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第六章・反転
第34話 オールコックの離日と鎌倉事件
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さて、ここでそろそろ話を横浜のサトウへと戻す。
下関戦争が終わって横浜へ帰ってきたサトウは、この下関戦争で通訳として貢献したことが認められて約150ポンドのボーナスが支給されることになった。当時「通訳生」だったサトウの年俸は200ポンドだったので、これは相当な額のボーナスと言える。ちなみにサトウはこの半年後に「日本語通訳官」に昇進して、年俸は400ポンドになる。
しかしながらそういったサトウの個人的な話はさておき、この下関戦争が幕府と横浜の外国人たちに及ぼした影響について見ておきたい。
まず幕府は、下関戦争で四ヶ国が長州を破ったことを受けて、横浜鎖港を撤回することになった。
西で長州が敗れ、あとは東の天狗党を潰してしまえば日本国内で「攘夷」を叫ぶ声はほとんど無くなるはずだ、と見た幕府は、いよいよ幕府本来の方針だった「開国」へ向けて舵を切ることになったのである。この点について言えば、問題の根本的な解決を先送りし続けて時期を待った幕府の粘り勝ちと見ることもできよう。
以後、幕府と諸外国との外交問題は「条約勅許」と「兵庫開港」に絞られていくことになる。
兵庫開港問題はこれまで何度も触れてきたので説明の必要は無かろうと思うが、条約勅許については、ここで少し説明しておく必要があるだろう。
幕府と諸外国との間で安政五年(1858年)に修好通商条約(安政五カ国条約)を締結したことは第3話で説明した。
しかしこの条約締結は、大老の井伊直弼が朝廷の勅許を得ずに無断で締結したものだった。このことによって幕末の混迷に拍車がかかったことは、これまで見てきた通りである。
尊王攘夷派は「違勅条約を廃止しろ」と叫び、開国派は「勅許があろうとなかろうと、現実に即して対応すべきだ」と反論し、両者の対立が激化した。
諸外国は最初、朝廷(天皇)という存在を軽視していた。
あくまで日本国の皇帝は大君(将軍)であり、帝(天皇)については「精神的な皇帝」とみなす程度で、大君の許可がありさえすれば貿易活動は可能であろうと思っていた。
事実、諸外国が日本へやって来るまではそうだったのであり、だからこそ幕府も当初は「外交は幕府の専権事項である」と考えていた。条約の勅許を頑なに拒む朝廷(特に孝明天皇)に対し、井伊大老が説得をあきらめて無断で条約締結に踏みきったのも「外交は幕府の専権事項である」と思っていたからである。
ところがその井伊大老が桜田門で首をはねられて以降、朝廷の力が幕府を上回るようになってしまった。このことについても、これまで散々見てきた通りである。
当初朝廷を軽視していた諸外国も、ここへ来て朝廷の存在を重要視するようになった。
「要するに、朝廷から条約の勅許が出ていなかったことが、ここまで外交が混乱した原因である」
諸外国の外交代表は皆そのように考え始めた。
イギリス公使であるオールコックも無論、そう考えた。
そしてオールコックが幕府に対して「条約勅許を朝廷から獲得せよ」と迫ろうとしていた矢先、イギリス本国のラッセル外相からオールコックに対して「帰国命令」が届いたのである。
四ヶ国艦隊が横浜を出発する際に少し触れたが、ラッセル外相はオールコックの下関遠征に反対していた。
「日英の全面戦争になる可能性が無いとは言えず、そこまでリスクをおかして日本の内戦に介入する必要があるのか?」
というのがラッセル外相の考えであった。しかし当時の日英の移動には約二ヶ月かかったので「下関遠征の中止」の命令が間に合わなかったというのは、先述した通りである。
ラッセル外相は「下関遠征の中止」の命令を出した後、とうとうオールコックに「帰国命令」まで出した。そしてそれが下関戦争からしばらく経って、ようやく横浜に届いたという訳である。
もちろんオールコックはラッセル外相の判断に対して大いに反論した。
実際オールコックの目論見通りの結果となり、下関遠征は大成功に終わったのだから当然だろう。
