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1話

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 桜並木の公園で再会を果たしたあと、桜はヴィクトールを連れてこっそりと旅館の裏口へ向かった。

 明らかに同じ国籍ではない風貌の男を連れ帰り「数年間連れ添った私の夫です」だなんて祖父達に紹介したら、卒倒されるに決まっている。なにか良い案が浮かぶまでは、自分の部屋に隠れて貰うほかはない。

「おい、サクラ。なぜ正面から入らないんだ。ここはお前の家ではないのか?」

「そうだけど。今だけ、ちょっと待って……」

 早くしないと祖父達に見つかってしまう。その思いが桜を焦らせ、取っ手を回す指先が汗で酷く滑ってしまう。
 昔からある古い扉のせいか、立て付けも悪い。無理に開けようとする度に、ガタガタと木板の外れるような音が鳴り響く。

「おい。そんなに乱暴に扱うと壊れるぞ」

「分かってるけど、全然、開かなくて……!」

「貸せ。私がやる」

 ヴィクトールは桜の肩を抱くや否や、体当たりするように扉を無理やり押し込もうとした。

「あっ」

 相当、劣化していたのか、はたまたヴィクトールの腕の力が並外れていたのか。扉は蝶番ごと外れてしまい、咄嗟に彼を支えようとしがみついた桜を道連れにヴィクトールは扉ごと倒れてしまった。

「やっ、いた……」

「サクラ、済まない。足が縺れてしまった。怪我はないか」

 すぐさま体勢を入れ替えて桜の下敷きとなったヴィクトールは、腕の中で身を捩らせる妻の顔を覗き込む。桜もまたヴィクトールの顔を見上げ、二人ははたりと目が合った。

 桜の小さな鼻先が、筋の通ったヴィクトールの鼻に優しく潰され、二人の吐息が混じり合う。

 瞬きを何度か繰り返し、不意に恥ずかしさが込み上げて、桜は思わず俯きそうになった──が、ヴィクトールがあまりにも穏やかな眼差しを向けるものだから、目を逸らすことが叶わなかった。

「……サクラ。また綺麗になったな」

「やっ、どうしたの、今になって……」

「ずっと思っていたが、あのときは中々言うことができなかった。黒い髪に白い肌がよく似合う。お前ほど美しい女性を私は他に見たことがない」

 黒く艶やかな髪を愛おしむように撫でられ、桜の頬が薄い薔薇色に染まる。向こうの世界でも二人だけの時間を過ごす度に何度も愛を囁かれてきたが、いざこうして自分が住んできた世界でも同じように甘い言葉を口にされると羞恥心を感じてしまう。

「サクラ……綺麗だ」

「あっ、だめ」

 恥じらいを見せる桜を知ってか知らずか、ヴィクトールは真っ赤に染まった耳に何度も口づける。桜は慌てて身体を起こそうとしたものの、片腕で腰をぐっと抱き寄せられてしまった。

「もう、ヴィクトール、こんなこと、してる場合……んむっ」

 辛うじて抵抗の意思を示そうとした桜の唇はヴィクトールの唇に奪われ、淡い吐息となって消えていく。後頭部ももう片方の手で鷲掴みにされてしまい、蕩けるような口づけは余儀なく続けられた。

「んっ、ふっ、んうっ」

 わずかな息苦しさと唇から伝う温もりに、桜の腰がうねるように動く。一方のヴィクトールは余裕を見せつけるかのようにわざとらしくリップ音を立て、桜の背中を厭らしく撫で回し始めた。

「ダメっ、もう、ヴィク……!」

「サクラ……ずっとこうしたかった……」 

 こんな場所でこんなことをしている場合ではないのに、恥ずかしさの奥に潜んだ悦びに近い感情が、桜の抵抗を鈍くさせていく。
 誰よりも愛おしい人の記憶が消えかけそうになって、もう二度と会えないのではないかと心が悲鳴をあげていたのに、今はこうして触れ合えているのだ。胸の奥がじわりと滾り、涙さえこぼれ落ちそうになる。

