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第六章・反転
第39話 条約勅許(前編)
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サトウとパークスは蝦夷地に来ていた。慶応元年八月のことである。
それほど重要な目的があった訳ではないが、新しい日本公使となったパークスとしては三つの開港地(長崎、横浜、箱館(函館))のうち箱館だけまだ見てなかったので視察のため、さらには箱館を主な寄港地としているロシアの様子を探るため、箱館へ来たのであった。
ちなみにロシアは「五ヶ国条約」の一国であるにもかかわらず、自国に近い箱館を日本での主な活動の場としており、横浜を主な活動の場としている英仏蘭米とはあまり交流がなかった。
それゆえ下関戦争の時の四ヶ国艦隊にもロシアは参加していなかった。
実際この頃の箱館は人口もあまり多くなく、貿易量は輸出輸入ともに日本全体の2、3%程度で、貿易港としてはあまり重視されていなかった。ただロシアのみが、自国に近い中継基地として箱館を重視していたのだ。
実はサトウも箱館は初めてだった。
サトウの日記にはこのとき見た箱館の様子がいろいろと書いてある。なかでも特筆すべきは、サトウ本人も「大望がかなった」と喜んでいるように、アイヌの人々に会ったことだった。
パークスや海軍士官たち、さらに箱館の領事館員たちと一緒に落部村(現、八雲町)まで馬で遠足に行き、アイヌの集落を訪れた。
そして相変わらずサトウは
「ピリカ・メノコ・トナスモ・モコロ(美しい娘よ、はやく寝たい)」
などと片言のアイヌ語を使って、アイヌの女性たちに声をかけたりした。
ただしサトウは
「アイヌの女性は口のまわり一面に入れ墨をしているので、みにくい」
と日記に書いている(その一方で「男性はうつくしい」と書いている。男性に対して「うつくしい」とは、何とも不穏当な表現ではなかろうか)。
ちなみに、サトウたちが去って一ケ月後ぐらいのことと思われるが、この落部村のアイヌ集落で墓があばかれ、骨が持ち去られるという事件が起きた。
犯人は数名のイギリス人で、箱館のイギリス領事館員およびその関係者であったことが後に裁判で明らかになった。
ヨーロッパでは博物学者たちがアイヌ人に興味を持っており、アイヌの骨が高く売れるということで盗掘されたようである。
この事件は後にイギリス公使のパークスもイギリス人の犯罪であることを認め、アイヌの人々に対して賠償するよう当事者たちに命令した。
日本でパークスがこれほどまでに低姿勢を示したのは、多分これが最初で最後だったろう、と思われる。
箱館から横浜に戻って来たパークスは本国外務省からの訓令に接した。
それは「300万ドルの賠償金問題」と「兵庫開港」の現状報告を求める、という内容だった。
「300万ドルの賠償金問題」とは、下関戦争の章で紹介したように、前任のオールコック公使が長州ではなくて幕府に請求した、例の賠償金のことである。
この300万ドルというのはオールコックが「ふっかけて請求した途方もない金額」で、これを支払うか、または下関など瀬戸内海の港を開くか、の二者択一を幕府に突きつけ、結局幕府は支払うことを選んだ、ということは以前書いた。
また幕府の横浜鎖港政策が撤回された場面で、今後イギリスにとっては「条約勅許」の獲得が最重要課題となり、オールコックがそれに着手しようとしていた矢先に帰国させられた、ということも以前書いた。
本国外務省からの訓令を受け取ったパークスは、ただちに四ヶ国艦隊を率いて大坂湾へ向かうことを決心した。
そうすることによって「条約勅許」「300万ドルの賠償金問題」「兵庫開港」といったこれらの問題を一気に片づけてしまおうと考えたのである。
