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第三章・志士寅之助、誕生

第7話 敵は安藤信正

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 前回の終盤に取り上げた「桜田門外の変」が起きたのは安政七年(1860年)三月三日のことであった。
 ちなみにこの安政七年は、この事件の少しあとに万延元年と改元されたので、安政七年という年号は通常、あまり目にすることはない。
 といったような話はともかく、この「桜田門外の変」は確かに大事件であった。
 この事件によって幕府の権威が著しく損なわれたのは事実である。それまでの井伊政権があまりにも強圧的であっただけに、その反動も大きかったと言うべきだろう。
 とはいえ、これで屋台骨が一気に崩れ去ってしまうほど幕府の足腰はもろくなかった。

 井伊が殺害されたあと、時局の収拾にあたったのは老中の安藤信正のぶまさだった。
 以後、この安藤と共に政権を運営する久世くぜ広周ひろちかと合わせて、井伊の後継政権を安藤・久世政権と呼んだりすることもあるが、分かりやすくするために、井伊に代わって何かと矢面に立つことが多くなる安藤信正に絞ることにして、ここでは安藤政権と呼ぶことにする。
 安藤政権はこれ以降、皇女和宮かずのみやと将軍家茂いえもちの結婚、さらには長州藩の長井雅楽うたが建策した「航海こうかい遠略策えんりゃくさく」を採用するなど「公武合体」の方針をとっていくことになる。それ以前の井伊政権があまりにも強引な「幕権強化」の方針だったゆえに、井伊の首が飛んだあとはその方針を改めざるを得ず、なんとか朝廷を懐柔かいじゅうして味方に取り込もうと試みたわけである。
 とにかく安藤政権は、ぐらついた幕府の屋台骨を懸命に支えようとしていたのだった。



 同門であった有村次左衛門の死に衝撃をうけた寅之助は、あれ以来、大きく変わった。
 難しいことを考えるのが苦手で、これまであまり政治や時局のことに関心をもってこなかった自らの姿勢を改めて、周囲の千葉塾生たちの政治談議に進んで加わるようになった。
 本格的にその世界へ飛び込んでみれば意識変革など劇的に進むもので、寅之助も周囲の千葉塾生たち同様、いっぱしの「尊王攘夷家」として思想的裏付けをたちまち吸収していった。

 井伊による「安政の大獄」が猛威をふるっていた頃、世の片隅で悲憤ひふん慷慨こうがいしていた多くの尊王攘夷家たちは
「あの井伊さえ亡き者にしてしまえば、世の中はいっぺんに、正義の通った素晴らしい世の中になるはずだ」
 と信じていた。

 しかし実際に井伊の首が飛んでも、そうはならなかった。

 そんなことはいつの世でも同じことで、クーデターでも起きれば話は別だが、政治家一人が死んだところで世の中がいっぺんに変わるなどということはない。「一人の悪人政治家」という存在は、民衆の批判を集めるにはうってつけの存在なのでそういった「幻想」は史上たびたび生み出されてきたが、既存の政治制度、さらには民衆の政治意識が根本的に変わらない限り、世の中が大きく変わることはない。ただし、独裁国家、それが純然たる独裁国家であれば話は別である。けれども、日本の歴史においては、そこまで強烈な独裁政治が存在したことは一度もない。いわんや井伊においてをや、ということである。

 むろん、こういったことは井伊を襲撃した水戸浪士たちも十分承知していた。井伊を倒しただけでは世の中は変わらない。それに続けて、大きな政治変革を引き起こす必要がある、と。
 そのため彼らは井伊の首を獲った直後に、彼らの指導者(関鉄之介や金子孫二郎など)と、薩摩人である有村雄助ゆうすけを西へ向かわせた。ちなみにこの有村雄助は次左衛門の兄である。
 この事件を起爆剤にして京都で、また薩摩で決起することをうながし、一気に政治改革を推し進めてしまおうと計画していたのだった。

