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第七章 紫
第121話 「夜空の散歩」
しおりを挟む「お待たせ。迎えに来た」
優しく甘い笑顔を浮かべて、セオは、私に手を差し伸べた。
私は、その手に自らの手を重ねる。
ふわり、と柔らかな風が私を包み込む。
「――ほんもの?」
「幻に見える?」
セオは、もう片方の手を取ると、自分の頬に触れさせた。
そこにあったのは、確かな温度。
風に揺れる柔らかな髪が、私の手の甲をくすぐる。
その澄んだ瞳は、月明かりを反射して、きらきらと煌めいていた。
「……セオだ」
「うん」
親指で優しく頬をなぞると、セオは気持ちよさそうに目を細める。
その表情に、一度止まった涙が、また溢れてくる。
「無事だった……迎えに来てくれた」
「……うん」
「良かった……本当に、良かった」
セオも、私の頬を手のひらで包むと、親指で涙を拭ってくれる。
手を離して反対側の頬も包みこむと、愛おしむように額に口付けを落とした。
「パステルのおかげだよ。また、パステルに助けてもらっちゃったね。……それから」
セオは、両の手を離して、苦しげな表情をする。
「セオ……?」
「パステルを避けるような真似をして……本当にごめん。何の説明もしないで……辛かったよね」
私は、唇を噛んで、控えめに頷く。
「まだ……上手く説明出来る自信がないんだ。けど、僕がパステルを想う気持ちが変わったわけじゃない」
目と目が、しっかりと合う。
その瞳の奥には不安が見え隠れするが、それでも、セオは真っ直ぐに私の目を覗き込む。
「パステル。僕はずっと、これまでもこれからも……何があっても、遠くにいても、ずっと君のことを愛してる」
何があっても? 遠くにいても――?
私が尋ねようとした言葉は、音になる前に、セオが私の唇に当てた人差し指に遮られてしまった。
「さあ、帰ろう。みんな、待ってるよ」
「うん……。あの、セオ――」
首を静かに横に振るセオは、私の言葉を形にすることを許してくれない。
「……わかった。セオの心が決まるまで、何も聞かないわ」
「――ありがとう」
「さあ、掴まって」
「あ、ちょっと待って。帰るのは明日の朝でもいい? あのね、ノエルタウンの領主様がいらっしゃって――」
「じゃあ……今は、夜空の散歩。話は後で、ね」
セオは甘く微笑んで私の背中に手を添えると、もう片方の腕を膝の裏に回す。
私は、微笑み返してセオに掴まる。
セオは満足そうに頷いて私を横抱きにし、ふわりと窓の外へと飛び出していった。
静かな夜だった。
景色がよく見えるように、光る風のバリアは使わず、ゆっくり、ゆっくりと空を舞う。
ワンピースの裾が風にはためき、パタパタと小さな音が踊っている。
頬を打つ風はひんやりするが、身を切るほどの寒さは感じない。
大きな月が、闇夜を照らす。
眼下に広がる街を眺めながら、一面に瞬く星の海を、私たちはゆっくりと泳いでいく。
私の視界はモノクロームなのに、砂漠の夜は真っ暗なのに。
今朝より、昨日より、世界はずっとずっと煌めいていて、鮮やかだ。
セオの腕の中が、こんなにも暖かく心地良かったことに、私は今更ながら気がついた。
「ねえ、セオ。どうして私がこのオアシスにいるって、わかったの?」
「……炎の鳥が、教えてくれたんだ」
セオは、綺麗なものを思い返すように、優しく目を細めた。
魔物たちと戦った時に、火の精霊の力を借りて生み出した小鳥のことだろうか。
微笑みをたたえる美しい顔は、あたたかな優しさを映しているが、どこか疲れが滲んでいる。
セオもたくさん頑張ってくれたのだろう。
「……あのね、本当は、昨日言いたかったんだけど」
「ん?」
「――お誕生日、おめでとう」
「ん……ありがとう」
