富士見の丘で

らー

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27.事故

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 時刻は21時を過ぎた頃だろうか。目を瞑ってもなかなか寝付けない。

 本堂の外ではゴーッと風が唸る音が響き、台風の猛威が感じられる。時折ガタン、ガタンと何かがぶつかる音がして心配になる。

 かすかに優愛の寝息も聞こえる。千勢は静かに寝返りを打った。すると暗闇の中で佳奈と目が合った。

「……眠れないですよね」

「ね。ふふ」

 優愛を起こさないよう小さな声で話す。

「佳奈ちゃんの所は本当にいいご家族よねぇ」

「いや、そんな。将太はわんぱくすぎるし優愛もおてんばになってきたし、大変ですよ」

「元気が一番でしょ。自然の豊かな場所で子育てできるなんて、素晴らしいことよ」

「でも、旦那ものんびりしてるから。子どもの面倒は見てくれるんでありがたいんですけど」

「それが長所なんじゃない。あ、でも昨日なんかは台風対策でテキパキ指示を出してて頼もしかったな」

「そうですかねぇ……。頼もしい……ところもあるのかな」

 佳奈はちょっと照れた感じでえへへと笑った。

「普段は天然ぎみなんですけどね」

「その分、佳奈ちゃんがしっかりしているから。凸と凹がぴったり合った夫婦なんだと思うわよ」

「そんな、そんな!」と謙遜するが嬉しそうなのが声だけで分かった。

「そういえば……。ちーちゃん、聞いてもいいですか?」

 自分の話ばかりでは悪いと思ったのか、佳奈が話題を変えた。

「なんで、こんな山奥に引っ越してきたんですか?」

 千勢はドキッとした。今まで稔の話はのらりくらりと避けてきた。でも佳奈になら話しても大丈夫かもしれない。

「実はね、亡くなった夫、稔さんが瑞雲寺の霊園に眠っているのよ」

 佳奈は「そうでしたか」と特に驚いた様子は見せず、穏やかに聞いてくれた。

「以前はね、東京都内から2時間以上かけて毎日、毎日お墓参りに来ていたんだけど。その頃は普通のマンションに住んでいて、ある時、私はどうして空っぽの箱の中にいるんだろうって思ってしまって。都会には溢れるほど人はいるけど、私は一人ぼっちだって感じてね。〝少しでも稔さんのそばにいたい〟って思うようになって引っ越しを決めたのよ」

「そうだったんですね……。なんだか切ないですね」

 佳奈はしんみりした後、すぐに「あ、じゃあ今日はすぐそばで眠れますね!」とすごい発見をしたかのように明るい声を出した。

「本当ね。すごく近い。今度、和尚にお願いしてここに住まわせてもうらおうかしら。ふふ」

「ナイスアイディアですね。あはは」

 笑い声が思いの外大きくて、2人は優愛を見た。相変わらずぐっすり眠っている。台風の音も先ほどより少しだけ小さくなったような気がする。

「あの、ちーちゃん。失礼ですけど、ご主人はご病気だったんですか?」

 もし病気だったら、稔の死をもう少し静かに受け止められていたかもしれない。千勢は、何の覚悟もなく突然訪れた死を未だに受け入れられていなかった。

「うーん。どう話そうかな」

 千勢は考えをまとめるため、横に向けていた体を仰向けにした。

「交通事故でね、突然……。もうすぐ1年になるかな」

 稔の事故のことを他人に話すのは初めてだ。どう説明したらきちんと伝わるか、なるべく冷静に話さなくては、と頭の中でごちゃごちゃと考えていた。

「稔さんは朝、会社に行くために家から駅に向かっていて、交差点で信号待ちをしていたら居眠り運転の車が突っ込んできて。壁と車の間に挟まって、かなりの衝撃だったみたいで……。連絡をもらって病院に行った時には、もう、つっ……」

 ……冷たくなっていた。言葉として口から出すことが出来なかった。

 だが、思ったよりもするすると話せている。佳奈がきちんと聞いてくれるからか、暗闇で話しやすいからか、台風でテンションがおかしくなっているのか。

 一番の理由は分かっている。『本当は誰かに聞いて欲しかった』。

「佳奈ちゃんも絶対なんてないんだから、後悔しないように毎日を過ごしてね」

「後悔、しているんですか?」

「うーん、後悔という訳では……。よくある喧嘩してそれっきりとかじゃないんだけど。なんでもっと普通の日々を大切にしなかったんだろうっていう心残りなのかもしれない」

 いつもと同じ毎日が永遠に続くと思っていた。いや、あたり前過ぎて終わりがあるものだと気付いていなかった。




 9月28日。決して忘れることのできない日。1日の出来事は、繰り返し、繰り返し、思い出す。

 いつも通り朝6時に起きて、朝食とお弁当を作って。お弁当は稔の好きな豚肉のしょうが焼き。あら熱をとっている時に稔がつまみ食いしたから「お弁当のおかず減っちゃうよ」って怒って。稔は気にせず「うん、うまい」って笑って。朝ご飯はベーコン入り目玉焼きに前日の残りの肉じゃが、あおさの味噌汁、キャベツのサラダ。テレビのニュースを見ながら食べて。玄関で「いってらっしゃーい」って笑顔で見送って。食器を片付けて排水溝を掃除してガス台も磨いて、ピカピカになって気持ちいいなぁと思っていたところに電話が鳴って。相手は警察で……。

