【R18】黒豹と花嫁

みちょこ

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13話

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『ムス、メ、ムスメ……』

 今にもこぼれ落ちてしまいそうな目が不気味に動く。焦点は定まっていないけれど、確実に私の姿を捉えている。狼となったローベルト様と私を丸ごと呑み込んでしまえそうな大きな口。

 気のせいだろうか、冷たい息が吐き出される喉の奥から無数の断末魔のような叫び声が聞こえたように思えた。

「くっ、面倒だ」

 ふと、首元が鋭い痛みと苦しさから解放される。私に覆い被さっていた銀の体毛の狼が、逃げるようにリオンの側へと潜り抜けていた。

 結果、私と化け物の間を遮るものは何もない。
 何も、なくなってしまった。

「兄さん! どうしてハルを置いてけぼりにする!」
「私が死ねばは死ぬが、あれが死んでも私が死ぬことはない。まだ儀式は完全に終わっていないからな。せっかく見つけた生き残りを見殺しにするのは惜しいが、次を見つけることにしよう」
「そんな……!」

 言葉を交わすリオン達を他所に、化け物は呼吸を荒げながら顔を近づける。
 すぐには食べようとしていないのかもしれない。匂いを嗅ぐ素振りを見せては鼻先で私の顎を軽く突き、腹周りを舌で擽る。それまで石のように動けなかった身体が、化け物の牙が剥き出しになったのと同時に金縛りから解放された。

「っ、はっ……!」

 足を震わせながらも勇み立ち、化け物の側を走り抜ける。化け物は先ほどと変わって気が立っている様子もない。逃げゆく私をゆっくりと視線で追い、のそりのそりと後をついてくる。

 わざと私に歩幅を合わせるかのように。

「はっ……は……っ……」

 いつ頃だっただろうか。

 遠い昔、まだ私が幼かった頃。こんなふうに誰かに追いかけられたことがあったような気がする。あの時の私は一人ぼっちになったばかりで、大きな化け物ではなく、にたくさん追い掛けられた。 

 なけなしの体力で必死に逃げたけれど、最後は追い詰められて。

「きゃんっ」

 足がつるっと滑り、地面をころころと転がり落ちていく。長い坂を半ば強制的に下っていき、木の根に思い切りぶつかった直後に大きな影にすっぽりと覆われた。

『探シタ、サガ、シタ……サガシテ……』

 怨念が込められているのではないかと、そう思い込んでしまうような重低音の利いた声が身体の芯をぞっと震わせる。全身を駆け抜ける痛みに耐えながら顔を上げると、すぐ目の前に化け物の顔があった。私の頭よりも大きい牙が二つ、カチカチと薄気味悪い音を立てている。

 恐怖が限界を通り越してしまったのか、身体がヒトの姿へと呆気なく戻ってしまった。

『イト、シ……モドッ……テ』

「い、やっ……!」

 にじり寄るように距離を詰めていく化け物。忘れかけていたあの日の記憶が再び鮮明に浮かび、銃を構えたヒト達の姿が蘇った。
 頭を大きな黒い布で隠した彼等が「最後の生き残りだ」と叫んで、銃口を向けて、そして。
 もう駄目かと思った瞬間、あのヒトが現れたんだ。


 黒い耳と尻尾の、私とは違う獣の匂いがする彼が。



 突風みたいに現れたかと思えば、「面倒くせぇな」と言ってあっという間に敵を薙ぎ倒し、一度も振り返らずに去っていってしまったあの人。

 どうしてももう一度会いたくて、わずかに残された匂いを頼りにずっとずっと探し続けて、辿り着いた裏市場で残飯を漁っているときにあの匂いがふと通り過ぎたんだ。探し続けてきた彼の匂いが。

