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第七章 紫
第120話 「オアシス」
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マチルダが玄関の扉を開け放つと、すぐさま地獄の猟犬の目がこちらを向く。
尖った犬歯を剥き出しにして、その吐息からは赤黒い炎が少し漏れ出している。
だが、黄色くギラつく一対の瞳は、獲物を見つけることが出来ずに戸惑っているようだった。
黒猫の妖精ノラが使っていたのと同じ魔法――闇の精霊の力、認識阻害魔法の効果である。
視界に映らないようにするだけでなく、匂いや足音、気配まで完璧に消している。
高い出力を維持しているため、この魔法の効果は数十秒の間しか持たない。
その数十秒の間に、私とマチルダは可能な限り地獄の猟犬から距離を取る。
私は次に地の精霊に呼びかけると、その足元に大きな落とし穴を作り出した。
地獄の猟犬は、目論見通り落とし穴に落ち、火がついたように――いや、火を吹き出しながらひたすら吠えている。
そこまで深い穴ではないが、一匹で地上に這い上がってくることは不可能だろう。
地獄の猟犬の吠え声が聞こえたのか、すぐさま上空を旋回していた鷲獅子がこちらに向かってくる。
こちらも予想通り、すぐに来てくれて助かった。
認識阻害の効果は、あと数秒といったところか。
私は急いで火の精霊に呼びかけると、鷲獅子の目の前に燃え盛る炎の鳥を生み出し、燃える嘴《くちばし》で軽くつついて挑発した。
鷲獅子は炎の鳥に気を取られ、追いかけ始める。
炎の鳥を、地獄の猟犬のはまっている落とし穴の方に向かわせると、鷲獅子も穴に向かって急降下した。
地の精霊の力も、まだ消えていない。
私は全速力で落とし穴の周囲に土の壁を張り巡らせ、鷲獅子と地獄の猟犬を両方閉じ込めることに成功したのだった。
「よしっ……!」
土の壁をすり抜けてこちらへ飛んできた炎の鳥が、私の指先にちょこんと止まる。
反対の指で鳥の頭を優しく撫でると、炎の鳥は甘えるように指先にすり寄った。
「上手くいったな。さすがだ」
「マチルダ様の作戦のおかげです! ありがとうございます」
「さて。あとはこの陸の孤島からの脱出だ。予定通り、水の魔法と、光の魔法が残っているな」
「はい」
「では計画を続行する。砂漠へ向かうぞ」
私たちは、地平線目一杯に広がる砂漠へ向かって、荒野を歩き始めた。
炎の鳥も、美しい朱を空に引きながら、何処かへと飛び去ってしまったのだった。
しばらく歩みを進めると、砂の比率が増え、荒れ野から砂漠へと変わっていく。
地を踏む両足も、徐々にふかふかと沈み込む深さが増してきた。
「そろそろいいか」
マチルダは、紐をかけて背負っていた棺桶を砂上に下ろすと、氷の魔法を発動し、大きな氷のソリを作る。
私とマチルダ、そして棺桶を乗せても十分余裕のある大きさだ。
ソリには氷の屋根も作られている。
持ってきたカーペットを屋根の上に敷いて固定し、日除けにする。
さらに後部のスペースに棺桶を括り付けると、私とマチルダはソリに乗り込んだ。
マチルダがもう一度腕を振るうと、ソリの下部が浮き上がった。
氷の道を滑るための、氷の刃を生み出したのである。
「さて、準備は完了だ。あとは頼むぞ」
「はい、任せて下さい!」
まずは光の精霊に呼びかけて、砂漠のどこかにあるオアシスの村へと、道を繋いでもらう。
目印のない砂漠では、真っ直ぐ進むのが難しいため、光によるナビゲーションが必要なのだ。