セオは、嬉しそうに頬を寄せた。
わずかに触れる私の額とセオの頬が、確かな熱を交わす。
「ふふ。一日遅れだけど、お祝いできてよかったわ」
「――ありがとう、パステル。プレゼント、すごく嬉しかったよ。ずっと、大切にする」
切なそうに、寂しそうにお礼を言うセオに、言い知れない不安がよぎる。
私は、縋り付くように、言葉を紡いでいく。
「……刺繍、ほとんどやったことなくて、簡単なものしか出来なかったの。来年はもっとちゃんとした物を渡せるように、頑張るね」
「嬉しい……来年も、くれるの?」
「うん。来年も、再来年も、その先も。ずっとだよ」
「そうなったら――本当に嬉しい」
セオが私を抱く腕の力が、強くなる。
けれど――その瞳の奥の不安と寂しさは、消える気配がない。
セオが私に隠している悩みは、何なのだろう。
一体どうしたら解決してくれるのだろうか。
「――僕、パステルの書いてくれたメモ、すぐに読んだ。それから、パステルの部屋に残されてた手紙も」
私は、メーアに預けたセオへの誕生日プレゼントに、メモを入れてきた。
メモには、『私の心はあなたと共に』と書き記した。
それと、隙を見てすぐにでも花瓶の中を調べてほしいと。
花瓶に隠したのは、文机の鍵。
文机の中にも、セオに宛てた手紙を残していた。
時間がなかったので、こちらも簡潔な内容だ。
『ソフィア様の最期の想いを、よく思い出して。一人で悩まないで、フレッドさんと話してみた方がいいよ』と。
ソフィアは、手紙の内容を撤回したがっていた。
ソフィアの手紙に何が書いてあったのか――私には知る由もないが、セオの悩みがこれで軽くなるのならと思って、そう記したのだ。
「僕――母上が最期に望んだこと、忘れてた。そうだよね、母上がお祖父様宛の手紙を書いた時とは、状況が変わっているんだよね」
「フレッドさんとは、お話し出来た?」
「――まだ。毒が見つかった件や、不審者が侵入した騒ぎ、それにパステルが誘拐された事件で、それどころじゃなかったんだ」
「そっか」
「それと、最後に書かれていたこと――」
私は手紙の最後に、こう記していた。
『私はセオの決めたことを尊重する。いくらでも待つから、気持ちが落ち着いたら、話してほしい』と。
「……もう少し、待ってほしい。まだ、僕も、受け入れられずにいるんだ。言葉にすると本当になっちゃいそうで――怖いんだ」
「……わかった。いつまででも、待つよ」
「――ありがとう」
セオの心がまだ決まっていなくても、今この時は、セオと一緒にいる。
先のことはわからない。
けれど、私を抱くセオの腕の優しさも、温度も、落ち着く香りも、とくとくと打つ胸の鼓動も。
全てが、今ここにある。
生きていてくれた。
ここまで迎えに来てくれた。
私と一緒に、いてくれる。
――今の私にとっては、充分すぎるほどだった。
二人きりの夜空の散歩を終えて、私たちはバルコニーへと戻る。
セオは私をそっと下ろした。
「夜空のお散歩、楽しかったよ。ありがとう」
「――僕も楽しかった。明日の朝……改めて迎えに来る」
セオは、口元に柔らかい弧を描くと、私の手を取り、指先に甘い口付けを落とす。
「泊まるところは……?」
「大丈夫。僕にも連れがいるから、街の外に泊まるよ」
「……そっか」
「じゃあ、また明日。お休み」
「お休み」
離れていく指先を寂しく思いながらも、私の心は安堵に満ちていた。
部屋に戻ってベッドに潜り込む。
セオが口付けた指先を、自分の口元にそっと当てると、幸せが止めどなく溢れてくる――
私はそのまま、いつの間にか眠りに落ちていたのだった。
********
次回から三話、セオ視点です。
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