「武力を背景に、押せるところまで押す」
これが清国でやってきたパークスのやり方で、彼としては「同じアジアなんだから日本でも同じようにやるだけだ」と単純に考えただけのことだった。
「艦隊を率いて大坂湾へ向かう」
という発想自体は、以前から英仏公使たちが何度か試みようとしていた案だった。
けれども京都からほど近い大坂湾に外国艦隊が近づけば、京都の朝廷が激怒するのは必至で、さらに全国の攘夷派を刺激することにもなる。
それゆえ幕府は英仏公使たちに
「それだけは絶対にやめて欲しい」
と懇願して、これまではずっと思いとどまらせてきたのである。
ところが今度のパークスは、幕府の都合などいちいち忖度する男ではない。
「幕府は一国の政府として他国と結んだ条約を確実に履行しろ。もし朝廷からの勅許を得られないとすれば、幕府は一国の政府としては認められない。ただそれだけのことである」
パークスの理屈としては、こうである。
実際確かにその通りで、幕府の人間からすればグウの音も出ないほどの正論であろう。
折りも良し、東の天狗党が潰れ、西の長州も潰れかけており、攘夷熱はほとんど消滅しつつある。そして幕府は横浜鎖港政策を捨てて開国へと舵をきったのだから、条約勅許を獲得するのに何の障害があるのか?とパークスとしては言いたかったに違いない。
とにかく、パークスからすれば留守番の老中が一人だけ残っている江戸の政府を相手にしてもラチがあかない。長州再征のため大坂に入っている将軍家茂および幕閣たち、さらには京都の|朝廷(天皇)までひっくるめて全勢力を相手にするべく、彼は大坂湾へ乗り込む決心をしたのである。
パークスは幕府と交渉するにあたって次のような条件を提示した。
「幕府が次の三つの条件をすべて満たせば、賠償金300万ドルの三分の二、つまり200万ドルの支払いを免除する」
一、兵庫開港と大坂開市を二年早める
二、条約の勅許を得る
三、輸入関税を一律5%に引き下げる
ただし一の条件については、従来の取り決めでは1868年1月1日に開く予定となっているので「二年早める」となると、すでに開港・開市の期限まで二ヶ月弱ということになる。
パークスがこの中で一番重視しているのは、二番目の条約勅許である。
そしてこの条件提示の中には書かれていないが、幕府が朝廷から条約勅許を得られない場合は
「四ヶ国が実力を行使して、直接京都へ行って朝廷から勅許を獲得する」
と、そこまでパークスは強硬に押すつもりだった。
そのための四ヶ国艦隊であり、実際パークスは大坂でこのように幕府へ通告するのだ。
さはさりながら、これほど強引なパークスの手法に他の三国(仏蘭米)が納得するであろうか?
特に幕府を擁護する立場にあるフランスのロッシュが、このパークスの手法に賛成するであろうか?
実はロッシュも賛成したのである。
もちろんロッシュとしてはパークスに主導権を取られたくないのでパークスの作戦に心の底から賛成している訳ではない。しかしイギリスを牽制しつつ幕府にも助言を与えるため、敢えてこの四ヶ国艦隊に参加することにしたのである。
さらに言えば
「条約勅許を獲得することは幕府にとっても諸外国にとっても良いことであり、反対する理由がない」
というのがロッシュの正直な気持ちだったであろう。
そしてオランダとアメリカは英仏に追随する形で賛成した。
なにしろオランダは軍艦一隻が参加するだけで、アメリカにいたってはこの当時日本近海に一隻の軍艦もなく、イギリスの軍艦に便乗する形の参加であり、この二国がイギリスに異を唱えるはずもなかった。
四ヶ国艦隊はイギリス軍艦五隻、フランス軍艦三隻、オランダ軍艦一隻の合計九隻で大坂湾へ向かうことになった。
以前、下関戦争をおこなった際は十七隻の艦隊だったので、それと比べると今回の規模は約半分である。