続いて水の精霊に力を借り、光の精霊が示してくれた光をなぞるように、氷の道を作っていく。
後ろの道に向かって勢いのある水流を一度ぶつけると、ソリは滑らかに氷の道を滑りはじめた。
あとはマチルダがソリを維持し、私がひたすら光に沿って氷の道を敷いていく作業だ。
「すごい、思ったより速いですね!」
「ああ。この調子なら日が暮れる前にオアシスに着くだろう。私も行ったことはないのだが、オアシスには西方民族が暮らしている街があるそうだ。あんたの風魔法が使えるようになるまで数日間、街に寝泊まりするもよし、一泊して砂漠を抜けてしまうもよし。そこから先は臨機応変に行こう」
「……アイリス王女に見つからないでしょうか?」
「後ろを見ろ」
私はマチルダの言葉に、通ってきた道を振り返った。
氷の道は、あっという間に溶かされ、水分すらも蒸発して、何の跡も残っていない。
「ここは熱砂の砂漠だ。昼間のうちは高温で、乾燥している。この方法なら早く進める上に、足跡も残らない。その上涼しい」
「さすがです……! あ、でも上空から見つかってしまうことはないでしょうか?」
「無いな。鷲獅子なら、あんたがさっき閉じ込めただろう」
「でも、アイリス王女のもとにはまだ暗黒龍が」
「それなら心配ない。暗黒龍は明るいうちは動けないから、夜までにオアシスに着けば問題ない。人が多く夜でも明るいオアシスには近付いて来ないだろう」
「……良かった……」
「さあ、まだしばらくかかるだろうが、頑張ってくれよ」
「はい!」
予定通り、夕方にオアシスに到着するまで、私たちは快適なソリ旅を楽しんだのだった。
砂漠のオアシスは、遠くから流れてきた地下水が地表に湧き出すことで生まれると言われている。
この熱砂の砂漠のオアシスも、例外ではない。
そして、水の集まる所には文明が生まれる。
このオアシスも多分にもれず、独自の文明を築いていた。
石造りの建物が並ぶこの地は、明るく開放的な空気が漂っている。
こんな状況でなければ、リゾート地に来たかのような、ゆったりした時を過ごせたのだろう。
私とマチルダは、ソリに括り付けていたカーペットを売って、そのお金で宿を取った。
「このオアシスは、どうやら砂漠の北西側の出口に近い場所にあるらしい。外の街へ行き来する駱駝もいるし、砂漠を抜けたら、月に二、三便ではあるが、聖王国の各地に向かう馬車にも乗れるそうだ」
「そうですか……無事にノエルタウンに戻れそうですね。良かったですね、マチルダ様」
「ああ。問題は旅費だが……まあ、道中仕事を請け負いながら向かえば何とかなるだろう。――それにしても、今日は流石に疲れたな。私はもう休むぞ」
「はい、お休みなさい。私は少しバルコニーで風に当たってきます」
「そうか。砂漠の夜は冷える。あまり長居しすぎるなよ」
マチルダは肩をぐるぐると回しながら、寝室へと入っていった。
砂漠の夜は、本当に静かだ。
砂に音が吸い込まれていくみたいな錯覚を覚える。
力を使い果たしてすっかり灰色になってしまった世界で、月と星だけが白く輝いていた。
「……セオ」
私はそっと目を閉じる。
祈るように、確かめるように、その名を呟く。
風はただ穏やかに凪いでいる。
つう、と頬を伝っていくものを、拭い去ってくれそうにはない。
「……会いたいよ」
――それは、突然のことだった。
言葉が砂に呑まれるより先に。
砂に落ちた涙が乾くよりも早く。
一陣の風が、髪を揺らし――
私の眦に、優しい感触が落ちた。
「――パステル」
切望していた柔らかい声が降ってきて、私はゆっくりと瞼を持ち上げる。
目が合うと、彼は細い指先で、私の涙をそっと拭っていく。
「――お待たせ。迎えに来た」
