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第一章・生麦騒動
第4話 俊輔と来原(前編)
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生麦事件から四日後(八月二十五日)、横浜と東海道をむすぶ横浜道の中間にある「野毛の切通し」から、一人の武士が恐ろしい表情をして横浜の町を眺めていた。ここは高台にあるため横浜の町の様子がよく見えるのだ。
男の名は来原良蔵といい、長州藩士であった。
この来原は伊藤俊輔の恩師的な存在であり、桂小五郎より年上でありながら義理の弟(来原の妻が桂の妹)であり、亡き吉田松陰の無二の親友だった男である。
長州藩の中では洋学通として名が通っていた彼は、サトウたち西洋人の町であるこの横浜を焼き払って攘夷のさきがけになる決心をかためていた。
なにしろこのこと自体、唐突な話に聞こえるだろうが、さらに唐突な話をすると彼は二ケ月ほど前、京都にいた時に藩内の意見対立を見かねて切腹する覚悟をかためていた。しかし藩の上層部から諭され、半月ほど前に江戸の有備館(藩の学校)御用掛を命じられ、すぐに京都を出発して江戸へ向かった。
東海道を下る途中、彼は薩摩藩一行とすれ違った。もちろん生麦事件の報にも接した。
他の長州藩士たちが「薩摩に先を越されてしまった!」と嘆いたのと同じように、彼も嘆いた。元々は洋学びいきであるのだから本心から「その行為」が正しいと思っている訳ではないが、負けん気は人一倍強い。「武士たるものは他人に遅れをとることは決して許されない」、それを信条とする男である。
そしてなんといっても、そもそも二ケ月前にすでに命を捨てる決心をしている男なのだ。
彼は江戸へは行かず、このまま横浜の関内に潜入して、西洋人を何人か殺して攘夷のさきがけをつとめ、自分も死のうと思った。
しかし同行者の佐世八十郎(後の前原一誠)に止められ、後日再起するため野毛の切通しから「敵地視察」をするだけにとどめて、ひとまず江戸へ向かうことにした。
以下、しばらくはこの物語のもう一人の主人公である伊藤俊輔(後の伊藤博文)の生い立ちを述べる。
それを述べることによって「なぜ来原は死のうとしているのか?」ということも追々わかってくるだろう。
俊輔は天保十二年(1841年)九月二日、周防国熊毛郡束荷村で生まれた。現在の山口県光市に属する地域である。ただし九歳の時に一家で萩へ移ったので、のちの俊輔の出世につながる人脈や教育はほとんど萩で授かっていると言っていい。
幼名は林利助といった(ちなみにこれ以降、俊輔は何度か名前を変えることになるが、煩わしいのでこの物語では博文に変わるまでずっと「俊輔」で通すことにする)。父は林十蔵といい、母は琴という。兄弟はおらず一人っ子だった(ちなみにサトウは六男五女の三男である)。
俊輔の一家は百姓の血筋だった。
幕末には渋沢栄一や近藤勇、土方歳三のように百姓から武士に成り上がった人間は何人かいるが、それでも彼らの場合はある程度の財力を有していたり、武芸に励む余裕があった。
しかしながら俊輔の場合はそういったレベルの百姓ではない。
まさに貧農である。もちろん武芸に励んだこともない。なにより俊輔が束荷村を出ることになったのも、父の十蔵が破産して村にいられなくなったからだった。
ところが人の運命などわからないもので、十蔵は萩に出て足軽の伊藤家に仕えて、その信用を得ることに成功した。そして伊藤家には跡継ぎがいなかったために十蔵が養子に入り、この「足軽の伊藤家」を相続することになった。これにより農民の子の林利助が、足軽の子の伊藤「俊輔」となったのである。
安政三年(1856年)、十六歳の俊輔は海岸警備の仕事につくため相模国宮田へ出張した。現在の地名でいえば京急久里浜線の三浦海岸駅のすぐそばのあたりに宮田の海防陣屋が置かれていて、足軽の俊輔も長州藩の手勢の一人として一年程ここに駐屯することになった。
浦賀はここから少し離れたところにある。そこにペリーの黒船が来航したのは三年前のことで、幕府がこの辺りの海防を重視して長州藩に海岸警備を命じたのだ。
この宮田で俊輔は、上司の来原良蔵と出会った。
来原は、のちに俊輔を指導する立場となる吉田松陰や桂小五郎と昵懇の仲で、松陰より一歳、桂より四歳年上である。俊輔はこの三人から強い影響をうけて成長していくことになる。
ちなみにあと一人、俊輔の上司となって強い影響をあたえる男としては高杉晋作もいるが、これは「指導」と言えるかどうかちょっと微妙である。この場合は、俊輔も加わった暴れん坊グループにおける「親分と子分」と言うべき関係であろう。
司馬遼太郎大先生はその作品の中で俊輔のことを「俊輔自身があこがれを抱いていた豊臣秀吉と同様に、主筋が良い」と述べているが(秀吉と信長の関係のことであろう)確かに来原、松陰、桂、高杉に仕えた俊輔は「主筋が良い」と言うべきだろう。
