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第一章・生麦騒動
第3話 サトウ来日
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生麦事件の翌日、サトウが仮住まいをしているホテルのバーで、サトウは友人のウィリスと今回の事件について語り合った。
リチャードソンの遺体を自分で発見して検死作業までやった医者のウィリスは、ニールの判断を非難した。
「ニール代理公使は皆から臆病者呼ばわりされているが、実際、俺もそう思う。結局日本でも清国と同じように戦争せざるを得ないんだ」
日本に来たばかりのサトウとしては、それに答えるべきセリフが見当たらない。ウィリスは話を続けた。
「俺は日本に来てまだ半年も経ってないのに、二度もイギリス人が殺された現場に立ち会った。奴らの刀は危険だ。リチャードソンは腕を切断され、腹は斬られ、内臓が飛び出ていた」
まったく酒が不味くなる話をしてくれるものだ、とサトウは内心思いながらも、この異国の地で初めて出来た友人であるウィリスの話を黙ってうなずきながら聞いた。
サトウはウィリスのことが好きだった。
サトウが横浜のイギリス公使館に到着した当初、日本語の勉強に専心したいと思っていた彼は、公使館の事務作業を優先する上司のニールと衝突した。その際サトウの言い分を擁護してくれたのがウィリスだった。そのおかげでニールも多少はサトウの言い分を受け入れてくれるようになったのである。
これでサトウは、一発でウィリスのことが好きになった。惚れたと言っていい。
ウィリスが初対面のサトウに対していきなりここまで優しく接した理由は謎だが、おそらくこの容姿端正な十九歳の青年が可愛いく見えて、放っておけなかったからではなかろうかと思う。
後年サトウは手記で次のように語っている。
「その人格ならびに公務によく奉仕した点においてもっとも詳細に述べる価値がある、私の生涯の友ウィリアム・ウィリスのことである。おそらく彼ほど実直無比という言葉が適切と思われる性質を、その個人的関係ないしは職務の履行に示した男はいないだろう。(中略)大男は心も大きいというが、彼もまたその例にもれなかった」
この手記の中でも示されているように、二人の友情は生涯にわたって続くことになるのである。伊藤俊輔(博文)と志道聞多(井上馨)の友情が生涯にわたって続いたという話も有名だが、サトウとウィリスの関係もそれに劣らぬものがあると言えよう。
酒を飲みながらウィリスは何気なくサトウにたずねた。
「ところでサトウはなぜ、こんな危ない日本にすすんでやって来たんだ?」
その問いを聞いたサトウは、不意にここ数年の出来事を思い出した。
以下、しばらくはこの物語の主人公の一人であるアーネスト・サトウの生い立ちを述べてみたいと思う。
サトウは1843年6月30日にロンドンで生まれた。
当時、大英帝国はヴィクトリア女王の時代である。“パクス・ブリタニカ”(大英帝国による世界秩序)を完成させるために、イギリスの帝国主義が大躍進していた時代である。
あの悪名高いアヘン戦争を敢行して清国(中国)を撃破したのはサトウが生まれるほんの少し前の事で、その後イギリスは東アジアへの進出を強硬に推し進めていくことになるのだが、この歴史の潮流はサトウの将来を暗示するがごとき様相を呈している。彼はまさに、この時代の申し子だったと言えよう。
サトウは中産階級の比較的裕福な家庭で育ったので、生まれはそれほど悪くない。
ただし、当然のことながら“ジェントルマン(貴族)”の家庭ではなかった。
当時のイギリスの小説家で、のちに大政治家となるディズレーリが『シビル-あるいは二つの国民』という政治小説の中で
「イギリスはジェントルマンと、そうでない庶民と、二つの国民からなっている」
と端的に指摘したように、このジェントルマンとそれ以外との格差は決定的だった。この点、ある意味当時の日本における“武士”とそれ以外との関係と、やや似ている。もっとも、ここで言う“武士”は大名や旗本といった上級武士に限られた話ということになるだろうが。
サトウはジェントルマンの階級には属さなかったけれども、学業成績は非常に優秀だった。