 いつもここで記憶がぼんやりする。思い出せるのは感覚だけ。

 柔らかいはずの頬に触れると、冷たくて……。

 いつも繋いでいた手が、動かなくて……。

 笑うとなくなる細い目は、閉じたままで……。

 ぽったり厚めで柔らかな唇も、開かなくて……。

 何度も名前を呼んでも、返事がなくて……。

 息ができなくて苦しくて、苦しくて苦しくて……。


 その後は逆に、写真を寄せ集めたように途切れ途切れの記憶しかない。

 事故の状況をダミ声で説明する警察官。
 お弁当に詰まったままの豚肉のしょうが焼き。
 血が付いたお気に入りの青いネクタイ。
 僧侶の袈裟の幾何学的な模様。
 オレンジ色の灯明の炎。
 文字がよく見えない喪主の挨拶の紙。
 黒い人。白い菊。大きな箱。粉々の骨……。




 次に記憶がはっきりするのは、葬儀から帰るタクシーの中だった。

 「なんで?」「どうして?」と思いながらぼうっと窓の外に目を向けていると、ある葬儀場の前を通りかかった。世の中には自分以外にも誰かを亡くした人がいるんだなと思って眺めていた。

 「○○家式場」という案内板を見てハッとした。体中の血がたぎるようにカーッとなった。憎しみという名のエネルギーが湧いてきたのを感じた。

「佳奈ちゃん、私のこと軽蔑しないで聞いてね。実は私ね、事故の相手のお葬式に乗り込んでいったのよ」

 警察は事故を起こした人物の情報についてはほとんど教えてくれなかった。ただ、新聞に事故の記事が小さく載っていると、親戚の人が持ってきてくれた。だから名前と年齢は知っていた。

「相手の人は珍しい苗字でね。葬儀場の近くに案内板が出るでしょ? 偶然それを見て、私ね、『稔さんを殺した犯人だ!』って」

 慌ててタクシーを降りて葬儀場に向かった。喪服だから怪しまれずに入れた。

「『この人殺し! 夫を返せっ!』って言ってやりたくてね。陳腐な2時間ドラマみたいなセリフでしょ?」

 冗談のつもりで言ったが、佳奈は「あぁ……」と呟いただけで笑いはしなかった。

「でも、できなかった……」

 言葉に詰まった千勢を気遣い、佳奈は「どうしてですか?」と先を促してくれた。

 式場に足を踏み入れると、参列者が焼香をしているところだった。喪主の位置にいる人を見て、ガツンッと頭を打たれたような衝撃をうけた。

「30歳前後の女性が、おそらく奥さんが、生後間もないくらいの赤ちゃんを抱っこしていたの。しかも左手で3歳くらいの男の子の手を繋いでいたから……」

 全身から力が抜けた。千勢は膝から崩れ落ちた。

「残された家族の姿を目の前にしたら、もう何も言えなかった。あの人も夫を突然亡くしたんだ、私と同じなんだって。ううん、小さな子供2人を抱えて一人で生きていくのは、もっと大変なんだろうなって」

 苦労はするだろうけど〝形見〟になる子供がいるのは羨ましいという本心を、千勢は封印した。

「まぁ、再婚すれば話は別なんだけどね」

 皮肉な口調になってしまった。佳奈は何か考えているのか反応しない。千勢は小さく咳払いをした。

「事故を起こしたことは許せない。でも、それを残された人にぶちまけるのは違うなって」

 式場の入口で泣き出した千勢を、葬儀のスタッフは別室で介抱してくれた。温かいお茶が美味しかった。

「ちーちゃん……」

「人の道を踏み外す直前で戻って来られて良かったわ」

 また茶化した言い方になってしまった。でも佳奈もこんな重い話を聞くのはしんどいだろうから、少しでも「私は大丈夫だよ」って明るく話したい。

「ちーちゃん。もう……無理しなくて、いいんですよ」

 その声は穏やかで温かくて、まるで菩薩のように千勢を包み込んでくれた。

「え? 私、無理なんて、して、なっ……。うっ」

 瞳の表面張力はすぐに限界を超えた。洪水のようにブァッと涙が溢れてきた。

「わぁーーーー!!!」

 もう決壊したダムを止める術はなかった。優愛を起こしてはいけないと思い、千勢は枕に顔を埋めて叫んだ。

「稔さん! 稔さん! 会いたいよ。どこに行っちゃったの! 稔さん! 返事してよ」

 千勢は背中をさする手の温もりを感じながら、何度も何度も稔の名前を呼んだ。

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