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第三章
春一番
しおりを挟むやわらかく芽吹いた葉は樹木の梢をぼんやり彩り、ざわざわと葉がさざめく。山にある社の話し声が風にのる。
月読は毛のお手入れをしていた。白猿は武骨な大猿だが、その実とてもきれい好きだ。
「痛てえっ、引っ張んな! 」
縺れた部分をムリに梳かすと白猿の背が動いてうなった。もつれた毛玉を見て月読は眉間にしわをよせる。いっその事スッパリと切ってしまいたかったけどそういうわけにもいかない、てごわい毛の塊をにぎって端から根気よくブラッシングする。
数分後には解されふさふさの毛が戻ってきた。すみずみまで毛を梳かし、月読は褒美をくれと言わんばかりに長毛ムートンと戯れる。フワフワした毛なみへ手をすべり込ませ顔を埋めた。
欠伸をした山神は不機嫌そうに唸った。毛玉も無事に取りさり、不興を買う理由に覚えがなく山神をうかがう。
「お前ぇよ……ああ、自覚ねぇのか……」
浴衣1枚であることを指摘され、薄着でくっ付くなと釘を刺される。清潔であれば服はこだわらないと丙から聞いていたけど、やはり軽装すぎて失礼に当たったのかと案じる。月読の頭へ疑問符が立ったのを察した白猿があきれ顔になった。
「月読ってのは何でそう代々ズレてんだ? いいか、いくら立派な男だろうと妖からは美味そうに見えるんだよ。俺がその類の山神だと分かってんのか? 」
美味しそうに見えると言われても、いまいちピンとこない様子の月読は曖昧な返事をした。丙に似てる山神と話していると、本来は畏れるべき存在だという認識が薄れてしまう。とは言え彼は安心できると直感的に感じていた。
白猿はため息を吐いて起きあがり、もっと分かりやすく説明してやると月読を正面へ座らせる。
「とりあえずよ、自分がむしゃぶりつきたくなる物を想像してみろ」
とりあえずと言われてたわわに実った胸、くびれた腰とヒップラインの女を想像した。浴衣を着た胸元は盛り煽情的なナイスバディだ。
「女か……じゃあそのまま思い浮かべろ。そいつは体つきのわかる薄い浴衣、裾からすべすべの太腿がのぞいてる。ちょいと開けた胸元から、はち切れそうにプルンとした谷間が見えてんだ。おまけに薄い布地には起った乳首が透けてる」
「おお……」
月読はありありとその姿を想像して感嘆の声を出した。
「そんな熟れた果実みたいなのがくっ付いてみろ。喰えと誘ってるようにしか見えないだろ」
白猿が諭す。月読はうーむとあごへ手を当て賢人のごとく唸った。
「他人ごとじゃあねえ。誇張してるがとにかく俺みたいなのからは、そんな風に見えるってこった。喰われる前に少しは自覚しやがれ」
ビシッと指摘され、指を差された。腕組みして背筋をのばす白猿は、映画にでも出てきそうな硬派な漢だった。
美味そうに見える存在なのは理解した。しかし男である月読がそのように見られるのは納得できない。流石に乳首は起ってないだろうと浴衣の胸元をのぞく、そこには男の厚い胸板があった。抗議の表情で見上げると白猿は牙を剥く。
「そういう所だっ! てめえ自覚しろ!! 」
ものすごい剣幕に月読はしょんぼりとした。
換気口から湯気がたち、夕飯の匂いは食欲をそそる。タラの芽の天ぷらはパリッとした食感とほろ苦い味がする。塩と天つゆが用意され、どちらで味付けしても美味い。
先日、釘を刺したのが効いた様子で酒宴の乱痴気騒ぎは影をひそめていた。
穏やかに酒を嗜なんでいたら、スルメを咥えた丙が隣へ腰掛ける。酒臭いので邪険にすれば大きな手のひらでぐりぐりと頭を撫でられる。海は嫌いなのに海産物は食べるのだと月読は感心した。酒の肴に最適なものについてあれやこれやと談笑する。
丙がピーナツの殻を割り、会話が途切れる。
「お前ぇよ……寂しいんなら結婚してみるか? 」