俊輔はこの宮田で来原から文武両面においておおいにしごかれた。
朝は日が昇る前から叩き起こされ、ローソクの火をあかりにして本の読み方を教え込まれた。そのあと海岸へ出て軍事教練をうけて、武士の精神を徹底的に叩き込まれた。
軍事教練の前に俊輔が草履をはこうとすると
「草履をはくな!戦場において草履が無い時はどうする!とっさの時にそなえて常日頃から裸足で行け!」
と怒鳴られ、寒中稽古の際に俊輔が
「今日はまた格別寒いなあ」
と口にすれば
「寒いと口にして天気が変わるものか!だったら最初から寒いなどと口にするな!」
と怒鳴られるといった始末である。
ただし来原は精神論ばかりを振り回すただの単細胞ではない。
物質面においては西洋の学問がすぐれていることを認める柔軟な思考も備えていた。その点、彼の親友である松陰と同じである。ちなみに松陰との関係で言えば、松陰が脱藩して東北周遊の旅へ出ようとした際に、彼は親友の松陰をかばって藩から罰をうけたこともある。
松陰は藩から何度か咎めをうけた人間であるが、その点では来原も似たり寄ったりである。以後、彼も何度か藩から咎めをうけることになる。この二人は「物事をゆるがせに出来ない」という頑固な共通性を有する友人同士であった。実際その特性のためにこの二人は命を縮めたとも言えるのだが、桂のみが、それとは正反対の特性を有していたので命を保つことになった。
来原はこの相模警備の際に洋式の軍事教練を試みた。
そしてこのことが藩から咎められて、解任された。
解任の理由は「敵である西洋の軍事教練をまねるとはケシカラン」といったところだった。このあと横浜が開港されて攘夷熱が盛んになる、それよりかなり前の時期にあたるこの時でも、一般的な対外感情は似たようなものであった。
来原自身としては
「西洋のすぐれている点は率直にすぐれていると認めて、その本質を真正面から突きつめることが重要であって、それのどこに恥じる理由があるか」
といった思考のもとで洋式の軍事教練を試みたのだが、藩の上層部にはそういった柔軟な発想を受けいれる度量はなかった。官僚組織というのは今も昔も本質的にそのようなものであろう。
俊輔はこの時来原から
「萩へ帰ったら松陰の松下村塾でさらに勉学をしろ」
とすすめられて紹介状を書いてもらった。もともと俊輔は松陰の家の近所に住んでおり、松陰が主催する前の松下村塾で学問を学んでいたこともあって、この近所では有名な(札付きと言うべきかも知れないが)松陰の存在は知っていた。ただし正式に松陰に入門するのは来原に紹介してもらってからのことである。
吉田松陰については、近年大河ドラマで取りあげられたこともあるので、ここではあまり深く記す必要はなかろうと思う。
先ほど松陰の「脱藩、東北周遊」の話に少し触れたが、その後の「下田踏海(下田でペリーの黒船に乗り込もうとして罰せられた事件)」の話などは特に有名であろう。俊輔が入塾した頃(安政四年の秋頃)はまさに松陰の松下村塾に多くの青年たちが集いつつある頃だった。
その昔、徳富蘇峰が書いた著書『吉田松陰』のなかで
「松下村塾は、徳川政府転覆の卵を孵化したる保育場の一なり」
と有名なセリフを残したように、この塾には高杉晋作、久坂玄瑞といった後年日本中を揺るがすことになる怪物の卵たちが通っていた。もちろん俊輔も、スケールは別として、その卵の一つであったと言えよう。
松陰の思想や人間性を解説するなどという途方もない作業を筆者はするつもりがないので(それでもおそらく西郷隆盛とくらべれば、そこまで複雑でもないように思うが)彼がこの頃考えていたことをごく簡単にまとめると
「日本を外国に侵されない強い国にしなければならない。そのために自分が出来ることは何でもする」
彼はこの事だけを考えて松下村塾で、あるいは野山獄で、さらには伝馬町の獄で煩悶し続けていたように思われる。
俊輔は松陰から塾で教えをうけるだけでなく、時には松陰の手足となり、時には松陰の耳目となって各地へ飛んだ。最初に向かったのは京都で、次は長崎だった。そういった活動を続けていた俊輔の特性を松陰が
「なかなかの周旋家(交渉人あるいは仲裁人)になりそうな」
と評したことがあるが、これは将来俊輔が大政治家(初代総理大臣)になることを松陰が見越していた、というエピソードとして有名である。
実は俊輔が長崎へ行ったのは、再び来原の下に付いて洋式軍学を学ぶためだった。安政五年(1858年)十月のことである。
それ以前から長崎には幕府の長崎海軍伝習所が置かれていて、オランダ人から教育をうけていた。今回、長州藩の上層部はそこで自藩の者に洋式軍学を学ばせるために来原を派遣したのだが、俊輔はその手下として来原に同行したのだった。
一年ちょっと前に「勝手に洋式の軍事教練を試みた」として職を解かれた来原は、この時どう感じたであろうか?
