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9話
しおりを挟むハルの口から漏れた声に、腹の奥底がぞっと冷えた。熱を持って全身を駆け巡っていた血は氷のように凍え、ハルに触れていた手は行き場をなくす。指先は感覚をなくしたかのように冷たい。
さっきまでのハルは目尻に涙を浮かべて俺を見つめていたのに、今のハルは焦点が合っていない。渇ききった瞳で宙に視線を泳がせ、何度も同じ言葉を繰り返していた。
ローベルト、ローベルトと、狂ったように。
「おい。ハル……」
「ローベルトさま、あぁ、ローベルトさ、ま!」
俺の声が聞こえていないのか、どんなに呼び掛けても反応がない。尖った爪で紋章が刻まれた肌をガリガリと引っ掻き、荒々しい呼吸を繰り返している。
このままではハルの精神が持っていかれる。ハルが可笑しくなってしまう。終いには泣き出したハルを両腕に抱き寄せ、きつくきつく擁いた。
「ロベルトさ、ろ……べる、と、さま」
「ここにいるのは俺だ、ハル」
自分でも驚くほどの情けない声が漏れた。
腕も背中も足も酷く震えている。動揺しているのが丸わかりだ。ハルを守ると決心したのに、どうして狼狽えているんだ俺は。
「ハル……大丈夫だ。ここにいる」
小刻みに痙攣しているハルの背中を撫で、何度も呼び掛け続ける。やがてハルの身震いは止まり、代わりにひっくひっくと吃逆が狭い部屋に響き渡った。
「……すざ、く」
ぽつり、と掠れた声が鼓膜に触れる。
腕の力を緩めると、はらはらと涙を流すハルの顔が目に飛び込んだ。瑠璃色の瞳は恐怖に囚われ、薄い唇は血の気が失われている。明らかに怯えきった様子のハル。冷たい頬を両手で包むと、声に出して確かめるようにハルはまた俺の名を呼んだ。
「スザク、いま、わたし、なにか、した……?」
「ハル」
「怖い。一瞬、自分が自分じゃなくなっちゃう気がした。怖い、怖い」
腕の中で震え続けているハル。
今になって、ローベルトが口にしていた言葉が現実味を帯びてきた。番の呪いは嘘ではなかった。大切な人を忘れ、呪いをかけた相手に身も心も囚われるというのは、本当だったのか。
どうすればいい。
側にいてやるだけではどうしようもできないのか。
「怖いよ、怖い、スザク……」
「……大丈夫だ。ハル、俺がいる」
馬鹿みたいに同じ言葉でしかハルを宥めることしかできない。
抱きしめてやることしかできない。
どうすることもできない。
ハルを救うことができない。
制限時間は確実に少しずつ迫っていた。
***
ハルがハルでいる時間と、呪いに蝕まれる時間。時が経つに連れて二つのバランスは徐々に崩れ始めていった。
眠っている間に突然ローベルトの名を叫んでは泣き、時には痙攣を起こして気を失うこともあった。飯を食っても吐き出すようになってしまった。高熱に魘されて身体の自由がきかなくなることも増えた。
その度に震える小さな身体を抱き締めて、大丈夫だと言い聞かせた。ハルと、そして自分自身にも。
大丈夫じゃなかった。
全然大丈夫じゃねぇよ。
心と身体を囚われるだけじゃなかったのか。どうしてハルはこんなにも苦しんでいるんだよ。昔は食べることが好きだったのに、今はパン一つ食うどころかスープを啜ることすら儘ならない。あんなに身体を動かすことが好きだったのに、走ることすらできなくなった。
俺といるとハルは痩せ細っていく。
俺といるとハルは元気を失っていく。
普通の生活ができなくなる。
生気を奪われた人形のようになっていく。
このまま俺と一緒にいたら、ハルは。
「……天気、いいね」
二年前と変わらないボロボロの擦り切れたソファー。ハルは窓の外の景色を眺めながら、力ない声で呟いた。