この辺りのオールコックとラッセルのやり取りも約二ヶ月(往復では四ヶ月)のタイムラグを挟んでのやり取りなので隔靴搔痒の感もあり、その内容をいちいち紹介するつもりもないが、結果的に言えばラッセルは、すぐに手のひらを返してオールコックの行動を称賛するようになったのである。
そして帰国命令を出したオールコックに対し、再び日本へ戻って日本公使を続けるように要請するようになった。
しかしオールコックはそれを拒否した。一度ケチをつけられたからには、そう簡単に要請を引き受ける気にはなれなかったのであろう。
ともかくも、オールコックはこれで日本を去ることになった。
これは一見地味な話に見えるかも知れないが、後世から見れば「幕府の命運にとって重要な転換点だった」と我々の目には映る。
オールコックという公使は、基本的に幕府擁護の姿勢が強いイギリス公使だったと言える。
ロンドンで開市開港の延期交渉を引き受けてくれたのは彼であり、また下関遠征を発動して長州を叩いてくれたのも彼である(ただしどちらもその代償は高くついたのだが)。
そういったことは幕府側もある程度認識していたようで、オールコックの日本離任が決まって以降、なんとかオールコックに対して日本にとどまってくれるよう要請した。しかしイギリス本国が決めた人事異動を日本側でどうにかできるはずもなく、結局オールコックは日本を去ることになり、後任の到着を待つことになったのである。
後任が到着するまではウィンチェスターという人物が代理公使をつとめることになるが(以前のニール代理公使がそうであったように)、翌年新しい日本公使として横浜に赴任することになるのは「あのハリー・パークス」である。
ところで話は変わるが、西国で長州征伐がおこなわれていた頃、鎌倉でイギリス士官二名が斬殺された。
十月二十二日の出来事で、横浜に駐屯するイギリス第二十連隊のボールドウィン少佐とバード中尉が鎌倉八幡宮の近くで日本人浪士に斬殺された。鎌倉、江の島、金沢は横浜の外国人たちに人気の観光地で、この二人も馬に乗って鎌倉見物に来ていた時に凶行に遭ってしまったのだった。
この一年ほど前に横浜近郊の井土ヶ谷村で起きたフランス人士官殺害事件(井土ヶ谷事件)では結局犯人が捕まらなかった。それゆえ今回の事件(鎌倉事件)でも犯人は捕まらないだろうと横浜の外国人社会は予想していた。
ところが今回の鎌倉事件では約一ケ月後に犯人の一人が捕縛されたのである。
清水清次という男だった。この捕縛の日はオールコックが横浜から帰国する前日だったので
「喜んだオールコックは自分の鎖付き懐中時計を取り出して、吉報を伝えた使者の首にかけてプレゼントした」
とサトウの手記には書いてある。
この犯人の清水清次が捕まる前に二名の共犯者(蒲池源八、稲葉丑次郎)が逮捕され、すでに斬首されていた。ただし、この二名は鎌倉事件とは関係がない強盗事件で清水清次と共犯していただけで、鎌倉事件の共犯者として斬首することには一部で疑問の声もあったらしい。
サトウはこの三人の公開処刑にすべて立ち会ったが、やはり気分が悪くなったようである。
またサトウはイギリス公使館の一員として清水清次に直接質問して犯行理由などを問い質した。そして「清水がこの事件の犯人であることを確信した」と手記で述べている。
実際「他のアジア諸国でよくあるように、犯人は外国人を納得させるための替え玉ではないのか?」という声もいくつかあったようだが直接本人と話したサトウが「清水が犯人である」と確信しているのだから、多分そうなのであろう。
清水清次の処刑場面については、当時横浜にいたサトウ以外の外国人もたくさん記録に残している。またワーグマンは清水のさらし首のイラストを書いているし、ベアトは写真でその記録を残している。
奇しくもワーグマンとベアトは、ボールドウィン少佐とバード中尉が鎌倉で惨殺される一時間前に江の島で二人と出会っていた。
それゆえ外国人のなかには、鎌倉でイギリス人二名が斬殺されたと聞いて「ワーグマンとベアトが殺されたのでは?」と心配した人々もいた。
斬首される直前の清水が詩を吟じていた、あるいは何かを吟唱していた、というのは様々な本で書かれているが、例えばサトウと一緒に清水の処刑に立ち会ったウィリスは次のように述べている(『ある英人医師の幕末維新』ヒュー・コータッツィ、中央公論社、訳・中須賀哲朗)。
