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第二部 第三章「女王陛下と大怪盗」(8)

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「買ってきましたよ……、伯……」

 恨みがましい目で僕を見ながら、メアリーが僕に紙袋を手渡した。
 紙袋の中には、とある粉末がぎっしりとつまっている。
 ぬるぬるぶよぶよの軟体生物であるスライムの体液を乾燥させて粉末にしたものだ。

「ごくろうさま。助かったよ」
「『亭主に買いに行かされたのかい?』って、おばさんにニヤニヤされたじゃないですか!」
「僕はまだ学生だから、ちょっと何言ってるかわかんないや」

 僕は事前に用意していた、水を張った大きなタライに、紙袋に入ったスライムの粉末を少し投入して、溶き卵を作る要領で、手でちゃっちゃっちゃっとかきまぜた。

「何言ってるかわかんないわりに、妙に手慣れていませんか……、伯……」
「本当にさっきから何言ってるの」

 スライム粉末の効果はテキメンだった。
 タライに少量入れただけで、タライに入っていた水があっという間にねばねばでドロドロした液体へと変化する。
 
「よし、このぐらいだったら大丈夫だな」
「……まっちゃん、さっきから何やってんの?」

 タライの水のねっとり具合を見てニヤニヤしている僕に、ユキが怪訝な表情で声を掛けてきた。

「実験だよ実験。言ったろ? 放流してるだけだって」
「あれって、まんまと逃げられたアンタの負け惜しみじゃなかったの?」
「やれやれ、いつも僕のそばにいるのに、なんでわからないかなぁ……」

 僕は肩をすくめて苦笑すると、そのまま紙袋を持って屋敷の庭に向かった。
 
 秘密の花園のような中庭も素敵だけど、屋敷の庭がこれまた最高だ。
 中庭が自然美を生かした楽園なら、こっちは人が作り上げた楽園。
 キレイな石畳に、南国エスパダならではのヤシの木やたくさんの観葉植物。
 エル・ブランコの街並みのような白いパラソルにビーチチェアとテーブル。

 そして、なんといっても特筆すべきなのが、広いプールだ。
 プールの向かい側の柵は可動式になっていて、柵を外すとなんと、広大なアドリアナ海が広がっているのだ。
 庭から見るとまるで、プールがアドリアナ海と繋がっているように見える、すばらしい光景だ。

 湖と森が美しいベルゲングリューン城とはまた違ったリゾート気分が味わえるこの庭を、僕たちは早くも気に入っていて、すでに庭にはみんなが集まってくつろいでいた。

「次に来る時は、絶対水着を持ってきます」
「それ、私も思った」
「ベルの前なら裸で泳いでも良いのだが、他の目もある故な」
「な、何を仰っているんですの?!」

 テレサとミスティ先輩に相槌を打ったヒルダ先輩の発言にアーデルハイドがツッコんだ。
 みんなはビーチチェアでくつろぎながら、僕が作ったオリーブピンチョスとレオさんが作ったカクテルに舌鼓を打っていた。

 オリーブは穴の中に二種類のフィリングを詰めていて、片方はアンチョビを刻んだのを入れたクリームチーズ、もう一つはオリーブオイルで刻んだにんにくと玉ねぎを炒めたものをトマトで煮詰めたものを入れて、お好みでスモークサーモンを巻いたり、食いしん坊のキムのためにガーリックトーストと一緒に食べられるようにしている。

「ヒルダ、とっても残念だけど、今日はプール、使えないと思います」
「ん?」

 僕は紙袋いっぱいのスライム粉をプールにどばどばと投下した。
 広いプールの水にうまく混ざるか心配だったけど、粉を投入した途端、水のゆらぎがぴたりと止まり、プール全体がどろっどろのねっちょねちょになった。

