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第7話 聖カナール祭
しおりを挟む「あの、すみません」
「あっ、はい。どうかされましたか?」
退屈そうに宿の受付カウンターで頬杖をついていた女性は、セレーナが声をかけると、姿勢を正して営業用の笑顔を貼り付けた。
「お外がすごく賑やかですけれど、なにか催し物でもあるのですか?」
「ええ、今日は聖カナール祭というお祭りの日なんですよ。伝統的なお祭りで、それが目当てで旅をしてくる方もいるくらいです」
「まあ、聞いたことがあるわ! 今日があの有名なお祭りなのね。とっても楽しそう」
聖カナール祭は、川の上にたくさんのランタンを流して死者の霊を弔い、水の安全を祈る祭りである。
セレーナは以前、伯爵家の母屋からジーンが持ってきてくれた書物で、この祭りについて読んだことがあった。
「あら、てっきり、お客さんもお祭りを見に来た観光客の方かと思ってたんですけど、違ったんですね」
「え、ああ、そうなのです。私はシ……、夫についてきただけですので、お祭りが今日だということも知らなくて」
「まあ、そうなんですか」
不本意ではあるが、セレーナはシリルを夫と称した。
照れて一瞬顔を赤くしたセレーナを見て、店番の女性は営業用ではなく、本心から微笑みをこぼした。
「だったら、折角ですから楽しんできた方がいいですよ。愛しの旦那さんと一緒にぜひ!」
「いいい愛しのだなんてそんな!」
「あはは、お客さん可愛い。旦那さんが羨ましいですね」
セレーナは真っ赤になって、顔の前でぶんぶん手を振った。店番の女性は、セレーナに好感を持ったらしく、ずっとニコニコ微笑んでいる。
「あ、そういえば旦那さんは?」
「えっと、少し外に出ておりますの。用事があるみたいで、宿で待っていろと」
「そうなんですか……、寂しいですね」
「ええ……ちょっとだけ」
セレーナは、一転して眉を下げた。寂しそうに、困ったように微笑む彼女を見て、店番の女性は「なんだこの可愛い生物は」と呟く。
「……? 今なんて?」
「な、なんでもありませんよ! そうだ、良かったら、ここのカフェスペースで旦那さんをお待ちになったらどうですか? お部屋にいても退屈でしょう。川に面したテラスになってるから、お祭りの熱気が伝わってきますよ」
「まあ、素敵ね! ありがとう、そうさせてもらおうかしら」
「ええ、ぜひ! 旦那さん、早く帰ってくるといいですね」
「そうね。お気遣いありがとう」
そうしてカフェスペースでシリルを待つセレーナだったが、シリルはなかなか戻ってこなかった。
けれど、店番の女性が時々セレーナの様子を見に来て話し相手になってくれたおかげで、彼女は退屈せずに済んだのだった。
*
「あれ? まだ旦那さん戻ってないんですか?」
カフェスペースの閉店時間となっても、シリルは宿に戻ってこなかった。
「ええ、そうなの」
「ごめんなさい、ここ、これからお泊まりの方に夜ご飯を出す場所になるんです。セラさんは、旦那さんが戻ってきてから食べますよね?」
「そうね」
店番の女性、エマと仲良くなったセレーナは、幼い頃の愛称、セラを名乗った。まだ国境を越えていない以上、シリルと同様に、捜索されているはずのセレーナの本名を名乗るわけにはいかないのだ。
「ごめんなさい、エマさん。一度部屋に戻るわね」
「まったくもう、こんな可愛らしい奥さんを放っておいて、何してるんでしょう! あ、そうだ、セラさん。一個提案があるんですけど――」
エマの提案は、暇を持て余していたセレーナにとっては、非常に魅力的なものだった。
たとえそれでシリルに怒られようとも、構わない。なんなら少しぐらい心配してヤキモキしてくれても……とセレーナは考え、エマの提案に乗ることにしたのだった。
*
「わぁ、素敵……! 想像以上だわ!」
