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第3章 二人の選択
10話
しおりを挟む石炭の匂いを纏った汽車の煙が、風の赴くまま後方へと流れていく。
己の意思に反して抱き合うような状態となってしまったテオとクリスタは、窓から見える景色には目もくれず、互いの顔を見つめた。
「ク……リスタ……」
自分の腕の中にいるのが、本物の妻なのか。確かめるように骨張った両手がクリスタの頬を包み込む。クリスタは頬を涙で濡らしながら、テオの手に自らの手を重ねた。
「テオ……わた、し、わたし」
クリスタが震える声で言葉を紡ごうとするや否や、すっと離れていく温もり。テオはふと顔を背けると、がさごそと鞄の中を漁り出し、財布から取り出した紙幣をクリスタに握らせた。
「クリスタ。次の駅で降りろ。このお金は切符代に使え」
「え?」
「次のロデリアの駅で降りたら、コール方面の汽車に乗るんだ。行き方は分かるな?」
有無を言わさない圧力で問われ、クリスタは言葉を失くす。
テオに会うために、彼に本当のことを聞くために、必死の思いでここまで来た。ここで素直に頷いて帰ってしまったら、すべてが水の泡になってしまう。
「ま、待って、テオ……」
「いや、一人で行かせるのもあれだな。まだ十分に時間はあるし、俺も一度駅までついていこう。そうしたら、一度……」
ふと途切れるテオの声。彼が握っていた鞄はどさりと床に落ち、黒のスラックスを纏った足は後方へ揺らめく。
決死の覚悟を決めてテオの顔を引き寄せたクリスタは、長い睫毛を伏せて彼と唇を重ねた。
「……クリス……タ……」
説き伏せようと思いきや唇を奪われたテオは何度も瞬きを繰り返す。一方のクリスタは、ふるふると足を震わせながらつま先立ちをしていた。
自分でも突拍子もないことをしていることは分かっている。もしかしたら、テオに突き飛ばされてしまうのではないかという恐怖もあった。
でも、ここですんなりと引き下がればもっと後悔する。
これまでも、何度も何度も諦めずにテオに想いを告げてきたのに、今更怖じ気付くなんて愚の骨頂だ。
クリスタは林檎のように顔を真っ赤に染めて、唇をぎゅぎゅっと押し付ける。不意打ちの口づけを喰らったテオはしばらく呆然としていたが、すぐにその表情は変わった。
「んっ!」
テオの首にしがみついていた体勢からは一変、クリスタの身体は勢いよく壁に押し当てられる。テオに頬を両腕を固定されたクリスタは、まったく動けなくなった。
唇を離されるどころか、深さが増していく口づけ。唇と唇が溶け合って、一つになってしまうほどに熱い。
「テ、オ……」
上唇をちゅっと吸われては、下唇を甘噛みされて。何度も角度を変えて繰り返される口づけに、クリスタの息は徐々に荒くなっていく。
教会で交わした誓約の口づけは、酷く冷たくて淡白なものだったのに。今は互いの唇が溶接してしまったかのように、くっついて離れない。身も心も蕩けてしまいそうになる。
まだ十六歳のクリスタは、こんな甘い口づけは知らない。
「あ……ふぁ」
重なった唇から漏れていくクリスタの淡い声。未知なる背徳的行為に震えながらうっすら目を開けると、色素の薄い虹彩の奥に獰猛めいた感情の揺らぎが見えた。
クリスタは知らない。テオのこんな表情、見たことがない。下腹部がずきずきと疼いて痛む。
「……っ、んっ、テオ……」
ずるずると壁を這うようにしてクリスタの腰の力が抜けていき、テオの腕だけで支えられている状態に。キスをしたのはクリスタのほうからなのに、完全にテオの手によって翻弄されてしまっている。
テオはクリスタの可憐で甘い唇を貪りながら、周囲を見やる。ひそひそと噂しながら二人を盗み見する人々、新聞を読んでいる振りをしてちらりと顔を覗かせている紳士、皆が好奇の目で二人を見ていた。
「んっ……」
くちゅくちゅと唾液を纏っていた唇が、惜しむように離れる。
肩で息をしながら瞳を潤ませるクリスタに、テオは生き急ぐかのようにもう一度口づけ、小さな身体をぐっと抱き上げた。
「テオ……」
テオの肩に頭を預け、首元にぎゅっとしがみつくクリスタ。黄金に煌めく瞳からは、一粒の涙がほろりとこぼれ落ちる。テオはそんな彼女を離さないようにと抱き直し、人気のない車両へと姿を消していった。
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