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16話
しおりを挟む「あ、あっ、あああ……!」
背後から聞こえた叫喚に、ハルだけに向けていた意識が引き戻される。暗闇に包まれていた光景は夢から醒めたようにいつの間にか元の場所へ。地面に尻をついていたリオンはどうして自分がここにいるのか分からないと言ったような表情で周囲を見渡し、ローベルトはわなわなと肩を震わせていた。
奴の胸元からは番の印が消え去り、爪で掻き毟ったような跡が残っている。髪は水分が失われたようにぼさぼさ、頬も身体も痩せこけ、まるで別人。すべての力を失って本来の姿に戻った老爺のようだ。
状況を察したのか、俺の胸元に添えられていたハルの手にきゅっと力が入る。
「貴様、黄金の娘に何をした……? 契りが勝手にとけて……! 戻そうとしてもを力が弾かれる……!」
一人で喚く老けた狼に、憤りを通り越して何の感情も湧かない。
相当取り乱しているのか、ローベルトは地面に落ちた銃には目もくれず、ゆっくりとにじり寄る。
「貴様は幾度にも及んで私の邪魔を! その娘にどれだけの価値があるのか分かっているのか!? その娘は、我が一族が優秀であるために、子孫を残して繁栄を築くために貴重な……!」
「気持ちわりぃな。お前はハルに何を求めてんだよ。こいつはただの半獣だ、お前が望むようなもんは一切ない」
「黙れ! 娘自体ではなくその血が重要なのだ! 金狼として、その眩く光る片耳の価値は何にも劣らぬ……」
止めどなく意味のない言葉を羅列し続けるローベルト。このまま息の根を止めてやろうかと思った刹那──
──パァン!
と破裂するような音が宙を裂いた。
煙の匂いに紛れて鼻の粘膜に触れたのは、濃い血の匂い。いつの間にかハルは側を離れて数歩先の場所に。地面に転がっていたはずの銃を手に持ち、筒先を右耳に充てがっていた。ぼたりぼたりと血がハルの黒い髪を伝って地面へと垂れ落ちている。
深く考えなくても、分かる。
ハルは自分で自分の耳を撃ったんだ。
「あ、あぁ……一体、何を! 貴重……貴重な……」
「私は自分の価値は自分で決めます。自分の人生も、一緒に生きる人も」
膝から崩れ落ちるローベルトの前を通り過ぎるハル。耳から血を垂らしているのに、何事もなかったかのように微笑んで、俺の服裾を握り締めた。
「わ、私は……この数年間、我が種族を守るために、崇拝されるべき存在であり続けるために、半獣だからと愚弄されないように、邪魔なものは可能な限り排他してきた。他の種族も……半獣も……すべて、すべて……」
「……獣人狩りはやっぱりお前だったのか。そんなことして何が残ったんだよ」
服の端を破り、血の流れるハルの右耳を覆う。多くの使用人を従えているであろうローベルトには、助けが来るどころか仲間の匂いすら感じられない。側にいるのは戸惑ったまま立ち尽くしたリオンだけだった。
「自分から怪我してんじゃねぇぞ、馬鹿。その耳、医者に診てもらうぞ。掴まれ」
「す、スザク……あっ」
血と土で汚れたハルを横抱きにし、足場の悪い道を一歩踏み出す。それまで棒立ちしているだけだったリオンが青褪めた表情で前方を塞いできたが、どう止めていいか分かっていないのか、それとも自分の行動が正しいのかも分からなくなったのか、その場に突っ立っているだけだった。
「お前もちっとは自分で考えて行動しろ。もう二度と家に来んな」
黙り込んだままのリオンを避け、帰路を辿る。
せっかく胸の傷が塞がったと思ったのに、自分で耳をぶっ飛ばすとは思わなかった。多量出血で死んだりしないだろうなと視線を落とすと、じっと俺を見つめていたハルと目が合った。
「……肩の傷、大丈夫?」
「他人の心配すんな。自分のことだけ考えてろ」
「スザクは、いつも自分のことは後回し。昔から、ずっとずっと」
「うるせぇ」
こうなったのは誰のせいだと思ってるんだよ。
それにこいつだって人のことを言えた義理じゃねえだろうが。
そんなことをぐちゃぐちゃ頭の中で考えていた最中、視界がぐらりと揺らめいた。
軽い貧血だろうか。このまま倒れたらハルまで巻き込んじまう。あぁ、これが自分のことを後回しにするってやつか。なんて呑気なことをうっすらと考えながら、ハルが地面に直撃しないようにと背中から体重を地面へと委ねた。
──スザク!
遠くから聞こえるハルの声。
身体を包み込まれているようで、心地よい。
このまま死ねるならそれはそれでいいかもしれない。
俺、ちゃんとハルに想いを伝えたよな?
ハルに聞こえていたのかは分かんねぇけど。もうどうでもいい。ハルが助かったなら、ハルさえ幸せになれるならどうなっても──
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