ちなみに薩英戦争、下関戦争と、イギリス艦隊はこれまでずっと旗艦はユーリアラス号が、艦隊司令官はキューパー提督がつとめていたが、今回は旗艦がプリンセス・ロイヤル号に、そして艦隊司令官はキング提督に変更になっている。
そしてサトウは今回も正式な通訳として参加することになった。
ただしシーボルトも一緒である。ウィリスは今回も留守番になった。
サトウが関西に上陸するのは今回が初めてである。
艦隊作戦に参加するのは薩英戦争、下関戦争に続き、サトウにとってこれで三度目ということになる。
九月十三日、サトウを乗せた四ヶ国艦隊は横浜を出発した。
三日後、艦隊は兵庫沖に到着し、幕府との交渉を開始した。
サトウのいる兵庫沖からさほど遠くない大坂には、将軍家茂と幕府軍がいた。
彼らが江戸から「将軍進発」したのはおよそ五ヶ月前のことで、大坂に入ってから長州再征の動きは止まったままだった。
幕府は長州を甘くみていたのだ。
「前回、尾張の徳川慶勝を総督とした幕府軍にあっさりと降伏した長州なのだから、今回将軍が進発して大坂に出て行けば、ひとたまりもなく降伏するであろう」
そう思っていたのだが、長州は降伏しなかった。
これまで長州の内情をずっと書いてきたように、正義派が実権を握った長州は徹底抗戦(いわゆる「武備恭順」)の構えをとっているのだから当然である。
アテが外れた幕府としては、長州の各支藩の藩主を大坂に呼びつけようとしたものの、これもことごとく藩主たちが「病気」と称して出頭を断ってきた。
事ここに及んで、いよいよ幕府は腰を上げざるを得なくなった。
四ヶ国艦隊が大坂湾に到着した九月十六日、家茂は京都に入って「長州再征討」の勅許を朝廷に奏請した。すでに六月の段階で朝廷から
「再征討が必要なら勅許なしでも、臨機応変に征討を始めてもよろしい」
と許可がおりているのにわざわざ勅許を求めたのは、朝廷の後ろ盾を得て、世間へ向けて長州再征討を声高にアピールするためだった。
ここで「勅許」(=朝廷の許可)について少し整理しておく。
この九月には「長州再征討の勅許」と「条約勅許」という二つの勅許問題が並行して進んでいるので話がややこしい。
順番で言えば先に「長州再征討の勅許」が朝廷に奏請され、次に「条約勅許」が朝廷に奏請されることになる。
そしてこの二つの勅許奏請に対して、薩摩藩、特に大久保一蔵が大々的に妨害をくわだて、幕府の邪魔をするのである。
まず「長州再征討の勅許」について。
前年の長州征伐における西郷の対応、そして長崎での俊輔、聞多に対する小松の対応、さらにはヨーロッパでの五代、松木の対応を見れば、薩摩藩がすでに幕府を見限っていることは明らかである(ただし薩摩藩全体が反幕府という訳ではなく、薩摩藩内にも幕府寄りの保守勢力がいるにはいる)。
むろん、大久保も幕府を見限っていた。
だからこそ、幕府の長州再征討を何としても阻止しようと薩摩寄りの公家に働きかけた。
具体的な公家の名をあげると近衛忠房、中川宮、山階宮などである。大久保は彼らに入説をくり返して長州再征討の勅許がおりないよう裏工作に励んだ。
この時大久保が
「すでに一度降伏している長州を討つのは名義がない。“非義の勅命”は勅命にあらず」
と言ったというのは有名な話である。
この大久保の妨害工作に対して、ことごとく立ちはだかったのが禁裏御守衛総督の一橋慶喜だった。
慶喜の短い政治家人生のなかで一番光り輝いていたのは、おそらくこの時であったろう。
大久保が関白二条斉敬の屋敷を訪れて長々と入説をくり返し、二条関白の参内を足止めしていたのを受けて慶喜は激怒して言った。
「たかが大久保一人の匹夫が入説しているだけのことで、関白が参内に遅れるとは奇怪至極である!」
このあと慶喜は参内してきた二条関白を説き伏せ(一説には将軍や自分の辞職もチラつかせたという)九月二十一日、長州再征討の勅許を見事に獲得した。
