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最終章

38話

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 敵が斬りかかってきたと言うのに、痛みどころか触れられたような感触も得られない。
 ヴィクトールの腕の中で目を瞑っていたサクラは、おそるおそる黒水晶の瞳を覗かせ──刹那、はっと息を呑み込んだ。

 サクラ達に襲い掛かろうとしていたはずの敵兵の矛先は、なぜか首謀者グレンに向けられている。八方から首元に凶器を充てがわれたグレンは、瞳を細めたまま殺意に満ちた眼差しで周囲を見渡した。

「……おい、どういうことだ」

 明らかに苛立ちが増したグレンの声に、ふと兵士の群れから声を押し殺したような笑い声が上がる。
 兵士達が集う東の塔の方向に、黄金の刺繍を施した外衣で身を覆い隠した一際長身の男が一人、肩を小刻みに震わせていた。

「……ふっ、グレン・デイビーズよ。兵が差し替わっていることに気が付かないとは。観察力は相当欠落しているらしいな」

 威厳を含ませた声に、サクラは目を大きく見開く。
 聞き覚えのあるこの声、犇犇ひしひしと伝わる国の頂点に立つ者としての貫禄、場の空気を圧倒する強大な魔力。
 サクラがその名を呼ぼうとする前に、ヴィクトールが小さな声で呟いた。

「……ダヴィード国王陛下」

 男の頭部を覆っていた布がはらりと捲れた。どこからともなく吹き付けた風が陽の光を纏った髪を靡かせ、エルオーガの血族を象徴する深い藍色の瞳を揺らめかせている。
 そこに佇んでいたのは、紛れもなく大国の覇権を握る者──エルオーガの国王だった。
 
「聖女に手を出すとは、勇者の風上にも置けないな。我が兵をなぶってくれた件も含め、覚悟するがいい」

 いぶし銀に光輝く剣が抜かれ、動く気配のないグレンへときっさきが向けられる。グレンはふらりと視線をダヴィードから背け、何もない地面を見据えた。
 しんと静まる広間に、永遠にも感じられるほど長い時が流れる。絶体絶命の状況に陥ったように見受けられるかつての仲間を、サクラはただ見つめることしかできなかった。

 今、グレンはなにを考えているのだろう。
 追い詰められて悲嘆しているのか、それとも──

「覚悟はできているようだな……勇者グレンを捕らえろ!」

 一向に動こうとしないグレンを見兼ねたのか、ダヴィードはきつく結ばれた唇から吠えるような声を放つ。一斉に兵士達が剣を振り上げ、項垂れたままのグレンに斬り込もうとしたそのとき──黒い靄がぶわりと彼の胸から溢れ出したのが見えてしまった。


 
「──ダメっ! 離れて!」



 サクラが叫んだときには遅かった。

 閃光弾が放たれたように真っ白になる視界。
 耳になだれ込む凄まじい爆発音。

 身体がふわりと宙に浮かび上がったと思うや否や、すぐに駆け抜ける鈍器で打ち付けられたような衝撃。視界は暗闇に閉ざされ、サクラは一瞬、気を失ってしまった。


「……サクラ! しっかりしろ!」


 朦朧とする意識のなか、何度も聞こえた声がサクラを現実へと引き戻す。じわりじわりと滲み出す節々の痛みに、下唇を噛み締めながら瞼を持ち上げると、額から血を流すヴィクトールの姿が目に飛び込んだ。

「ヴィクトール……?」

「気付いたか。よかった……と言いたいとこ、ろだが」

 顔を顰めながら、周囲に視線を一周させるヴィクトール。サクラはぼんやりと霞んでしまった目を凝らし、眼前の光景に思わず言葉を失ってしまった。


 先ほどまで紺青に澄んでいた空は、炎の海のように赤く染まり果てている。地面は無惨な姿と化した兵士達の肉体で埋め尽くされ、焼け焦げた匂いに混じって生臭い血の匂いが鼻孔を突いた。

 サクラはヴィクトールに肩を抱かれたまま、地獄絵図のような惨状をただ呆然と見つめる。

 これを、絶望と言うのだろうか。

『はは、ハハハ、ハハハはハ!!』

 積み重なった亡骸の中央に聳えるは、不気味に嗤う悪魔。全身が黒い靄に蝕まれ、人を容易に呑み込んでしまいそうなほどに大きな翼をゆらりと広げている。
 闇に染まった瞳に奪い去った命を映し、また声に出して笑って。人の形からかけ離れてしまったかつての勇者を前に、サクラは身体を震わせた。

 あれが、靄に完全に蝕まれた人間の成れの果てなのだろうか。

「……っ!」

 グレンのアメジストの瞳がサクラを捉えた。ゆらりと物の気のように身体を揺らめかせながら、徐々に距離を詰めてくる。
 力を奪われた足でなんとか立ち上がり、地面に落ちていた弓矢を手に取ろうとしたそのとき。遠くからなにかを必死に叫ぶ声がサクラの耳に流れた。


「──グレン!」


  居館のある方角から淡い紅色のローブを纏って走ってきたのは、血相を変えたクリスチアーヌだった。今にも泣きそうな表情を浮かべながら、悪魔と化したグレンに必死に抱きつく。

「その姿っ、グレン、グレンよね……! わたしよ、クリスチアーヌよ……!」

 クリスチアーヌは透き通った瞳から、はらはらと大粒の涙を流す。翼をそよがせたままじっとしているグレンの大きな背中に腕を回し、彼女は潤んだ瞳で哀しく微笑みかけた。

「わたし、愛しているわ。たとえどんな姿になってもあなたを……」

 漆黒に染まったグレンの頬を包み込み、クリスチアーヌは睫毛を伏せる。そのまま口づけたかったのだろうか、顔をぐっと近付けようとした。

『さワルなっ!』

「きゃっ!」

 華奢なクリスチアーヌの身体はいとも簡単に吹き飛び、地面へと転がり落ちる。グレンは気を荒立てたように翼を振り上げ、苦しげに腹を抱えながら踞るクリスチアーヌに牙を剥こうとした。

「やめ……」
「母上に触るな!」

 サクラの声に被さるようにして、甲高い叫びが焼け野原となった広場に響き渡る。
 いつの間に駆けつけたのか。倒れていたクリスチアーヌを庇うようにして勇み立つセドリックが、サクラの視線の先にいた。自分の身体よりも遥かに大きなグレンを、恐れをなすことなく睨み上げている。

『なン、ダ、ソノ目ハ』

 グレンは血走った瞳でを見下ろす。腸を刃物で抉られたような呻き声を上げ、表情を酷く歪め、血管の浮き出た腕を震わせて。
 理性を失った獣のように虚空に向かって咆吼し、鋭い爪を親子に向かって振り翳した。


「グレン! やめなさい!」


 サクラはすぐさま弓を構え、矢尻をグレンへと向ける。

 もう、躊躇う暇はない。迷っていられるような時間はない。自分が戦わなければ、誰かが犠牲になる。これ以上、罪なき人々の命を奪わせてはいけない。

 (──わたしは、大切な人を守る!)

 疾風の如く放たれた光の矢は、鋭い音を立てて空気を裂いていく。熱風を纏い、多くの犠牲を背負った最後の希望は──

 グレンの心臓に向けてまっすぐに飛んだ。


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