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第七章 告白のとき

1-35 少しずつ、近くへ

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「……ねえ、ミア。覚えている? 婚約の席で、『ミア』と『ウィリアム』として、初めて顔を合わせた時のこと」

 ウィリアム様は、懐かしそうな目をして、ふっと笑い、優しく問いかけた。
 私は、何も言わず、ただ頷く。

 ――あの日のことは、ありありと思い出せる。
 ルゥ君と全く同じ瞳の色に驚いて、思わずウィリアム様のことを「ルゥ君」と呼んでしまったことも。
 そして、熱に浮かされたように、婚約の書類にサインをしたことも。
 今浮かべている優しい表情からはかけ離れた、冷たい態度も。

「――あの時、君は私を見て、『ルゥ』と口走ったよね」

「……やはり、気付いておられたのですね」

「うん。あの時、俺がどれだけ葛藤したか。君に伝えたい、けれどまだ時期尚早だ……『ルゥ』ではなく『ウィリアム』である俺を見てほしい、全てはそれから……ぐるぐると頭の中で考えていたら、どう接したら良いのかわからなくなって――」

 ウィリアム様は、ぎゅっと、眉を寄せる。
 その表情は苦しそうで、申し訳なさそうで。
 後悔し、反省し、まるで懺悔をしているようだった。

「それで、結果的に、冷たい態度になってしまった。心底、後悔しているよ。もし、最初からちゃんと、……あ、いや、私が……」

「ふふっ」

 私は、思わず笑ってしまった。
 完璧に見えるウィリアム様でも、うまくできないことがあるのだ。

 笑いごとではないかもしれないが、少なくとも私の前では飾らずにいてほしいと、そう思う。
 自分から何かを話すのが苦手なんだったら、私から問いかければいい。
 婚約当初は、私から話しかけて氷の目で見られるのが嫌だったから、自分から何かを問いかけることを控える癖がついてしまったが――これからは、そういう遠慮を持たない関係を作っていけばいいのだ。

「ウィリアム様、ご無理なさらなくて良いのですよ」

 そう、お互いに。
 礼節は大切だが、過剰な遠慮など持たなくていい。

「――私、ウィリアム様の飾らないお姿が好きですわ。ご自分のことを『俺』とおっしゃっても、丁寧なお言葉を使わなくても、構いません。私の前では、無理に背伸びなさらないでほしいのです。その方が、親しい感じがして素敵ではありませんか?」

「ミア……」

 私が想いを込めて微笑みかけると、ウィリアム様は嬉しそうに頬を染めた。

「わかった、そうさせてもらうよ。――じゃあ、俺からも、一つお願いをしていい?」

「ええ、何でしょうか」

「俺のこと……ウィルって呼んで」

「えっ」

 私がビスケ様に嫉妬した原因でもある、ウィリアム様の愛称。
 その名を呼ぶことを許してもらえるのは、素直に嬉しい。

「……でも、よろしいのですか……?」

「もちろんだよ。――俺も、その方が親しい感じがして、嬉しいな」

「……わ、わかりました」

 ウィリアム様は、期待に満ちた目でこちらを見つめている。
 先程はビスケ様が羨ましく思えたが、実際呼ぶとなると、すごく気恥ずかしい。

「――ウ、ウィル様」

 私は、意を決して、小さく彼の名を呼んだ。

「――っ、ミア……もう一回」

「ウィル様」

 ぱあっと、ウィリアム様――いや、ウィル様の顔が華やぐ。
 瞳が潤み、頬も赤くなっていたけれど、私がその表情を見ることができたのは一瞬だった。
 彼が隣から手を伸ばし、私をふわりとその腕の中に包み込んだからだ。

「嬉しい……後にも先にも、ミアにこんな風に呼んでもらえたのは初めて……」

「後にも先にもって……大袈裟ですわ」

 彼はちょっと喜びすぎだけれど、私の顔もきっと真っ赤だ。
 私は、自分の熱を隠すように、ウィル様の厚い胸板に額をすり寄せた。
 爽やかで甘いシトラスの香りが強くなって、なんだかくらくらする。

今回・・の俺、幸せすぎる……守るぞ、絶対に。この先、三年経っても、五年経っても、何十年経っても、俺は絶対にミアと一緒に生きていく」

 ウィル様は、なにやら決意を新たにしたようだ。
 私は、彼の胸にそっと手を当てて身体を離し、その顔を見上げた。
 美しく整った面輪は、とろけるような微笑みをたたえて、私だけを見ている。

 彼の言う『今回』が何を意味するのかはよくわからない。
 けれど、強い意思のこもった目で見つめられると、私まで胸が熱くなってくる。

「あの、ウィル様……」

「――っ、やっぱり嬉しすぎる」

 ウィル様は、恥ずかしそうに片手で顔を隠す。
 けれど、その薔薇色の頬は隠しきれていない。
 なんだかその仕草が可愛くて、私はくすりと笑いをこぼす。

「……ねえ、ミア」

 ウィル様は、手をどけて私を見つめ直すと、私のおとがいに指をかける。

「――いい?」

 彼は、ねだるように甘い声で問いかけると、私の唇を長い親指で一度、つう、となぞった。
 目を細めて近づいてくる美しいかんばせに、私は――

「――だっ、駄目です!」

 指をバッテンにして彼の口元に当て、それを阻止した。
 ウィル様は、眉をハの字にして、しょんぼりする。

「ええ……駄目なの?」

「きょ、今日は駄目です! 目が腫れてるし、お化粧もきっと落ちてるし、可愛くないし、そのっ……せっかくなので、ちゃんとしてる時がいいですっ」

「……そっか。今日のミアも充分可愛いけれど、君がそう言うなら諦めるよ。今日は・・・、ね」

 ウィル様は、諦めてくれたようだ。
 そう言って、艶っぽい笑みを向け、顎から指を離した。

「ごめんなさい」

「いいんだ。これからゆっくり、絆を深めていこう」

「はい……ありがとうございます、ウィル様」

 彼は、優しく微笑んで、頷く。

「ところで、贅沢を言うと、『様』も敬語もいらないのだけれど」

「そっ、それはさすがに無理です」

「ふ、そうか。残念。なら、それもおいおい、ね。――ありがとう、ミア」

「いいえ……こちらこそ、ありがとうございます」

 気恥ずかしくて、私はそっと視線をテーブルに落とし、冷めた紅茶を口にする。
 すっかり冷たくなってはいたけれど、ミルクの甘さで、茶葉の苦みが奥に追いやられていた。
 
 口の中に広がる甘さが、部屋中に広がる甘さが、残っていた苦みを全てを押し流していく。
 先程までの暗い空気も、嫌な感情も、まるで全部が嘘だったみたいに――。


✽.。.:*・゚ ✽.。.:*・゚ ✽.。.:*・゚ ✽.。.:*・゚ ✽.。.:*・゚

 次回からウィリアム視点です。
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