「む……、もしやこれは……。貴様、そういうのが好きなのか?」
「……メアリーみたいなことを言わないでください」
「遠慮なく言うのだぞ。私は他の者とは違って、貴様の特殊な性癖の一つや二つは受け入れるだけの覚悟が……」
「ヒルデガルド様、飛ばしすぎです……」

 処理能力を超えるヒルダ先輩の暴走に、テレサが力なくツッコんだ。

「うわーなんだこれー!! チョー楽しそうじゃん!! なぁなぁ、ちょっと入ってみてもいいか?!」
「今はダメ」
「ちぇーっ」
「今度またやってあげるから」

 めっちゃテンションが上がっている花京院をなんとかなだめすかしていると、ユキとメアリーも庭にやってきた。

「うっわ……、あれ全部プールに使ったの?!」
「ま、まさか、は、伯……」
「メアリー、もうそれはいいから……」

 僕は苦笑しながら、レオさんの方を向いた。
 レオさんはバーテンダーとして、みんなのオーダーでカクテルを作ってくれている。

「レオさん、大怪盗だろうと大魔王だろうと、はぐれてしまった金属製のスライムだろうと、僕からは絶対に逃れられないということを、今から証明してみせましょう」
「楽しみです。主様」

 グラスを磨きながら、レオさんがにっこり笑った。

「またまた、あんたそんなこと言っちゃって、大丈夫なの?」

 レオさんにハッキリ言い切った僕に、ユキがからかい半分に声を掛ける。

「ふっふっふ。この稀代の天才伯爵、ベルゲングリューンを甘く見てもらっては困る」
「たしかに、まっちゃんはすごいと思うけど……、自信満々な時って、だいたいロクなことにならないのよね……」

 ユキの言葉に、空気を入れるのに失敗して昆布の化物みたいになった水牛の皮のボートのことが頭をよぎる。
 
 い、いや、しかし、今回はそんな失敗はないはずだ。

 ……というかそもそも、なぜみんなこのアイディアに気が付かないんだろう。
 これを使えば、絶対に僕から逃げることなんて無理だってわかりそうなものなのに。

 僕は頭の中でイメージをする。
 仮面舞踏会で着用するような黒い蝶仮面。
 水色のかわいらしいリボンの付いたシルクハット。
 タキシードに黒いマントの大怪盗。

 頭の中であの時の映像をしっかりとイメージして、僕はゆっくり小鳥遊を抜いてプールサイドの芝生に突き立てると、二本の指先で六芒星を描いた。

「あっ!!」

 どうやら、最初に気付いたのはミスティ先輩らしい。
 いや、その横でフッ、と笑っているジルベールとギルサナスだろうか。

 ヴェンツェルは……、ビスケットをもくもくと食べている。
 あいつ軍師のくせに、ちょっと最近、頭を使うのを放棄してないか。

「ずっる!! ずっるいわそれは……」

 ユキがぼやいている。
 何がずるいんだ。

 そう、召喚魔法。
 僕の召喚魔法は厳密には召喚魔法と呼べるような代物しろものではないらしく、別の世界から幻獣を呼び出すような芸当はできない。

 でも。
 逆に僕は、普通の召喚魔法師ができないようなことができるのだ。

いでよ! 大怪盗を名乗る不届き者よ!!」

 僕が指で描いた六芒星の形が青白い炎のように浮かび上がり、その指先をプールに向けると、水面に巨大な六芒星の光が発生する。

「ふははははは!!! すっかり逃げおおせたと思ったら、僕の手のひらの上だった絶望を存分に味わうがいい!! このベルゲングリューン伯からは誰も逃れられんのじゃー!!」