来日する三年前、彼は十六歳でパブリックスクール(中等教育機関)を首席で卒業し、ロンドン大学(ユニヴァーシティ・カレッジ)に進学した。
そしてこの大学在学中に、彼は一冊の本と運命的な出会いをしてしまった。
来日する一年前(1861年)のある日、三歳年上の兄エドワードが図書館で本を借りてきた。サトウは兄が読み終わった後に、その本を回し読みさせてもらった。
それは『エルギン卿の中国、日本への使節記』という本だった。
イギリス人外交官ローレンス・オリファントが安政五年(1858年)に来日した時の体験談を記した日本見聞録である。
この本の中で紹介されている日本の姿は
「気候は素晴らしく、自然も美しい。そして男たちのつとめは美しい乙女たちにかしずかれること、ただそれだけである」
と、少なくとも後年サトウが書いた手記の冒頭ではそのように説明されている。
当の日本人としては「まったく奇妙な形に美化してくれたものだ」と困惑せざるを得ないが、実際のところ日本語に翻訳されたこの本(『エルギン卿遣日使節録』雄松堂書店)を読んでみても、それほどまでに極端な美化はされていないように思う。おそらく日本のことを描いている何枚かの挿絵に感化されて、当時のサトウが勝手に想像した日本のイメージであろう。
ともかくも、この本を読んでサトウは覚醒してしまった。
「いくら勉強ができても、このままイギリスにいてはジェントルマンの地位を獲得するのは難しいだろう。ここの退屈な生活にも飽き飽きしている。だけど日本へ行けば何かチャンスがあるんじゃないか?なによりともかく、この本で描かれているような美しい黒髪の日本女性たちに会ってみたい!」
この願いが天に通じたのか(幾分よこしまな願いが含まれているにもかかわらず)その後しばらくしてサトウは、大学の図書館でイギリス外務省の求人広告を見かけた。そこには
「日本行きの通訳生を募集」
と書かれていた。
まさに文字通り「渡りに船」である。彼は即座に日本行きを決断した。
そして外務省で外交官試験を受験し、これも主席で合格した。ついでに大学の卒業試験も修了して、彼は意気揚々と外交官のタマゴである「日本語通訳生」となって日本へと向かったのだった。
サトウがイギリスの港を出発したのは1861年11月4日のことである。
しかしながら時代の流れは時として激流となって奔りだし、それまで当たり前のように受けとめていた社会秩序を無慈悲に洗い流してしまうことがある。
まさにこの時の日本がその好例だったと言えよう。時代の激流によってサトウが空想のなかで思い描いていた「美しく平和な日本」は遥か彼方へと押し流されてしまったのだ。
サトウを日本へと誘うきっかけを作ったあのオリファントが、安政五年(1858年)に来日したのは日英修好通商条約を締結するためだった。
日本史の教科書では、アメリカのハリスと締結した日米修好通商条約のほうが有名なはずだろう。だが実際にはアメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスの五カ国と同じような条件で日本が条約を締結したので、これも教科書風に言うと「安政五カ国条約」と呼ぶ。
いわゆる「不平等条約」である。
関税自主権や領事裁判権などのむずかしい話は割愛するが、要するにこの条約によって日本は完全に「開国」させられたのである。この四年前にペリーと締結した日米和親条約では自由な商取引までは認めていなかった。しかしこの「安政五カ国条約」によって、翌年の安政六年(1859年)に横浜が貿易港として開港されることになったのである。ちなみに兵庫など他の地域が外国に開放される話もいずれ後段で触れることになるだろうが、ここではひとまず脇へおくこととする。
とにもかくにも安政六年(1859年)の横浜開港である。
当時の日本人からすれば、これが「諸悪の根源」とみなされるようになったのだ。
通貨取引の弊害および生糸の海外流出に伴う物価上昇などのむずかしい話はこれまた割愛するとしても、実際問題、この横浜開港によって少なからぬ日本人が外国人を憎むようになってしまったのは事実である。
それゆえ、生麦事件の場面でも触れたように江戸と横浜では“攘夷”を唱える日本人(特に浪士)による外国人殺傷事件が頻発した。
そして皮肉なことに、あの「美しく平和な日本」をサトウに紹介したオリファント自身も、この攘夷の刃によって殺されかけたのである。