 けれども京都でも薩摩でも、決起は起きなかった。
 結局、有村雄助は切腹となり、井伊を襲撃した水戸浪士たちも次々と粛清されていったのである。



「結局なんだったんでしょうね?あの桜田事変は」
 道場での稽古の合間に、寅之助は、そう真田範之助に尋ねた。
「薩摩がこうも慎重な態度を取るとは思わなかった。実に情けない。これでは桜田で事を起こした水戸烈士たちが犬死になってしまうではないか」
 真田の嘆きは一通りでない。
「噂によると有村さんの兄上も、薩摩に帰国後、切腹させられたと聞きますし……」
「薩摩は先君が亡くなって以降、どうも藩全体が委縮してしまっているらしい」
「それはそうと、私は先日、清河先生のところへ行ってお話を拝聴してきました」
「ほう。お前もいっぱしの志士らしくなってきたじゃないか。で、清河さんは何と?」
「清河先生も度々ご自宅で薩摩人と交流されているようなのですが、先生も薩摩の腰の重さを嘆いておられました」
「そうか。でもあの人は野心家だからな。口は達者だが、どうも山師的なところがある。まあ鬼鉄が一緒だから、そう山っ気のある行動も取らんだろうとは思うが……」
「野心家って言ったって、今さら大名や将軍になれるわけでもなし……」
「いや、分からんぞ、あの人なら。今頃、井伊が倒れたことに乗じて、天下取りに動き出そうと企んでいるかも知れんぞ」

 この「清河先生」とは清河八郎のことを指し、「鬼鉄」とは山岡鉄太郎のことを指している。どちらも千葉道場の同門で、清河は寅之助より十二歳年上で、山岡は六歳年上である。

 清河は庄内藩の出身で、身分は寅之助と同じく豪農の息子である。江戸へ出て学問を学び、さらに千葉道場で剣術も学んだ。その後、自身の塾を神田三河町と駿河台淡路坂あわじざかで開いたが、どちらも火事で焼けてしまった。どうやら運の悪い男らしい。
 それでもこの前年、三度目となる塾を開いた。場所は千葉道場のすぐ近くで文武両道の塾なのだが、この頃になると清河の政治活動も本格化し、同じ敷地内にある土蔵の中でたびたび志士たちと密議をおこなうようになった。清河はこの志士たちの集まりを「虎尾こびの会」と名付けた。「虎の尾を踏む」すなわち危険をかえりみず行動を起こす政治集団、という意味である。この虎尾の会に山岡鉄太郎も入っていた。

 山岡鉄太郎、後の山岡鉄舟てっしゅう
 幕臣旗本、小野家の生まれである。千葉道場での稽古の激しさから鬼鉄と呼ばれた。絶対に弱音を吐かず、いったん決めたことは必ずやる、という一徹な男だった。長じてのち、同じ旗本の山岡家に養子として入った。きっかけは槍の名手・山岡静山に入門したことだった。その際、彼は静山から人格を称賛され、さらにその妹英子ふさこから結婚を懇願されたのだが、静山はほどなく急死してしまった。静山の弟精一せいいちがすでに高橋家へ養子に出ていたため(この弟が後の高橋泥舟でいしゅうで、兄と同じく槍の名手である)、彼、すなわち小野鉄太郎が英子と結婚して山岡家を継ぎ、「山岡鉄太郎」となったのだった。
 山岡は千葉道場で清河と知り合い、それ以来ずっと友人として付き合ってきた。そしてこの頃には清河の思想に共鳴して、その密議にもしばしば参加するようになっていたのである。



 そしてこの年の暮れ、麻布なかはしでアメリカ公使館通訳のヒュースケンが暗殺された。
 闇夜の中での暗殺だったので犯人は捕まらなかった。ただし「犯人は清河のところに出入りしていた薩摩藩士伊牟田いむた尚平しょうへいたちである」と、これがほぼ確定的な事実として現在では一般に認知されている。

 天皇、朝廷をたっとび、夷狄いてき(西洋人)を打ち払う。すなわち尊王攘夷。
 ヒュースケンが暗殺されたのは、もちろんこの思想のためである。

 井伊直弼は尊王攘夷の敵であった。
「天皇、朝廷を軽んじて幕権の強化を図り、夷狄と条約を結んで開国を推し進めた」
 実際に井伊の考えていた方針がどうであったかはともかく、少なくとも多くの尊王攘夷の志士たちはこのように考えていた。

 その井伊が倒れたのだから、そのあとすぐにでも尊王攘夷の時代が来る、と彼らは確信していた。
 しかし、それは来なかった。
 安藤政権がなんとか踏みとどまって、尊王攘夷に押し切られないよう懸命に支えていたからである。

 それゆえ、尊王攘夷の志士たちは、この安藤政権を憎悪した。

 そしてその半年後、今度は水戸の浪士たちがイギリス公使館のある高輪の東禅寺とうぜんじを襲撃した。文久ぶんきゅう元年(1861年)五月のことである。
 その結果、イギリス公使のオールコックは無事だったものの公使館員二名が負傷した。幸いイギリス側に死者はでなかった。ただし守衛側の日本人に少数の死傷者が、また襲撃側の日本人に多数の死傷者が出た。
 東禅寺事件である。