「ヴィ、ヴィク……わたし、ひっく」

 桜の唇からこぼれる小さな吃逆。

 緩む涙腺に耐えきれず泣き出してしまった桜を前に、ヴィクトールは大きく目を見張った。小さな身体を震わせながらぼろぼろと涙を流す妻の姿。先ほどの行為を桜が嫌がったのだと勘違いしたのか、ヴィクトールは慌てて彼女の背中をさすった。

「すまない、サクラ。嫌な思いをさせた。頼む、泣かないでくれ」

「うう、ん、ちがう。ちがうの、そうじゃない……」

 桜は必死に首を横に振りながら、ヴィクトールの胸元にぎゅっとしがみつく。
 異世界で悲しみに暮れていたときも、ヴィクトールはいつもこうして優しく慰めてくれた。髪を優しく撫でたり、一晩中抱き締めてくれたり、時には今のように甘い口づけを落としたり。懐かしい想い出と愛する人の体温の心地よさにより一層涙が込み上げてしまい、桜はとうとう声に出して泣き始めた。

「サクラ。いい子だ。いい子だから、泣くのはやめてくれ」

 桜の透き通った瞳から溢れる涙が頬を伝い、熱い体温を放つヴィクトールの胸を濡らしていく。ヴィクトールが止めどなく溢れる桜の涙を唇で掬おうとしたそのとき、二人の身体を大きな影がすっぽりと覆った。

「……おい。一体、なにをしている」

 その場の空気を一瞬にして凍らせてしまうような低く冷たい声。身体に重く圧し掛かるような気迫に、二人の身体がぶるりと震える。

 おそるおそる声が聞こえた裏口へ視線を向けると──そこには、仁王立ちをしながら桜達を睨み下ろす祖父の姿があった。








❀ ❀ ❀ ❀  ❀  ❀  ❀ ❀ ❀❀❀❀









 桜の祖父は何事に対しても厳格な人間だった。

 自らの仕事はもちろん、孫である桜が真っ当に育つようにと常に厳しく接した。勉学に関しては一切の妥協を許さず、家庭教師の役割を担った祖父のお陰もあり、学生時代は常に成績上位を維持していた。
 そして、なによりも厳しかったのは門限。おそらく父の件が大きく影響していたとは思うのだが、一分足りとも遅く帰ることは許されなかった。そのせいで交友関係も自然と制限されてしまった桜が──まさか男性との付き合いなんてないだろうと思われていた桜が、見知らぬ異国の男と床で泣きながら抱き合っているのを、祖父は見てしまった。

 亡き娘に瓜二つの可愛い孫が、他の男と口づけしているのを目撃してしまったのだ。

 突然泡を噴き出して、失神されるのも無理はない──と、桜は布団で寝かされている祖父をじっと見つめながら表情を曇らせた。

 今は使われていない客間に、気絶した祖父と偶々通りかかった祖母と、桜とヴィクトールの四人。異様なほどに重苦しい空気に耐えきれず、桜が口を開こうとしたそのとき、祖父のそばに座っていた祖母が大きな溜め息を吐き出した。

「……まぁ、桜も大学生なんだからボーイフレンドの一人くらいいてもおかしくないとは思ったけど。さすがにダメね?」

「っ!」

 祖母の言葉に否定も肯定もできず、桜の顔が林檎のように火照る。

 意図的にそんな行為をしようと思ったわけではないが、祖父に見つかっていなければヴィクトールにあのまま流されていなかったとも言い切れない。むしろ場所が場所でなければ、自分から積極的に受け入れていた可能性も否めない。
 ふと、脳裏に想像上で織り成す淫らな行為が浮かんでしまい、桜は頬を両手で覆いながら「ごめんなさい」とか細い声で懺悔した。一方のヴィクトールは、桜を真似てした慣れない正座に足が痺れてしまったのか、眉間に皺が寄り始めていた。