文久元年五月二十八日(1861年7月5日)の夜。場所は江戸高輪の東禅寺。
当時東禅寺にはイギリス公使館が置かれていた。
余談ながら、この時期はちょうど数日間にわたって世界各地で巨大彗星を観測することができた。このことについて日本では紀州和歌山の『小梅日記』で有名な川合小梅という女性が
「五月二十四日の夜より、北より辰巳の方角へ四、五間ほうき星を見ゆ。(中略)豊年星なり、などと言って悦ぶ者も稀には有り」
と、この彗星の記録を日記に残している。
そして何よりもオリファント自身が事件当日の記録を次のように書き残している。
「7月5日の夜、彗星が見えた。われわれのうちの幾人かが生命を救われたのは、その彗星から発せられていたその場の雰囲気のおかげでもあっただろう」
(※註:この物語では、一般の時代小説と同じように旧暦(陰暦)を基本にしているが、イギリス人のサトウが主要人物である都合上、西暦(現在の暦)も時々使用している。なじみのない人にとってはまぎらわしいと思われるかも知れないが、基本的に西暦表示の場合は約1ヶ月、旧暦にプラスされる。またここでは旧暦表示の場合は漢数字、西暦表示の場合はアラビア数字を使用するようにしている)
この彗星は西洋ではテバット彗星と呼ばれている。この時十八歳の誕生日を過ぎたばかりのサトウも、ロンドンで日本行きの準備をしながらこの彗星を見上げていた。
この日の夜、オリファントたちイギリス公使館員を襲撃したのは水戸の浪士たち十数人であった。
不幸中の幸いと言うべきか、イギリス側に死者は出なかった。かたや日本側については、襲撃者たちの多くが死んだのは当然の結果と言えようが、警護側の日本人にも数名の死傷者が出た。とにかくありていに言って、この浪士たちによるイギリス公使館襲撃計画は失敗におわったと言えよう。
ただしオリファントは腕などを斬りつけられて重傷を負い、結局治療のために帰国することになった。安政五年以来三年ぶりに来日したのは、つい半月ほど前のことである。しかし彼は着任早々、日本の浪士たちによってイギリスへ追い返されてしまった。「美しく平和な日本」を自著で紹介してサトウを日本へ導いておきながら、自らはサトウが到着する前に日本から去っていったのである。
サトウからすれば、この一風変わった先輩外交官に対して
「ボクをこの道にひきこんだ責任をとってくださいよ」
とツッコミの一つも言いたかったであろうが、この先輩外交官は帰国後ほどなく外交官を辞めてしまった。
ついでながら述べてしまうと、その後彼は国会議員になったり、日本からイギリスへやって来た留学生の面倒をみたり、あげくの果てはその留学生をあやしい新興宗教にひきこんでアメリカへ連れていって何人かの留学生からひんしゅくを買って絶縁されたりもした。やはりこの男は「一風変わった男であった」と言わざるを得ないだろう。
この時の襲撃事件ではオリファントの他にもう一人イギリス人が負傷したので、結局浪士たちがあげた「戦果」は「イギリス人の負傷者二名」ということになる。
この事件は一般に「東禅寺事件」と呼ばれている。
そして一年後、この東禅寺のイギリス公使館で再び襲撃事件が起きた。文久二年五月二十九日(1862年6月26日)のことで、サトウが来日する二ヶ月半前のことである。
それゆえ、こちらの事件は「第二次東禅寺事件」と呼ばれているのだが、今度はイギリス側に死者が出てしまった。
上記でウィリスが「二度もイギリス人が殺された現場に立ち会った」と述べていたが、一度目がまさにこの時だった。
警備をしていた松本藩士の一人が乱心して槍を振り回し、同じく警備にあたっていたイギリス人兵士2名を殺害した。その後犯人の松本藩士は自害した。ウィリス自身も犯行現場のすぐ近くにいて殺害時の騒ぎを耳にしており、あやうく生命を落とすところだった。そしてこの時も彼は死亡したイギリス人二名の検死作業をおこなった。
しかし実際のところ「攘夷殺傷事件」はこの東禅寺のイギリス公使館ばかりで起きていた訳ではない。横浜開港以来、江戸と横浜でそれこそ枚挙にいとまがないほど頻発していたのである。ロシア人水兵殺害事件、フランス領事館の清国人従僕殺害事件、オランダ人船長殺害事件、アメリカ公使館通訳ヒュースケン暗殺事件、などである。
