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月が落ちる世界

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 空には星空を隠すように巨大な月が浮かぶ。

 浜野はそんな月を横目に自宅までの道を歩いていく。
 電車もバスも動いてはいるが便は減っている。しかし利用者は減らないもので、いくつかの便を見送ることになったのだ。バスを降りれば日は完全に落ち、月が白い光で地面を照らす時間になっていた。

 道の両脇には住宅が立ち並び、転々と街灯が道路を照らす。最近は今日のように雲のない日であれば、街灯なんか必要ないと思えるほどに月明かりが強い。
 足を進めれば、月に照らされて出来た自分の影が横についてくる。黒い影は、浜野の体を半分に押し潰したぐらいの形になっている。幼い子供と同じぐらいのサイズとも言えるだろう。
 影が自身の動きについてくるという、当たり前の現象を改めて見つめてしまう。

 手に持った紙袋がガラガラと音を鳴らす。家まであと数分という距離に差し掛かった頃、空を見上げる女がいた。月光に照らされた髪は艶やかに輝き、鼻歌でも歌っていそうな表情で、空に浮かぶ巨大な月を眺めていた。
 何かいい事でもあったのだろうか。

 女は道の脇に立ち空を見上げている。音を気にしないのか、あたりに音を響かせている浜野が近づいても視線は上を向いたままだ。浜野は視線を落としたまま、女の前を通り過ぎようとする。しかし、女は視界に入ってから気づいたのか、浜野が通り過ぎる手前でこちらに顔を向け、「こんばんは」と言った。
 浜野は声に反応し、パッと声の主に顔を向ける。

「こんばんは」

 正面から見た女は、自分より幾分か年が下のように見える。可愛らしげな笑みを浮かべたまま、彼女は空をまた見上げる。

 自然と足が止まり、この子は何を見ているのだろうと、彼女が見る方に顔を向ける。
 空には巨大な月がある。以前見たときよりも大きくなり、圧迫感のようなものが強くなっている気がする。月は日に日に地球に近づき、地球から見る月も当然巨大なものになってきている。今では空の景色の半分が、穴ぼこで無機質な石の塊によってうまっていた。

「月を見てるの?」

 こんな質問をしてどう答えて欲しいのだろうと、口に出してから浜野は思う。

「……そうですね、綺麗だなーと、思って」

 女は質問をされると思っていなかったのだろう。少しの間が空き答えてくれた。
 一人の時間を邪魔してしまったのかもしれない。ただ少し言葉に引っかかってしまった。彼女はあの月を綺麗だと言う。ひとの感性を否定するわけではない。ただ少しばかり疑問に思った。

「綺麗?」
「……まあ、光ってて綺麗だと思いますよ」
「あれが落ちてくるのに?」

 女はこちらに眉を寄せた顔を向ける。

「じゃあ、汚いと思ってるんですか?」

 綺麗だと思っていないことが、汚いと思っていることにはならないだろうと、浜野は頭の中だけで言い返す。

「いや……」
「じゃあ、どう思ってるんですか?」

 ここで、綺麗じゃないと思ってると、答えるのは幼稚だろう。浜野は一度、空を見上げこの感情について考える。

「……怖いと思ってる」

 女はポカンと口を開けたかと思えば、すぐにニッと口角をあげた。
 なぜそのような表情を浮かべるのか。あの月で自分は死ぬことになるのだ。自分だけではない、周りの人も、物も、何もかもが無くなる。空に浮かぶあの月が世界を滅ぼすのだ。
 怖いに決まっている。恐ろしいと思う。

「でもそれって、綺麗かどうかは関係ないじゃん! 綺麗って気持ちと、怖いって気持ちは別でしょ?」

 目を丸くする浜野に、砕けた口調で彼女は言う。

「わたしだって怖いって気持ちもあるけど、今見える景色は綺麗でしょ?」

 女は周りを示すように腕を広げ、髪が揺れる。明るい笑顔でこちらを見つめ、揺れる髪はキラキラと輝いて見える。

「……確かに」

 ひと呼吸あき、女から目を逸らし月に目を向けてみる。
 巨大な月は、昔見ていた月に比べて細部がよく見える。大きいクレーターから小さなクレーター、黒と白のグラデーションによる鮮やかな模様を眺める。

 確かに綺麗だ。

 月の反射する光も月の場所によって強さが違う。ただの星空とはまた違う、巨大な月による光の芸術と呼べるのかもしれない。
 だがやはり、この月を見て最初に綺麗だと言えるとは、浜野には思えなかった。

 しばらくの間、月を眺めていると女が口を開く。

「月が落ちてくるまで後どれくらいなんですか?」

 彼女の方からそんな質問をするとは思っていなかった浜野は、一度彼女を見やる。女の表情は少し暗い、やはり思うこともあるのだろう、どことなく寂しげに見える。

「あと、2週間ぐらいだよ」

 正確にはあと13日後。今月の17日だ。
 テレビ番組は、今のご時世でも放送されている。だが内容は世界の終わりまでのカウントダウンなんかしていない。世界の終わりが来ないかのように、明るいバラエティー番組ばかりを流している。月が落ちてくる日付を正確に把握しているひとの方が少ないのかもしれない。
 浜野はそんな少ない方の人間だった。

 答えた後に会話は続かなかった。女は黙り月を眺めている。
 浜野はこのまま立ち去ろうかと考える。しかし、最後の言葉があれだと面白くない。ひとつ気になっていた事を聞いてみる。

「そういえば、会う前、にやけ顔で月を見てなかった? 何かいいことでもあった?」

 月が綺麗という理由だけで、あんな表情にならないだろう、と思い聞いてみる。

「えっ、……まぁ」

 呟くように言った後、女の頬はみるみる赤く染まっていく。
 どんなことがあったのか知らないが、これはこれで面白い。
 浜野は女の様子を見てニッと笑う。

「あなたは何かいいことないんですか?」

 女は自分のことは話さないようで、浜野に質問を返す。
 話したくないならそれでもいいだろう、と浜野はしばらく考え口を開く。

「……子供ができた」
「……へぇ」

 彼女は少し意外、という表情を見せる。だが女は浜野の持つ紙袋を見た後、何かに納得したのか、「おめでとうございます」と言葉を続けた。
 女が話を続けようとした時、彼女のスマホが鳴った。どうやら電話のようでスマホを取り出すと浜野から少し離れ、通話を始める。

 頃合いだろうと浜野はこの場を離れることにする。声は出さず手だけ振ると、女も浜野に手を振り返した。
 通話をする彼女の顔は赤く染まっていた。

 女と別れた後に浜野は思う。彼女は浜野に子供がいると知った時、赤子がいると思っただろうか。だが実は子供はまだお腹の中だ。月が落ちるまでに生まれるのか、生まれないのかわからない。月が落ちてくるまでに生まれるとして、病院で無事出産できるのだろうか。生まれたとして、すぐに地球ごと滅びることになる子供は幸せだろうか。
 そんな事を考え続ける。

 子供の生まれる予定日は13日後、今月の17日だ。
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