「非常に不敵な態度で、死の直前に詩を吟誦し、気持を高揚させて、日本は外国の支配下に屈するであろうと明言したのです」
またドイツ人ブラントが書いた『ドイツ公使の見た明治維新』(新人物往来社、訳・原潔、永岡敦)では次のように書かれている。
「斬首される前、彼はもう一度、挽歌を口ずさんだ。『今まさに浪人清水清次、死に赴かんとす。恐れはあらず、蛮徒誅殺に悔悟なし。愛国の志士に栄光あれ』。それから彼は刑吏に合図をし、首を差し延べて刀を受けた」
清水の首が斬られると、その場で準備していたイギリス陸軍砲兵隊が号砲を発射し、外国人を暗殺した犯人の処刑がおこなわれたことを横浜の人々に対して報告した。
この数年前には、尊王攘夷派が好んで外国人を殺害して幕府を困らせようとしたものだが(この物語の第8話における高杉晋作の行動が、まさにそれである)この鎌倉事件はそういった政略的な目的を持って起こされたものではなく、突発的に起きた事件のようである。また犯人も早めに捕まったので以前の生麦事件のような政治的紛争(例えば賠償金問題)も起こらずこのまま決着することになった。
ちなみにこの鎌倉事件ではもう一人、間宮一という犯人もいて、彼は翌年捕まって同じように斬首されるのだが、その時もサトウは処刑の場に立ち会っている。そしてサトウは「私は清水と間宮が真犯人である事について何の疑いも持っていない」と述べている。
最後に余談を一つだけ述べる。
この当時、横浜では林董三郎(後の林董。蘭方医の松本良順の実弟)がヘボンの所で英語を習っていた。ちなみに高橋是清も同じ頃にヘボンのところで英語を習っていたが、この二人は後、日露戦争の時に重要な日英外交の仕事をすることになる。ただしそれはこの物語とはまったく関係がない。が、この林が回顧録で、この頃の幕閣の様子について面白いことを書き残している。
「外国人の殺害がある度に、まず起こるのは賠償金問題である。アメリカのリンカーン大統領が暗殺されたという情報が伝わってきた時(※リンカーンが暗殺されるのはこの半年後のこと)その情報を老中へ上申したところ、老中は顔をしかめて『ああ、また賠償金か』とため息をついたという」
下関戦争が終わって横浜へ帰ってきたサトウは、この下関戦争で通訳として貢献したことが認められて約150ポンドのボーナスが支給されることになった。当時「通訳生」だったサトウの年俸は200ポンドだったので、これは相当な額のボーナスと言える。ちなみにサトウはこの半年後に「日本語通訳官」に昇進して、年俸は400ポンドになる。
しかしながらそういったサトウの個人的な話はさておき、この下関戦争が幕府と横浜の外国人たちに及ぼした影響について見ておきたい。
まず幕府は、下関戦争で四ヶ国が長州を破ったことを受けて、横浜鎖港を撤回することになった。
西で長州が敗れ、あとは東の天狗党を潰してしまえば日本国内で「攘夷」を叫ぶ声はほとんど無くなるはずだ、と見た幕府は、いよいよ幕府本来の方針だった「開国」へ向けて舵を切ることになったのである。この点について言えば、問題の根本的な解決を先送りし続けて時期を待った幕府の粘り勝ちと見ることもできよう。
以後、幕府と諸外国との外交問題は「条約勅許」と「兵庫開港」に絞られていくことになる。
兵庫開港問題はこれまで何度も触れてきたので説明の必要は無かろうと思うが、条約勅許については、ここで少し説明しておく必要があるだろう。
幕府と諸外国との間で安政五年(1858年)に修好通商条約(安政五カ国条約)を締結したことは第3話で説明した。
しかしこの条約締結は、大老の井伊直弼が朝廷の勅許を得ずに無断で締結したものだった。このことによって幕末の混迷に拍車がかかったことは、これまで見てきた通りである。
尊王攘夷派は「違勅条約を廃止しろ」と叫び、開国派は「勅許があろうとなかろうと、現実に即して対応すべきだ」と反論し、両者の対立が激化した。
諸外国は最初、朝廷(天皇)という存在を軽視していた。
あくまで日本国の皇帝は大君(将軍)であり、帝(天皇)については「精神的な皇帝」とみなす程度で、大君の許可がありさえすれば貿易活動は可能であろうと思っていた。