大久保は慶喜に敗れたのである。
ただし、これはまだ慶喜と大久保の戦いの序幕が下りたに過ぎなかった。
それほど重要な目的があった訳ではないが、新しい日本公使となったパークスとしては三つの開港地(長崎、横浜、箱館(函館))のうち箱館だけまだ見てなかったので視察のため、さらには箱館を主な寄港地としているロシアの様子を探るため、箱館へ来たのであった。
ちなみにロシアは「五ヶ国条約」の一国であるにもかかわらず、自国に近い箱館を日本での主な活動の場としており、横浜を主な活動の場としている英仏蘭米とはあまり交流がなかった。
それゆえ下関戦争の時の四ヶ国艦隊にもロシアは参加していなかった。
実際この頃の箱館は人口もあまり多くなく、貿易量は輸出輸入ともに日本全体の2、3%程度で、貿易港としてはあまり重視されていなかった。ただロシアのみが、自国に近い中継基地として箱館を重視していたのだ。
実はサトウも箱館は初めてだった。
サトウの日記にはこのとき見た箱館の様子がいろいろと書いてある。なかでも特筆すべきは、サトウ本人も「大望がかなった」と喜んでいるように、アイヌの人々に会ったことだった。
パークスや海軍士官たち、さらに箱館の領事館員たちと一緒に落部村(現、八雲町)まで馬で遠足に行き、アイヌの集落を訪れた。
そして相変わらずサトウは
「ピリカ・メノコ・トナスモ・モコロ(美しい娘よ、はやく寝たい)」
などと片言のアイヌ語を使って、アイヌの女性たちに声をかけたりした。
ただしサトウは
「アイヌの女性は口のまわり一面に入れ墨をしているので、みにくい」
と日記に書いている(その一方で「男性はうつくしい」と書いている。男性に対して「うつくしい」とは、何とも不穏当な表現ではなかろうか)。
ちなみに、サトウたちが去って一ケ月後ぐらいのことと思われるが、この落部村のアイヌ集落で墓があばかれ、骨が持ち去られるという事件が起きた。
犯人は数名のイギリス人で、箱館のイギリス領事館員およびその関係者であったことが後に裁判で明らかになった。
ヨーロッパでは博物学者たちがアイヌ人に興味を持っており、アイヌの骨が高く売れるということで盗掘されたようである。
この事件は後にイギリス公使のパークスもイギリス人の犯罪であることを認め、アイヌの人々に対して賠償するよう当事者たちに命令した。
日本でパークスがこれほどまでに低姿勢を示したのは、多分これが最初で最後だったろう、と思われる。
箱館から横浜に戻って来たパークスは本国外務省からの訓令に接した。
それは「300万ドルの賠償金問題」と「兵庫開港」の現状報告を求める、という内容だった。
「300万ドルの賠償金問題」とは、下関戦争の章で紹介したように、前任のオールコック公使が長州ではなくて幕府に請求した、例の賠償金のことである。
この300万ドルというのはオールコックが「ふっかけて請求した途方もない金額」で、これを支払うか、または下関など瀬戸内海の港を開くか、の二者択一を幕府に突きつけ、結局幕府は支払うことを選んだ、ということは以前書いた。
また幕府の横浜鎖港政策が撤回された場面で、今後イギリスにとっては「条約勅許」の獲得が最重要課題となり、オールコックがそれに着手しようとしていた矢先に帰国させられた、ということも以前書いた。
本国外務省からの訓令を受け取ったパークスは、ただちに四ヶ国艦隊を率いて大坂湾へ向かうことを決心した。
そうすることによって「条約勅許」「300万ドルの賠償金問題」「兵庫開港」といったこれらの問題を一気に片づけてしまおうと考えたのである。
「武力を背景に、押せるところまで押す」
これが清国でやってきたパークスのやり方で、彼としては「同じアジアなんだから日本でも同じようにやるだけだ」と単純に考えただけのことだった。
「艦隊を率いて大坂湾へ向かう」
