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最終章
39話
しおりを挟む絢爛とした光を宿した矢は、一直線に伸びていく。
激昂していたグレンは矢の存在には気づかない。矛先を見失った憎悪と怒りの感情の赴くがままに、二つの命を奪おうとしていた。
(お願い、間に合って!)
サクラは心の中で叫ぶように祈る。
これ以上、グレンに人の命を奪わせてはいけない。どうか、悲しき化け物と成り果てたあの男を、自分の手で止めなければ。
『グ、あッ』
サクラの願いが通じたのか、一本の細い矢はグレンの分厚い体躯を勢いよく貫通した。
心の臓が奥底に眠る胸を貫かれたグレンは、身体を大きく揺らめかせ、天を仰ぐ。唸り声を上げながら、燃え盛る空をただただ見据える。
緊迫した空気のなか、サクラは知らないうちに震えていた手をぐっと握り締めた。これで、グレンを倒したことになるのだろうか。彼を蝕んでいた闇を、祓うことができたのだろうか──
『あア、あアアアああアアアアア!』
海鳴りのような叫声が、サクラ達の身体をゾッと震わせた。
グレンの叫換に共鳴するように、轟音を立てて大地が震える。
身体のバランスを崩したサクラは、咄嗟にヴィクトールの腕の中に守るようにして抱き寄せられた。不穏な空気を警告するように、背中は冷たい汗が滲み出し、激しく心臓が鼓動を打つ。
「ヴィクトール……あれ、は」
水分が失われた喉元に唾液を流した瞬間、地面から噴き出した黒い靄が柱となり、天まで突き上げるようにして昇っていった。グレンの身体はあっという間に覆われ、すぐそばにいたクリスチアーヌとセドリックも、ずるずると靄に呑み込まれていく。
(二人を、助けなくちゃ……!)
あの靄を祓えるのは、聖女である自分しかいないだろう。自分でなければ、二人を救うことができない。
サクラは縺れる足を奮い起たせ、凄まじい勢いで空を暗闇に染める靄へと赴く。腕の中から脱け出して死地同然の場へ向かおうとする妻を、ヴィクトールは必死に止めた。
「やめろ、サクラ! なにをする気だ!」
「私じゃないと、あの二人を助けられない……!」
「ダメだ、行くな!」
サクラの身体は再びヴィクトールの腕の中に引き戻され、胸に頬が当たる。薄い筋肉に覆われた愛する夫の肌から温もりと心音が伝わり、サクラの目頭がじんわりと熱くなった。
元の世界に戻って、家族の愛を知ってからも、サクラはなによりもこの温かさが大好きだった。心から愛していた。それはヴィクトールと出会って長い年月が経った今でも変わらない。
「……サクラ、頼む。お前になにかあったら、私はもう」
息苦しさすら感じるほどに、両腕できつく抱き締められ、サクラの円らな瞳から一粒の涙がこぼれ落ちる。
叶うならば、生きたい。
ヴィクトールとずっと一緒に生きたい。
これから先の未来を、彼と手と手を取り合って過ごしたい。なんでもない日々を笑い合って、他愛もない会話をして、いつの日か二人だけの子供を授かって、家族として幸せになりたかった。
「ヴィクトール……」
サクラはそっと顔を上げ、涙に濡れた夫の頬を両手で包み込む。ヴィクトールはサクラの瞳を翡翠の瞳に捉え、苦しげに顔を歪めた。
言葉はなくとも、サクラの瞳の奥に宿る揺るぎない決意に気づいてしまったのだろうか。
「……ヴィクトール。私を見つけてくれて、ありがとう。生きる希望をくれてありがとう。私、あなたに会えて良かった」
「サク、ラ」
「愛しているわ、これから先もずっと、あなただけを愛している」
なにかを訴えようとした唇を塞ぎ、最後の温もりを忘れないようにと深く口づける。
自ら死を選ぼうとしたサクラが、生きる理由となった人。
死ぬまで一緒にいたいと、心の底から想っていた大切な人。
どこへ行ってしまったとしても、永遠に離れ離れになってしまったとしても、記憶から消え去ってしまったとしても、誰よりも愛している。
サクラは惜しむように唇を離し、ヴィクトールから距離をとる。そのまま止めどなく溢れる涙を振り切り、灼熱の地面を踏み込んだ。
「──サクラっ!」
遠ざかる妻を止めようとしたヴィクトールの手は、聖なる光の壁によって跳ね返される。どんなに名前を呼んでも、手を伸ばそうとしても、サクラは振り返らない。
「サクラ、戻ってきてくれ、頼む、お願いだ! 愛している、お前だけを、お前しかっ、私はお前しか愛せないんだ! 行くな、一人で行かないでくれ!」
ヴィクトールの切実な叫びは、届かなかった。
弓矢を背に負ったサクラの小さな身体は、グレンが産み出した禍々しい靄に蝕まれていき──
かすかに放たれた光と共に、消えていった。
✿ ❀ ✿ ❀ ❀ ❀ ❀ ❀ ❀❀❀❀
靄の中に飛び込んだ瞬間、サクラの視界が酷く歪んだ。目の前は真っ暗、八方から聞こえる誰のものかも分からない悲痛な叫び声に蕩揺される。
脳内を陰鬱な淀みが犯し、込み上げる吐き気のせいでセドリック達を探すことすらままならない。このままでは自分が先に倒れてしまいそうだ。
「……ふたり、は、どこ」
サクラは胸元を押さえながら、必死に周囲を見渡す。歪に曲がっていた視界は次第に明るくなっていき、サクラの瞳に思いがけない光景が写し出された。
(……これ、は)
老朽化した小屋の中のような場所、と言ったらいいのだろうか。焔がゆらりと燃え上がる暖炉の前で、黒い髪の年若い女が揺り椅子に身体を預けている。彼女は腕の中の我が子に穏やかな眼差しを向け、ほんのりと赤みを帯びた頬にそっと口づけをした。
「……グレン。私の可愛い子」
太陽のように眩く光る髪を撫でながら、女性は優しい音色で子供の名をそう呼んだ。
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