 外国人を狙った攘夷殺傷事件はヒュースケン暗殺や東禅寺事件に限らず、以前書いたように横浜開港以来、横浜の地で頻発していた。ロシア人水兵殺害事件、フランス領事館の清国人従僕じゅうぼく殺害事件、オランダ人船長殺害事件、などである。

 まさにこの頃、国内問題と外交問題の紛糾により、江戸や横浜で血の雨が降っていた。

 ちなみに東禅寺事件が起きる八日前、清河八郎は山岡たち虎尾の会のメンバーと両国の書画会へ行った帰り、甚左衛門じんざえもん町(現在の日本橋人形町のあたり)で通りすがりの男に絡まれ、酒の勢いもあってこの男の首を一刀のもとにねてしまった。一説によると、この男は幕府の隠密だったとも言われている。
 ともかくも、清河はこの一件でお尋ね者となり、江戸にいられなくなってしまった。そしてこれ以降、諸国を巡り歩いて同志を糾合きゅうごうする活動をおこなうことにしたのだった。



 この文久元年の春頃、幼なじみの斎藤健次郎が寅之助のところを訪ねてきた。
 健次郎は、相変わらず千葉道場からそう遠くない日本橋本町の薬屋で奉公していたのだが、今回は大事な相談があるということだった。
「俺は薬屋を辞めて、横浜へ行こうと思ってるんだ」
「それはまた急な話だな。何があったんだ?健次」
「このまま薬屋で奉公を続けていても、この先たかがしれているよ。それに今の仕事じゃ俺の蘭学の知識は活かせない。横浜なら蘭学の知識も活かせるし、一獲千金も夢じゃないしな」
「でも、そう上手くいくかな?横浜の外人は結構あくどいって聞くぞ。ひどい目にあわされるんじゃないのか?」
「寅、それはお前の偏見へんけんだよ。外国人だって良い人もいれば、悪い人もいるだろう。それを見極めることが大事なのさ」
「それで、横浜へ行って何をやるか決めているのか?」
「とにかく、絹の仕事がもうかるらしいから、絹を仕入れる仕事をやろうと思ってるんだ」
「俺が聞いたところでは、そういう絹商人が外国に絹をたくさん売るから、我々の物の値段が上がってるっていうぞ。ひょっとして良くない仕事なんじゃないのか?」
「外国から物を買って金を払うんじゃなくて、外国に物を売って金を稼ぐんだから、我々にとっては良いことに決まってるじゃないか」
「俺は商売のことなんてまったく知らないからよく分からないけど……。そういうもんかな」
「寅、最近のお前はなんとなくあやうい道へと突き進んでいるような気がするよ。確かに今、世間では攘夷、攘夷と威勢の良い声が盛んだが、ほどほどにしておかないと後でひどいしっぺ返しをくらうことになるんじゃないか?」
「それは逆に俺たちの世界の話で、商売の世界の人間に分かる話じゃないよ」
「そうか。まあ、そういうことにしておこう。とにかく命を粗末にするなよな。じゃあ、俺は来月になったら横浜へ行くよ。落ち着いたら向こうから文を書く」
「お前がそう決めたんなら仕方がないな。外人にだまされないよう、しっかりやれよ」
 こうして健次郎は江戸を去り、横浜へと移って行った。



 去る者あれば来たる者あり。
 健次郎が寅之助のもとから去って行ったのと前後して、血洗島村の渋沢栄一郎が千葉道場へやって来た。
「お久しぶりです、吉田さん。私もようやく念願がかなって出府することができました」
「ようこそ当道場へお越しくださいました。それにしても、よくご家族が出府を許してくれましたね」
「まったく説得するのに骨を折りましたよ。結局なんとか、この農閑期の二月ふたつきだけ出府の許しを得ました。この機会にいろんな人と面会するつもりです」
「そういえば、あなたのところの尾高長七郎殿が、以前から何度かこちらにお見えになってましたよ」
「まさに、私も長七郎さんから江戸の話を聞いているうちに、いてもたってもいられなくなったんです。実際江戸へ来てみて驚きました。会う人会う人、皆が幕府のご政道に意見を述べているんです。田舎にいては想像もできないことです」
「どんな意見がありましたか?」
「やはり安藤閣老に対する批判ですね。夷狄に対してあまりにも弱腰である、と」
「それはうちの道場の者も、皆が感じていることです」
 栄一郎はこのあと江戸で様々な人と会って話を聞き、二ヶ月後、再び血洗島村へと帰っていった。