「桜にボーイフレンドがいたことはまた別として、それよりもお話しなきゃいけないことがあるわよね? 桜」

「え?」

「私を待たずに勝手に公園から消えてしまったでしょう。桜に何かあったんじゃないかって心配したのよ」

 いつもは穏やかな祖母の口調がわずかばかり尖る。
 泣いていた自分のために祖母がわざわざハンカチを取りに行ってくれた記憶が甦り、桜の中の羞恥による熱が引いていった。

 (私、自分のことしか考えていなかった。お祖母ちゃん達が心配してくれていたことも頭からすっぽ抜けて、ヴィクトールが戻ってきてからは、彼と自分のことばかり)

 押し寄せる後悔の念に、桜が謝ろうとしたそのとき。ヴィクトールが凝り固まっていた足を崩し、なぜか目の前にいた祖母の片手をぎゅっと握り締めた。

「サクラは私も悪くない。悪いのはこの私だ。責めるならどうか私を責めてくれ」

「え?」

 いぶかしげな表情を浮かべる祖母。そんな彼女に構わず、ヴィクトールは更に祖母に詰め寄る。

「愛するサクラを育ててくれた貴女なら分かるはず。サクラが貴女を苦しめたくてそうしたのではないと」

「まぁ」 

 ヴィクトールは躊躇うことなくその場に跪き、祖母の指先にそっと口づける。途端に厳粛としていたはずの祖母の顔は、花が咲いたように華やかな色を放った。

「どうか聖女を守りし麗しき女神よ。私に免じてサクラを許してほしい」

「あらあらっ、女神なんて! まぁ!」

 明らかに半音声が高くなっている祖母に、桜の口は開いたまま塞がらない。普段は旅館の厳つい従業員達に囲まれていたこともあって舞い上がってしまったのか、祖母は客にすら見せたことのない満開の笑顔を浮かべた。

「外国から来た桜の大学の先輩が旅館に新しい働き手として来てくれるっていうことは聞いていたけど、まさかこんなにハンサムだったなんて! 桜とお付き合いしていたことも含めて二重の驚きだわぁ」

「え?」

「新人さんが来たこと、皆に早速話してこなくちゃ。あっ、桜。さっきのお話は終わってないからね。またあとで改めてお話ししましょう」

 祖母は戸惑う桜達を置いてきぼりに、軽い足取りで客間の外へと向かう。
 外国から来たやら大学の先輩やら何やらで状況を呑み込めないでいる中、ヴィクトールはどこか疲弊を漂わせた表情で後ろを振り返った。

「……サク、ラ」

 ヴィクトールは桜へと手を伸ばし、弱々しい力で腕の中へと抱き寄せる。疲れを隠しきれない夫の背中をさすってやれば、ヴィクトールは桜の肩に甘えるようにして額をこすりつけた。

「どうしたの? 疲れたの?」

「……少しだけ、な」

 一言だけそう呟くヴィクトールに、桜は円らな瞳を何度も瞼で覆い隠す。
 アルテリアの城にいたときは、どんなに公務が忙しくても桜を案じさせるような素振りは一度も見せたことがなかったのに。ヴィクトールもまた、慣れない世界に足を踏み入れたことで精神的にも体力的にも限界を迎えたのかもしれない。

 先ほど祖母が話していた件も含めてヴィクトールに聞きたいことはたくさんあるが、まずは彼を休ませることが先だ。

「私の部屋で少し休む? ヴィクトールの分のお布団、敷いてあげるね」

「……フトン?」

「うん、寝れる場所」

 ぽんぽんっ、と子供にするように、桜はもう一度ヴィクトールの背中を優しく叩く。ふんわりと花の香りを纏った桜の体温に包まれて、ヴィクトールはうとうとと瞼を閉じかけたが、途中、なにかを思い出したようにはっと目を見開いた。
 ゆっくりと顔を上げるヴィクトールにつられるように桜も身体を離し、穢れのない水晶のような瞳と視線を交わらせる。

 ヴィクトールは周囲を一度警戒するように見渡すと、形の整った唇をゆっくりと開いた。


「──サクラ。お前宛てに言伝と贈り物を預かっている。一度、二人きりになれないか?」


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