一方サトウは、第二次東禅寺事件が発生してウィリスが命を落としかけていた頃、まだ清国(中国)にいた。
イギリス出発から八ヶ月近くも経つというのに面妖な話だ、と思われるかも知れないが、実のところサトウはイギリスから日本へ向かう途中上海に立ち寄った際、外務省から
「清国に二年間とどまって漢字の勉強をするように」
と思いもよらない命令をうけて、この時はまだ清国に滞在していたのだ。
「ボクは日本語通訳生として日本への赴任を希望したのだ。漢字なんて日本でも学べるじゃないか」
とサトウは内心不満に思った。
実際日本から清国に届けてもらった日本語の文書を清国人に見せたところ、彼らはほとんど意味を解読できなかった。まあ現代の我々日本人が中国文を見てもほとんど意味がわからないのと似たようなものであろう。
ちなみに第二次東禅寺事件が発生して横浜のイギリス公使館では処理すべき仕事が増大し、ニールは公使館員の増員を希望していた。
そういった事情もあってサトウは清国での二年間の予定を早めに切り上げて日本へ向かうことになったのだった。
このサトウの清国滞在時に、前述したように日本の千歳丸が上海へやって来た。
ただしその頃サトウはたまたま北京へ行っており、この千歳丸に乗っていた高杉晋作や五代才助と出会うことはなかった。
サトウがこの二人と出会うのは、五代とは一年後の薩英戦争の戦場で、高杉とは二年後の下関戦争の戦場で、それぞれ出会うことになる。詳しくはその項で触れるはずなので、今はこれ以上述べる必要はないだろう。
そしてサトウは文久二年八月九日(1862年9月2日)上海からランスフィールド号(のちに長州藩が買い取って壬戌丸と命名し、下関での攘夷戦争で撃沈され、サルベージ後、再び上海に戻って売却されるという数奇な運命をたどる船である)に乗って横浜へ向かい、イギリス出発から十ヶ月目にしてようやく日本の土を踏むことになったのである。
ただし到着した六日後にいきなり生麦事件が発生して、前述したようにギリギリのところで「日英戦争」が回避された、という危機的状況を目の当たりにさせられたのだった。
「サトウはなぜ、こんな危ない日本にすすんでやって来たんだ?」
とウィリスから聞かれたサトウは一瞬言葉につまった。そしてなぜかとっさに弁解がましいことを述べてしまった。
「日本が危険なことは新聞で見て知ってたから全然おどろいてないよ。ボクは純粋に日本語に興味があったから日本に来ただけのことさ」
日本を楽園のように描いていたオリファントの本を読んだから、などとサトウは恥ずかしくて言えなかったのだ。
そんなサトウの肩をたたいてウィリスは優しく励ましてくれた。
「そうか。これからも日本語の勉強を頑張れよ!」
そしてウィリスは自分の住家へ帰っていった。バーに残されたサトウは苦い表情をして悔しがった。
リチャードソンの遺体を自分で発見して検死作業までやった医者のウィリスは、ニールの判断を非難した。
「ニール代理公使は皆から臆病者呼ばわりされているが、実際、俺もそう思う。結局日本でも清国と同じように戦争せざるを得ないんだ」
日本に来たばかりのサトウとしては、それに答えるべきセリフが見当たらない。ウィリスは話を続けた。
「俺は日本に来てまだ半年も経ってないのに、二度もイギリス人が殺された現場に立ち会った。奴らの刀は危険だ。リチャードソンは腕を切断され、腹は斬られ、内臓が飛び出ていた」
まったく酒が不味くなる話をしてくれるものだ、とサトウは内心思いながらも、この異国の地で初めて出来た友人であるウィリスの話を黙ってうなずきながら聞いた。
サトウはウィリスのことが好きだった。
サトウが横浜のイギリス公使館に到着した当初、日本語の勉強に専心したいと思っていた彼は、公使館の事務作業を優先する上司のニールと衝突した。その際サトウの言い分を擁護してくれたのがウィリスだった。そのおかげでニールも多少はサトウの言い分を受け入れてくれるようになったのである。
これでサトウは、一発でウィリスのことが好きになった。惚れたと言っていい。
ウィリスが初対面のサトウに対していきなりここまで優しく接した理由は謎だが、おそらくこの容姿端正な十九歳の青年が可愛いく見えて、放っておけなかったからではなかろうかと思う。
後年サトウは手記で次のように語っている。