 僕がそう叫ぶのと同時に、六芒星の魔法陣の光がまばゆく庭全体に広がっていき……。

「「「「「「「「「え……」」」」」」」」」

「う、うわあああああっ!!!! うぶっ、な、なにっ、なにこれっ!?」

 魔法術式は完全に成功した。
 昨日同様、シルクハットに蝶仮面、タキシード姿の少女が、スライム粉でドロドロになったプールで必死にもがいている。

 ……だが、周囲のみんなだけでなく、僕自身も、呆然としていたのは、それが理由ではなかった。

「な、なんだこれっ!!! お、おい、どこだよココ!? おれたちのアジトじゃねぇぞ!!」
「お、おい、メ、メシが!! おれのメシどこいったんだよ!!」
「あんたバカなの!? メシの心配している場合じゃないでしょ!!」
「う、うわっ、あ、あいつ!! あいつ!! おい、あいつを見ろ!!!」
「うわああああっ!!! げりべん伯爵だ!!!!!」
「お、おい、やべぇぞ!! おれたちげりべん伯爵に捕まえられたんだ!!!」
「く、くそ、動けねぇっ!!! なぁ、三世、これ、どうにかならねぇのか?!」
「無理よ!! 七世の魔法でどうにかならないの!?」
「わ、わたし、杖がないと魔法使えないの……」
「こ、殺される……、げりべん伯爵に殺される……!!」
「誰がげりべん伯爵じゃ!!!!!」

 状況がよく飲み込めないまま、僕は思わずツッコんだ。
 
 スライム地獄と化したプールの中でもがいているのは、シルクハットに蝶仮面、タキシードに黒いマントを羽織った少女、大怪盗マテラッツィ・マッツォーネ三世だけではなかった。

 同じシルクハットに蝶仮面、タキシードに黒マントの少年少女が……。
 10人以上いて、プールで必死にもがいている。

「なんじゃこれ……」
「なんじゃこれって……、あんたが呼び出したんでしょうが……」
「い、いや、そうなんだけど」

(あっはっはっはっは!!! ふぅ、ふぅ……死ぬ……笑い死ぬ……)

 何千年も生きているアウローラが死にそうになっていた。

「フッ、くくっ、くくく……ははははははっ!!!」
「レオさんも笑ってる場合じゃないでしょ……」

 レオさんが口を押さえるのが間に合わずに、お腹を押さえて笑い始めた。
 すっごいクールなレオさんも、こんな風に笑ったりするんだな。

「いや、失礼しました……。ふふ、しかし、本当にお見事です。主様のおっしゃる通り、こんなことをされてしまっては、さすがの私も逃れることはできますまい……」

 レオさんは笑いすぎて目に涙を浮かべながら、そう言った。

「殿……、なんなのだ、あの可愛すぎる生き物たちは……」

 実は可愛いものが大好きなゾフィアが、プールでもがいている怪盗キッズたちを眺めながら言った。

 怪盗団の少年たちが知恵を絞って、一人の少年がもう一人の少年を肩車して、もう一人がさらに肩車をしようとして……、ぬるっと滑って三人ともプールにぼちゃん、と沈んだ。

「うわはははは!!! おもしれー!」
「おいそこのチビ! 笑ってんじゃねーぞ!!」
「なっ……なっ……」

 チビっ子たちにチビと言われて、ルッ君が言葉を失った。
 そんな様子を見て、近くにいたメルとアリサが顔をそむけて笑いを必死にこらえている。

「ベルゲングリューン伯、粘液プールに少年少女を放り込んでえつに入る、と……」

 メアリーが書き始めたメモを即取り上げて破り捨てた。

「ああああ、ひどい!!!」
「ひどいのはどっちだ」

 ……まったく。
 
 この粘液プールで召喚しないで、もし少年少女たちが皆、昨日の少女ぐらいの手練れだったら、今頃どうなっていたと思うんだ。

 少女一人にここまで、と思いながらも念のために安全策を取って正解だったと、ほっと胸をなでおろしていた僕のことなんて、この偏向報道記者はこれっぽっちもわかっていないのである。

(いや、ほんとに……どうすんの、これ……)

 プールでもがいている10数人の大怪盗を見ながら、僕は頭がくらくらしてくるのを感じていた。
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