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第4話 出発
しおりを挟むしばらくして、シリルは部屋に戻ってきた。手には商店の名が印字された紙袋を持っている。
「ちゃんといい子にしてたみたいだな。懸命な判断だ」
「あなたがわたしのドレスを勝手に売るからでしょ」
「あぁ? 他の男のために用意されたドレスなんて、いつまでも手元に残しておけるかよ」
「んん? それ、どういう意味?」
「べつに。ほら、新しい服だ。外に出てるからさっさと着ろ」
「……ありがとう」
シリルはしかめっ面をして、持っていた紙袋をテーブルの上に置き、再び部屋を出て行った。
ああは言ったけれど、どこかの商店に忍び込んで盗んでくるのではないかと疑っていたセレーナは、ちゃんと購入証明のついた紙袋を見て、少しだけシリルを見直したのだった。
「着替え終わったか?」
ノックと共に、声がかかる。
セレーナが入ってもいいと伝えると、シリルは片手で二枚のトレーを器用に持ち、扉を開いた。それと同時に、食欲を刺激するいい匂いが漂ってくる。
シリルはセレーナの姿を確認すると、満足そうに頷いて、トレーをテーブルに置いた。
「なかなか似合ってるぞ。俺の見立てに間違いはなかったな」
「あ、ありがとう」
用意されていたのは、麻のワンピースとパンツ、革のブーツだった。シリルの着ているものと似たような風合いで、動きやすい旅用の軽装だ。
なんなら、サイズまで測ったようにぴったりで、セレーナは驚いていた。もしや眠っているときにでも計測されたのでは、と訝しむ。
「宿の人から飯もらってきた」
「下の食堂で食事じゃなかったの?」
「ああ、本来ならな。けど、『連れが足腰立たないから』って伝えたら、特別に部屋に持ってっていいって」
「っ!! ひ、人様になんてこと言うの! 誤解されたらどうするのよっ」
シリルは突然とんでもないことをのたまう。セレーナは真っ赤になって眉をつり上げた。
「あんたの言う誤解だったら、とっくにしてるだろうよ。よく考えてみろ、タキシードとウェディングドレスを着た若い男女だぞ? あんたが宿の従業員だったらどう思う?」
「……近くの教会で結婚式を挙げたばかりの新婚夫婦かなと思うわね」
「だろ? だからいいんだよ」
「よくないっ……!」
セレーナが羞恥でぷるぷる震えているのに構わず、シリルはさっさと座って、自らの分の食事に手をつけ始める。
「おっ、なかなか美味いぞ。あんたも冷める前に食べれば?」
「……っ、そうね」
香ばしく焼き上げたバゲットと野菜のスープ。グリルしたポテトにベーコン、フライドエッグ。
田舎の小さな街、郊外にある素朴な宿屋としては一般的な朝食メニューなのだが、セレーナにとっては久しぶりのまともな食事である。
「わぁ、豪華ね、美味しそう! いただきます」
「豪華……か? まあ……そうか。そう、だったよな。すまん」
「……? どうしてシリルが謝るの?」
「いや、なんでもねえよ。さっさと食え。腹がふくれたら出発するぞ」
「はーい」
目を輝かせ、心底嬉しそうに食事を味わうセレーナを見て、シリルのフォークが止まる。セレーナを見るシリルの表情には、やりきれなさと、行き場のない怒りの感情が浮かんでいたが、食事に夢中のセレーナは気がつかない。
シリルはその感情を振り払うように、ため息をついた。
「どうしたの? せっかく美味しいもの食べてるのに、幸せが逃げちゃうわよ?」
セレーナはシリルの方を見て、ため息をとがめる。シリルの顔からは、すでに怒りの表情は消えていたが、かわりにセレーナを慈しむような優しい光が浮かんでいて、セレーナは面食らった。
「な、なに? そんなにじろじろ見て」
「……口の端にケチャップついてる」
「えっ!?」
「はは、ほんとにガキだな」
セレーナは慌てて口元をぬぐい、シリルはそれを見て笑った。
「ところで、これからのことを話しておきたいんだが」
「う、うん。ここを出たら、どこに向かうの?」
「国境だ」
「えっ、国を出るの?」
「そうだ。ノルベルト王国を出て、東のシュトロハイム王国へ向かう」