静かに瞬く星のカーテンを背負って、愛おしいひとが、私に手を差し伸べていた。
大好きな、優しく甘い笑顔を浮かべて。
尖った犬歯を剥き出しにして、その吐息からは赤黒い炎が少し漏れ出している。
だが、黄色くギラつく一対の瞳は、獲物を見つけることが出来ずに戸惑っているようだった。
黒猫の妖精ノラが使っていたのと同じ魔法――闇の精霊の力、認識阻害魔法の効果である。
視界に映らないようにするだけでなく、匂いや足音、気配まで完璧に消している。
高い出力を維持しているため、この魔法の効果は数十秒の間しか持たない。
その数十秒の間に、私とマチルダは可能な限り地獄の猟犬から距離を取る。
私は次に地の精霊に呼びかけると、その足元に大きな落とし穴を作り出した。
地獄の猟犬は、目論見通り落とし穴に落ち、火がついたように――いや、火を吹き出しながらひたすら吠えている。
そこまで深い穴ではないが、一匹で地上に這い上がってくることは不可能だろう。
地獄の猟犬の吠え声が聞こえたのか、すぐさま上空を旋回していた鷲獅子がこちらに向かってくる。
こちらも予想通り、すぐに来てくれて助かった。
認識阻害の効果は、あと数秒といったところか。
私は急いで火の精霊に呼びかけると、鷲獅子の目の前に燃え盛る炎の鳥を生み出し、燃える嘴《くちばし》で軽くつついて挑発した。
鷲獅子は炎の鳥に気を取られ、追いかけ始める。
炎の鳥を、地獄の猟犬のはまっている落とし穴の方に向かわせると、鷲獅子も穴に向かって急降下した。
地の精霊の力も、まだ消えていない。
私は全速力で落とし穴の周囲に土の壁を張り巡らせ、鷲獅子と地獄の猟犬を両方閉じ込めることに成功したのだった。
「よしっ……!」
土の壁をすり抜けてこちらへ飛んできた炎の鳥が、私の指先にちょこんと止まる。
反対の指で鳥の頭を優しく撫でると、炎の鳥は甘えるように指先にすり寄った。
「上手くいったな。さすがだ」
「マチルダ様の作戦のおかげです! ありがとうございます」
「さて。あとはこの陸の孤島からの脱出だ。予定通り、水の魔法と、光の魔法が残っているな」
「はい」
「では計画を続行する。砂漠へ向かうぞ」
私たちは、地平線目一杯に広がる砂漠へ向かって、荒野を歩き始めた。
炎の鳥も、美しい朱を空に引きながら、何処かへと飛び去ってしまったのだった。
しばらく歩みを進めると、砂の比率が増え、荒れ野から砂漠へと変わっていく。
地を踏む両足も、徐々にふかふかと沈み込む深さが増してきた。
「そろそろいいか」
マチルダは、紐をかけて背負っていた棺桶を砂上に下ろすと、氷の魔法を発動し、大きな氷のソリを作る。
私とマチルダ、そして棺桶を乗せても十分余裕のある大きさだ。
ソリには氷の屋根も作られている。
持ってきたカーペットを屋根の上に敷いて固定し、日除けにする。
さらに後部のスペースに棺桶を括り付けると、私とマチルダはソリに乗り込んだ。
マチルダがもう一度腕を振るうと、ソリの下部が浮き上がった。
氷の道を滑るための、氷の刃を生み出したのである。
「さて、準備は完了だ。あとは頼むぞ」
「はい、任せて下さい!」
まずは光の精霊に呼びかけて、砂漠のどこかにあるオアシスの村へと、道を繋いでもらう。
目印のない砂漠では、真っ直ぐ進むのが難しいため、光によるナビゲーションが必要なのだ。
続いて水の精霊に力を借り、光の精霊が示してくれた光をなぞるように、氷の道を作っていく。
後ろの道に向かって勢いのある水流を一度ぶつけると、ソリは滑らかに氷の道を滑りはじめた。
あとはマチルダがソリを維持し、私がひたすら光に沿って氷の道を敷いていく作業だ。