「その人格ならびに公務によく奉仕した点においてもっとも詳細に述べる価値がある、私の生涯の友ウィリアム・ウィリスのことである。おそらく彼ほど実直無比という言葉が適切と思われる性質を、その個人的関係ないしは職務の履行に示した男はいないだろう。(中略)大男は心も大きいというが、彼もまたその例にもれなかった」
この手記の中でも示されているように、二人の友情は生涯にわたって続くことになるのである。伊藤俊輔(博文)と志道聞多(井上馨)の友情が生涯にわたって続いたという話も有名だが、サトウとウィリスの関係もそれに劣らぬものがあると言えよう。
酒を飲みながらウィリスは何気なくサトウにたずねた。
「ところでサトウはなぜ、こんな危ない日本にすすんでやって来たんだ?」
その問いを聞いたサトウは、不意にここ数年の出来事を思い出した。
以下、しばらくはこの物語の主人公の一人であるアーネスト・サトウの生い立ちを述べてみたいと思う。
サトウは1843年6月30日にロンドンで生まれた。
当時、大英帝国はヴィクトリア女王の時代である。“パクス・ブリタニカ”(大英帝国による世界秩序)を完成させるために、イギリスの帝国主義が大躍進していた時代である。
あの悪名高いアヘン戦争を敢行して清国(中国)を撃破したのはサトウが生まれるほんの少し前の事で、その後イギリスは東アジアへの進出を強硬に推し進めていくことになるのだが、この歴史の潮流はサトウの将来を暗示するがごとき様相を呈している。彼はまさに、この時代の申し子だったと言えよう。
サトウは中産階級の比較的裕福な家庭で育ったので、生まれはそれほど悪くない。
ただし、当然のことながら“ジェントルマン(貴族)”の家庭ではなかった。
当時のイギリスの小説家で、のちに大政治家となるディズレーリが『シビル-あるいは二つの国民』という政治小説の中で
「イギリスはジェントルマンと、そうでない庶民と、二つの国民からなっている」
と端的に指摘したように、このジェントルマンとそれ以外との格差は決定的だった。この点、ある意味当時の日本における“武士”とそれ以外との関係と、やや似ている。もっとも、ここで言う“武士”は大名や旗本といった上級武士に限られた話ということになるだろうが。
サトウはジェントルマンの階級には属さなかったけれども、学業成績は非常に優秀だった。
来日する三年前、彼は十六歳でパブリックスクール(中等教育機関)を首席で卒業し、ロンドン大学(ユニヴァーシティ・カレッジ)に進学した。
そしてこの大学在学中に、彼は一冊の本と運命的な出会いをしてしまった。
来日する一年前(1861年)のある日、三歳年上の兄エドワードが図書館で本を借りてきた。サトウは兄が読み終わった後に、その本を回し読みさせてもらった。
それは『エルギン卿の中国、日本への使節記』という本だった。
イギリス人外交官ローレンス・オリファントが安政五年(1858年)に来日した時の体験談を記した日本見聞録である。
この本の中で紹介されている日本の姿は
「気候は素晴らしく、自然も美しい。そして男たちのつとめは美しい乙女たちにかしずかれること、ただそれだけである」
と、少なくとも後年サトウが書いた手記の冒頭ではそのように説明されている。
当の日本人としては「まったく奇妙な形に美化してくれたものだ」と困惑せざるを得ないが、実際のところ日本語に翻訳されたこの本(『エルギン卿遣日使節録』雄松堂書店)を読んでみても、それほどまでに極端な美化はされていないように思う。おそらく日本のことを描いている何枚かの挿絵に感化されて、当時のサトウが勝手に想像した日本のイメージであろう。
ともかくも、この本を読んでサトウは覚醒してしまった。
「いくら勉強ができても、このままイギリスにいてはジェントルマンの地位を獲得するのは難しいだろう。ここの退屈な生活にも飽き飽きしている。だけど日本へ行けば何かチャンスがあるんじゃないか?なによりともかく、この本で描かれているような美しい黒髪の日本女性たちに会ってみたい!」
この願いが天に通じたのか(幾分よこしまな願いが含まれているにもかかわらず)その後しばらくしてサトウは、大学の図書館でイギリス外務省の求人広告を見かけた。そこには
「日本行きの通訳生を募集」
と書かれていた。
まさに文字通り「渡りに船」である。彼は即座に日本行きを決断した。
