北武の寅 <幕末さいたま志士伝>

海野 次朗

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第一章・少年剣士、寅之助

第3話 少女お多恵と少年寅之助

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 剣術大会が終わったあと、寅之助は寺門静軒と清水卯三郎を連れて熊谷宿北郊の四方寺しほうじ村へと帰った。
 前回述べたように、この四方寺村の“お東”が吉田家の本家、六左衛門ろくざえもん家にあたり、“お西”が寅之助の生家で分家の茂兵衛もへえ家にあたる。

 寅之助は静軒と卯三郎を案内してきた関係から、自宅の“お西”へ帰る前に、本家の“お東”に立ち寄って顔を出すことにした。
 この吉田本家と吉田分家の間には、よくある「本家と分家の対立」といったような対立関係はほとんどない。それゆえ寅之助は、もう一つの分家、下奈良しもなら村の市右衛門いちうえもん家も含めて、これら吉田一族の家にしょっちゅう出入りしていた。
 本家六左衛門家の当主は吉田六三郎ろくさぶろうといった。この年二十五歳。
 六三郎は賓客ひんきゃくである静軒と親戚の卯三郎に食事を出して歓待した。そこで寅之助もご相伴にあずかることになった。
 このとき食事を運んでくる女性の中に幼い少女が一人混ざっていた。それを見て、寅之助は一瞬ギョッとなった。
「ああ、今日たまたま市右衛門さんのところからお多恵たえちゃんが遊びに来てたんで、手伝ってもらったんだよ」
 と六三郎が微笑みながら寅之助に言った。
 食事の膳を並べ終わったあと、お多恵は寅之助のところへやって来てちょこんと座った。そしてぺこんと頭を下げて
寅殿とらどのにおかれましては、本日の剣術大会でのご活躍、祝着至極にござりまする」
 と幼子おさなごらしくたどたどしい様子で述べて、また台所のほうへと戻っていった。しかし寅之助の表情はひどく困惑していた。
 その様子を眺めている六三郎と卯三郎はニヤニヤと笑っているが、事情が分からない静軒はきょとんと不思議そうにしていた。

 お多恵は下奈良村の吉田家当主、市右衛門宗親むねちか(三十九歳)の次女で、この時九歳だった。
 別に寅之助の許嫁いいなずけという訳ではないが、「もし良かったら許嫁に」といった程度の暗黙の了解が、一族のあいだで醸成されつつあった。
 言うまでもなくこの当時、結婚は普通両親が決めていた。当人たちの意志など二の次だったのである。
 それにしても寅之助にとっては、ついさっき出会った年上の妖艶な女性おまさと比べて、この未発達なお多恵が同じ女という生き物にはどうしても思えなかった。それに寅之助からするとお多恵はあまりにも身近すぎて、妹のようにしか思えなかったのである。まあただ単に、寅之助には年上好みという特殊な性癖が色濃くあって、逆に幼女趣味ロリコン的な指向が薄かっただけ、ということであったかも知れないが。

 このあと寅之助は自宅の“お西”へと帰った。
 その際、卯三郎も“お西”へあいさつするため一緒に付き添ってきた。
 暗い夜道を提灯で照らして歩きながら、寅之助は卯三郎に相談した。
「卯三郎さん。俺はやっぱり剣術家を目指すことに決めましたよ」
「そうか。でも、元々そのつもりだったんじゃないのか?」
「それはそうだけど、今日の大会であらためて、そう決めたんですよ。今までのような田舎剣術じゃなくて、もっと江戸で本格的に修業したいんです。できればやっぱり、千葉周作先生の玄武館げんぶかんが良いな」
「なるほど。そいつは結構なおおごとだ。茂兵衛さんとよく相談するんだな。ところで、千葉道場は子どもでも入れるものなのかね?」
 それはおそらく大丈夫であろう。五十代以上の人間でないと分からないかもしれないが、その昔、少年赤胴鈴之助が千葉周作に剣を習っていたぐらいなのだから。