 それからおよそ半年が経ち、文久二年(1862年)の一月となった。
 その間、尊王攘夷の志士たちが安藤信正に対して抱いていた憎しみは、徐々に醸成されていた。

 大橋順蔵じゅんぞう訥庵とつあん)という人物が向島むこうじまの小梅村に住んでいた。宇都宮藩に仕える儒学者で、以前よりたびたび過激な尊王攘夷論を提唱して志士たちから信望を集めていた人物である。
 この大橋が計画した安藤襲撃計画、いわゆる「坂下門外の変」が実行されたのは、この月の十五日のことなのだが、実は彼はそれ以前にも安藤襲撃計画を企てたことがあった。

 そしてその時の計画に、尾高長七郎が参加する予定になっていたのである。

 しかしそれを兄の新五郎が止めた。
 新五郎も長七郎も大橋の信奉者である。だからこそ長七郎はその計画に参加しようとしていたのだが、新五郎は、尊敬する大橋の計画といえども「今はその時期ではない」として長七郎の参加を強引に止めた。そしてその計画が幕府に露見した可能性も考慮して、しばらく長七郎を上州の国領こくりょう村というところへ逃れさせた。

 そしてこの一月十五日に、大橋の計画はあらためて坂下門外において実行された。
 が、実行者の浪士六人は全員現場で斬り捨てられ、安藤は無事(一応軽傷は負ったものの)その場を切り抜けたのだった。桜田門の時と違って、この坂下門は失敗に終わったのである。

 ところがその直後、そんな事件があったとは何も知らない長七郎が国領村から出て来て、栄一郎と新五郎が留守中の実家に立ち寄り、そのまま中山道に出て江戸へ向かった。
 栄一郎と新五郎はすでに計画が失敗に終わったことを知っていた。そしてこのとき知人から「ついさっき長七郎が江戸へ向かったよ」という話を聞かされた。

 首謀者の大橋は事件直前に逮捕されており、その後も次々と事件の関係者たちが逮捕されていた。このまま何も知らない長七郎がのこのこと江戸へ出て行けば、たちまち事件の関係者として逮捕されるのは間違いない。

 そう思った栄一郎は急いで家を飛び出して、中山道を走って行った。栄一郎が徹夜で追いかけ続け、翌朝、熊谷宿で自分たちが定宿にしている小松屋という宿で、出発直前だった長七郎を発見した。
「長七郎さん!」
「おお、栄一郎君、おはよう。どうした?そんなにあわてて」
「どうした、じゃないですよ。知らないんですか?」
「何を?」
 さすがに宿の中では話せないので栄一郎は長七郎を外に連れ出した。そして道の端によって、こそこそと長七郎に説明した。
「知らないんですか!襲撃計画は十五日に決行され、失敗に終わりました。六人全員、討ち死にです。大橋先生はじめ、他の者も全員捕まりました。今、江戸へ出て行ったら『飛んで火にいる夏の虫』です」
 これを聞くと長七郎は目をむいて驚いた。
「何だって!?失敗したのか!なんということだ!」
 そしてしばし呆然と中空を見つめた。
「それで新五郎さんのお考えでは、しばらく信州のほうへ行って隠れていてはどうか?と仰ってましたが……」
 と栄一郎が言うと、長七郎はしばらく考え込み、それから答えた。
「いや、いっそのこと、これまでずっと行きたいと思っていた京へ行ってみようと思う。下手計しもてばかへは戻らず、このまま京へ向かうと兄上に伝えてくれ」
 こういった訳で、長七郎は急きょ京都へ向かうことになったのであった。

 余談ながら、のちに明治の世になってから渋沢栄一は、この時のことを次のように振り返っている。
「もし長七郎がこの挙に加わっていたならば、当時日本で一、二といわれた腕であったから、おそらく安藤対馬守つしまのかみ(信正)をたおしたであろう。しかしまた、その一命もなかったであろう。将来ある身をこのような事で殺すに忍びなかったので、やかましく言って止めさせたのである」



 北武蔵で栄一郎たちが大騒ぎしていた頃、きっと江戸の千葉道場でも寅之助たちが「坂下門外の変」の話題で大騒ぎしていたに違いない、と読者の方々は思われるかも知れないが、さにあらず。
 この時、千葉道場はそれどころではなかった。

 変の三日前、剣の達人で「千葉の小天狗」と異名をとった実質的な道場の当主、千葉栄次郎えいじろうが三十歳の若さで急死したのだった。
 千葉周作には四人の男子があったが、長男奇蘇太郎きそたろうは父が亡くなる八ヶ月前に死去し、末子四男多門四郎たもんしろうは栄次郎が亡くなる少し前に死去していた。
 結局、一人残った三男道三郎みちさぶろうが道場を引き継ぐかたちとなり(一応元々北辰一刀流宗家の二代目ではあったのだが)、栄次郎や道三郎が出仕する水戸藩との手続き上の問題もあり、千葉道場はその後始末に忙殺されていたのだった。
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