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終章 虹

第138話 「さようなら、私の――」

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 『大海樹』に魔力を注いで澱みを修復した後、しばらくその場で休んでいると、夜のとばりが降りてきた。
 本来なら夜の森を歩くのは危険だが、この森は少し特殊だ。
 危険な獣なども寄り付かないから、朝を待たずにエルフの森を抜けて、帝都に向かう。

「森の入り口まで送ろう」

 アルバートはそう言うと、まだ眠っているティエラを背中におぶって、歩き出した。
 流石に魔力は戻っていないものの、充分に休息を取ったため、体力の方は歩けるぐらいまで回復している。
 ハルモニア王妃も同じだ。

「ここから先は、エルフの結界の外だ。森の入り口まで、数分で着く」

「緑の森に戻った……」

 セオが、そう呟く。
 群青の森を抜けて、この辺りは普通の森になっているようだ。

「では、私と母上はここまでだ」

 アルバートは、背負っていたティエラをセオの腕の中にそっと下ろす。
 ティエラは一瞬身じろぎしたが、起きる気配はなさそうだ。
 アルバートのおんぶからセオの抱っこに変わっても、相変わらず規則的な寝息を立てている。

「明かりの方へ歩いて行けば、帝都に向かう街道へ出る。では気をつけて――おや?」

「みんな! 無事で良かった」

 森の入り口では、帝国の皇女メーアが、護衛も付けずに一人で待っていた。
 腕をさすって、寒そうにしている――いったいいつから待っていたのだろうか。

「メーア様、待っていて下さったんですか?」

「まあね。パステル、みんなも、元気そうで良かった。魔女は寝ちゃったのね」

 そう言うと、メーアはアルバートの方へ向き直る。
 アルバートは、その顔にほんの少しのかげりを見せた。

「……アルバート様」

「メーア嬢……今まで、すまなかった。それに、今回の件も」

「いえ、その言葉だけで充分ですわ」

 二人は、しばらくの間、見つめ合う。
 月明かりに照らされるメーアの横顔は凛としていて、はっと息を呑むほど美しい。

「さようなら、アルバート様」

「……さようなら、メーア嬢」

 アルバートは、一瞬苦しそうに眉を寄せて、そのままきびすを返した。

「さようなら、私の――」

 メーアが小さく呟いたその言葉は、静かな夜に、優しく溶けていった。
 言葉とは裏腹に、メーアの横顔はすっきりと晴れやかだ。
 その瞳はもう過去を振り返ることなく、しっかりと未来だけを見据えていた。



 ハルモニアとフェンにも挨拶を済ませ、私たちは帝都へと海岸通りを歩いていく。
 私もセオもメーアも、眠っているティエラも、誰も言葉を発しない。
 静かな夜に、打ち寄せる波の音だけが響いている。

 月をも呑み込んでしまうような黒い海と空。
 それらが青を取り戻すまで、帝都でゆっくりと骨休めをして、その後は……モック渓谷だ。
 その時は、刻一刻と近づいている――。




 翌日、ベルメール帝国の皇城、その一室で目を覚ます。
 やはり疲れていたのだろう、目覚めた時にはすでに日も高かった。

「おはよう、パステル」

「虹のねえね、お寝坊さん」

「おはよう、セオ、ティエラ」

 使用人に案内されたサロンへ行くと、セオとティエラはとうに食事を済ませ、のんびりお茶を飲んでいた。
 私は一瞬迷って、ティエラの隣に腰掛ける。
 セオは少し残念そうな顔をしたが、ここには他の人たちもいるし、許してほしい。

「えっと、メーア様は、お仕事?」

「うん。皇帝が聖王国に出かけているから、普段より忙しいみたい」

「じゃあ昨日の夜は、そんな中で時間を作ってくれたのね」

「そうだね。……多分、アル兄様としっかりお別れがしたかったんじゃないかな」

 その言葉に、昨日のメーアが見せた表情を思い出す。
 メーアは強いひとだ。
 婚約者だったアルバートとの間にどういう感情があったのかはわからないが、メーアはきっと、前を向いて歩いていくのだろう。


「それで、パステル。今ティエラと話してたんだけど、『大海樹』に魔力を注いだ時、パステルは何か感じたこととか、気づいたこととか、なかった?」

「うーん、気づいたこと……そうね……」

 私は少し考えて、その時感じたことを話しだした。

「魔力の澱みを浄化していく時に、自分の中から魔力と一緒に何かが持っていかれそうになる感覚はあったかな。何て言うんだろ、集中して作業しなきゃいけない時に、集中力とか緊張感で体力……精神力っていうのかな? それをごっそり持っていかれるみたいな感じ」

「精神力……」

「けど、見ての通り、一晩休んだらもう元気だよ。魔力は回復していないけどね」

「あたいも、一緒。ごはん、味、しない。におい、しない。さみしい」

 ティエラも巫女としての魔力を失ってしまったようだ。
 私の視界も白と黒と灰色になってしまっているが、もう慣れたもの――というか十年近くもずっとこの視界だったのだから、特に気になるものでもない。
 けれどティエラにとっては、『代償』は初めての経験だ。

「そっか……つらいよね、ティエラ。ごめんね、巻き込んで」

「気にするな。あたい、望んで、巫女になった。あたい、望んで、樹に力を注いだ」

「……ありがとう」

 私は、隣に座るティエラの頭を撫でた。
 ティエラは照れくさそうに、口元をもにょもにょ動かしている。

「『天空樹』に力を注ぐと魂が壊れてしまうかもしれないって、そういうこと、なのかな」

「そうかもしれないね……」

「……今からでも僕たちに出来ること、何かないかな」

「うーん……そうね……あ、そういえば」

 私は、もうひとつ、私たちを手助けしてくれていた力の存在を思い出す。
 大精霊が見せてくれた星の記憶でも、感じたこと――

「『水』だわ」

「……水?」

「うん。精霊樹にとっての『水』は魔力。『栄養』は巫女の浄化力。そうよね?」

 セオも思い出したのか、ハッとした顔をしている。

「精神力を完全に剥がされなくて済んだのは、『水』が充分だったから。『大海樹』にエルフさんたちの魔力が満ちていたからだと思うの」

「そうか……巫女がいなくなってからも、『大海樹』はエルフたちがずっと守ってきた。エルフたちのおかげで魔力が満ちていたから、枯れずに済んだ。つまり、今からでも魔力をたくさん用意すれば――」

 セオの瞳が、きらきらと輝きを増す。
 灰色に染まってしまった世界の中でも、わかるほどに。

「ありがとう、パステル、ティエラ! 早速メーア様に相談してみる!」

 そう言ってセオは立ち上がると、急いでサロンを後にしたのだった。
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