という発想自体は、以前から英仏公使たちが何度か試みようとしていた案だった。
けれども京都からほど近い大坂湾に外国艦隊が近づけば、京都の朝廷が激怒するのは必至で、さらに全国の攘夷派を刺激することにもなる。
それゆえ幕府は英仏公使たちに
「それだけは絶対にやめて欲しい」
と懇願して、これまではずっと思いとどまらせてきたのである。
ところが今度のパークスは、幕府の都合などいちいち忖度する男ではない。
「幕府は一国の政府として他国と結んだ条約を確実に履行しろ。もし朝廷からの勅許を得られないとすれば、幕府は一国の政府としては認められない。ただそれだけのことである」
パークスの理屈としては、こうである。
実際確かにその通りで、幕府の人間からすればグウの音も出ないほどの正論であろう。
折りも良し、東の天狗党が潰れ、西の長州も潰れかけており、攘夷熱はほとんど消滅しつつある。そして幕府は横浜鎖港政策を捨てて開国へと舵をきったのだから、条約勅許を獲得するのに何の障害があるのか?とパークスとしては言いたかったに違いない。
とにかく、パークスからすれば留守番の老中が一人だけ残っている江戸の政府を相手にしてもラチがあかない。長州再征のため大坂に入っている将軍家茂および幕閣たち、さらには京都の|朝廷(天皇)までひっくるめて全勢力を相手にするべく、彼は大坂湾へ乗り込む決心をしたのである。
パークスは幕府と交渉するにあたって次のような条件を提示した。
「幕府が次の三つの条件をすべて満たせば、賠償金300万ドルの三分の二、つまり200万ドルの支払いを免除する」
一、兵庫開港と大坂開市を二年早める
二、条約の勅許を得る
三、輸入関税を一律5%に引き下げる
ただし一の条件については、従来の取り決めでは1868年1月1日に開く予定となっているので「二年早める」となると、すでに開港・開市の期限まで二ヶ月弱ということになる。
パークスがこの中で一番重視しているのは、二番目の条約勅許である。
そしてこの条件提示の中には書かれていないが、幕府が朝廷から条約勅許を得られない場合は
「四ヶ国が実力を行使して、直接京都へ行って朝廷から勅許を獲得する」
と、そこまでパークスは強硬に押すつもりだった。
そのための四ヶ国艦隊であり、実際パークスは大坂でこのように幕府へ通告するのだ。
さはさりながら、これほど強引なパークスの手法に他の三国(仏蘭米)が納得するであろうか?
特に幕府を擁護する立場にあるフランスのロッシュが、このパークスの手法に賛成するであろうか?
実はロッシュも賛成したのである。
もちろんロッシュとしてはパークスに主導権を取られたくないのでパークスの作戦に心の底から賛成している訳ではない。しかしイギリスを牽制しつつ幕府にも助言を与えるため、敢えてこの四ヶ国艦隊に参加することにしたのである。
さらに言えば
「条約勅許を獲得することは幕府にとっても諸外国にとっても良いことであり、反対する理由がない」
というのがロッシュの正直な気持ちだったであろう。
そしてオランダとアメリカは英仏に追随する形で賛成した。
なにしろオランダは軍艦一隻が参加するだけで、アメリカにいたってはこの当時日本近海に一隻の軍艦もなく、イギリスの軍艦に便乗する形の参加であり、この二国がイギリスに異を唱えるはずもなかった。
四ヶ国艦隊はイギリス軍艦五隻、フランス軍艦三隻、オランダ軍艦一隻の合計九隻で大坂湾へ向かうことになった。
以前、下関戦争をおこなった際は十七隻の艦隊だったので、それと比べると今回の規模は約半分である。
ちなみに薩英戦争、下関戦争と、イギリス艦隊はこれまでずっと旗艦はユーリアラス号が、艦隊司令官はキューパー提督がつとめていたが、今回は旗艦がプリンセス・ロイヤル号に、そして艦隊司令官はキング提督に変更になっている。
そしてサトウは今回も正式な通訳として参加することになった。