「何を今さら」と感じたであろうか?それとも「とにかく藩の上層部が西洋のすぐれた知識に目を向けるようになったのは前進だから良しとしよう」と感じたであろうか?
おそらくその両方であったろう。
ともかくも、来原と俊輔は長崎で半年ほど洋式軍学を学ぶことになった。
余談ながら後に下関へイギリスをはじめとする連合艦隊をさしむけることになるイギリス公使のオールコックが長崎に初来日したのは、この俊輔の長崎滞在中のことで(安政六年五月四日)、俊輔がそれを止めようとして横浜で彼と会うのは、この五年後のことである。
こういった長崎での話はさておき、当時の江戸と京都に目を転じてみると、この頃まさに「安政の大獄」の嵐が吹き荒れていた。
この「安政の大獄」には、サトウの生い立ちの項で書いた日米修好通商条約の調印問題(しかも朝廷の許可無しの調印)、さらには将軍継嗣問題(将軍家定の跡継ぎ問題)も関係しているが、ここではそういった細かな解説は割愛する。
とにかく一言でいえば「井伊直弼が強権を発動して尊王攘夷派を弾圧した」ということである。そしてこのことによって松陰も幕府の命令で江戸へ送られてしまった、ということが俊輔にとっては一番ショックであった。
松陰が萩を発って江戸へ向かったのは安政六年(1859年)五月二十五日である。
俊輔が長崎での修行を終えて萩へ帰ってきたのは六月十七日のことで、すでに松陰は江戸へ送られたあとだった。俊輔としては無念であったに違いない。
萩に戻った俊輔は来原から義兄の桂小五郎を紹介され、これ以降、俊輔は桂の手下として藩の仕事に従事することになる。前述したように、来原の妻は桂の妹でお治といい、この時すでに長男の彦太郎が誕生しており、彼は維新後(先に木戸家を継いだ次男、正二郎の死後)木戸家を継いで木戸孝正と名乗るようになる。そして彼の長男が先の大戦の時に内大臣をつとめた侯爵木戸幸一である。
九月十五日、桂と俊輔は松陰のあとを追うように萩を出発して江戸へ向かった。江戸へ着いたのは十月十一日である。
そしてその十六日後の十月二十七日、松陰は伝馬町の獄で処刑された。
身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも 留置まし大和魂
有名な彼の辞世の句で、伝馬町の獄で最期に書き残した『留魂録』の冒頭に書かれている。
松陰の死についても、その解説にあまりスペースを割くことはできないが、筆者が思うに、松陰が高杉へ送った有名な手紙のセリフ
「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生て大業の見込みあらばいつでも生くべし。僕が所見にては生死は度外に措て、唯言べきを言のみ」
おそらくこの通りであったろう。
みずから死を望むわけではないが、死ぬべき時が来たら見事に死んでみせる、と。
屈原(中国の戦国時代の人で身投げして諌死したことで有名)を尊敬していた松陰としては、自分が死んでみせることによって長州の人々、ひいては日本全国の人々を覚醒させることを切望した、やはり諌死であったろうと思う。
処刑の二日後、桂や俊輔たち四人の長州人は小塚原の回向院で松陰の遺骸を引き渡された。一同は泣きながら血で染まった首と胴を水で洗いきよめ、裸だった遺骸に自分たちが着ていた服を着せた。
俊輔は自分の帯を解いて師の体にむすびつけた。そして持参した大甕におさめて、松陰より少し前に処刑されていた橋本左内の墓の隣りに埋葬した。
この時まだ俊輔は十九歳(満年齢では十八歳)である。
この小塚原で直に松陰の無残な遺骸に触った俊輔の怒りは如何ばかりであっただろうか。
ただしこの怒りは俊輔だけが抱いていたわけではない。
この約四ヶ月後、「安政の大獄」で大弾圧をうけた志士たちの怒りが爆発し、桜田門外で井伊直弼の首がとんだ。
そしてこの「桜田門外の変」によって幕府の威信は一気に崩れ去り、時代の流れは大きく揺り戻されるのである。
ただし、その揺り戻しが来る前に、長州では一人の男が注目すべき政治活動を開始した。
藩の重職にある長井雅楽が「航海遠略策」を唱えて公武合体(朝廷と幕府の関係を取り結ぶ)に乗り出したのである。
この航海遠略策の内容を大ざっぱに言ってしまえば
「朝廷と幕府の関係を良くして国論の一致をはかり、その上で堂々と開国して貿易によって国を富まし、富国強兵をすすめて外国に侮られない国をめざす」