そして外務省で外交官試験を受験し、これも主席で合格した。ついでに大学の卒業試験も修了して、彼は意気揚々と外交官のタマゴである「日本語通訳生」となって日本へと向かったのだった。
サトウがイギリスの港を出発したのは1861年11月4日のことである。
しかしながら時代の流れは時として激流となって奔りだし、それまで当たり前のように受けとめていた社会秩序を無慈悲に洗い流してしまうことがある。
まさにこの時の日本がその好例だったと言えよう。時代の激流によってサトウが空想のなかで思い描いていた「美しく平和な日本」は遥か彼方へと押し流されてしまったのだ。
サトウを日本へと誘うきっかけを作ったあのオリファントが、安政五年(1858年)に来日したのは日英修好通商条約を締結するためだった。
日本史の教科書では、アメリカのハリスと締結した日米修好通商条約のほうが有名なはずだろう。だが実際にはアメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスの五カ国と同じような条件で日本が条約を締結したので、これも教科書風に言うと「安政五カ国条約」と呼ぶ。
いわゆる「不平等条約」である。
関税自主権や領事裁判権などのむずかしい話は割愛するが、要するにこの条約によって日本は完全に「開国」させられたのである。この四年前にペリーと締結した日米和親条約では自由な商取引までは認めていなかった。しかしこの「安政五カ国条約」によって、翌年の安政六年(1859年)に横浜が貿易港として開港されることになったのである。ちなみに兵庫など他の地域が外国に開放される話もいずれ後段で触れることになるだろうが、ここではひとまず脇へおくこととする。
とにもかくにも安政六年(1859年)の横浜開港である。
当時の日本人からすれば、これが「諸悪の根源」とみなされるようになったのだ。
通貨取引の弊害および生糸の海外流出に伴う物価上昇などのむずかしい話はこれまた割愛するとしても、実際問題、この横浜開港によって少なからぬ日本人が外国人を憎むようになってしまったのは事実である。
それゆえ、生麦事件の場面でも触れたように江戸と横浜では“攘夷”を唱える日本人(特に浪士)による外国人殺傷事件が頻発した。
そして皮肉なことに、あの「美しく平和な日本」をサトウに紹介したオリファント自身も、この攘夷の刃によって殺されかけたのである。
文久元年五月二十八日(1861年7月5日)の夜。場所は江戸高輪の東禅寺。
当時東禅寺にはイギリス公使館が置かれていた。
余談ながら、この時期はちょうど数日間にわたって世界各地で巨大彗星を観測することができた。このことについて日本では紀州和歌山の『小梅日記』で有名な川合小梅という女性が
「五月二十四日の夜より、北より辰巳の方角へ四、五間ほうき星を見ゆ。(中略)豊年星なり、などと言って悦ぶ者も稀には有り」
と、この彗星の記録を日記に残している。
そして何よりもオリファント自身が事件当日の記録を次のように書き残している。
「7月5日の夜、彗星が見えた。われわれのうちの幾人かが生命を救われたのは、その彗星から発せられていたその場の雰囲気のおかげでもあっただろう」
(※註:この物語では、一般の時代小説と同じように旧暦(陰暦)を基本にしているが、イギリス人のサトウが主要人物である都合上、西暦(現在の暦)も時々使用している。なじみのない人にとってはまぎらわしいと思われるかも知れないが、基本的に西暦表示の場合は約1ヶ月、旧暦にプラスされる。またここでは旧暦表示の場合は漢数字、西暦表示の場合はアラビア数字を使用するようにしている)
この彗星は西洋ではテバット彗星と呼ばれている。この時十八歳の誕生日を過ぎたばかりのサトウも、ロンドンで日本行きの準備をしながらこの彗星を見上げていた。
この日の夜、オリファントたちイギリス公使館員を襲撃したのは水戸の浪士たち十数人であった。
不幸中の幸いと言うべきか、イギリス側に死者は出なかった。かたや日本側については、襲撃者たちの多くが死んだのは当然の結果と言えようが、警護側の日本人にも数名の死傷者が出た。とにかくありていに言って、この浪士たちによるイギリス公使館襲撃計画は失敗におわったと言えよう。
