富士見の丘で

らー

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3.牛乳

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 千勢はリュックから鍵を取り出して新居の玄関を開けた。

「これからよろしくお願いしまーす」

 誰がいる訳でもないのに、一礼して中に入る。入居する前に和室の畳を入れ替えてくれたおかげで、部屋はい草のいい香りが広がっていた。

 荷物を玄関に置いて部屋に上がると、千勢はすべての窓を開けた。乾いた新鮮な空気が部屋を通り抜ける。

 南向きの縁側には眩しいくらいに日差しが入り込んでくる。眠っていた家が蘇ってきた感じがして、千勢は嬉しくなった。

「あ、ごめん、ごめん」
 玄関に戻ると仔猫はお行儀よくチョコンと座っていた。

「ちょっと待ってて」
 お昼に食べようと駅前のコンビニで買ってきたあんぱんと牛乳をリュックから取り出すと、仔猫はお腹がすいたと主張するように「ミィー、ミィー」と声を上げた。

「ミルク、飲める?」
 ミィー。

 まだ引っ越しの荷物が届いていないから、適当な食器がない。200mlの牛乳パックにストローを差し、親指で飲み口をふさいでストローを抜く。そのまま仔猫の口元に近づけて、牛乳を垂らしてみる。

 仔猫は恐る恐る鼻を近づけて、ペロッ。
「あ、舐めた」

 一口舐めて気に入ったみたいで勢いよくペロペロと飲み始めた。
「どう? おいしい?」
 ミィー。

「そう、よかった」
 もう一度、ストローで牛乳を吸って口元へ。
「お腹すいてたんだねー」

 どのくらいの量をあげたらいいのか見当もつかないので、仔猫が飲まなくなるまで何度もストローを抜き差しした。
「もうお腹いっぱい?」
 ミィー。

 この仔猫は本当に人間の言葉を理解しているんじゃないかという気がしてきた。
 だから、私の言うことが分かるかも……?

「仔猫ちゃん。私はね、がんっていう病気なの。長生きできないの。だから面倒をみてあげられないのよ。ごめんね」

 千勢は子宮がんを患っている。引っ越しを機会に、高齢者の間でもはや常識となりつつある「終活」を済ませた。

 今まで使っていた家具や家電は、1人暮らしには大きいのですべて売却。洋服や生活用品など身の回りのものは、2泊3日の旅行へ行く程度の量まで減らした。

 だから新居への荷物は布団一式と段ボール1箱だけ。引っ越し業者には頼まず宅配便ですんだ。

 片付けの合間に、終活の王道「エンディングノート」もまとめた。

 葬儀や遺品について記入する欄は簡単に書けた。遺産争いをするような子供はいないから、気楽なものだった。争うほどの遺産なんてないけれど。

 死後の望みは唯一つ。
 ――稔さんと同じお墓で眠りたい。

 すでに瑞雲寺の和尚には永代供養を依頼してある。和尚は見た感じ40歳前後と若いけれども、思慮深くて信頼できる人だ。



「ごめんね、仔猫ちゃん。元の場所に戻ろうね」

 千勢があんぱんを食べている間、寝そべって寛いでいた仔猫に呼びかける。
 聞いているのかいないのか。それとも同意できないからなのか、返事はない。

「じゃあ、仔猫ちゃん、行くよ」
 両手で仔猫を持ち上げる。あまりにも小さい。
 ミィー。ミィー。

 元の所へ戻したとして、仔猫は生きていけるだろうか。

 人通りのある所まで段ボール箱を動かそうか。でも今日はこの後、引っ越しの荷物を受け取らなければならない。

 誰かに頼んで引き取ってもらってもらうのは? 知り合いが一人もいない土地では不可能に近い。

 もしも、箱の中で誰にも見付けられずにいたら、最悪、死……。

 自分の行く末を案じられているなんて知る由もなく、仔猫は千勢の腕の中で大人しくしている。

「仔猫ちゃん、一人いや一匹でも強く生きていくんだよ」
 私も一人だから、と続けようとしたことに思わず苦笑いした。

 同じ一人&一匹でも、生まれたばかりで未来のあるこの子と、還暦を過ぎて後は死を待つだけの自分とでは、境遇が違い過ぎた。

 グルルルルゥ。グルルルルゥ。
 歩きながら腕の中で揺られて心地よいのかノドを鳴らしている。

「のんきなもんだなぁ」
 仔猫の可愛らしい仕草に、小難しいことを考えるのがバカらしくなってくる。

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