といったような提言である。
まことに常識的な政策提言で、当時の心ある人々は皆このように考えており、実際維新後の明治政府もこの形で(この中から幕府だけを外した形で)国家運営をすすめていくことになる。
長州は藩主慶親の「そうせい」という了承のもと、この長井の航海遠略策を藩論として推し進めることに決定した。そして長井は朝廷と幕府に入説して、その両者から好感をもって受けいれられた。
長井の活躍によって長州の名声は大きくあがったのだ。
そして来原良蔵も、この長井の策に賛同した。
「来原が長井の親戚であったこと」も理由としてはあるかもしれないが、実際のところは「その考えが来原と同じだったから」というのが一番の理由であっただろう。もともと「外国の物でも良い物は取り入れろ」という開国論が来原の考えであったし、長井の策に反対する理由が来原にあるはずはなかった。
ところが、この長井の策に松陰の弟子たちが猛然と反対した。
特に久坂や高杉が強硬に反対して「長井を斬る」とまで言い出した。そして俊輔も、このグループに入っていたのである。
松陰の考えていた政策は長井の政策とそれほど違いがあった訳ではない。
松陰も基本的には開国策に賛成している(というかむしろ積極的な海外進出を主張している)。ただし松陰の場合は、その頃はまだ井伊直弼が生きて「大獄」の指揮をとっていたので幕府そのものが信用できず、それゆえ幕府がすすめる開国策も受けいれられなかった。
少し余談を述べると、これは筆者が以前から気になっているのだが、長井に対しての人物評価には不思議な共通点がある。長井は吉田松陰から奸物(腹黒い悪人)と見られていた。そして西郷吉之助(隆盛)からも「奸物長井を斬るべし」と言われていた。
不思議な共通点である。
現代の目線から見ても長井はごく当たり前の政策を提言した常識的な人間に見えるし、この薩長の両巨頭である松陰と西郷から「奸物視」されるような人間には見えない。
考えられるケースとしては、松陰の場合は「大獄」の渦中にあったという危機的な意識から出たもの、ということ。そして西郷の場合は、この「奸物長井を斬るべし」と訴えていたのは奄美大島から戻って来て(生麦事件の場面でも少し触れたが)久光の命令を無視して上京した時のことで、政治的ブランクがあったせいかこの頃の西郷はやや暴走しがちであったから、これもその暴走の一つだったのだろうということ。しかしながら実際の真相は謎である。
とにかく長井の策は「幕府にとって好都合で、幕府を助ける策である」という点が問題視され、策の具体的な中身はさておき、各方面から糾弾されることになった。
西郷は結局また島送りになったので長井に害を加えることはなくなったが、松陰門下の久坂たちは虎視眈々と長井排除の機会をねらっていた。
さはさりながら、結局のところ長井の航海遠略策を葬り去ることになったのは、やはり薩摩であった。
「久光上洛」が長井の策を吹き飛ばしてしまったのだ。
久光自身は「過激な攘夷は不可」として、消極的ながらも開国に賛成する立場であり、公武合体にも賛成しているので基本的には長井の考え方と大して違いはない。ただ、それを主導する原動力を「長州から薩摩に変える」という違いしかない。そして何より久光のほうがより説得力を有していたのは、長井は口舌をもってそれを説いただけだったのに対し、久光のほうは手勢と大砲を引きつれて来ていたからだった。
かてて加えて「久光上洛」によって攘夷派がかえって勢いづいてしまった。
久光が手勢を引きつれて来たのは「久光は攘夷を実行するつもりだ」と攘夷派が信じ込んでしまったのである。
過激な攘夷は不可、としている久光がそんなことをするはずがない。いや、確かに久光は生麦で「それ」をやってしまったので、そのせいで人々はますます「久光は攘夷の王者だ」と勘違いしてしまうのだが、それはひとまず脇へおく。
とにかくこの「久光上洛」によって、長州では久坂たち攘夷派の勢力が大きな力を得ることになった。そして長井は失脚することになったのである。
男の名は来原良蔵といい、長州藩士であった。
この来原は伊藤俊輔の恩師的な存在であり、桂小五郎より年上でありながら義理の弟(来原の妻が桂の妹)であり、亡き吉田松陰の無二の親友だった男である。
長州藩の中では洋学通として名が通っていた彼は、サトウたち西洋人の町であるこの横浜を焼き払って攘夷のさきがけになる決心をかためていた。