「シュトロハイム王国……」
シュトロハイム王国は、ここ、ノルベルト王国の東に隣接する大国だ。ノルベルト王国に比べて、工業化が進んだ、豊かな国だという。
「現在地は昨日の教会の南、馬で二日程度の位置だ。今日中に出発しないと、追っ手が来る可能性がある」
「追っ手……!」
「ああ。あんたの継母なら、間違いなく追っ手を差し向けるだろう。それも、話し合いに応じるような穏便な奴じゃないだろうな」
「う……その通りだわ」
実際、継母のアマラならそうするだろう。婚姻可能になる十八歳までセレーナを殺さず、追い出しもせずにいたのは、彼女が金になるとわかっていたからだ。
追っ手に捕まったら、結婚する予定だったデイヴィス子爵家に連れて行かれるか、もし破談になっていたとしたら、新たな輿入れ先が決まるまで、今度は鎖にでも繋がれて監禁状態にされてしまうかもしれない。
「それと、俺の呼び名だ。外でシリルと呼ばれては困る。怪盗シリルの名は広く知られているからな」
「そうよね……じゃあ、なんて呼んだらいい?」
「――あんたの好きな呼び方でいいぞ」
「そう言われても……」
「じゃあ、『旦那様』か『ダーリン』で」
「無理! 絶対呼ばない!」
セレーナは眉をつり上げ、シリルはまた声を上げて笑った。セレーナをからかうのが余程楽しいらしい。
そうして食事を終えた二人は、手早く支度を済ませて、部屋を後にしたのだった。
宿屋の受付で挨拶をした際に、「ゆうべはお楽しみでしたね」と主人に言われて、セレーナが赤面したのはまた別の話である。
「さて、じゃあ、南に向かうか」
「えっ? 東に行くんじゃないの?」
「バーカ、街の人間に行き先の情報を渡すような真似はしねぇよ。一旦南に向かって、次の街でも俺たちの姿を目撃させる。んで、ひと気のないところで街道を逸れ、森に入る。安全な場所を見繕って一泊野宿したら、北東の関所を目指すぞ」
「南東じゃなく、北東?」
国境のゲートは、北東と南東の二カ所にある。
一方、アボット伯爵領とデイヴィス子爵領は隣り合っていて、王国の中央付近に位置している。
だからここが例の教会の南ならば、南東側のゲートの方がいくぶん近いはずだ。
「確かに南東の方が近いが、教会より北側のエリアに入っちまう方が安全なんだよ。怪盗シリルは南の方へ飛んでいったことが目撃されている。なら、南東のゲートにも警備の手が回ると考えるのが自然だ」
「北東だって、絶対に安全とは言い切れないわよね?」
「ああ、確かにあんたの言うとおりだ。普通なら、俺たちが到着する前に北東にも噂が回って、通行するのは困難になるだろう」
「じゃあ……どうするの?」
「大丈夫、手は打ってある。北東のゲートに向かうぞ。――俺を信じろ」
「……わかった」
詳しく聞くこともせずに素直に頷いたセレーナに、シリルは目をまたたかせた。
「やけに素直だな」
「だって、わたしひとりじゃ、どうしようもないもの。あなたの言うように旅慣れてない箱入りだし、実家に帰るのは絶対に嫌だし。今はあなたしか頼れないんだよ」
「……そうか」
シリルは、嬉しそうに目を細め、口角を上げた。そして、セレーナの耳元に唇を近づけて、甘い声色で囁く。
「なら――ずっと俺のそばにいろよ、セラ」
「――っ」
シリルの吐息が耳元をくすぐり、ぞわりとする甘い痺れが、セレーナの背を駆け抜けた。
セレーナはパッと耳を手で押さえ、慌ててシリルから距離をとる。その顔は、林檎のように真っ赤に色づいていた。
「こ、こ、この、女たらし!」
「あぁ? そんなつもりはねえけど。つうか、免疫なさすぎ。うける」
シリルは今朝からたびたび見せている意地悪い笑顔を、セレーナに向ける。
街道を歩きながら小声で喋っていたと思ったら、突然顔を赤くする女性と、彼女を見て楽しそうに笑う男性――はたから見たら、仲の良いカップルにしか映らない。
セレーナは耳元に残る甘い声色と吐息の感触に気を取られていて、シリルから子どもの頃の愛称で呼ばれたことに、気がつかなかった。
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