 さて、二人は吉田茂兵衛もへえ家に到着した。
 寅之助の父、吉田茂兵衛はこの年四十歳。母のおみちは三十六歳。そして兄の茂吉もきちは寅之助より三つ年上で十六歳である。
 卯三郎は茂兵衛にあいさつを済ませると、今日の剣術大会で寅之助が活躍したことを吉田家一同の前で語り始めた。
 そのあと寅之助が父茂兵衛をくり返し説得し、なんとか千葉道場に入門できるよう嘆願たんがんした。

 意外なことに、寅之助や卯三郎が拍子抜けするほど、茂兵衛はあっさりと寅之助の希望を受けいれた。
 ただし二年後に元服するまでは農閑期に江戸へ出て修行するだけで、千葉道場に住み込んで修行するのは元服後ということになった。
 むろん、茂兵衛の後継ぎは長男の茂吉であり、次男の寅之助はいずれ家を出なければならない。寅之助に剣の才能があるのは確かである。その寅之助が剣の才能で身を立てようと決心しているのであれば、親としては応援してやりたいと思うのが人情であろう。幸い寅之助の家は豪農の分家なので財力の面では問題がなかった。

 タイミングが良かった、という事もあったかもしれない。
 この頃はペリーの黒船騒ぎで一種の「剣術ブーム」という状況を呈しており、世間にも剣術を奨励するような雰囲気があった。
 もしこれがあと数年ほど後であったとしたら、尊攘派浪士による要人暗殺や天誅で殺伐とした世の中に変わっているので、とてもじゃないが茂兵衛も息子に剣術修行など許可しなかったであろう。息子をわざわざ血風けっぷううずまく血みどろの世界へ送り出すようなものなのだから。
 しかしながら結局のところ、タイミングが良かったからこそ寅之助は「そういう世界」へ飛び込むことになってしまった訳で、この一家にとっては「タイミングが悪かった」というべきなのかもしれない。



 翌日、寅之助は熊谷宿にある健次郎の家へ向かった。
 もちろん目的は、お政に会うことだった。
 別にお政に会って何をどうする訳でもないのだが、あの妖艶な姿が寅之助の脳裏から離れず、なぜか会わずにはいられなかった。道中、なんだかよく分からない高揚感に全身がつつまれ、バカに早足になって健次郎の家へと歩を進めた。
 ところが健次郎の家に着いてみると、お政はいなかった。
「今朝早く出発して、江戸へ帰っていったんだ」
 と健次郎は寅之助に告げた。
 寅之助はひどく落胆し、高揚感も一気に冷めた。
 さらに健次郎は言った。
「お政姉さんは近いうちに浅草の商人のところへお嫁に行くことが決まったんだ。それで今回、ウチは親戚だからあいさつに来たんだよ」

 お政が嫁に行く。この言葉が寅之助の落胆に追い打ちをかけた。
 昨日ほんの少し会っただけの、寅之助にとってはまったく赤の他人で、しかも年上過ぎて恋愛や結婚の対象とはとても思われない女性であるにもかかわらず、嫁に行くと聞かされると、なぜか絶望的な喪失感におそわれた。
「で、今日はウチに何のご用?薬でも買いに来たの?」
「いや、別に……。ちょっと近くまで来たんで立ち寄っただけなんだ……。じゃあウチで用事があるから俺、帰るわ」
 寅之助は悶々とした気持ちを引きずりながらトボトボと家へ帰っていった。



 それから数日が経ち、寅之助の煩悩ぼんのうもようやく下火となったので、気を取り直していつも通っている熊谷宿近郊の町道場へ稽古に出かけた。
 寅之助は邪念を打ち払うように、道場の庭で盛んに素振りをくり返した。
(俺は近いうち、江戸の千葉道場へ行って剣術一本に打ち込むことになるのだ!女子おなごのことにかまけている暇などないのだ!)