なにしろこのこと自体、唐突な話に聞こえるだろうが、さらに唐突な話をすると彼は二ケ月ほど前、京都にいた時に藩内の意見対立を見かねて切腹する覚悟をかためていた。しかし藩の上層部から諭され、半月ほど前に江戸の有備館(藩の学校)御用掛を命じられ、すぐに京都を出発して江戸へ向かった。
東海道を下る途中、彼は薩摩藩一行とすれ違った。もちろん生麦事件の報にも接した。
他の長州藩士たちが「薩摩に先を越されてしまった!」と嘆いたのと同じように、彼も嘆いた。元々は洋学びいきであるのだから本心から「その行為」が正しいと思っている訳ではないが、負けん気は人一倍強い。「武士たるものは他人に遅れをとることは決して許されない」、それを信条とする男である。
そしてなんといっても、そもそも二ケ月前にすでに命を捨てる決心をしている男なのだ。
彼は江戸へは行かず、このまま横浜の関内に潜入して、西洋人を何人か殺して攘夷のさきがけをつとめ、自分も死のうと思った。
しかし同行者の佐世八十郎(後の前原一誠)に止められ、後日再起するため野毛の切通しから「敵地視察」をするだけにとどめて、ひとまず江戸へ向かうことにした。
以下、しばらくはこの物語のもう一人の主人公である伊藤俊輔(後の伊藤博文)の生い立ちを述べる。
それを述べることによって「なぜ来原は死のうとしているのか?」ということも追々わかってくるだろう。
俊輔は天保十二年(1841年)九月二日、周防国熊毛郡束荷村で生まれた。現在の山口県光市に属する地域である。ただし九歳の時に一家で萩へ移ったので、のちの俊輔の出世につながる人脈や教育はほとんど萩で授かっていると言っていい。
幼名は林利助といった(ちなみにこれ以降、俊輔は何度か名前を変えることになるが、煩わしいのでこの物語では博文に変わるまでずっと「俊輔」で通すことにする)。父は林十蔵といい、母は琴という。兄弟はおらず一人っ子だった(ちなみにサトウは六男五女の三男である)。
俊輔の一家は百姓の血筋だった。
幕末には渋沢栄一や近藤勇、土方歳三のように百姓から武士に成り上がった人間は何人かいるが、それでも彼らの場合はある程度の財力を有していたり、武芸に励む余裕があった。
しかしながら俊輔の場合はそういったレベルの百姓ではない。
まさに貧農である。もちろん武芸に励んだこともない。なにより俊輔が束荷村を出ることになったのも、父の十蔵が破産して村にいられなくなったからだった。
ところが人の運命などわからないもので、十蔵は萩に出て足軽の伊藤家に仕えて、その信用を得ることに成功した。そして伊藤家には跡継ぎがいなかったために十蔵が養子に入り、この「足軽の伊藤家」を相続することになった。これにより農民の子の林利助が、足軽の子の伊藤「俊輔」となったのである。
安政三年(1856年)、十六歳の俊輔は海岸警備の仕事につくため相模国宮田へ出張した。現在の地名でいえば京急久里浜線の三浦海岸駅のすぐそばのあたりに宮田の海防陣屋が置かれていて、足軽の俊輔も長州藩の手勢の一人として一年程ここに駐屯することになった。
浦賀はここから少し離れたところにある。そこにペリーの黒船が来航したのは三年前のことで、幕府がこの辺りの海防を重視して長州藩に海岸警備を命じたのだ。
この宮田で俊輔は、上司の来原良蔵と出会った。
来原は、のちに俊輔を指導する立場となる吉田松陰や桂小五郎と昵懇の仲で、松陰より一歳、桂より四歳年上である。俊輔はこの三人から強い影響をうけて成長していくことになる。
ちなみにあと一人、俊輔の上司となって強い影響をあたえる男としては高杉晋作もいるが、これは「指導」と言えるかどうかちょっと微妙である。この場合は、俊輔も加わった暴れん坊グループにおける「親分と子分」と言うべき関係であろう。
司馬遼太郎大先生はその作品の中で俊輔のことを「俊輔自身があこがれを抱いていた豊臣秀吉と同様に、主筋が良い」と述べているが(秀吉と信長の関係のことであろう)確かに来原、松陰、桂、高杉に仕えた俊輔は「主筋が良い」と言うべきだろう。
俊輔はこの宮田で来原から文武両面においておおいにしごかれた。
朝は日が昇る前から叩き起こされ、ローソクの火をあかりにして本の読み方を教え込まれた。そのあと海岸へ出て軍事教練をうけて、武士の精神を徹底的に叩き込まれた。
軍事教練の前に俊輔が草履をはこうとすると
「草履をはくな!戦場において草履が無い時はどうする!とっさの時にそなえて常日頃から裸足で行け!」