猿女の良い女性がいると唐突にすすめてくる。桜たち以外にも猿女は数人いて、丙の家で顔を合わせたことはある。見知った者同士、気張らず気楽に付き合えばいいという。艶やかで尚朗らかな女性の顔を思いだす。
「家族か……それも良いかもな……」
月読は酎ハイの気泡を眺めてつぶやく、氷はカランと音を立てグラスの底へおちた。
「ちなみに俺と結婚してもいいぜ。鬼の爺さんは五月蠅いだろうが話は通してやるよ」
ピーナツを口へ放りこんだ男はニヤリと笑う。悪い申し出に月読は口から酒を噴きだし、気管が苦しくなってむせた。
「なに言ってるんだ! 私は男だぞ! それにもう奥さん3人いるだろうっ」
「3人も4人もそう変わらねえ。女房達も喜ぶだろうよ」
とうとう酒の飲みすぎで頭がやられたのかと同情すれば、頭を撫でる手に力が入って痛い。拍子抜けした月読はあの破廉恥な行為に混ざる気はないと物申す。
「今更だろ、俺がアブノーマルみてえな言い方するんじゃあねえ! 」
そもそも男には興味はないと丙は念を押す。ほどよく酒気を帯びた月読はからみ、その興味もない男となぜ関係を持ったのか質問を詰めていく。
「おめーは、その、なんていうか……美味そうなんだよ」
丙はモゴモゴと口をうごかした。苦しまぎれの回答をしたゴリラはピーナツを殻ごとバリバリ噛んでいたが、ふと真顔になった。
「けっこう本気だぜ。追いつめられて逃げ道が無いっていうなら、俺が何時でも用意してやる」
それが俺たちの関係だと漢はのたまう。
薄明かりに照らされた肩へ手を触れる。丙の家に来てから何度も目にした紋様。
「これは紋か? 」
両肩から上腕へ刻まれた入れ墨は片方ずつ異なっている。右肩に炎ゆらめく太陽、左肩は三つ巴が彫られていた。巴紋は水の渦をあらわし火除けに使われたり、太鼓に描かれるものは雷鳴を意味するなど諸説ある。
「しきたりでな、頭目になったときに入れた。荒魂と和魂ってぇのを表してんだとよ。荒々しさと穏和を並べるなんざ、矛盾も甚だしいぜ」
丙は鼻で笑った。凶暴な鵺と山を愛する大猿の姿をあわせ持つ山神の一族には相応しい紋であった。【猿】の一族は妖とうまく共存している人々でもある。
一部の生き物を除き人は自分たちの文明を発達させ、野生動物とは共存できなくなった。線を引いて棲み処を隔てることで互いの生活を守っている。それは妖と人の関わりにも似てる。しかし時に境界線を越えて進出する者もいる。そのような者はどちらにも拘わらず我と欲が強く十中八九はトラブルとなる。弱い者は虐げられ追いだされる。棲み処を奪われた者は怒り争いの種となり、終わらない復讐の連鎖がはじまる。
ひんやりとした隙間風が流れた。目の冴えた月読は、布団の熱源をのこして起きあがり酒を持って縁側へ座った。闇にそびえる山々を眺め、依頼で討伐した妖へ思いを馳せる。
月の無い夜、手元の盃には何も映らなかった。
********************
真昼の太陽の下、庭のこずえに小鳥が留まってさえずる。縁側へ腰かけた月読はメールをチェックした。
猿の里へ来て数週間、すさんでいた気分も晴れて荒れ狂う力も安定している。縁側へ半安座した丙と過去のマガツヒ退治について会話を交わす。焦りを感じていた時期は不調もあったけど、現在はそのようなこともない。
一進の顔を思い浮かべ、如何しているだろうか気になった。
「お前ぇ……そろそろ家に帰るか? 」
月読の表情をみた丙は、ポケットから出した液晶画面を提示した。長老会からの連絡だった。勿論ここに居たければかまわないと言われたけれど首を横へふった。【月読】としてやるべきこと、丙や一進にもこれ以上迷惑をかけられない。
「屋敷へ戻るよ」
決意を込めて山の向こうを眺めた。
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