ただしオリファントは腕などを斬りつけられて重傷を負い、結局治療のために帰国することになった。安政五年以来三年ぶりに来日したのは、つい半月ほど前のことである。しかし彼は着任早々、日本の浪士たちによってイギリスへ追い返されてしまった。「美しく平和な日本」を自著で紹介してサトウを日本へ導いておきながら、自らはサトウが到着する前に日本から去っていったのである。
サトウからすれば、この一風変わった先輩外交官に対して
「ボクをこの道にひきこんだ責任をとってくださいよ」
とツッコミの一つも言いたかったであろうが、この先輩外交官は帰国後ほどなく外交官を辞めてしまった。
ついでながら述べてしまうと、その後彼は国会議員になったり、日本からイギリスへやって来た留学生の面倒をみたり、あげくの果てはその留学生をあやしい新興宗教にひきこんでアメリカへ連れていって何人かの留学生からひんしゅくを買って絶縁されたりもした。やはりこの男は「一風変わった男であった」と言わざるを得ないだろう。
この時の襲撃事件ではオリファントの他にもう一人イギリス人が負傷したので、結局浪士たちがあげた「戦果」は「イギリス人の負傷者二名」ということになる。
この事件は一般に「東禅寺事件」と呼ばれている。
そして一年後、この東禅寺のイギリス公使館で再び襲撃事件が起きた。文久二年五月二十九日(1862年6月26日)のことで、サトウが来日する二ヶ月半前のことである。
それゆえ、こちらの事件は「第二次東禅寺事件」と呼ばれているのだが、今度はイギリス側に死者が出てしまった。
上記でウィリスが「二度もイギリス人が殺された現場に立ち会った」と述べていたが、一度目がまさにこの時だった。
警備をしていた松本藩士の一人が乱心して槍を振り回し、同じく警備にあたっていたイギリス人兵士2名を殺害した。その後犯人の松本藩士は自害した。ウィリス自身も犯行現場のすぐ近くにいて殺害時の騒ぎを耳にしており、あやうく生命を落とすところだった。そしてこの時も彼は死亡したイギリス人二名の検死作業をおこなった。
しかし実際のところ「攘夷殺傷事件」はこの東禅寺のイギリス公使館ばかりで起きていた訳ではない。横浜開港以来、江戸と横浜でそれこそ枚挙にいとまがないほど頻発していたのである。ロシア人水兵殺害事件、フランス領事館の清国人従僕殺害事件、オランダ人船長殺害事件、アメリカ公使館通訳ヒュースケン暗殺事件、などである。
一方サトウは、第二次東禅寺事件が発生してウィリスが命を落としかけていた頃、まだ清国(中国)にいた。
イギリス出発から八ヶ月近くも経つというのに面妖な話だ、と思われるかも知れないが、実のところサトウはイギリスから日本へ向かう途中上海に立ち寄った際、外務省から
「清国に二年間とどまって漢字の勉強をするように」
と思いもよらない命令をうけて、この時はまだ清国に滞在していたのだ。
「ボクは日本語通訳生として日本への赴任を希望したのだ。漢字なんて日本でも学べるじゃないか」
とサトウは内心不満に思った。
実際日本から清国に届けてもらった日本語の文書を清国人に見せたところ、彼らはほとんど意味を解読できなかった。まあ現代の我々日本人が中国文を見てもほとんど意味がわからないのと似たようなものであろう。
ちなみに第二次東禅寺事件が発生して横浜のイギリス公使館では処理すべき仕事が増大し、ニールは公使館員の増員を希望していた。
そういった事情もあってサトウは清国での二年間の予定を早めに切り上げて日本へ向かうことになったのだった。
このサトウの清国滞在時に、前述したように日本の千歳丸が上海へやって来た。
ただしその頃サトウはたまたま北京へ行っており、この千歳丸に乗っていた高杉晋作や五代才助と出会うことはなかった。
サトウがこの二人と出会うのは、五代とは一年後の薩英戦争の戦場で、高杉とは二年後の下関戦争の戦場で、それぞれ出会うことになる。詳しくはその項で触れるはずなので、今はこれ以上述べる必要はないだろう。
そしてサトウは文久二年八月九日(1862年9月2日)上海からランスフィールド号(のちに長州藩が買い取って壬戌丸と命名し、下関での攘夷戦争で撃沈され、サルベージ後、再び上海に戻って売却されるという数奇な運命をたどる船である)に乗って横浜へ向かい、イギリス出発から十ヶ月目にしてようやく日本の土を踏むことになったのである。