ただしシーボルトも一緒である。ウィリスは今回も留守番になった。
サトウが関西に上陸するのは今回が初めてである。
艦隊作戦に参加するのは薩英戦争、下関戦争に続き、サトウにとってこれで三度目ということになる。
九月十三日、サトウを乗せた四ヶ国艦隊は横浜を出発した。
三日後、艦隊は兵庫沖に到着し、幕府との交渉を開始した。
サトウのいる兵庫沖からさほど遠くない大坂には、将軍家茂と幕府軍がいた。
彼らが江戸から「将軍進発」したのはおよそ五ヶ月前のことで、大坂に入ってから長州再征の動きは止まったままだった。
幕府は長州を甘くみていたのだ。
「前回、尾張の徳川慶勝を総督とした幕府軍にあっさりと降伏した長州なのだから、今回将軍が進発して大坂に出て行けば、ひとたまりもなく降伏するであろう」
そう思っていたのだが、長州は降伏しなかった。
これまで長州の内情をずっと書いてきたように、正義派が実権を握った長州は徹底抗戦(いわゆる「武備恭順」)の構えをとっているのだから当然である。
アテが外れた幕府としては、長州の各支藩の藩主を大坂に呼びつけようとしたものの、これもことごとく藩主たちが「病気」と称して出頭を断ってきた。
事ここに及んで、いよいよ幕府は腰を上げざるを得なくなった。
四ヶ国艦隊が大坂湾に到着した九月十六日、家茂は京都に入って「長州再征討」の勅許を朝廷に奏請した。すでに六月の段階で朝廷から
「再征討が必要なら勅許なしでも、臨機応変に征討を始めてもよろしい」
と許可がおりているのにわざわざ勅許を求めたのは、朝廷の後ろ盾を得て、世間へ向けて長州再征討を声高にアピールするためだった。
ここで「勅許」(=朝廷の許可)について少し整理しておく。
この九月には「長州再征討の勅許」と「条約勅許」という二つの勅許問題が並行して進んでいるので話がややこしい。
順番で言えば先に「長州再征討の勅許」が朝廷に奏請され、次に「条約勅許」が朝廷に奏請されることになる。
そしてこの二つの勅許奏請に対して、薩摩藩、特に大久保一蔵が大々的に妨害をくわだて、幕府の邪魔をするのである。
まず「長州再征討の勅許」について。
前年の長州征伐における西郷の対応、そして長崎での俊輔、聞多に対する小松の対応、さらにはヨーロッパでの五代、松木の対応を見れば、薩摩藩がすでに幕府を見限っていることは明らかである(ただし薩摩藩全体が反幕府という訳ではなく、薩摩藩内にも幕府寄りの保守勢力がいるにはいる)。
むろん、大久保も幕府を見限っていた。
だからこそ、幕府の長州再征討を何としても阻止しようと薩摩寄りの公家に働きかけた。
具体的な公家の名をあげると近衛忠房、中川宮、山階宮などである。大久保は彼らに入説をくり返して長州再征討の勅許がおりないよう裏工作に励んだ。
この時大久保が
「すでに一度降伏している長州を討つのは名義がない。“非義の勅命”は勅命にあらず」
と言ったというのは有名な話である。
この大久保の妨害工作に対して、ことごとく立ちはだかったのが禁裏御守衛総督の一橋慶喜だった。
慶喜の短い政治家人生のなかで一番光り輝いていたのは、おそらくこの時であったろう。
大久保が関白二条斉敬の屋敷を訪れて長々と入説をくり返し、二条関白の参内を足止めしていたのを受けて慶喜は激怒して言った。
「たかが大久保一人の匹夫が入説しているだけのことで、関白が参内に遅れるとは奇怪至極である!」
このあと慶喜は参内してきた二条関白を説き伏せ(一説には将軍や自分の辞職もチラつかせたという)九月二十一日、長州再征討の勅許を見事に獲得した。
大久保は慶喜に敗れたのである。
ただし、これはまだ慶喜と大久保の戦いの序幕が下りたに過ぎなかった。
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