事実、諸外国が日本へやって来るまではそうだったのであり、だからこそ幕府も当初は「外交は幕府の専権事項である」と考えていた。条約の勅許を頑なに拒む朝廷(特に孝明天皇)に対し、井伊大老が説得をあきらめて無断で条約締結に踏みきったのも「外交は幕府の専権事項である」と思っていたからである。
ところがその井伊大老が桜田門で首をはねられて以降、朝廷の力が幕府を上回るようになってしまった。このことについても、これまで散々見てきた通りである。
当初朝廷を軽視していた諸外国も、ここへ来て朝廷の存在を重要視するようになった。
「要するに、朝廷から条約の勅許が出ていなかったことが、ここまで外交が混乱した原因である」
諸外国の外交代表は皆そのように考え始めた。
イギリス公使であるオールコックも無論、そう考えた。
そしてオールコックが幕府に対して「条約勅許を朝廷から獲得せよ」と迫ろうとしていた矢先、イギリス本国のラッセル外相からオールコックに対して「帰国命令」が届いたのである。
四ヶ国艦隊が横浜を出発する際に少し触れたが、ラッセル外相はオールコックの下関遠征に反対していた。
「日英の全面戦争になる可能性が無いとは言えず、そこまでリスクをおかして日本の内戦に介入する必要があるのか?」
というのがラッセル外相の考えであった。しかし当時の日英の移動には約二ヶ月かかったので「下関遠征の中止」の命令が間に合わなかったというのは、先述した通りである。
ラッセル外相は「下関遠征の中止」の命令を出した後、とうとうオールコックに「帰国命令」まで出した。そしてそれが下関戦争からしばらく経って、ようやく横浜に届いたという訳である。
もちろんオールコックはラッセル外相の判断に対して大いに反論した。
実際オールコックの目論見通りの結果となり、下関遠征は大成功に終わったのだから当然だろう。
この辺りのオールコックとラッセルのやり取りも約二ヶ月(往復では四ヶ月)のタイムラグを挟んでのやり取りなので隔靴搔痒の感もあり、その内容をいちいち紹介するつもりもないが、結果的に言えばラッセルは、すぐに手のひらを返してオールコックの行動を称賛するようになったのである。
そして帰国命令を出したオールコックに対し、再び日本へ戻って日本公使を続けるように要請するようになった。
しかしオールコックはそれを拒否した。一度ケチをつけられたからには、そう簡単に要請を引き受ける気にはなれなかったのであろう。
ともかくも、オールコックはこれで日本を去ることになった。
これは一見地味な話に見えるかも知れないが、後世から見れば「幕府の命運にとって重要な転換点だった」と我々の目には映る。
オールコックという公使は、基本的に幕府擁護の姿勢が強いイギリス公使だったと言える。
ロンドンで開市開港の延期交渉を引き受けてくれたのは彼であり、また下関遠征を発動して長州を叩いてくれたのも彼である(ただしどちらもその代償は高くついたのだが)。
そういったことは幕府側もある程度認識していたようで、オールコックの日本離任が決まって以降、なんとかオールコックに対して日本にとどまってくれるよう要請した。しかしイギリス本国が決めた人事異動を日本側でどうにかできるはずもなく、結局オールコックは日本を去ることになり、後任の到着を待つことになったのである。
後任が到着するまではウィンチェスターという人物が代理公使をつとめることになるが(以前のニール代理公使がそうであったように)、翌年新しい日本公使として横浜に赴任することになるのは「あのハリー・パークス」である。
ところで話は変わるが、西国で長州征伐がおこなわれていた頃、鎌倉でイギリス士官二名が斬殺された。
十月二十二日の出来事で、横浜に駐屯するイギリス第二十連隊のボールドウィン少佐とバード中尉が鎌倉八幡宮の近くで日本人浪士に斬殺された。鎌倉、江の島、金沢は横浜の外国人たちに人気の観光地で、この二人も馬に乗って鎌倉見物に来ていた時に凶行に遭ってしまったのだった。
この一年ほど前に横浜近郊の井土ヶ谷村で起きたフランス人士官殺害事件(井土ヶ谷事件)では結局犯人が捕まらなかった。それゆえ今回の事件(鎌倉事件)でも犯人は捕まらないだろうと横浜の外国人社会は予想していた。
ところが今回の鎌倉事件では約一ケ月後に犯人の一人が捕縛されたのである。