と怒鳴られ、寒中稽古の際に俊輔が
「今日はまた格別寒いなあ」
と口にすれば
「寒いと口にして天気が変わるものか!だったら最初から寒いなどと口にするな!」
と怒鳴られるといった始末である。
ただし来原は精神論ばかりを振り回すただの単細胞ではない。
物質面においては西洋の学問がすぐれていることを認める柔軟な思考も備えていた。その点、彼の親友である松陰と同じである。ちなみに松陰との関係で言えば、松陰が脱藩して東北周遊の旅へ出ようとした際に、彼は親友の松陰をかばって藩から罰をうけたこともある。
松陰は藩から何度か咎めをうけた人間であるが、その点では来原も似たり寄ったりである。以後、彼も何度か藩から咎めをうけることになる。この二人は「物事をゆるがせに出来ない」という頑固な共通性を有する友人同士であった。実際その特性のためにこの二人は命を縮めたとも言えるのだが、桂のみが、それとは正反対の特性を有していたので命を保つことになった。
来原はこの相模警備の際に洋式の軍事教練を試みた。
そしてこのことが藩から咎められて、解任された。
解任の理由は「敵である西洋の軍事教練をまねるとはケシカラン」といったところだった。このあと横浜が開港されて攘夷熱が盛んになる、それよりかなり前の時期にあたるこの時でも、一般的な対外感情は似たようなものであった。
来原自身としては
「西洋のすぐれている点は率直にすぐれていると認めて、その本質を真正面から突きつめることが重要であって、それのどこに恥じる理由があるか」
といった思考のもとで洋式の軍事教練を試みたのだが、藩の上層部にはそういった柔軟な発想を受けいれる度量はなかった。官僚組織というのは今も昔も本質的にそのようなものであろう。
俊輔はこの時来原から
「萩へ帰ったら松陰の松下村塾でさらに勉学をしろ」
とすすめられて紹介状を書いてもらった。もともと俊輔は松陰の家の近所に住んでおり、松陰が主催する前の松下村塾で学問を学んでいたこともあって、この近所では有名な(札付きと言うべきかも知れないが)松陰の存在は知っていた。ただし正式に松陰に入門するのは来原に紹介してもらってからのことである。
吉田松陰については、近年大河ドラマで取りあげられたこともあるので、ここではあまり深く記す必要はなかろうと思う。
先ほど松陰の「脱藩、東北周遊」の話に少し触れたが、その後の「下田踏海(下田でペリーの黒船に乗り込もうとして罰せられた事件)」の話などは特に有名であろう。俊輔が入塾した頃(安政四年の秋頃)はまさに松陰の松下村塾に多くの青年たちが集いつつある頃だった。
その昔、徳富蘇峰が書いた著書『吉田松陰』のなかで
「松下村塾は、徳川政府転覆の卵を孵化したる保育場の一なり」
と有名なセリフを残したように、この塾には高杉晋作、久坂玄瑞といった後年日本中を揺るがすことになる怪物の卵たちが通っていた。もちろん俊輔も、スケールは別として、その卵の一つであったと言えよう。
松陰の思想や人間性を解説するなどという途方もない作業を筆者はするつもりがないので(それでもおそらく西郷隆盛とくらべれば、そこまで複雑でもないように思うが)彼がこの頃考えていたことをごく簡単にまとめると
「日本を外国に侵されない強い国にしなければならない。そのために自分が出来ることは何でもする」
彼はこの事だけを考えて松下村塾で、あるいは野山獄で、さらには伝馬町の獄で煩悶し続けていたように思われる。
俊輔は松陰から塾で教えをうけるだけでなく、時には松陰の手足となり、時には松陰の耳目となって各地へ飛んだ。最初に向かったのは京都で、次は長崎だった。そういった活動を続けていた俊輔の特性を松陰が
「なかなかの周旋家(交渉人あるいは仲裁人)になりそうな」
と評したことがあるが、これは将来俊輔が大政治家(初代総理大臣)になることを松陰が見越していた、というエピソードとして有名である。
実は俊輔が長崎へ行ったのは、再び来原の下に付いて洋式軍学を学ぶためだった。安政五年(1858年)十月のことである。
それ以前から長崎には幕府の長崎海軍伝習所が置かれていて、オランダ人から教育をうけていた。今回、長州藩の上層部はそこで自藩の者に洋式軍学を学ばせるために来原を派遣したのだが、俊輔はその手下として来原に同行したのだった。
一年ちょっと前に「勝手に洋式の軍事教練を試みた」として職を解かれた来原は、この時どう感じたであろうか?