「でしょでしょ? この街の唯一の自慢なんですよ、聖カナール祭は」
カフェスペースの閉店と共に上がりだというエマは、宿に書き置きを残して、一緒に聖カナール祭を見に行かないかと提案してくれた。
怒られるかもしれないと思ったが、よくよく考えれば、シリルは「『一人で』出かけるな」と言ったのだ。一人ではないのだから、文句を言われる筋合いはない。
川沿いにはたくさんの人が集まっていて、オレンジ色にぼんやりと光るランタンをそっと川面に浮かべていく。夜空を流れる星の川も霞むぐらい、無数の光が、カナールの川の上をふわふわと漂い、次々と通り過ぎる。
水面に反射するオレンジは、その上に浮かぶオレンジと同じ色なのに、ゆらゆら揺れて頼りない。この世と、実体のない隠り世が、祈りと水を介して繋がっているような――そんな深遠を感じさせる光景が広がっていた。
「ロマンチックでしょう? ああ、あたしも彼氏と見たかったなあ。流れるランタンが見える場所に座って、腕を組んで、肩に頭を預けて、それで彼氏があたしの方を見て綺麗だねって言うの」
「まあ、エマさんには恋人がいるの?」
「あはは、それが、いないんですよお。だからただの妄想です。あははは」
快活に笑うエマのおかげで、ささくれ立っていたセレーナの気持ちも、すっかり明るくなった。怪盗シリルにさらわれるまで、セレーナには、友達と過ごす時間もほとんどなかったのだ。
だから、こんな特別な日に誰かと一緒に楽しい時間を過ごせたことは、セレーナにとっては、川面できらめく無数のランタンよりも、はるかに輝かしい体験だった。
「――世界って、広いのね。わたしは何もかも、本の中でしか知らなかった。水の音も、吹き渡る風の匂いも、人々の熱気も、川面に揺れるランタンの光も」
「セラさん……?」
「わたし、旅に出てよかった。あのひとが、わたしを狭い世界から連れ出してくれたから。知っていたと思ってたことも、本当は、全然わかってなかったんだわ」
セレーナの澄み切った瞳には、無数のオレンジが映っている。『旦那さん』を思い出して柔らかく微笑むその横顔は、エマが短い時間で見た、彼女のどの表情よりも美しかった。
「……まだしばらく、ランタン流しの時間は続きます。セラさんも、旦那さんと一緒に見れたらいいですね」
「そうね。ありがとう、エマさん。わたし、そろそろ宿に戻るわね」
「あたしも一緒に行きます。セラさんの旦那さんに、一言文句を言ってやらないと気が済みませんっ」
「ふふふ、ありがとう。心強いわ」
そうして、二人は宿に戻ろうと歩き始めた。
だが、そのとき。
嗅いだ覚えのある香水の匂いが、ふわりと香った。
「いまの……」
「どうかしたんですか?」
間違いない。一昨日の夜、シリルにまとわりついていた、女物の香水の匂いだ。たった今すれ違った、背の高い女性から香ってきた。
セレーナは、いても立ってもいられず、彼女を追いかけようと歩き出す。
「どうしたんですか、セラさん?」
「ごめんね、エマさん。できたら、もう少しだけ付き合ってもらえないかしら? もし時間がなかったら、帰ってもらってもいいのだけれど」
「もちろんついて行きます! 可愛いセラさんを一人にできないもん。それで、どこへ向かうんですか?」
「――あの女の人の後をつけるわよ」
「えっ?」
別人かもしれない、とは、今のセレーナにはなぜか考えられなかった。
それに、シリルが香水の匂いをさせていたのは、別の街に泊まったときだ。普通に考えたら別人の可能性が高いのに、セレーナの直感は、彼女がその人なのだと告げていた。
幸い、件の女性は男性と比べても背が高く、人混みに紛れても頭一つ飛び出していて、見つけやすい。
エマには申し訳ないけれど、女性とシリルの関係が気になって仕方がないセレーナは、必死に彼女を追いかけたのだった。
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