清水清次という男だった。この捕縛の日はオールコックが横浜から帰国する前日だったので
「喜んだオールコックは自分の鎖付き懐中時計を取り出して、吉報を伝えた使者の首にかけてプレゼントした」
とサトウの手記には書いてある。
この犯人の清水清次が捕まる前に二名の共犯者(蒲池源八、稲葉丑次郎)が逮捕され、すでに斬首されていた。ただし、この二名は鎌倉事件とは関係がない強盗事件で清水清次と共犯していただけで、鎌倉事件の共犯者として斬首することには一部で疑問の声もあったらしい。
サトウはこの三人の公開処刑にすべて立ち会ったが、やはり気分が悪くなったようである。
またサトウはイギリス公使館の一員として清水清次に直接質問して犯行理由などを問い質した。そして「清水がこの事件の犯人であることを確信した」と手記で述べている。
実際「他のアジア諸国でよくあるように、犯人は外国人を納得させるための替え玉ではないのか?」という声もいくつかあったようだが直接本人と話したサトウが「清水が犯人である」と確信しているのだから、多分そうなのであろう。
清水清次の処刑場面については、当時横浜にいたサトウ以外の外国人もたくさん記録に残している。またワーグマンは清水のさらし首のイラストを書いているし、ベアトは写真でその記録を残している。
奇しくもワーグマンとベアトは、ボールドウィン少佐とバード中尉が鎌倉で惨殺される一時間前に江の島で二人と出会っていた。
それゆえ外国人のなかには、鎌倉でイギリス人二名が斬殺されたと聞いて「ワーグマンとベアトが殺されたのでは?」と心配した人々もいた。
斬首される直前の清水が詩を吟じていた、あるいは何かを吟唱していた、というのは様々な本で書かれているが、例えばサトウと一緒に清水の処刑に立ち会ったウィリスは次のように述べている(『ある英人医師の幕末維新』ヒュー・コータッツィ、中央公論社、訳・中須賀哲朗)。
「非常に不敵な態度で、死の直前に詩を吟誦し、気持を高揚させて、日本は外国の支配下に屈するであろうと明言したのです」
またドイツ人ブラントが書いた『ドイツ公使の見た明治維新』(新人物往来社、訳・原潔、永岡敦)では次のように書かれている。
「斬首される前、彼はもう一度、挽歌を口ずさんだ。『今まさに浪人清水清次、死に赴かんとす。恐れはあらず、蛮徒誅殺に悔悟なし。愛国の志士に栄光あれ』。それから彼は刑吏に合図をし、首を差し延べて刀を受けた」
清水の首が斬られると、その場で準備していたイギリス陸軍砲兵隊が号砲を発射し、外国人を暗殺した犯人の処刑がおこなわれたことを横浜の人々に対して報告した。
この数年前には、尊王攘夷派が好んで外国人を殺害して幕府を困らせようとしたものだが(この物語の第8話における高杉晋作の行動が、まさにそれである)この鎌倉事件はそういった政略的な目的を持って起こされたものではなく、突発的に起きた事件のようである。また犯人も早めに捕まったので以前の生麦事件のような政治的紛争(例えば賠償金問題)も起こらずこのまま決着することになった。
ちなみにこの鎌倉事件ではもう一人、間宮一という犯人もいて、彼は翌年捕まって同じように斬首されるのだが、その時もサトウは処刑の場に立ち会っている。そしてサトウは「私は清水と間宮が真犯人である事について何の疑いも持っていない」と述べている。
最後に余談を一つだけ述べる。
この当時、横浜では林董三郎(後の林董。蘭方医の松本良順の実弟)がヘボンの所で英語を習っていた。ちなみに高橋是清も同じ頃にヘボンのところで英語を習っていたが、この二人は後、日露戦争の時に重要な日英外交の仕事をすることになる。ただしそれはこの物語とはまったく関係がない。が、この林が回顧録で、この頃の幕閣の様子について面白いことを書き残している。
「外国人の殺害がある度に、まず起こるのは賠償金問題である。アメリカのリンカーン大統領が暗殺されたという情報が伝わってきた時(※リンカーンが暗殺されるのはこの半年後のこと)その情報を老中へ上申したところ、老中は顔をしかめて『ああ、また賠償金か』とため息をついたという」
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