっている。だが、いつか必ず開国が不可避であると皆が納得する日が来る。それまではお主たち、軽挙けいきょ妄動もうどうは慎んで、命を無駄にせぬことだ」
 平岡の話を聞き終わっても三人は依然として不服な表情をしていた。それでも平岡はさっぱりとした表情で「また話を聞かせてくれ」と言って三人を家から送り出した。

 三人は帰り道で平岡の印象について語り合った。
「ご側近があのように因循では、一橋公もお力を発揮できまい」
 と喜作が言った。そして栄一郎が寅之助に感想を求めた。
「吉田さんはどう思いましたか?」
「そうですね。我々の志とは反するが、芯は一本通っているような感じはしました。あれはあれで、あの人なりの信念として開国を唱えているのでしょう。今のご時世で、ああも堂々と開国を唱えるのですから、ある意味、我々以上に命知らずです」
「まあ、それはそうかも知れません。平岡様は以前、水戸藩士に襲われかけたそうです」
 この当時、平岡のように堂々と開国説を唱えるというのは、例えて言えば、先の大戦の時に「対米戦争はやめるべきだ」と発言すること、また戦後であれば「憲法9条を改めて自立すべきだ」と発言すること(それらの論が正しいかどうかは読者の判断にゆだねるが)と、やや似ているかも知れない。とはいえ、それらの場合は殺されるほどのことはない。が、幕末の場合、人前で平岡のように発言すると往々にして斬り殺されることがあった。そして事実、のちに平岡は斬り殺されるのである。

 栄一郎はため息をつくように言った。
「それはともかく、やはり幕府に攘夷実行は期待できません……」
 そして独り言でもつぶやくかのように言った。
「やはり攘夷実行は、我々の手でやるしかないのだ……」
 隣りにいる喜作は、その栄一郎の独り言に黙ってうなずいていた。
 しかし寅之助には、栄一郎が何のことを言っているのか、さっぱり見当がつかなかった。




 このあと寅之助は久しぶりに浅草の自宅、すなわち清水卯三郎の瑞穂屋みずほやへ戻ってみた。すると、店の中で卯三郎が弟の五一と何やら話し合っていた。特に五一が、不満げな表情で卯三郎に何かを訴えている様子だった。
「どうしたの?何かあったの?」
「おお、寅之助か。ちょうど良かった。聞いてくれ。兄上は頭がおかしくなったらしいのだ。イギリスの軍艦に乗って鹿児島へ行くと言い出したんだ」
「ええっ!それはまた、酔狂な話だねえ!」
「だろう?お前もそう思うだろう?」
「何事があったんですか?卯三郎さん?」
 卯三郎が答えた。
「いやなに。イギリスが鹿児島で交渉する際に、薩摩側が出してくる文書をさっさと読める人間がイギリス公使館にはいないってことで、それで私に白羽の矢が立ったって訳だ。他の日本人は皆、断ったそうだ」

 これは生麦事件に関連して、幕府については、イギリスは賠償金11万ポンドを受け取ったので示談が成立したが、本来の当事者であるはずの薩摩藩は、依然としてイギリスの要求を受けいれていなかった。そこでイギリスは薩摩藩に要求をのませるため、軍艦七隻を率いて鹿児島湾へ乗り込むことになった、という話を指している。ちなみにイギリスの薩摩藩に対する要求とは、生麦事件の犯人の処刑と、賠償金2万5千ポンド(約8万両)の支払いである。
 薩摩と交渉するにあたって、会話はともかく、読解となると日本語は西洋人にとって甚だ難解な言語で、この当時、日本語をちゃんと読みこなせる西洋人は皆無だった。そこで英語のできる日本人に白羽の矢が立ったわけだが、皆がこれを断った。イギリスに協力したことが発覚すると、命が危ないからである。

「兄上も断ればよろしいでしょう。幕府から35万両も強請ゆすり取ったあのイギリスを助けてやるなんて、バカらしいじゃないですか」
「俺もそう思う」
 と寅之助も五一に賛同した。
 そこで卯三郎が答えた。
「しかしなあ、横浜の運上所のお役人から『お国のために何とか頼む!』とお願いされたら、断れないじゃないか。結局はお国のために、誰かがやらなきゃいけない仕事なんだから」
「また友山先生に怒られますよ」
「それはいつもの事だから慣れてるよ。それはそうと、その叔父上が帰郷されたというのは本当かい?五一」
「はい。幕府による攘夷実行の見込みが無くなったので、見切りをつけて甲山かぶとやまへ帰られました。ですが、私は新徴組に残ることにしました。私もそろそろいい歳だし、ここら辺で腰を落ち着けて、江戸市中警護の仕事に専念したいと思います」
「そうか。良い働き場所が見つかって本当に良かったな、五一。で、寅之助はどうするんだ?」
「俺はやはり、もうしばらく友山先生の下で尊王攘夷に励むつもりだから、近いうちに先生のあとを追って甲山へ向かうつもりだったんだけど……。先生に卯三郎さんの鹿児島話を手土産にしなきゃいけないから、卯三郎さんが戻ってくるまではここで待ってるよ」
「そんなこと言って、どうせここで待ってるうちに吉原でも行って遊びほうけるつもりなんだろ?」
「そんな訳ないでしょ」
 一同は思わずハハハと笑った。

「でも……、本当に大丈夫なのかい?」
 と寅之助が卯三郎に聞いた。
「何が?」
「だってほら、下関じゃ長州が攘夷決行ってことで、外国船を砲撃したでしょう。ひょっとすると薩摩も、長州のマネをして『攘夷決行!』とか言って、イギリスの船に砲撃してくるんじゃないの?」
「まさか……。ご公儀とイギリス公使館から聞いた話だと、そんな危ない話は全く無かったがなあ……。長州じゃあるまいし、ご公儀でさえ屈したあのイギリス相手に、そんな無謀なことを薩摩がやる訳ないじゃないか」
「うーん、そう言われればそんな気もするけど……」
「心配のし過ぎだよ、寅之助、ハッハッハ」
 卯三郎は、寅之助にそう言われて少しだけ心配になったが「そんな事があるわけないだろう」と思い直して、寅之助の発言を笑い飛ばした。

 このイギリス艦隊に同行したイギリス公使館員たち、特にアーネスト・サトウなどの記録を見ても、この時イギリス側は鹿児島湾で戦争が起こるなどとは誰一人思っていなかった。そしてイギリス側もそのつもりで卯三郎に同行を依頼した。それゆえ、卯三郎も鹿児島湾で戦争が起こるとはまったく思っていなかった。

 というか、戦争があると知っていたら、それこそ、さすがに卯三郎といえども絶対に鹿児島行きを引き受けなかったであろう。
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