「何を今さら」と感じたであろうか?それとも「とにかく藩の上層部が西洋のすぐれた知識に目を向けるようになったのは前進だから良しとしよう」と感じたであろうか?
おそらくその両方であったろう。
ともかくも、来原と俊輔は長崎で半年ほど洋式軍学を学ぶことになった。
余談ながら後に下関へイギリスをはじめとする連合艦隊をさしむけることになるイギリス公使のオールコックが長崎に初来日したのは、この俊輔の長崎滞在中のことで(安政六年五月四日)、俊輔がそれを止めようとして横浜で彼と会うのは、この五年後のことである。
こういった長崎での話はさておき、当時の江戸と京都に目を転じてみると、この頃まさに「安政の大獄」の嵐が吹き荒れていた。
この「安政の大獄」には、サトウの生い立ちの項で書いた日米修好通商条約の調印問題(しかも朝廷の許可無しの調印)、さらには将軍継嗣問題(将軍家定の跡継ぎ問題)も関係しているが、ここではそういった細かな解説は割愛する。
とにかく一言でいえば「井伊直弼が強権を発動して尊王攘夷派を弾圧した」ということである。そしてこのことによって松陰も幕府の命令で江戸へ送られてしまった、ということが俊輔にとっては一番ショックであった。
松陰が萩を発って江戸へ向かったのは安政六年(1859年)五月二十五日である。
俊輔が長崎での修行を終えて萩へ帰ってきたのは六月十七日のことで、すでに松陰は江戸へ送られたあとだった。俊輔としては無念であったに違いない。
萩に戻った俊輔は来原から義兄の桂小五郎を紹介され、これ以降、俊輔は桂の手下として藩の仕事に従事することになる。前述したように、来原の妻は桂の妹でお治といい、この時すでに長男の彦太郎が誕生しており、彼は維新後(先に木戸家を継いだ次男、正二郎の死後)木戸家を継いで木戸孝正と名乗るようになる。そして彼の長男が先の大戦の時に内大臣をつとめた侯爵木戸幸一である。
九月十五日、桂と俊輔は松陰のあとを追うように萩を出発して江戸へ向かった。江戸へ着いたのは十月十一日である。
そしてその十六日後の十月二十七日、松陰は伝馬町の獄で処刑された。
身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも 留置まし大和魂
有名な彼の辞世の句で、伝馬町の獄で最期に書き残した『留魂録』の冒頭に書かれている。
松陰の死についても、その解説にあまりスペースを割くことはできないが、筆者が思うに、松陰が高杉へ送った有名な手紙のセリフ
「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生て大業の見込みあらばいつでも生くべし。僕が所見にては生死は度外に措て、唯言べきを言のみ」
おそらくこの通りであったろう。
みずから死を望むわけではないが、死ぬべき時が来たら見事に死んでみせる、と。
屈原(中国の戦国時代の人で身投げして諌死したことで有名)を尊敬していた松陰としては、自分が死んでみせることによって長州の人々、ひいては日本全国の人々を覚醒させることを切望した、やはり諌死であったろうと思う。
処刑の二日後、桂や俊輔たち四人の長州人は小塚原の回向院で松陰の遺骸を引き渡された。一同は泣きながら血で染まった首と胴を水で洗いきよめ、裸だった遺骸に自分たちが着ていた服を着せた。
俊輔は自分の帯を解いて師の体にむすびつけた。そして持参した大甕におさめて、松陰より少し前に処刑されていた橋本左内の墓の隣りに埋葬した。
この時まだ俊輔は十九歳(満年齢では十八歳)である。
この小塚原で直に松陰の無残な遺骸に触った俊輔の怒りは如何ばかりであっただろうか。
ただしこの怒りは俊輔だけが抱いていたわけではない。
この約四ヶ月後、「安政の大獄」で大弾圧をうけた志士たちの怒りが爆発し、桜田門外で井伊直弼の首がとんだ。
そしてこの「桜田門外の変」によって幕府の威信は一気に崩れ去り、時代の流れは大きく揺り戻されるのである。
ただし、その揺り戻しが来る前に、長州では一人の男が注目すべき政治活動を開始した。
藩の重職にある長井雅楽が「航海遠略策」を唱えて公武合体(朝廷と幕府の関係を取り結ぶ)に乗り出したのである。
この航海遠略策の内容を大ざっぱに言ってしまえば