「すごい、思ったより速いですね!」
「ああ。この調子なら日が暮れる前にオアシスに着くだろう。私も行ったことはないのだが、オアシスには西方民族が暮らしている街があるそうだ。あんたの風魔法が使えるようになるまで数日間、街に寝泊まりするもよし、一泊して砂漠を抜けてしまうもよし。そこから先は臨機応変に行こう」
「……アイリス王女に見つからないでしょうか?」
「後ろを見ろ」
私はマチルダの言葉に、通ってきた道を振り返った。
氷の道は、あっという間に溶かされ、水分すらも蒸発して、何の跡も残っていない。
「ここは熱砂の砂漠だ。昼間のうちは高温で、乾燥している。この方法なら早く進める上に、足跡も残らない。その上涼しい」
「さすがです……! あ、でも上空から見つかってしまうことはないでしょうか?」
「無いな。鷲獅子なら、あんたがさっき閉じ込めただろう」
「でも、アイリス王女のもとにはまだ暗黒龍が」
「それなら心配ない。暗黒龍は明るいうちは動けないから、夜までにオアシスに着けば問題ない。人が多く夜でも明るいオアシスには近付いて来ないだろう」
「……良かった……」
「さあ、まだしばらくかかるだろうが、頑張ってくれよ」
「はい!」
予定通り、夕方にオアシスに到着するまで、私たちは快適なソリ旅を楽しんだのだった。
砂漠のオアシスは、遠くから流れてきた地下水が地表に湧き出すことで生まれると言われている。
この熱砂の砂漠のオアシスも、例外ではない。
そして、水の集まる所には文明が生まれる。
このオアシスも多分にもれず、独自の文明を築いていた。
石造りの建物が並ぶこの地は、明るく開放的な空気が漂っている。
こんな状況でなければ、リゾート地に来たかのような、ゆったりした時を過ごせたのだろう。
私とマチルダは、ソリに括り付けていたカーペットを売って、そのお金で宿を取った。
「このオアシスは、どうやら砂漠の北西側の出口に近い場所にあるらしい。外の街へ行き来する駱駝もいるし、砂漠を抜けたら、月に二、三便ではあるが、聖王国の各地に向かう馬車にも乗れるそうだ」
「そうですか……無事にノエルタウンに戻れそうですね。良かったですね、マチルダ様」
「ああ。問題は旅費だが……まあ、道中仕事を請け負いながら向かえば何とかなるだろう。――それにしても、今日は流石に疲れたな。私はもう休むぞ」
「はい、お休みなさい。私は少しバルコニーで風に当たってきます」
「そうか。砂漠の夜は冷える。あまり長居しすぎるなよ」
マチルダは肩をぐるぐると回しながら、寝室へと入っていった。
砂漠の夜は、本当に静かだ。
砂に音が吸い込まれていくみたいな錯覚を覚える。
力を使い果たしてすっかり灰色になってしまった世界で、月と星だけが白く輝いていた。
「……セオ」
私はそっと目を閉じる。
祈るように、確かめるように、その名を呟く。
風はただ穏やかに凪いでいる。
つう、と頬を伝っていくものを、拭い去ってくれそうにはない。
「……会いたいよ」
――それは、突然のことだった。
言葉が砂に呑まれるより先に。
砂に落ちた涙が乾くよりも早く。
一陣の風が、髪を揺らし――
私の眦に、優しい感触が落ちた。
「――パステル」
切望していた柔らかい声が降ってきて、私はゆっくりと瞼を持ち上げる。
目が合うと、彼は細い指先で、私の涙をそっと拭っていく。
「――お待たせ。迎えに来た」
静かに瞬く星のカーテンを背負って、愛おしいひとが、私に手を差し伸べていた。
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