 ところがしばらくすると、この道場にお多恵がやって来た。
「お多恵!こんなところへ何しに来た!」
 と寅之助が叱りつけるように言うと
「大変なの!健次郎さんが向こうの通りで……」
 お多恵は健次郎が熊谷宿の町なかでひどい目にあっている、ということを寅之助に伝えに来たのだった。
 たまたまこの日、お多恵も習い事の稽古で熊谷宿に来ていたのだが、その帰り道、健次郎が町の悪ガキどもに絡まれているのを見かけ、お多恵は健次郎が寅之助の友人であることを知っていたので急いで寅之助のところへ知らせに来たのである。
 話を聞いて寅之助は竹刀を握ったまま道場を飛び出し、お多恵と一緒に健次郎のいるところへ向かって走った。

 二人がその場に着いてみると、健次郎は悪ガキ数人から罵声ばせい嘲笑ちょうしょうを受けていじめられていた。
 悪ガキどもは、ヒモにつながれた二匹の犬を健次郎にけしかけて、おびえる健次郎を見て笑っていた。
 純粋ないじめである。今も昔も、子どもの残酷さに変わりはない。
 弱い者はいじめられる。それは自然界の掟でもある。まだ天然の感覚を多く心に残し、人工的な道徳によって教化されきっていない子どもにとってはごく普通の行為である。そんな子どもは今も昔も、そこらじゅうにザラにいる。
 そしてそういった子どもたちは天然の心が強い分、より大きな力に出くわした時は自然界の動物同様、あっさりと逃げ出すものである。
「健次郎をいじめる奴は誰だー!俺が退治してやるぞ!」
 と叫びながら寅之助が竹刀を振りかざしてやってくると、悪ガキどもも寅之助の腕っぷしの強さをよく知っていたので蜘蛛の子を散らすように逃げていった。

「大丈夫か?犬にかまれなかったか?」
「ああ、大丈夫だ。いつも助けてもらってすまないな、寅」
「なに、気にするな。俺とお前の仲じゃないか」
「あんなバカども、いつか偉くなったら必ず見返してやる」
「そうだ。その意気だ」
「俺がしがない医者の息子だからいじめられるんだ。偉くなりたいなあ、寅よ」
「立派な医者になれば良いじゃないか」
「ウチの親父を見ている限り、医者はダメだな。実際寅の言う通り、あの傷薬はたぶん効かないよ。漢方は傷や骨折にはダメだな。ものの本によると蘭学なら傷や骨折の手当てもできるらしい。最近俺は思うんだが、西洋には何か俺たちが知らない良い物がありそうな気がするんだ」
「ふうん。そういうものかね」
「でも蘭学を勉強するためには長崎へ行かなきゃならないし、あんな遠くまで行くのはとても無理だ。そういえば親父から聞いた話なんだけど、佐久間象山の弟子二人が下田で黒船に乗って密航しようとして捕まったらしい。とんでもねえ事を考える奴がいたもんだ、と思う反面、なるほどそうやって直接西洋へ渡るという手もあるんだな、と少し思い知らされた気もしたよ」
「バカなことを言うな。もしそんなことをしたら、その二人のように捕まって重罪だそ。下手すりゃ死罪だ」
「分かってるよ。俺がそんなバカなことをする訳がないだろ」
 長州藩の吉田松陰(寅次郎)と金子重之輔の二人が下田でペリーの黒船に乗り込もうとして失敗し、幕府に捕まったのはこの年三月のことだった。そして佐久間象山はこれに連座した罪で捕まり、信州松代まつしろの自宅で蟄居ちっきょさせられることになったのである(ちなみに象山の蟄居は九年におよぶ長期の蟄居となる)。



 このあと寅之助とお多恵は一緒に吉田家の村へと帰ることになった。
 お多恵は付き添いの下女に対して、寅之助が送ってくれるから先に自宅へ帰るように、と命じた。下女はお松という名で三十歳ぐらいの女だった。彼女はニヤニヤと笑いながら二人に向かって「ごゆっくりと」と述べて、先に帰って行った。熊谷宿から吉田家の村までは結構な距離がある。寅之助とお多恵は二人っきりで田舎道を歩いていった。

