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プロローグ
どうやら今日が私の命日のようです
しおりを挟む「ひっ!」
シエナは思わず悲鳴を上げた。
顔のすぐ側に添えられた──いや、突き付けられた大きな手の先の外壁が、ピシッと音を立てて見事に崩れ落ちていく。顔に当たっていたら、きっと頭蓋骨諸とも砕け散っていたに違いない。
(ああ、ごめんなさい! どこの誰かも分からない家の御方!)
身を蝕む恐怖にシエナは手足を震わせ、大破した壁の家主に心の中で何度も謝罪した。
しかし、今心配すべきは他人のことではなく、間違いなく自分のことだろう。一刻も早く、この場から、目の前に迫る男から逃げなくてはいけない。そう、いけないのだが。
「あ、あああ、の、どなたか存じ上げませんが、きっと人違いですので、これで失礼します」
シエナは引き攣った笑みを浮かべ、縺れかける足でその場から逃げようとしたが、そんな簡単に事が運ぶわけがない。
あっと言う間に男の両腕に絡め取られ、シエナは二度目の悲鳴を上げた。
「人違いを働くなど愚かな真似は致しません。貴女と一緒にしないで頂きたい」
「あ、やっ、ちょ、離してください、変態!」
妙な手つきで腰元を弄られ、シエナは反射的に男の頬を平手打ちしようとした──が、さっと避けられた。その拍子にはらりと捲れた男のフード。それまで誰だか一切分かっていなかったが、シエナは目と鼻のすぐ先にある男の素顔に息を呑んだ。
夜の闇に染まった濡羽色の髪と、紫水晶のような瞳。あの時から数年経っているからか、幼さが残っていた記憶の中の姿から、凛々しさを帯びた顔立ちへと変わっている。
ただ、この無表情っぷり。無愛想な面構え。忘れたくても忘れるはずがない。
「ど、ど、どうして、ここに、んっ!」
荒らげそうになった声を阻むように、男の手がシエナの口を覆う。
シエナがどうにか逃げられないかと模索しようとしても、すべてこの鋭い双眸に見透かされている気がする。
手先が悴むほどの寒さなのに、背中はびっしょりと汗が滲み出す。喉元が搾り取られたように苦しい。心臓が、いや、胃の底がきりきりと痛む。
なぜ、どうして。
数年前に見捨てたはずの護衛騎士がここにいるのだろうか。
「貴女に逃げ場所はありませんよ。お嬢様」
あまりの恐怖に立ち尽くす気力すら失うシエナ。
そして、今。彼が口元を歪めて嗤う様が、皮肉にも初めて目にするこの男の笑顔だった。
──ああ、天国のお母様。そして愛するお父様。どうやら今日が私の命日のようです。
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