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15.診察
しおりを挟むピンポーン。掲示板に541という数字が点滅する。「541番の方、診察室Bへお入りください」。電子音のアナウンスが流れる。
千勢は541番の受付票を見て、立ち上がった。
診察室に入ると主治医の長谷川智弘がパソコンに何やら入力をしていた。目が細くシャープな顔立ちで、メガネをかけた姿はいかにも頭が良さそうに見える。残念なのは頭頂部が少々薄くなっていることだ。
「最近、体調はいかがですか?」
長谷川はパソコン画面に目を向けたまま尋ねた。
「特に何も変わりはないです」
「痛みはどうですか?」
「それは……大丈夫です」
嘘をついた。たびたび我慢しきれない腹痛に襲われる。異常を示す不正出血も続いている。
長谷川が千勢の目を見て話しはじめた。
「旦那さんのご不幸があってショックなのはよく分かります。でも、楠木さん、ご自身の命を大切にしましょう。そうじゃなければ、旦那さんも浮かばれませんよ」
「それはそうなんですけどね」とごまかした。薄っぺらい言葉には1ミリも心を動かされはしない。
早く稔に会いたい。
この世でもあの世でも何処でもいいから、同じ世界で一緒にいたい。
そんな千勢の気持ちが、40歳そこそこの男性医師なんかに分かるもんか。
長谷川がため息をついて続ける。
「前回受けて頂いた検査の結果が出まして、やはりゆっくりですが着実に進行しています。できるだけ早く手術を決断されたほうがいいです」
がんのことを英語でCancer、ドイツ語でKrebsという。どちらも蟹という意味だ。古代ギリシャで医学の祖ヒポクラテスが、がんを蟹に例えたのが由来だという。
この話を知った時から、千勢の子宮の中に蟹が住み始めた。
小さな小さな蟹が何匹も何匹も集まっては散らばって、ハサミを振りかざしながら細胞を食い荒らす。そうして細胞が一つずつ浸食されることで、滅亡へと近づいていく。
千勢は、死に魅了されていた。
稔が待っている――。最愛の夫が亡くなった時から、千勢にとって死ぬことは恐怖ではなく〝再会〟への希望となった。千勢はがんが進行することに喜びすら感じていた。
煮え切らない態度の千勢に、長谷川は根負けしたようだ。パソコンに向き直しキーボードを打つ。
「納得いかない所があれば別の病院、セカンドオピニオンを利用して頂いて構いません。いずれにせよ、あまりのんびりしている時間はありませんから、よく考えて決断してください。何度も言いますが、手遅れになってしまったら命は取り戻せないんですよ」
最後のほうは脅しのように聞こえなくもないが、医者としては何としても説得しようとするのは当然だろう。
「分かりました。ありがとうございました」とあいさつして診察室を出る。
誰にも言わないし、言うつもりもない。だから誰一人、知るはずはない。
千勢は静かに命を閉じることを決意していた。
病院の帰りに足を延ばしてターミナル駅にあるペットショップに寄った。
フロアはかなり広くジャンルごとにコーナーが設置されている。品揃えも豊富で、最低限の物しかないスーパーストーンの比ではなかった。
ペットフードにペット用おもちゃ、トイレ用品など、こんな商品があるのかと感心してしまい、お目当ての首輪コーナーにたどり着くまで時間がかかってしまった。
首輪一つとっても、色柄や素材、デザインが多様にありさんざん迷ったが、オーソドックスなベルトタイプの赤色のものにした。
みーちゃんには絶対に赤が似合うはず。
ミルクが首輪をつけた姿を想像するだけでウキウキした。
その他にも連れ出す時のためのキャリーバッグと、ちょっと高級めのキャットフードを購入した。
店内にはスタッフが何人もいたが、商品を探す千勢に声をかける者はいなかった。「気楽でいいけど、ちょっとな」と思いながら店を後にした。
荷物を抱えて富士見の丘まで上ってくるとミィーと鳴き声がした。
「みーちゃん! 迎えに来てくれたの?」
ミィー。
嬉しくなって小さな体を持ち上げて、顔をのぞきこんだ。
「ありがとう、みーちゃん」
キュッと抱きしめる。トクトクトクトクと人間よりかなり速い鼓動が手のひらに伝わってくる。
「今日はお土産があるからねー」
千勢は我慢できなくなって、買ってきたばかりの赤い首輪をつけてあげた。
「うん、かわいいー。やっぱりコレにして良かった」
ミィー。ミィー。
「みーちゃんも気に入った?」
誰かに見せたくなったが、将太たちには今日は外出するから来ないようにと言ってあった。
「ねぇ、稔さんに会いに行く?」
ミルクの小さな顔を見ながら聞いてみた。
ミィー。
クリクリの瞳で真っ直ぐ千勢を見つめてくる。いつもの条件反射ではなく、意志を持って返事をしたように思えた。
「よし! 今から行こう」
ミルクを抱えて先ほど上って来た坂を下り始めた。
「はじめまして。ミルクのみーちゃんです」
稔の墓に見せるように、ミルクを持ち上げた。
(おぉ、みーちゃんかぁ。やっと会えたね。かわいいなぁー)
「みーちゃんって呼んでるけど、ミルクはオスみたいなんだよね」
(じゃあ、イケメンだな。オレ、心配だよ。あはは)
「ふふ。今日みーちゃんは赤い首輪を買ってもらいました。どうですか?」
(うん、似合ってるよ。良かったな、みーちゃん)
ミィー。
ミルクからしたら墓の前で何を1人で話しているのかと、不思議に思うだろう。それでも構わない。
「稔さん、あのね。私、みーちゃんをきちんと飼おうと思うの」
(お、いいじゃないか)
「それで、いよいよ私がダメになったら。みーちゃんを託せそうな人がいるんで、頼んでみようかなと思ってる」
千勢は久しぶりに薄暗くなるまで稔と話をしていた。
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