「朝廷と幕府の関係を良くして国論の一致をはかり、その上で堂々と開国して貿易によって国を富まし、富国強兵をすすめて外国に侮られない国をめざす」
といったような提言である。
まことに常識的な政策提言で、当時の心ある人々は皆このように考えており、実際維新後の明治政府もこの形で(この中から幕府だけを外した形で)国家運営をすすめていくことになる。
長州は藩主慶親の「そうせい」という了承のもと、この長井の航海遠略策を藩論として推し進めることに決定した。そして長井は朝廷と幕府に入説して、その両者から好感をもって受けいれられた。
長井の活躍によって長州の名声は大きくあがったのだ。
そして来原良蔵も、この長井の策に賛同した。
「来原が長井の親戚であったこと」も理由としてはあるかもしれないが、実際のところは「その考えが来原と同じだったから」というのが一番の理由であっただろう。もともと「外国の物でも良い物は取り入れろ」という開国論が来原の考えであったし、長井の策に反対する理由が来原にあるはずはなかった。
ところが、この長井の策に松陰の弟子たちが猛然と反対した。
特に久坂や高杉が強硬に反対して「長井を斬る」とまで言い出した。そして俊輔も、このグループに入っていたのである。
松陰の考えていた政策は長井の政策とそれほど違いがあった訳ではない。
松陰も基本的には開国策に賛成している(というかむしろ積極的な海外進出を主張している)。ただし松陰の場合は、その頃はまだ井伊直弼が生きて「大獄」の指揮をとっていたので幕府そのものが信用できず、それゆえ幕府がすすめる開国策も受けいれられなかった。
少し余談を述べると、これは筆者が以前から気になっているのだが、長井に対しての人物評価には不思議な共通点がある。長井は吉田松陰から奸物(腹黒い悪人)と見られていた。そして西郷吉之助(隆盛)からも「奸物長井を斬るべし」と言われていた。
不思議な共通点である。
現代の目線から見ても長井はごく当たり前の政策を提言した常識的な人間に見えるし、この薩長の両巨頭である松陰と西郷から「奸物視」されるような人間には見えない。
考えられるケースとしては、松陰の場合は「大獄」の渦中にあったという危機的な意識から出たもの、ということ。そして西郷の場合は、この「奸物長井を斬るべし」と訴えていたのは奄美大島から戻って来て(生麦事件の場面でも少し触れたが)久光の命令を無視して上京した時のことで、政治的ブランクがあったせいかこの頃の西郷はやや暴走しがちであったから、これもその暴走の一つだったのだろうということ。しかしながら実際の真相は謎である。
とにかく長井の策は「幕府にとって好都合で、幕府を助ける策である」という点が問題視され、策の具体的な中身はさておき、各方面から糾弾されることになった。
西郷は結局また島送りになったので長井に害を加えることはなくなったが、松陰門下の久坂たちは虎視眈々と長井排除の機会をねらっていた。
さはさりながら、結局のところ長井の航海遠略策を葬り去ることになったのは、やはり薩摩であった。
「久光上洛」が長井の策を吹き飛ばしてしまったのだ。
久光自身は「過激な攘夷は不可」として、消極的ながらも開国に賛成する立場であり、公武合体にも賛成しているので基本的には長井の考え方と大して違いはない。ただ、それを主導する原動力を「長州から薩摩に変える」という違いしかない。そして何より久光のほうがより説得力を有していたのは、長井は口舌をもってそれを説いただけだったのに対し、久光のほうは手勢と大砲を引きつれて来ていたからだった。
かてて加えて「久光上洛」によって攘夷派がかえって勢いづいてしまった。
久光が手勢を引きつれて来たのは「久光は攘夷を実行するつもりだ」と攘夷派が信じ込んでしまったのである。
過激な攘夷は不可、としている久光がそんなことをするはずがない。いや、確かに久光は生麦で「それ」をやってしまったので、そのせいで人々はますます「久光は攘夷の王者だ」と勘違いしてしまうのだが、それはひとまず脇へおく。
とにかくこの「久光上洛」によって、長州では久坂たち攘夷派の勢力が大きな力を得ることになった。そして長井は失脚することになったのである。
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