ただし到着した六日後にいきなり生麦事件が発生して、前述したようにギリギリのところで「日英戦争」が回避された、という危機的状況を目の当たりにさせられたのだった。
「サトウはなぜ、こんな危ない日本にすすんでやって来たんだ?」
とウィリスから聞かれたサトウは一瞬言葉につまった。そしてなぜかとっさに弁解がましいことを述べてしまった。
「日本が危険なことは新聞で見て知ってたから全然おどろいてないよ。ボクは純粋に日本語に興味があったから日本に来ただけのことさ」
日本を楽園のように描いていたオリファントの本を読んだから、などとサトウは恥ずかしくて言えなかったのだ。
そんなサトウの肩をたたいてウィリスは優しく励ましてくれた。
「そうか。これからも日本語の勉強を頑張れよ!」
そしてウィリスは自分の住家へ帰っていった。バーに残されたサトウは苦い表情をして悔しがった。
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双花 冬の華
月岡 朝海
歴史・時代
とある妓楼で起こった醜聞を廻る、
恋愛+シスターフッドの連作短編第一話。
亮芳が若い衆として働く妓楼には、口八丁と醜聞で成り上がったと言われる花魁が居る。
けれど亮芳はそう思えず、長い間遠目から見詰め続けていた。
ある夜の道中で、花魁の下駄の鼻緒が切れてしまい……。
呪法奇伝ZERO・平安京異聞録~夕空晴れて明星は煌めき、遥かなる道程に月影は満ちゆく~
武無由乃
歴史・時代
「拙僧(おれ)を殺したければ――播摩の地へと来るがいい。拙僧(おれ)は人の世を壊す悪鬼羅刹であるぞ――」
――その日、そう言って蘆屋道満は、師である安倍晴明の下を去った。
時は平安時代、魑魅魍魎が跳梁跋扈する平安京において――、後の世に最強の陰陽師として名をのこす安倍晴明と、その好敵手であり悪の陰陽師とみなされる蘆屋道満は共にあって笑いあっていた。
彼らはお互いを師弟――、そして相棒として、平安の都の闇に巣食う悪しき妖魔――、そして陰謀に立ち向かっていく。
しかし――、平安京の闇は蘆屋道満の心を蝕み――、そして人への絶望をその心に満たしてゆく。
そして――、永遠と思われた絆は砕かれ――、一つであった道は分かたれる。
人の世の安寧を選んだ安倍晴明――。
迫害され――滅ぼされゆく妖魔を救うべく、魔道へと自ら進みゆく蘆屋道満。
――これは、そうして道を分かたれた二人の男が、いまだ笑いあい、――そして共にあった時代の物語。
連合艦隊司令長官、井上成美
ypaaaaaaa
歴史・時代
2・26事件に端を発する国内の動乱や、日中両国の緊張状態の最中にある1937年1月16日、内々に海軍大臣就任が決定していた米内光政中将が高血圧で倒れた。命には別状がなかったものの、少しの間の病養が必要となった。これを受け、米内は信頼のおける部下として山本五十六を自分の代替として海軍大臣に推薦。そして空席になった連合艦隊司令長官には…。
毎度毎度こんなことがあったらいいな読んで、楽しんで頂いたら幸いです!
フラれ侍 定廻り同心と首打ち人の捕り物控
sanpo
歴史・時代
吉原にて、雨天に傘を持っていながら「思いを遂げるまでは差さずに濡れていく」……という〈フラれ侍〉が評判をとっていたある日。南町奉行所の定廻り同心、黒沼久馬のもとに、雨の夜の連続辻斬りが報告される。そこで友人の〈首斬り浅右衛門〉と調査に乗り出す久馬。そうして少しずつ明らかになっ ていく事件の裏には、傘にまつわる悲しい因縁があって――
※令和2年「白殺し」~ 新作!令和3年「宝さがし」掲載中です
根来半四郎江戸詰密偵帳
dragon49
歴史・時代
紀州の下級藩士根来半四郎の江戸詰日記、生来田舎侍の半四郎は江戸詰勤務が性に合わず、しばしば藩邸を抜け出ては下町の深川で息抜きをしている。そんな半四郎にある日転機が訪れる。
鏡の守り人
雨替流
歴史・時代
時は応仁の大乱から三十年。
鏡の社(かがみのやしろ)に伝わる古文書によって警告されていた大厄災、この世の終焉を意味する恐ろしき事態が現実のものとなった。宮司の親子は特別な精霊を持つ少女と戦で郷を失った精鋭の忍び達と共にこの世を守る為、大厄災に挑む事となる。
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