ハルがローベルトに番の証をつけられてから一ヶ月。たった一ヶ月しか経っていないのに、ハルは死の淵まで追い込まれたかの如く憔悴しきっていた。蒼白い唇から漏れる息は荒々しく、握った手は骨と皮だけで覆われているかのようで。生きているのがやっとなのだと痛いほど伝わった。
「……ハル。何か食べれるものは、あるか」
「食べれる、も……の……なんでも、いいよ。あなたがつくるものは、なんでも美味しい……」
目の下に隈をつくったハルは俺の手を握ったまま、力なく微笑む。食べても吐いてしまうことはハル自身も分かっているだろうに、俺に心配を掛けないようにしているのか、表面上は元気に振る舞おうとしている。
逆にそれが心苦しかった。
「なるべく胃に負担の掛からないものにしよう。今から作る」
「ありがとう。えっと、えっ……と」
気まずそうに視線を逸らすハルに、喉の奥が爪で掻き立てられる。これで、何度目か。ハルは俺の名を呼べなくなってしまった。
ハルがハルでいる時間すら侵食され始めていることに、気づかない振りができなくなっていた。
「大丈夫だ、ハル。少し休んでいろ」
今にも泣きそうな表情を浮かべるハルの頭をくしゃりと撫で、逃げるように台所へと向かう。ハルの側を離れられないこともあり、外にも出られない今、食料にろくな蓄えがない。
冬用にと取っておいた野菜と干し肉が保存庫にまだ残っているだろうか。駄目元で見に行こう。
「保存庫の鍵は植木鉢の下か……」
ソファーで横になっているハルを気にかけつつ、裏扉を半分ほど開いたそのとき、そこにいないはずのヤツの姿が目に飛び込んだ。
「あっ……」
俺の顔を見るなり気の抜けたような声を漏らす狼半獣の男。久し振りに目にしたその姿。そこに佇んでいたのは、あの日と変わらず身体を負傷しているリオンだった。
どうしてこいつがここに。罅ぜる殺意に駆られそうになったが、思うよりも先に扉の取手を引いていた。
「ま、待ってくれ! 話があるんだ!」
「っ!」
扉を閉める寸前で両手を扉に差し入れられ、思わず舌を鳴らす。そのまま足をぶち切ってでも閉めてやろうと思ったが、リオンの切羽詰まった表情が辛うじてそれを制した。
「……俺はお前達に話はない。ハルも渡さない。帰れ!」
「お、俺は、ハルを助けようと思ってきたんだ! このままハルはあんたのところにいたら死ぬ! 救えるのは兄さんだけなんだ!」
「救うも何もお前達が原因でハルが苦しんでいるんだろうが! ふざげんな!」
扉の間からリオンの腹を蹴飛ばし、勢いよく閉める。
──あんたの大事なハルが死ぬぞ!
──あんたがハルを手放せば、ハルはすぐに元気になる。今までと違って裕福な暮らしができる。一生幸せに暮らせる!
──たとえ兄さんとハルに何かが起こったとしても、俺がハルを守るから!
扉をしつこく叩きながら、リオンは外で訴え続ける。俺が目を背けていた現実と向かい合わせる引き金の言葉を。
「くそ……っ」
もう、どうすればいいか分からない。
薄い扉から聞こえる叫び声を背に、その場に蹲る。
どうしてこんなことになったんだ。
なんでハルがこんな目に合わなくちゃいけないんだ。
すべて、俺のせいか。
一人で生きていくと決めたのに、ハルと共に生きていきたいと浅はかな願いを抱いてしまったからか。
こんな辛い想いをしなくてはいけないのなら、一層のこと。
「……ハルなんかに、出会わなければよかった」
弱々しい声が空気に溶けて消えていく。
あまりにも静寂な部屋の中で、俺は人知れず静かに泣き続けた。
そして、その日の夜。
追い打ちを掛けるように、ローベルトから贈り物が届いた。
明日迎えに行くとの旨が書かれた手紙と、大きな黒い箱。中身は白いレースと小さな宝石が鏤められた花嫁衣装だった。
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