 慌ててゴミ箱から出ようとしたらそのまま転がり落ちてしまったけれど、あのヒトは私を拾い上げてくれた。

 あの人の、あのヒトの名前は、確か。

『ア……アァ……コッチ、コッチニ……』

「いや、助け……助けて……」

 化け物の冷たい息を頬に浴びながら、くしゃくしゃになった泥塗れの花嫁衣装の裾を握り締める。

 いつも面倒そうにしながらも私の話を聞いてくれたあの人。ほんのたまに笑ってくれた心の根は優しいあの人。誰よりも大切な、あのヒトの名前は。

「……す、ざ……」

 巨大な口に吸い込まれそうになりながら、心の奥に潜んだあのヒトの名前を呟きかけたそのときだった。

『ン、ンヴァァァァァ』

 突如として鼓膜を揺さぶった鋭く突き刺すような叫び声に、瞑りかけていた瞼を開く。天を仰ぎながら慟哭にも近い声を上げている化け物と、喉元に喰らいつく黒い影。突然現れた正体をまともに捉えることができないまま二つの影は大きく傾き、そして。 

「あっ!」

 端に聳えた崖から二体諸とも落下していった。

 手を伸ばしても、届くはずもない。遠ざかっていくその影は、黒く丸い耳と尻尾の生えた獣で。私を化け物から助けてくれたのが黒豹だと気づくのに時間は掛からなかった。

「まっ、待って、待って……」

 泣きたくなるような気持ちを堪えながら、足場を辿って崖を降りていく。この高さから落ちたら助かるわけがない。そうは思っていても、立ち止まってはいられなかった。
 込み上げる涙を拭い、焦る気持ちを抑えて崖の先へと向かう。長い時間を掛けて、汗ばむ手で必死に尖った岩を掴んでは離し、息も絶え絶えになった頃に片足がやっと地に着いた。

 どうか、どうか無事でいて。

 岩肌の壁から手を離して振り返った瞬間、願いにも近い想いは一瞬にして打ち砕かれた。

「あっ……あ……っ……!」

 地面に広がる血の海。
 その中央には、息絶えた化け物が四肢を広げて倒れていた。

 まさか、あの巨体の下敷きになってしまったのだろうか。考えるより先に化け物に駆け寄り、なんとか大きな身体を持ち上げようとした──が、ビクともしない。自分の無力さに涙がぼろぼろと溢れ出し、やり場のない悲しみと苦しさで力が更に抜けていく。

「死んじゃ、だめ、だめ、死なないで、おねがい」

 下唇を噛み締めてもう一度化け物を持ち上げようとしたそのとき、手首が触れたことのある温もりに掴まれた。突然の感触に驚いたのも一瞬、すぐに身体を翻される。  

「っ……!」

 視線の先にいたのは一人の青年。
 黒く丸い耳に、同じ色の長い尻尾を携えた黒豹の獣人。
 
 あのとき、私を助けてくれたヒトと同じヒト。
 心に描いたあのヒトの姿が、目の前に。

「す、ざっ、あっ」

 涙で視界が滲む中、苦しそうに顔を歪めたそのヒトは、性急に私を抱き寄せた。身体が軋めくほどの力で背中に腕を回され、大きな手で後頭部を鷲掴みにされる。息ができないくらい苦しく感じるのに、ずっとこうしてほしいと思ってしまう。  

「ハル。お前を連れ戻しに来た」

「あっ、あ、わたし」

「嫌だと言っても帰さない。二度と離したりはしない。ずっと、側にいてくれ。お前のことを愛している」

 彼は震える声でそう言った。

 声だけじゃない。腕も、胸も、手も、足も、彼の身体のすべてが震えている。この温もりを一生手放したくない。どうしようもなく愛おしく感じてしまう。そうだ、私はこのヒトのことが。このヒトのことをずっと、ずっとずっと。

「わ、わたしも、好き……あなたのことが、スザクのことが……」

 頬を一粒の温もりが伝った。

 やっと思い出せたスザクの名前と記憶を噛み締めるように、彼の背中に腕を回す。想いを伝えるようにきつく抱き締め返す。

 忍び寄る音と獣の匂いは、幸せの余韻にかき消されていた。





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