 道中、お多恵は満面の笑みを浮かべつつ歩いている。かたや寅之助の表情は、まるで寺子屋の先生から説教を受けた時のように、曇っている。
 寅之助はお多恵と一緒にいると息がつまるのである。
 別にお多恵が嫌いという訳ではない。少々出しゃばりではあるものの、気立ては悪くないし思いやりもある。容姿は、お政などとは比べるべくもないが、醜いとか太っているということもない。九歳の女の子としては普通の容姿である。
 ただ、お多恵が自分のことを、別に決まった話でもないのに許嫁いいなずけとして縛りつけようとするのがたまらないのだ。これからやりたいことが一杯あるのに、まだ十三歳の身で行動を縛られてたまるものか。寅之助としてはそんな気持ちだった。

「健次郎さんが助かってほんとうに良かった。寅殿なら必ず助けに来てくれると思ってました」
「健次は俺の大事な幼なじみだからな。放ってはおけないさ」
「寅殿と一緒ならわたくしもずっと安心です。もしわたくしが危ない目にあっても、きっと助けに来てくださいますよね?」
「当たり前じゃないか。同じ一族なんだから」
「同じ一族という理由だけなのですか?」
「……」

 しばらく二人のあいだに沈黙が続いた。
 そしてその沈黙を破って、お多恵が凄まじいことを言った。
「寅殿、わたくしを将来お嫁さんにしてくれますか?」
「……!」
 寅之助としては「いつ来るか?」と危ぶんでいたことではあったが、さすがにここまで直截に言われるとは思わなかった。
「あ、いや、それは俺がどうこう決められる話ではないんだ。お互いの両親が話し合って決める話だから……」
「もし父上ちちうえ母上ははうえが反対しても、わたくしは寅殿のお嫁さんになります」
「ハハハ……。そう言ってもらえるのは嬉しいが、お多恵はまだ小さいからもっと世の中をよく見てから決めても遅くはない。お多恵が大きくなる頃には、きっとまた別の意中の男が現れてくるかも知れないだろ」

 お多恵は泣きそうな表情をしている。
「寅殿はわたくしがお嫌いなのですね」
「そんなはずがないだろう」
「ではなぜ、お嫁にすると言ってくださらないのですか?」
「そんな約束をしたら、おそらくきっと、お多恵は不幸になる」
「なぜ?そんなことは絶対にありません。なぜそんなことをおっしゃるの?」
「俺はこんな男だ。長男でもないし、しかも学もない。取り柄は剣術だけだ。将来お多恵の面倒をみられないかも知れん」
「貧乏でも平気です」
「いや。それどころか剣術修行のために諸国をふらふらと渡り歩いているかも知れん。そうなれば、いつ家に帰れるかも分からない。下手すりゃどこかの野山で野垂れ死にしているかも知れん」
「どうしてそんな暗いことばかりおっしゃるのですか。寅殿はいつかきっと立派な武士に出世なさいます。諸国をふらふらしているようでしたら、わたくしが追いかけて行ってきっとお世話をいたします!」

 イヤハヤまったく筋金入りだ、と寅之助はあきれる思いだった。
 しかしそれにしても
「いつかきっと立派な武士に」
 というお多恵の言葉は、寅之助の心にひどく突き刺さった。
(本当になれるだろうか?農民の次男であるこの俺が)
 そう懸念する気持ちは、以前から少なからずある。けれどもこの少女から、こうもあっけらかんと言われると、不思議と背中を押されるような気がして
(なんだかよく分からんが、きっと上手くいくんだろうさ)
 という気にさせられてしまった。確かに暗い気持ちでいるよりは、明るい気持ちでいたほうが得だろう。とりあえず、そういうことにしておこう、と自分の心に言い聞かせた。

「もしいつか俺が立派な武士になったら、お多恵のような土臭い女子おなごでは、武士の奥方はつとまらないんじゃないかな?」
 するとお多恵はすかさず
「いいえ。つとまりますとも!」
 と寅之助に向かって言い返したが、その表情には笑みがこぼれていた。

 たわいもない、よくある子ども同士のごとであった。

 北武蔵の農村では静かに夕暮れをむかえつつあった。
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